1 | 2 次ページ >> ▼ /
2005年04月24日(日) 16時40分03秒

コンタクトを踊る

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
今日は、コンタクト・インプロビゼーションのジャムに参加。

踊りの中に自分の人間関係のふるまい方のパターンが全て出ていて恥ずかしくなる。

人への触れ方、触れる強さ、受身だとか能動的だとか、人との関係で自分がどんな役割をしやすくなるかとか。
どうやってコンタクトをスタートするかとか、どれくらい緊張するかとか。
なんかそういったことが踊っている間に全てわかるので恥ずかしくなる。


こういうのはただ手を使っただけでもできる。
相手とお互いに手を近づけていって、自分が感じたとおり、思ったとおりに手を動かす。
自分の目を、少し手を動かしている自分から離して見てみる。

いつもこれをいろんな人とやることで、人間関係の訓練になる。
これはフラクタルなパターンを使った方法。
自分ができないことを少し練習してみたり、自分がやってしまうことを思いきってちゃんとやってみたり。
恥ずかしくなったとき、すごくやりたくないと思った時、そういった強い感覚や感情が表れてきた瞬間が大事な瞬間だ。


こういうのはすごく楽しい。楽しくありながら、繊細で、微妙で、でも大きく動くし、身体も元気になる。
内面的でありながら、かつ人と交流し、自己成長もできる。

教えてもらって以来、随分長い間放って置いたが、今改めて教えてもらってよかったと思う。
身体へ興味を持ち始めた最初の時に習ったものだ。あの時は身体のことなんかほとんどわかっていなかったし、全然操作もできなかった。楽しく踊る余裕もなかった。気持ちはよかったけど。
今はそれに心理や夢や、あらゆることが付随している。踊りという中に「今の自分」という存在様式が付随している。

成長するというのも、なかなか楽しいことなのだな、と思った機会だった。




2005年04月23日(土) 18時30分25秒

夢から醒める

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
夢から醒めた。

人生は夢のようで、自分は時にその夢の中の一つの像となる。
もちろんその中にいるときは気づかないが、そこから抜け出したとき、
ああ、オレは何であんなバカなことをしてしまったんだろう。
と思う。

夢の中に遊び、夢からすぐに目覚めることができれば、
人生を十分に生きながらかつ距離をおいて生きることができるだろうか。

醒めない夢はないのか、
それともあるのか。

変わらないと思っていても、ふと全てが変わり始めていることに気づく。
夢もまた同じことなのだろうか。
ずっと醒めないと思ったいたのに、夢はやはり夢だったと気づく時が来る。

現実というのはかぎりなく夢に近い。

人生というのは、人間的でありながら、非常に非人間的でもあり、
私達は夢見る存在でありながら、私達は世界の夢の一つの像でしかありえないのだろうか。



2005年04月20日(水) 05時25分36秒

広がる病気

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
庭でバラの花を見ていたら、それが病気になっていて、葉っぱに赤いシミが広がっていた。

そういえばこれって、発疹ができたり、いろいろなものが腐っていくパターンとそっくりだな、と思った。

あの広がり方というのは一体どうやって起るんだろう。
僕は病気が広がっていくというのはなんとなく隣へ隣へといくような気がしていたけど、よく見るとそうじゃない。
たしかに自分の発疹の場合もそうだった。

きっと癌とかもこういう風に広がっていくんだろうな、と思う。
感染症もこういう風に広がっていくんだろうなって思う。

ただ、隣へ隣へと広がっていくのでなければ、一体いかにして広がっていくのだろう。

もちろん、これはトレンドとやウワサが広がる仕方とも近いに違いない。

ある一点にポツっとでき、次にはそこから関係ないと思えるくらい離れたところにポツっとでき、また違うところに、そのうちだんだん密度を増していき、いつかそれが大きな集団を作り上げる。

こういうのってきっと原因と結果という直線的な考え方ではなかなか理解することはできないんだろうな、と思う。
そしてこういうことを単純に理解できるようになれば、きっと病気の治療ってもっと進歩するんだろうな、と思う。
2005年04月18日(月) 16時48分28秒

人の謎

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
人間は、誕生したときから、何度も何度も同じことを繰り返してきたはずだ。

愛に苦しみ、憎悪し、人生に笑い、憎み、死に怯え、生に悲しみ、出会いにはしゃぎ、戦いを呪い、損失に途方に暮れ、、、、。

人間は同じことを何億回と繰り返してきたはずだ。
それなのに、いざ自分がその状況に陥ってみると道を確固として示してくれるものは結局未だ何もないのだ。
人間は何千万年も生きているのに、些細な苦しみでさえも、いちいち苦しまなければならない。
人生を導いてくれる何かを持たずにいる。
ふと哀しみに遭遇したとき、ちょっと手にとって読み、簡単にその哀しみから逃れるようにしてくれる本ですら、未だこの世にはありはしない。

これは何と不思議なことだろうか。
一体私達は何千万年もの間、何をしていたのだろうか?
それともそれを経験するということこそが本当の真実だったというのだろうか?
それとも「解脱」することのみが方法だったというのか?僕は解脱した人と出会ったことすらないのに。

人間は一体何の為に、避けることのできない同じドラマを何億回も繰り返しているのだろう?

医学がどれだけ発達しても、テクノロジーがどれだけ発達しても、私達にとってもっとも身近でもっとも根本的なことは、まだ何一つ解決されてはいないのだ。

僕は、心理学を勉強しているためもあって、人が苦しみに直面したときどのように扱ったらいいかかなりほとんどの人より多く知っていると思う。
しかし、いやだからこそ、結局何も解決していないのがよくわかる。
様々な宗教書を読んでも、いろいろな心理学書を読んでも、「スピリチュアルな」本を読んでも、どんなに多種多様な精神的な身体操法(ヨガや呼吸法、ボディワークのような)を覚えても、私達が遭遇し何度も反復して現れるあれらの経験から逃れる術はまだ見つかっていない。

解決した、と思っても、いずれそれを覆す経験が待ち構えている。
それも克服した、と思ってもまた現れる。
その繰り返し。
結局は、その経験から逃れたというのは思い込みでしかないのだ。

人間が未だ天気という身近なものを操作することも逃れることもできないように、人はただただ自分の心という自然に常に翻弄され続けている。
私達はその中で、暖房をつけたり、服を脱いだり、傘をさしたりして、場当たり的にしのぐしか方法はないのだ。

どんな大きな会社の社長になっても、時代の寵児といわれる存在になっても、ノーベル賞を獲得したとしても、何も変わりはしないのだ。

そんなもんなのだろうか、人生というのは?



2005年04月10日(日) 05時49分15秒

宙遊

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
物事にはまり込んでしまうことと、距離を置くことは人間にとって非常に大きなことだ。

物事にはまり込みすぎると人間は往々にして不幸になっていく。
しかし距離を置きすぎると幸も不幸もなくなっていく。(★)

例えばユーモアや冗談について考えればよいが、
あまりに自分に近すぎるネタは笑えないが、「飛びすぎ」ているネタも笑えない。
自分や自分の境遇と微妙な距離を捉えられた時に、私たちは笑う。

距離を置くことがややこしいのは、「距離を置く」ということにハマってしまう場合が多いからだ。
本当に厳密には、距離を置きすぎる、ということはあり得ないと思う。距離を置くことは、距離を置くことからも距離を置くことであるから。逆もまた同時に真なり。(☆)
いつでも自由に物事にハマり込み、またいつでも抜け出せる流動的な意識の能力が人生を楽しみ生きていくためには重要だと思う。



★ 仏教の多くの教義はこの状態を目指したものに聞こえるが、
☆ を目指してるものだと信じたい。「幸せ」というのも所詮幻影である、ということで「平穏」を求めるのは、個人的にはせっかく人間が感じることができる大事なものを失っているように感じる。「幸せ」を求めるから苦しむのだ、といわれると、そうだね、としか言えないのもまた真実ではある、おいしい物を求めるからまずいと思って食べられない物が出てくるのだという発想に近いように思う。
2005年04月10日(日) 05時19分33秒

映画みたいな恋愛

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
恋愛への反応というのは、映画(や本も?)への反応と似ているんじゃないかな、と思う。

映画が終わった後、終わったものは終わったとしてすぐに切り替えられる人。
ストーリーにどっぷりハマってしまって映画が終わった後も映画の中の人たちがどうなったのかずっと気になるひと。
映画の続きがみたいな、と思い続けるひと。
一回切りだから楽しめると思っているひと。
ドラマティックな映画を好む人。
全体的に美しい映画を好む人。
楽しい映画が好きな人。
あまりストーリーがなくても、要所要所を押さえてあればいいという人。
映画の出演者に共感できる映画が好きなひと。
自分と全く違う人を観るから楽しいという人。
フィクション映画が好きな人。
ノンフィクションが好きな人。
日常的な映画が好きなひと。
非日常的な映画が好きな人。
映画を観に行くと観ている間は身動きが取れないから嫌いという人。
あの雰囲気に入れるから映画館に行くのが好きだというひと。
家でビデオで映画を見るのが好きな人。
どうせ映画だからとあんまりのめり込めんで楽しめない人。
うんとのめり込んで映画を満喫するひと。

そうやって考えると、映画好き?とか、どんな風に映画が好きか?とか、好きな映画は?なんで?とかについて話すのはある意味で恋愛に対する考え方を共有することになるのかもしれないし、うまくいっていない恋愛を補う助けになってくれるかもしれない。

一度考えて見るのもは面白いのではないでしょうか?



2005年04月05日(火) 09時53分56秒

好奇心

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
これは完全に自分のための覚え書。

下の記事を書いた後、自分は何を目指しているのか考えた。

僕は自然とはなにか、人間とは何かを知りたいのだ。
僕を動かしているものは好奇心なのだ。

こういう風に自分の原動力がはっきりすると次に何をすればいいか決まる。どれくらい働ければいいか、どのように努力すればいいかが分かる。
研究所をつくって人間を、自然を、研究したい。
もちろん現実に、つまり臨床に基づいて。
結果的にお役に立てばいいけど、役に立たないものは意味がないと思うので、やっぱりお役に立ちたい。
お金は基本的に研究が続けれるくらいあればいい。ただ僕は服が非常に好きなので、たまには美しくいられる服を買えるくらいのお金は欲しいな、、、、と、このように。

しめしめ未来が決まってきたぞ。。。(笑)
2005年04月05日(火) 08時18分44秒

渋谷ではたらく社長

テーマ:自分への覚え書き
渋谷ではたらく社長であり、このアメーバブログの大本の管理者でもあるサイバーエージェントの藤田さんの本が出たそうです。
すぐに中古本が出回るだろうから、それから読みます。

きっと面白い人なんだろうなあ、と思う。
奥菜恵と結婚しているくらいなので、きっと面白い人に違いない。

ライブドアの堀江さんとかもきっとおもしろいんだろうな。
あと、六本木ヒルズで働く若手社長たちもきっと面白いに違いない。


この人たちの中の一体どんな気持ちが、いわゆる「大きな成功」を成し遂げるのか、興味がある。
僕には、大きな会社を持つとか、お金をいっぱい稼ぐとかまったく興味がないのだが、ひょっとしたら僕が楽しみ方を知らないだけなのかもしれない。
大きなことができるというのはきっとそれなりの大きなモチベーションがあるに違いない。
それともただ時代に合っていた?  とはいってもやっぱり相当な苦労はあっただろう。

とにかく、こういった人の話を聞くと本当に不思議になるのだ。
一体彼(女)らの底力はどこから来るのでしょうか?

僕は今でも本当に十分に幸せで、これからどうなったところで大して変わりはないんだろうな、と思うのだけど、ひょっとしたら彼らの想像力というのは非常に豊かで、ものすごい幸せや楽しみを想像することができるのかもしれない。

私たちは、幸せ貧乏というか、楽しみ下手というか、なんというか、想像できないことを得ることはなかなかできない。
単純な理屈としては、自分の壁にぶつかったときに、それを超えるモチベーションがわかないからだけれど、きっとそれ以上のものがあるのだろう。
もっと幸せになるぞ!と想像できる人は、幸せになれる可能性がある。
もっと豊かになるぞ!と想像できる人は、幸せになれる可能性がある。
むしろ、これだけが最終的に大事なのだと思うのだけれど。

イメージトレーニングとかなんとかいう前に、非常に大事な話で、どれだけ豊かな、幸せな、深遠な、なんでもいいのだけれど、そういった人生を想像できるかどうかというのは、人生においては最も基本となることだ。

お金を持っていることだけを想像する人は、お金を持つようになっても持てる幸せっていうのは持ってないときと大して変わることがない。


ただ想像してみよう。
毎日、練習してみよう。
自分が想像できる限りを超えて、もっともっと幸せになったところを。

それだけで十分に人生は変わりますよ、きっと。




2005年04月04日(月) 13時19分30秒

強さと繊細さ

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
強さと繊細さを同時にあわせ持つということは本当に難しいことだと思います。

「強く」なると、「勝てる」ものだから、ついつい微妙に傷ついている部分だったり、相手の感覚だったりに配慮することが難しくなってしまうのです。

ただ、
そういえば、武術というのは、繊細になればなるほど修行が進んでいくもので、結果的に強くなっていくものだと気づきました。

強さとは何なのか?という問題も大きいですが、
とにかくとても大きいテーマであるように思います。

2005年04月04日(月) 08時25分17秒

親の満たせなかったものを満たす子供たち

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
人というのは、自分を補償してくれるパートナーを探し、そして子供はその両親が補償することができなかったものを受け継ぐ。
こういうのって不思議だと思う。

全ての物との関係の間では全てこういうことが起っている。
気に入った人、気に入ったもの、すべてあなたになにかしら必要なのだ。
相互にそういう状態にないと人間関係というのは深まらない。深めるエネルギーが得られないからだ。
この絆を「愛」の一つの形態と呼ぼう。

親子関係はこういった関係が非常に強く現れる関係である。
良い面でも、悪い面でも、子供というのは親が果たせなかったものを引き継ぐのだと思う。

実はこういったことは社会全体として起っている。
社会的な事件なども社会の偏った傾向の反映として発生する場合が多い。
子供が親のできなかったこと、又はしてしまったことの反対を引き継ぐように、社会も歴史として同じように動く。

こうやって考えていくと、人間というのは集団として、何かを目指しているように見える。
これを単純な数学的な相互関係として言うのはたやすい。親がこうこうこうしたから、子供はこうなった、と。親が「+」したから、子は「-」したのだ、と。
でも、なぜそれが起るのか?
それが起るには前提として、完全な何かが必要だ。反応が起る、ということは、均衡がとれている何かが必要だ。「0」のようなものだ。
そうでなければ、人間は過去の人類からみて、目覚しく変わっているはずだが、古典などを読む限り、人の営みは変わっていない。
親がある能力(人間性も含め)において「+」だったので、子が「+2」になって、孫が「+3」になって、、、、という話は聞いたことがない。
非常に愛情がある親からもっと愛情がある子が生まれて、さらにその子はもっともっと、、、、ということは何故か無い。


つまり、
私たちは、全ての要素を持った何かへと向かっているのだ、と考えるのが論理的ではある。そうでなければ人類はずっとただのシーソーゲームをやっているに過ぎないからだ。でも、いつかはシーソーゲームも終わりが来ることがあるのではないか?すべての要素が補償されたときに、次はどうなるのか?そのときには一体何が起るのか?

それとも人間は、本当に全くの不完全な存在ということであるのかもしれない。そうであったら、私たちが今していることには何の意味も進歩もないということになる。何をしようとも片側のシーソーは結局上がってしまうのだ。
まあ、それはそれで、そのことを知ることはある意味で「自由」ではある。

しかし、私たちが自分のしていることに気づきさえすればシーソーは平行を保つ。


「完全なる人間」が生まれ、完全なる社会に到達したとき、いよいよそこから次のステップが始まるのだろうか?





Amebaおすすめキーワード

    1 | 2 次ページ >> ▼ /
    アメーバに会員登録して、ブログをつくろう! powered by Ameba (アメーバ)|ブログを中心とした登録無料サイト