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2005年06月28日(火) 17時39分03秒

将来のことを考える

テーマ:自分への覚え書き
歳をとったなあ、と思う。
純粋に肉体的と数字的な話だ。
精神的にはますます自由になっている。
これからどうなっていくのだろう。

プロセスワークセンターを卒業したらどうしようかな、と考える。
その頃には31か32くらいかな。どこかの大学で博士課程をとろうか。
自由でいたい。学位などで武装するために、数年も棒に振りたくない。
僕が探しているものは実践的な技術と経験、それ以外の何物でもない。博士号など何でもない。
このままプロセスワーク関係者としてやっていくもよいだろう。いずれもっと有名になるのだから。
お金はどうやって稼ごう。一度お金持ちになってみたい。でも、時間に束縛されたくないから、なんとか今のペースでやりながらお金をもっと稼ぐ方法を考えなければならない。

本を出版したい。でもそれには本当の技術と体験が必要だ。誰かの為ではない、お金の為でもない、名声のためでもない、自分のために出版するのだ。そして十分なお金とある程度評価してもらいたい。そんな欲望を押さえ込むつもりもない。僕が通るべき道だ。

そんなことができるのか?
不安になる。
でもいつも未来は今ここにある。
未来はいつも決まっている。僕らはただ歩み出すだけだ。未来には平行した未来がいっぱいあるけれど、それはもう決まっているのだ。今ここで。
ただ今をしっかり生きよう。過去と今と未来はいつもここにある。
これは他人から借用した言葉でも、頭で言っているだけの言葉でもない。しっかりと感じる。

世界や私というはの結局、この閃きでしかないのだ。それは本当は「今ここ」でもない。それは便宜上の言葉に過ぎない。
この経験という瞬間。それだけが本当に在るものなのだ。この瞬間がいかなる深みを持っていたとしても、そうなのだ。
今ここに繋がっているように感じるもの。それはこの瞬間の沿革に過ぎない。よく観察するとそれは端っこの方に向けてだんだん薄れていくのがわかる。そう、それっきりなのだ。

この感覚をこれからの一時帰国の際に忘れないようにできるだろうか?
これは小さな挑戦だ。
でも、きっと大丈夫に違いないのだ。

2005年06月27日(月) 18時09分56秒

「身体障害者」の人と話して

テーマ:自分への覚え書き
コンタクトインプロビゼーションをやっていると、「身体障害者」(Different Ability と言いたいのだが、日本語でなんと訳されているのかわからないので、この言葉を使います。)の人と会う機会も多く。そこからいろいろなことを学ぶ。

ある人と話していたら、どこかで声の小ささ(声が出せないので)や咳をしなければならないのでその聞き取りにくさにイライラ、またはわかるまで何度も繰り返し言ってもらうことに申し訳なく思っている自分に気づく。

でも、それは自分の問題なのであって、彼らの問題ではないし、ましてや彼らが「障害者」ではないということに気づく。
僕はその人とコミュニケーションをとっているのであって、なぜその人のコミュニケーションに合わせることができないのだろう?(もちろん「障害者」と呼ばれる相手は何倍も僕のコミュニケーションスタイルに合わせる努力をしている。)
問題は僕自身だった。

イライラするのは、僕がある話のテンポを勝手に想像しているからだし、何か焦っているからだ。
繰り返してもらうことへの悪気は、自分が繰り返して言うことを何度も要求されるとき、恥ずかしさを感じるからだ。(声が小さいのがまるで悪いことのように感じているから。)
僕はそんな自分の世界のなかで相手とコミュニケーションした気になっていたのだろう。でも、そこに本当の相手はいない。

コミュニケーションとは、ある意味できっと、今その瞬間に二人または多数の人の間で起っていることを大事にすることに違いない。それはただの情報のやりとりではないし、ただ話しをするためでもない。
コミュニケーション自体が大事なのだと思う。
僕は人とコミュニケーションすることはあまり得意ではないので、こういうことは気づかなかった。案外分かっている人というのは多いに違いない。
大事なのは、相手ともっとコミュニケートしたいという気持ち。なんとしてでも相手をもっと知りたいという気持ち。

今まで、「相手をもっと知りたい」という言葉に対して、否定的な反応をしていた。他人のことなど分かるはずがない、と。でも、それはいいのだ。そういうことこそが問題ではないのだ。コミュニケーションとは、場であり、気持ちなのだ。「相手をもっと知る」とは、相手の存在にもっと触れるということなのであって、情報を知ることではない。

個人的には大きな問題のとっかかりが出来たように思う。
出会いに感謝。

2005年06月27日(月) 18時07分11秒

コミュニケーションへの意志

テーマ:自分への覚え書き
アメリカに来て、英語や文化差で随分苦労しているのだが、結局人と人を繋ぐきっかけになるものは、技術そのものより「コミュニケーションしたい。」という意志なのだろうと思った。

意志がなければ歩み寄りもできぬ。


2005年06月26日(日) 04時02分58秒

正しいストレッチと正しくないストレッチ体操

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
筋肉というのはある一定のプロセスを持っている。
それを無視してストレッチをすると本当は筋肉を傷める。
ヨガでも、本当はポーズというのは起るものだ、とされている。そして実際にヨガのポーズというのは起ることがおおい。

筋肉というのは何千何万もの繊維の束であり、身体の一部をとってもたくさんの筋肉が折り重なっているから、一つの方向に無理やり曲げるのは筋肉にとって悪いというのは分かるだろう。
また筋肉というのは、というか身体というのは、アメーバのように収縮・拡張を繰りかせしており、このプロセスの途中で反対側の動きに切り替えることはできない。一つのプロセスを終了してからでないと、次の運動には移行できない。
身体がそのとき曲がる方向というのは決まっていて、それは身体の微妙な動きに従うことによって得られる。


ここで有効なのは、武術でのタントウコウつまり立ち練習を利用することだ。中腰で何か樽のようなものを抱えている姿勢だ。ある程度正しい姿勢が必要なので、それは勉強するなり、教えてもらうなりしてください。

この姿勢で立っていると、一部の筋肉が微妙に(最初は大きく)緊張していくのがわかる。そしてそれをしっかり意識的にさせていくと、そのうち筋肉は収縮・伸張するプロセスを止め、弛緩へと移行していく。
最初はバランスをとるのが難しいので、一部が収縮・伸張し始めたらそのプロセスをなくしてしまわないように気をつけながらしゃがんでも寝ころがってもよい。
練習をすすめていく(人によってはかなりの年月がかかります)と、運動している筋肉が深いところのものに変わっていき、身体全体の筋肉が一つの小さな筋肉とも連動しているのがわかり、お互いに相互作用しているのがわかるようになる。そのときは立ちながら、全体の筋肉を身体の流れに沿って身体全体を動かしていくと良い。

立つというのは、身体にとってある意味ではもっとも無理な姿勢であり、また全ての動きの基本となるものであるから、立ちながら筋肉の運動に沿っていくというのは、もっとも自然な立ち方、つまり筋肉のあり方を知る方法となる。
もちろん呼吸というのも筋肉活動の一つなので、注意する。

最初は、無理に筋肉を収縮・伸張させようとして、ストレッチの逆をしてしまう可能性があるので、なるべく動かないつもりでどうしもて動いてしまう方向にだけ動いていくのがよい。

これをやっていくと、動物のストレッチの姿勢になったり、ヨガのポーズになったりして楽しい。
時にはヨガのポーズなどを勉強するのもよい。一部の筋肉が収縮しているのに気づいており収縮・伸張させるが、ただ従うだけではどうしてもプロセスを完結できないときがある。そんなときはヨガでどのようにしているか見ると、大体探している姿勢が見つかる。このときこそ、このヨガの姿勢をするべき時なのだ。

身体というのは、この運動の終わりを知っていて、大体30~40分くらいで終わる。ただ、一枚皮をむくと次の皮が出てくるので、1タームが終わったときにうまく抜けないと、次の運動がはじまってしまう。
そんなときは、大きく身体を10秒くらい振るわせると抜けることが多い。


あえてこれをプロセス指向ストレッチ体操と呼ぼう。


2005年06月25日(土) 20時52分15秒

やりのこしたこと

テーマ:自分への覚え書き
あと数ヶ月で死ぬとしたら?

僕は、あつことたまと一緒に時間を過ごしたいと思う。- 一緒にいてもっとも幸せに感じる存在。
いっせいと福井さんと人生について笑って話していたいと思う。- 歩む道は違うがそれぞれ人生を笑い飛ばせる力を持った人たち。
あと、じろさんとも話してたいかな。- 僕の会ったなかでもっとも好奇心が強い人の一人。

プロセスワークは続ける。
武術も続ける。
コンタクトインプロビゼーションも踊っていたいと思う。
あとは起っていることをもっとじっくり感じていたいと思う。
日向でぬくぬくとしながら、風の音をききながら、一瞬一瞬を満喫したいと思う。

こんなもんだ。そうやって考えるといい人生を送っている。
とくにやりのこしたことなんてない。
まだやってないけど、いつかやりたいなんて思っていることなんてない。
もし長く生きたとしても、すべては今やっていることの延長線上にしかない。


死ぬことをいつも考えていたい。
死というのは、本質的に生という視点からしか存在しないのだから。死とは生を映し出す鏡としての言葉に過ぎないのだから。
死ぬことを考えると、自分の生が浮き立つ。自分の持っている変なわだかまりが消える。いったい何を僕はそんなにこだわっていたのだろう。
自分の思っていることが、何が足りないのか、何ができるのか、何が楽しいのか、何が無駄なのか、はっきりする。
そう、僕は自分にとって大事なもの以外を求めてもいない。でも、そのようにはっきりと行動もしていないし、時間もとっていないし、何にもならない余計なこともしている。

今起ろうとしている新しい人間関係のなかでも、僕はなんて時間を無駄にしているのだろう。
明日がある、次こそは、そのうち、なんて思いながら、時機を期待している。
もちろんいつかはそういう時がくるにしても、なにも起ることをわざわざ先延ばしにしなくてもいいのだ。
結局、一期一会なのだろう。

明日死んでもいいように、決して死ぬときに「~しておけばよかった。」などということのないように、いつも生きていたい。
自分がしたこと、自分に起ったことを、いっぱいに感じていたい。
与えられていたものを見過ごすことのないよう、十分に感じていたい。
2005年06月24日(金) 16時50分17秒

正と負のフィードバック

テーマ:自分への覚え書き
武術の練習から考えたが、物事には正と負のフィードバックがあるのかもしれない。

身体というのは、本来全てのパーツが連動している。
しかし、部分をバラバラに無理に動かしていくと、身体がだんだん固まって、ますます全体として動かなくなり、より多くの力でより小さい仕事しかできなくなっていく。
逆に、全体的に動かそうと練習を積んでいけば、それによって緊張して筋肉はだんだんほぐれ、より多くの筋肉が一つの動作のときに連動できるようになる。

物事は全てつながっているから、ある一つの物事の自然の流れ、ありのままの流れを妨げるとそれによって他のものが連鎖的に妨害され、最終的に負のフィードバックが起ってくる。
「正」でも「負」でもないのかもしれないが、物事はある方向に向かうと修正するのが難しく、連鎖反応的に加速していくのかもしれない。
心理的なプロセスでも同じで、一つのプロセスに対して無理をすると、それによってどんどんある方向へと煮詰まっていく。そして最終的にはもつれて一つの定位体と見られる状態、つまりコンプレックスへ変わっていくのだろうか。

静かな水面に雫一滴、波紋を生み出される映像が浮かんだ。


2005年06月22日(水) 03時23分10秒

自分のやりたいことを選ぶことはなぜ大事なのだろうか?

テーマ:僕の一人の友人から同じ境遇にいる皆様へ
何か選ばなければならないとき、自分がやりたいこと(=心がウキウキすること)を選ぶべきだ。
なぜなら問題というのはどんな選択肢を選んでも、同じ量だけ発生する。
反応、といった方がいいかもしれない。一部の変えたとき、周りの全ては同じ量だけ反応する。
しかし、それが他人本位のために選んだことから起った反応だと、問題はどんどん自分から離れていき、なんのためにそれを解決しなければならないのかが分からなくなる。そしてやる気を失い、疲れるのだ。

何か物事を選ぶ際に、他人本位、つまり他人のために物事を選ぶと、それに連れて起ってくることはその他人に繋がったこととなっていくが、それに反してその口火を切ったのは自分であるために、自分にとってなんの幸せにもならない責任を処理することになる。これは負のスパイラルへの道だ。
自分本位で物事を選んだ場合、それにつれて起ってくるトラブル等は、自分の選んだ道の責任として感じられるから、しんどいながらもそれをこなすことでだんだん自分は自分の道へと歩んでいける。それは正のスパイラル、創造的な道だ。

自分本位で何かをやろうと、他人本位で何かをやろうと、結局同じだけの迷惑をかける。どうせ同じ迷惑をかけるのなら、自分の幸せのために他人に迷惑をかけ、「ごめんね、ありがとう。」となんとか感謝するほうに努力したほうがいい。他人本位で起った迷惑は、それを解決しても大して感謝もされず、ただ疲れきるだけだ。

迷ったらこう想像してみよう。
もしあなたが今、完全に自由になったら、何をするだろうと。
そしてそのお話をもっと語ってみてください。次はどうなる?次はどうなる?そしてどうなった?と。

ただ勘違いをしてはいけない。自分本位とは、自分の好きなことをやるとは、貪欲になることではない。
貪欲とは、別にそれができたとしてもウキウキもしないし、創造的にもならないことをやたらと求めることだ。
それは他人を無意味に傷つけることでもあるし、自分自身を破壊する道だ。
人は前にやったときにウキウキしたから、もう一度やったらそうなるに違いないと妄信的なファンタジーを描き、実際やってもみてもそうなることがないのに、「そんなはずはない。きっと足りないだけだ。」と思ってそのファンタジーに執着しやすい。
これは間違えてはいけない。自分の幸せだと感じることが基準である。


他人を幸せにすることなどそもそもできない。結局、自分で自分を幸せにするしかないのだから。
だけど、自分で自分を幸せにすることで、他人に幸せを分けてあげることはできる。
だから、他人に迷惑をかけないこと、他人を喜ばせることを考えるよりは、自分が幸せになること、創造的になること、自分らしくなっていくこと選択肢を選ぶべきなのだ。
問題は起る。何をしても起る。早いか遅いかの違いでもある。
だから人それぞれが自分の自然の道を歩んだときに起る問題の方が良い。問題が起っても幸せならそれを受け入れ、解決に向かうことができる。疲れていたら何もできず、問題はただ悪化し、誰にも責任の取られることのない問題がそこら中に散乱することになる。


自分が幸せになる道を、正直になって選べば良い。自分にウソをつくことは最終的に他人を破壊的に傷つける。
そして感謝すること。何かをしてもらったら「ありがとう」とキチンと伝えること
最後に幸せになったらその分だけ共有すること。
それが大事である。
2005年06月17日(金) 17時05分50秒

未来を見据えて

テーマ:自分への覚え書き
今日はテレビで、人口問題の話をみました。
日本の高齢化の問題も取り上げられていて、随分考えさせられた。
このままの生活ではいられないのだな、と思った。


人口問題自体について書こうと思っていたが、なんとなくつけたタイトルに触発されて少し一般的な話題に変えようと思う。

僕らはいつも社会の、そして世界の問題と繋がっていて、本当は「今」すぐになにかをしなきゃならない。
でも、イヤだなあ、とか、逃げたいなあ、とか、めんどくさいなあ、とかまあ自分のことじゃないからいいか、とか、まだ先だから、、、、とかいって問題に直面しようとしない。
これは一体どういうことだろうか?

人間は根本的に馬鹿なのかもしれない。
自分の未来など、もともと大して考えることなんてできない生き物なのかもしれない。
西洋社会は、未来のために、「理性」という理想を掲げて何百年とがんばってきたはずだった。しかしまだ問題は片付いていないから、「理性」の時代は決して終わりではないのだ。
最近は、僕も一部そうだが、再び「感覚」の時代へと帰ろうとしている。なぜなら「理性」が人生を人から切り離してしまっているからだ。

私たちには「理性」と「感覚」の両方が与えられた。なのにちっとも有効に活用できていない。
私たちは自分の今をしっかりと見据えることも、
未来をしっかりと見据えることもできていない。
どちらも中途半端だ。
今を見るべき時には未来のことを語り、未来のことを語るべき時には今のことを語る。
それで生活や世界はますます悪くなる以外起りえようがないのに、なぜ私たちはその道を選ぶのか?

今だけに焦点を絞ることは良いことだろう。そこから幸せとは何かが分かる。
未来に焦点を絞ることは良いことだ。そこから幸せをつくることができる。
でも、みんななぜ焦点をどこにも当てないのだろう?
私たちは、明日のために行動できないほど生活の危機に直面しているのだろうか?
それとも私たちは明日の苦しみというのが想像もできないほど豊かすぎるのだろうか?


僕の考えたこと、言いたいことはこれだけだ。
僕も僕なりの答えを見つけ、行動に移さなければならない。一人一人が自分の答えを見付けるべきだろう。
ただ「気づき」さえあれば物事は良くなるというのは、案外あまりにも僕らの行動が霧中にあるのが理由なのかもしれない。



2005年06月17日(金) 03時50分41秒

人と人を繋ぐもの

テーマ:全ての人へ
人間関係のワークやグループワークや、個人的な経験を通して、結局問題を解決するのは当事者の人たちがお互いに繋がろうという気持ちをもっているかどうか、ということだと確信した。

僕はこれを「愛」と呼ぶしかないと思っている。

戦うのには理由が必要だ。なぜ人はわざわざ大変で傷つく戦いという中に身を置くのか?それは意識はしていないかもしれないけれど、繋がりたい、仲良くなりたいという気持ちがそこにあるから。人はそれをよく忘れて戦っている。でもその水面下にあるのはいつも愛なのだ。

私は最近、といっても1ヶ月前だが、ある著名な思想家(?)にメールを書いたが、彼は一向に私の意見は聞こうとせず自分の論から外に出ようとしなかった。じゃあ、私のどこが間違っているのか?ということを伝えることもなく、君はバカだな、と繰り返すばかり。呆れた。
私は何回か自分の視点を伝えてみたが、結局彼は私の視点への理解どころか自分の視点から私を見ることから抜け出ることは一切なかった。
もし私が彼の被害者だったら、究極的には彼を殺すだろう。
最初は私の意見、世界的な一つの視点として受け入れてもらえたらという繋がりたいという気持ちがあった、でも彼が私の視点に対して一切の無視を続けるにつれ、私がならば彼の意見を抹殺するために彼を消そうという気持ちを持つのは自然なことだ。
もちろんこれは私の全人格としての考えではないが、私のなかで起っていた一つのやり取りとして確かにあったものだ。
余裕のない状況に追い込まれ、この私が人格の大半を占めるようになってしまった人は、きっと彼を、または無視を続ける人を殺すだろう。


どんなワークをしても、最終的な繋がりは、当事者の人がどれくらい人と繋がりたいかと感じている分にしかならない。それは、気づきのワークなのでプロセスワークであったらなおさらだが、どんな人工的なルールを押し付けるにしても同じだろう。無理にルールを押し付けられると必ずそこからあぶれる個人的な部分があり、それは結局繋がりを破壊する。


他人を無視する、距離を置くことというのはけして悪いことではない。それは人間にとってとても大事な要素の一つ。
ただ繋がりは、自分が相手から置いている距離に反比例した分だけしかできないことはわかっておくべきだ。
相手にだけ来てもらおうなんて都合の良いことは起らない。

個人的な課題としては、他人を受け入れる状態でない人をいかに他人に開くようにできるか、ということだ。
これはプロセスワークではできない、と思う。
少なくとも、それに不可欠なのは、離れようとしている相手をそれでも離れさせまい、繋がろうとする愛だ。繋がることが相手にとっても幸せであることを伝えることができる愛。
それにはかなりの大きな強い愛が必要だ。たった一人の個人でできるかどうかはわからない。
自分がやっていることへの強い確信、つまり自分自身を深く愛せていることも必要だ。
それが出来るひとは本当に数少ないと思う。


ケンカをするときは、必ず自分が何ゆえに戦っているのかをいつもはっきりさせたらいいと思う。
最良の結果は何なのか、
なぜ、その何があなたにとってそんなに最良なのか?
と考えることがとても大事だと思う。



2005年06月16日(木) 17時41分40秒

愛されるために振舞うことの矛盾と、ありのままのあなたでいること。

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
多くの人が、誰かに愛されたい為に何かの振りをしている。
カッコつけたり、無理にオシャレをしてみたり、化粧で顔を随分変えてみたりしながら、自分を愛される「誰か」にしようとしている。

でも、それで愛されたとしても、それは自分が愛されたわけじゃないよね?

カッコわるい、弱弱しい、しょぼい、気持ち悪い、子供っぽい、頭がおかしい、、、、
どんなに思われたって、自分のありのままで愛されなかったら、一体なんのために努力しているのかわからない。
愛されようとする努力が、愛されない自分をほったらかしにすることになる。

ありのままのあなたを愛していくれる人は必ずいる。時間はかかるけれど。
そうでなければ、無理して、背伸びして愛されても、結局何にもならないし、深い所にある寂しさは決して満たされない。



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