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2005年05月29日(日) 15時37分41秒

刹那

テーマ:自分への覚え書き
今日は、あまりに当たり前でくだらないことだけど、本当に思ったので書きたくなった。

いろいろなことが起って、そして過ぎ去っていくけど、泣いたり笑ったり落ち込んだり怒ったりして、みんな前に進んでいるんだなあって思った。
「前」が何を意味するものなのかはわからない。
でも、なにか達成したような気がするんだ、人生の中で。

それだけの人生。
でも、なんかそれだけでいいような気がする。

やっぱり人生というのは、全ての物事というのは、結局その道があること自体が最終的な理由なんだよなって思う。
目的地じゃなくて。

道があり、道を歩くこと。
それが全てなのかな。

こんなささやかな気づき。ささやかな感動。
世界中の人がこんなことを時々気づいて人生をまた始めている。
一体人間というのはなんなんだろうな。
たいしたことじゃない。みんな思うのことなのに、妙に新鮮に感じるし、真実のように感じる。
こんなことって本当に不思議だ。

2005年05月27日(金) 11時22分38秒

心理学はいずれ宗教になる。

テーマ:自分への覚え書き
プロセスワークは、宗教なのだな、と今日、ユングの本を読んでいて思った。
たとえ、私たちが、実際に起っていることから何かを学んでいったとしても、特別になにかの現実から離れた理論を一切持たないにしても、
僕らは世界に対して特別な見方をもち、特別な経験をして、特別な体験を研究しているのだから。

心理学が、本当に人間という経験から離れない限りは、突き詰めていけば必ず宗教になるのだ。
宗教というのは宇宙観であり、人生観であり、自分に何が起っているのかを教えてくれるものだ。
一つの考えがある一つの信仰から切り離されたとき、それは宗教とならざるを得ないのだ。
宗教というものが、本来人間とは、世界とは何かを探求したものであるから、と逆説的に言ったほうが正しいかもしれない。
物理学も、生物学も、あらゆる人文学、理学でさえも、突き詰めれば突き詰めていくほど必ず宗教になっていく。
宗教というのは、おそらく僕らが日常でなにも考えずに行動している「日常」から遠く離れた世界観に対して付けられる名前なのだろう。

「科学」というのは、誰が同じことをやってもほぼ確実に反復可能であるもの、を研究する方法であるが、実験対象が人間の心理という主観的なものである限り、心理学はもっとも宗教に近い。
もちろん、「宗教」にならないように努力している学派もたくさんある。
しかし、それではあまりに人間と、人間の経験自体と離れてしまう。

ユングでさえアメリカではカルトと思われている理由がよくわかった。
それはこの国の市民はユング派心理学とは極めて離れた宗教を信仰している人が多いからである。
それは極めて「西洋的」な宗教、思想である。
逆説的に、ゆえに、ユング派は日本では広く受け入れられることになっている。
実は心理学の各派の分布の違いには、元々あった宗教的なバックグランドが強く影響しているのだろう。

当たり前の話なのかもしれないが、
宗教はもともと心理学のハシリ。
何千年もの間に、人間が体験したもの、するものを体系化した思想体系なのだ。
心理学が「宗教」とよばれるようになっていってしまっても、本来なんら不思議はないのだろう。


2005年05月26日(木) 06時41分15秒

身体開発の新しい地平

テーマ:自分への覚え書き
今日はプロセスワークのセッションを受けた。

僕の左肩は右肩にくらべてあがっている。
少し前まで治っていたのがだ、突然再発したのだ。

セッションの中で肩のプロセスに対して、気づき自体は得られなかったものの(原因はおそらくあまりに1次プロセスより遠かったため)、人間の身体というものに対して新しい洞察を得た。


僕のセラピストが全身で全力を使って僕の肩を下げようとしていたのだが、僕の肩は下がることがなかった。
構造的には下がるのだが、下がらない。
一方、僕の意識と言うのはまるでのんびりお茶でもしているかのように、リラックスして、肩をあげていることすら意識していないのだった。
僕の肩はセラピストの押す力に対してものすごく抵抗していたはずだ。彼は顔を真っ赤にして汗をかいていたし、腕は震えていた。でも、僕はなにもとくにやっている気がなく、まったく涼しい顔だった。(抵抗してつもりもなかった。)
僕の肩は、僕の感じや意識とは全く無関係に、恐ろしい力を出していたのだった。もちろん何十分も押されて肩はその間ずっと抵抗していたのだが、その後も一切痛みなどは感じなかった。

これがいわゆる火事場の馬鹿力とよばれる、人間の身体の本当の能力なのだろうと思う。
意識ではコントロールすることができない、本当の身体の深み。身体機械論では到底達し得ない深み。
これが武術で使えるようになったら、いったいどれくらいの力を発揮できるのだろうか。
この力を一瞬で相手に伝えられたら、それこそ伝説ではないが、相手は吹っ飛んでいくに違いない。

この意識化されることのない身体の運動のコントロールこそが僕の目指す武術の地平に違いない。


後日談:
ちなみに次の日に鏡をみたら、両肩が平行になっていた。。。どんな方法を使ってもゆるまなかったのに。。。。
プロセスワークおそるべし。。。。。。。。
2005年05月23日(月) 06時42分10秒

最高の関係

テーマ:自分への覚え書き
本当に最高の人間関係というのは、きっといろいろな「ロール(役割)」になることができる人間関係に違いない。
一つのロールに押し込められることなく、様々な自分でいられる関係。

時には、「父親」になったり、「母親」になったり、「子供」になったり、「先生」になったり、「学生」になったり、「批判者」になったり、「サポーター」になったり、「男」になったり、「女」になったり、「家族」になったり、「他人」になったり。。。

人間の豊かさが、ありのままの持っている全ての自分であることだとすれば、そうでいられる人間関係こそが素晴らしいはずだ。
深い信頼があってこそ、深い受容があってこそ、それができる。

ゴールが分かればそれを目指していける。
僕はこれからそんな人間関係をもっと築いていこうと思う。



2005年05月23日(月) 03時07分27秒

他人の心の中なんてどんなに有名な心理学者だって分かるはずがないのだ。

テーマ:自分への覚え書き
よくある幻想。
他人の心理が読めるという幻想。

プロセスワークの非常に他の心理学と異なっている点が、シグナルベースでワークを進めていくということ。
無意識にあらられてしまう、あらゆる表現からプロセスをひろっていくということ。
ただ、そこに何の解釈も当てはめない。
解釈をしようとする当事者のシグナルをさらにみながら、ワークを進めていく。

少し簡単な質問をしても、クライアントが頭の中で何を考え、身体の中で何を感じているのかは傍目からは全然わからない。
言葉を聞くとわかったような気になってしまうのだが、シグナルをみているとそれと合っていないということだけはわかる。
本人も気づいていないことが起っている。わかっていても無視してしまうこともある。

他人の中で一体何が起っているのかは、本当に全然読めない。
なんとなく現れてくる表現を捉えて反応するしかない。
一見してでも「結果として」何を考え感じたかは捉えられる。ただそれはあくまで本人の意識している範囲に限られ、ワークをする上で、自分の心を知っていく上ではあまり役にたたない。
海の表面を滑っているようなものだ。海とはどんなものかを知ることはほとんどできない。もちろんそれはそれでとても大事なものなのである。が、それを拾うだけであれば、なにもセラピストのところなどに高いお金を払っていく必要がないのだ。自分の話を聞いてくれる人さえいれば。。。
2005年05月22日(日) 08時10分38秒

テーマ:自分への覚え書き
下のことを考えてから思ったのだが、「力」さえなければ何をしたって自由なのであり、逆にいえば「力」こそがあらゆるものの悪い可能性を引き出すものだといえる。

全てのものはそれなりに意味があって、必ず良い面と悪い面を持っている。
諸刃の剣だ。

問題はそれが強い力を持った時が問題だ。
「人を殺すことができる力」を持ったときに問題となる。
諸刃の剣でも、軽く振っているときには対して危なくないものなのだ。

「力」への無意識、濫用こそが本当に破壊的なものである。
それが例え「愛情」であっても、「正義」であっても、「真実」であっても、「豊かさ」であっても、「健康」であっても、それが力を持ち、不用意に使われたとき、血と涙が流れるのだ。
2005年05月22日(日) 06時35分32秒

言論弾圧と言論の自由と力の関係  難しい問題

テーマ:自然論-世界や人をもっと知りたい人へ
副島隆彦氏にメールを書く。
著書に不注意なところがあったためだ。
ところが言論弾圧という風に呼ばれる。
最初は理解できなかったが、数回やりとりをすることによって理解できた。

私達は「力」、つまり言論においては影響力を持たない間はなんでも言える。
私達は自分と比較的同じ意見を持った人を応援する。彼らがもっと影響力をもって世界を変えてくれたらな、なんて思って応援する。
応援するにつれて。彼らは影響力を持つ。影響力というのは一人歩きするものだ。また言論というのも一人歩きをする。
ささいな不注意が、社会に対して大きなうねりを巻き起こすことになる。些細な無神経さが、大きな力を生み出す。
そうなると私達はこんなことは言わないほうがいいんじゃないか、これをあらかじめ注意書きとして書いておいてくれたら、と思うようになる。それを伝えると「言論弾圧」と呼ばれる。
人というのは全てを書ききれるわけではないし、全てのことを詳細に書いていくと、なぜか矛盾に陥っていく。
ここでいう矛盾というのは、反対の2つの意見が同時に主張されるということだ。

言論の自由があるのは、影響力を持たない場合だけだ。それは相手にされないからだ。
一人の人間は必ず全てのことに気づけるわけではないから、なにかをすると必ず何かが落ちる。そしてその落ちた部分には、それに対応する落とされた人々がいる。
その一人の人の影響力が強ければ強いほど、落とされる人々は強く落とされる。時には殺される人だって現れる。
ただ、落とされる人を生まないようにしようと思えば、何もできなくなってしまう。私達にできることは口をつぐむしかない。たしかにこれはもっとも安全な方法で、多くの人が実際にしていることだ。
何もしない。何もいわない。
でも、これでは抑圧を行っている力を容認しているのと同じになってしまう。
「氷の心」を持って口を開き、自分が批判しているものへの道を歩むか
「敏感な魂」となって口を閉ざし、自分が批判しているものへの道を歩むか。
どちらを選択しても、自分が力を持つほどに矛盾が生じる。

「力」というのは全く諸刃の剣であり、創造をすればかならず破壊があるし、破壊をやめれば創造はできない。
私達はヒンドゥー教の最高神の一人シヴァ神のように、「破壊の神」とも呼ばれながら、創造を繰り返していくしかないのだろうか?




2005年05月20日(金) 17時05分55秒

人生というのは本当にこういうものなんじゃないかとちょっと確信がある。これはちょっとすごい気づきだ

テーマ:僕の一人の友人から同じ境遇にいる皆様へ
人生というのは、自分の道を、夢を、神話を発見し、それを完成させるためにあるのじゃないかと思う。

私達は、どんなに自分が本当にしたいことを放棄しても、それはいつもどこかでくすぶり続けていて、私達をもとの道に引き寄せる。
それを意地でもやらなかったものに与えられるものを「後悔」。

もちろん、「後悔」することが悪いわけではない。
自分の道を捨てて、他人のために、世界のために働いている人もいる。そういう人生も素敵だと思う。

とはいえ、自分の「道・夢・神話」は冷徹にも死ぬまでずっと私達を呼び続けるのだ。
歩け、歩け、この道を歩け、と言わんばかりに。。。

それは逆からみれば、私達はいつでも自分の道を歩けると信頼することができるということだ。
社会的な理由、経済的な理由、ありとあらゆる理由で、今はすることができなかったとしても、それは私達から逃げていくことはない。
勇気を振り絞りさえすれば、その道は常に私たちと共にあり、歩むことができるのだ。
疲れたら休めばいい。無理なら今はあきらめればよい。
人生は私達をいつでも温かく迎えてくれている。
時機が良くなったら、立ち上がることができるようになったら、またいらっしゃい、と。

2005年05月18日(水) 03時52分29秒

ブログを書くというのはこういうことかなと思った。

テーマ:全ての人へ
ブログを書いていると、自分が必ず誰かに対して書いているのがわかる。
時にはそれが実際に知っている個人である場合もあるし、不特定少/多数の人である場合もある。

一見、ブログというのは独り言のように見えるが、やはりそれを発信している人は、期待される誰かとの接触を求めているのだろう。

今後、自分が誰に対して発信しようとしているのかを気にしながら書いていこうと思って、テーマを変えてみました。
まだ全部管理できていませんが、いいかもと思います。

僕は基本的に自分の為だけに書くということはありません。まあ、誰か他に僕のことを書くことで自分のことに気づくこともあるかな、と思って書いています。


最近、行動と反応ということについて考えているのです。
人が何かをする場合、必ずではないにしても対象がある場合が多い。
それに気づけるようになると、随分と行動も変わってくるのではないかと思っています。
2005年05月18日(水) 03時28分41秒

未来への期待と不安

テーマ:僕の一人の友人から同じ境遇にいる皆様へ
人は誰しも未来に期待と不安を抱くもの。
しかしそれは全て「今」起っているのだということを忘れてはならない。

不安になったら最も最悪のケースを考えてみよう。
期待をもったら最もうまくいったケースを考えてみよう。

そうすると自ずと自分が何を失うことを怖れているか、何を求めているかが見えてくる。

未来は必ず来るもの。
未知の状態は必ずくるもの。
来るべき未知に対して準備をしないのは、手ぶらで冒険に出かけるようなもの。
未知に対して恐れて準備ばかりしているのは、杞憂というもの。

自分の「今」をよく観察すると、おのずから自分のなかの優先順位は見えてくる。
優先順位が見えてくると自ずと何を準備すればいいかが決まる。
荷物は持ちすぎれば重くなる。軽すぎれば不便になったり危険にさらされたりする。
それは人によって違う。だまされないように。

前にも書いている通り、私達は未来であろうと過去であろうと、「今」を基準にしてしか考えられない。
何があなたの「今の基準」を作り出しているのか。
あなたが不安になるなら、あなたは今もっている貴重な「何」を失いたくないのか。
あなたが期待しているなら、あなたは今もっていない、またはあなたが求めるものだと分からせてくれた「何」を探しているのか。


未知との遭遇も、期待や不安も、今の幸せや不幸も、
すべて気づきさえすれば、濁流となることなく清流の如く自ずから滑らかに流れて行く。。。

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