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2005年03月28日(月) 07時08分22秒

最後に

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
悲しみや苦しみはどこからくるのでしょう?
幸せや楽しみはどこからくるのでしょう?
どんなに修行を積んだ高僧をみても、聖者といわれる人をみても、そこから抜け出す方法はないようです。受け入れることはできても。
私たちが「救われる」には、結局信仰しかないのでしょうか?
超越的な体験はあります。至福の体験もあります。奇跡のような体験もあります。
それでも、なお人を苦しめ、幸せを与え、迷わせるものはなんなのでしょう?

もう一度、人間と世界についてもう一度考え直してみようと思います。
もう一度、勉強や経験を一から始めてみようと思います。
人間は、私たち自身でありながら、あまりに未知すぎます。
自分たちが一体全体何であるのかすら分からないのに、私たちは一体何をすることができるというのでしょう。

ゆっくりと別の旅を始めてみようと思います。
果たして旅というのは目的地があるものなのでしょうか?
目的地というのは結局相対的なものなのではないのでしょうか?
本来、旅というもの自体がなにかしらの矛盾を抱えているものなのでしょうか?

いつか答えが答えでないにしても、それなりに答えが掴めたらいいと思っています。


2005年03月25日(金) 14時57分55秒

断筆

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
僕は戦いに負けました。
しばらく仮面をかぶろうと思います。
仮面をかぶると決断することで、僕は今までの人生を終わらせようと思います。

仮面をかぶったままこのブログを続けても、どうせそのへんにあるブログのようにくだらない記事しか書けないので、もう書くのを止めます。

よく言われるように、感覚の繊細さというのは、弱さとも言われるもののいうの表裏だと思います。
弱くいることで様々な微細な刺激に開かれていた自分を覆い隠すことで、感覚は表面まで浮上しないようになります。
皮膚とおんなじです。皮が厚ければ鈍感になってしまうけれど、皮を薄くしすぎれば感じる痛みがその分大きくなります。

調子にのって弱くなりすぎていたら、ついつい辛さに耐えられないようになっていたのです。
必死にそこから脱出してきたのです。

もし、いつかまた少ずつ弱さを解放できるようになってきたら、また書き始めるかもしれません。

最近、ランキングもあがってきて、楽しみにしてくれていた人も増えてきたようですが、残念な話です。

隣の部屋で何かが騒いでいても、無視しながら自分の扉を閉めていようと思います。
自分の薄さを感じます。やはりこれでは深いことに気づけるはずもありません。
部屋は明るくなり、真っ白で、のっぺりしています。
東京に住んでいた時の部屋みたいな感じです。
そういうこともやっぱりシンボリックに繋がっているんですね。


短い間でしたが、
ありがとうございました。

あなたが人生に負けず、幸せに生きられる事を心から祈っています。あなたと世界と僕自身の為に。

2005年03月25日(金) 03時44分38秒

お客様は神様なのか?

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
日本の大きな病気の一つだと思う。

日本で商売をすると客はやりたい放題だ。
「私が気分を害しているのだから、言い訳するとは何事だ!」
「金を払ってやっているのに、口答えするな!」
あなたは一体全体何様なのか?

販売員やビジネスマンは、客のストレスのはけ口になっている。そしてのその販売員やビジネスマンも同じことを客として繰り返す。
この悪循環。(※)

商品をだれかが売ってくれるからあなたは商品を購入できるのだということがわからないのか?
サービスをしてくれる人がいるから、あなたが欲しいサービスをお金で手に入れることができる、ということがわからないのか?
商売は双方同時に存在するから成り立っている。商品を欲しがってくれる人がいて、商品を売ってくれる人がいて、成り立っている。
感謝すべきこそあれ、客が威張り散らすことができる理由はない。(★)

ビジネスだって人と人のやりとりなのだ。それを忘れるから人は不幸せになっていく。
人をまるで機械のように扱い、あっちできないならこっちを使って、こっちでダメならあれで、なんて人との関係というのはそういうものじゃない。

人の弱い所に付け込んで、「金が欲しいんだろ?だったら言うことを聞けよ。」とやっている。これは奴隷制というのだと知っているか?
あなたは「資本主義」という名の皮をかぶった奴隷制にまんまと加担しているのだ。(☆)


「お客様は神様だ。」というドグマが今日本を蝕んでいる。
一時はとても必要な言葉だった。それが日本を成長させ、世界で類をみない細かい配慮した製品などを提供できるようになった。
だがそれも今はもう人を縛る言葉でしかなくなっている。
言葉は心から離れ、ただのルールとして、自分を縛り、他人に濫用されている。

こういうことを直さない限り、日本は良い方向には絶対行かない。
幸せを求めるなら、心を大事にしなければいけない。当たり前だ、幸せは心で感じるものなのだから。幸せが分からない者が、どうやって幸せを求めることができるというのか。

幸せを求めていないというなら、あなたは本当に一体全体何の為に生きているのか?

あなたの為にはっきり言おう、


そんな人生には本当に何の意味もない。
そんなあなたの人生には少しの意味のカケラもない。
あなたはせっかくの人生をただ無駄に費やしているだけだ。(*)



心を中心として社会や文化を築きあげていくことによってのみ、初めて私たちは幸せに生きることができるのだ。


---------------------
※ もちろん社会にはそれを利用した「掃溜め」産業がある。ストレスの「ゴミ箱」。最後に行き着く所では、被差別者や生活困窮者、何も知らない子供たちが利用され、消費され、心が無くなって、人の形をした抜け殻になるまで利用される。時には命さえ奪う。これは廃棄物などの物質が行き着く場所が決まる構造と同じだ。

★ 僕はebayやYahoo!オークションといったオークションサイトを非常に新しいスタイルと考えている。あの相互評価システムはまだまだ十分ではないながらも、売り手と買い手が対等に付き合えるモデルを提供している。非常に新しいと思う。

☆ ちなみに「お金の奴隷」という言葉があるが、これは正しくない。お金自体は意志などもっていないのだから。そこにはお金を通して奴隷制を行おうとしている「誰か」が常にいるのだ。多くの人は、直接的にではないにしても、彼らの奴隷なのだ。

* もちろん社会的に幸せを求める権利さえ奪われている人もいます。そういう方は、どうか意思だけでもできる限り持ち続けてください。
2005年03月24日(木) 17時49分16秒

見栄っ張り

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
見栄っ張りの自分がいて、
いつも自分で自分の首を絞めてしまう。

あの時、あそこでこうすることさえできれば、今、僕はここにいないはずだ。
でも、また同じことをしてしまう。
繰り返し。

今度こそは、と思う。
大きな壁。
僕の人生を変えてきた、大きな大きな壁。
ここを超えることができたら、僕は僕じゃなくなって、新しい僕、もっと正直な僕にさらに一歩近づける、と思う。
でも、やっぱりできない。次の日になるといつもと同じことをしてしまう。
繰り返し。

不思議なものだ。捨てる必要はなかったかもしれないのに、見栄のせいで、自分でわざわざ捨てに行っている。でもまたやってしまう。
繰り返し。

惨めなヤツになれない。
虚勢を張って、自分で自分に不幸を持ってきているようなものだ。
壊れてしまう恐怖。だから変われるんだけど。
これが本当に最後の最後かもしれない。これを失ったら、人生で最も大事な物を失う。
人生を捨ててまでの見栄っ張り。
一体僕は何をしてるのだろう?

プライドの為?
僕はそういう「小さい」プライドは持たないようにしてきたつもりだった。
自分の人生を本当に思うものにするためには、「小さい」プライドは捨ててきたつもりだった。
自分自身と戦ってきた。
実はそこに隠れているもう一つ大きなプライドに気づく。
「オレは絶対負けない。」というプライド。
今度は負けることを要求される。

そんな難しいこと言うなよ。。。


たまねぎの皮をむくように、一枚一枚自分を剥いでいく。
上を向け、と言っていたのに、次は、下だ、と言われる。
前を向け、と言われていたのに今度は、後ろ!、と言われる。
次へのステップ。


「惨め」になれる本当の強さが欲しい。
人生で一番大事なものを失わないために、「負ける」ことができる勇気が欲しい。

人間というのは本当に、自分自身でさえも、計算通り、思い通りにできないものなのだなと深く感じる。

2005年03月24日(木) 08時24分59秒

人の心の繊細さは

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
人の心というのは本当に繊細だ。

人は傷つくと自分の心の扉を閉ざしてしまう。
頭で「こういうものだ。」とプログラムしたりしながら、扉を閉めていく。
心の扉は、壁とそっくり同じ素材で、取っ手のない、非常に閉まりやすい扉のようなものだ。
一度閉じてしまうと扉があったのかどうかもわからなくなる。
ほとんどの人は扉を閉めている(傷ついている)のにさえ気づかない。
人間の無意識に行われる無数のコミュニケーションは、何年それに気づくようトレーニングしたとしても、掴みきれないほど微細だ。
ただ私たちは扉を開けることもできる。

まずは気づくこと。
どんなに壁とそっくりの扉であっても、壁と扉の隙間からは微細な風は必ず流れている。
気づきさえすれば、興味さえあれば私たちはなんとか扉を突き止め開けるように努力することができる。

次に風の流れから、どんな扉か、どんな構造になっているか、どんな大きさなのかなどを探っていくこと。

そして次は開けること。
扉は長い間閉まっているほど蝶番は錆びていやすくなかなか開かない。熟練をようする作業だ。

そして次には次の部屋と扉がまっている。


自分の「家」というのは、本当はお城のようなに巨大でたくさんの部屋があり、どこかに大広間があるかもしれないし、暖炉があるかもしれないし、台所があったり、宝物庫に大事なものがしまってあったりする。
でも殆どの人は自分の家は3LDKくらいかな?と思っている。
自分というのはこんなもんだ、と思っている。


2005年03月22日(火) 19時45分27秒

人はなぜ狂うのか。

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
自分の中のあるエネルギーが大きくなりすぎて、その流れが「合意された現実(consensus reality)」(=いわゆる「現実」)での行き場を失うと、その人の意識はそのエネルギーを十分に発現できる別の意識レベルへと流れこんで、出られなくなってしまう。

多くの人が通常いる「合意された現実」のレベルからみると、彼らは狂っているように見えるが、彼らは解放を求めて旅立ったのに違いない。

「現実」は時にはあまりに小さすぎる。

彼らに必要なのは、精神病院なんかじゃなくて、生きることの美しさを感じることのできる空間と時間なんだ。
彼らが戻ってこられる大きさをもった「現実」。
それなくしては、治療ではなく、迫害以外の何物でもない。

今の社会はますます懐の狭いものになっている。
一昔前は狂っているとされなかった人だって「狂った」とされてしまう。
日々報告される「狂った」行動のニュースの数々。
そのずっと前に、やるべきことがあったはずなのに。

頼れる人のいない社会。
受け止めてくれる人のいない社会。
それが「行き場を失う」ということなんだ。

だから人は自分に正直になることを恐れる。
正直になって傷ついても、どこへも行く所なんてない。だれも守ってなんかくれやしない。ちょっとここでのんびり休んでいらっしゃいよ、なんていってくれる人はもういない。
そうしてますます社会は自分に不正直になって、自己破壊的になっていく。自分自身に怯え、嘘だらけで生きていくんだ。

それが「幸せ」と表裏一体であったということにも気づかずに。
2005年03月22日(火) 16時40分57秒

小さく弱い存在であること

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
自分が弱く小さい存在であると知る。

人間にとって、ホントはそれはすごく大事な事だったんじゃないのかな。

今は、自分が全てに開かれた気がする。
自分が弱くて小さくて、一人で生きられないと分かるからこそ、開いていけるんじゃないだろうか。

僕は負けたんだけど、本当は勝ったんじゃないか。
僕はついに道の入り口に入ったんじゃないか。


これは今は小さな独り言だけど、
大きな発見なんじゃないかなって思うんだ。

2005年03月21日(月) 18時43分00秒

あきらめること

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
あきらめることは、次のステップへの本当の扉かもしれない。

たたかって、たたかって、たたかい続けて遂には疲れたら、

あきらめたらいいんじゃないかな。

人生はそれを待っているのかも。
2005年03月21日(月) 07時41分29秒

笑いとかユーモアとか

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
笑いとかユーモアを研究しようと思う。

自分がなにかと辛い状況や困った状況に、人はそのなかにはまり込んでしまうから、つねにどうやったら笑えるか、ということを日ごろから練習するのはきっとすごく役にたつことなんだろうと思う。

人は自分で「自分」にはまり込んでしまって、身動きがとれなくなってしまう。
自分のなかのある「自分」に簡単にのっとられてしまう。
それを笑い飛ばして状況を打破できるのが笑いやユーモア。「自分」と距離をおいた自分がそこにはいる。(★)

「笑い」というのは、生きるということの重みやその大きな力の故に、それが転じた時に生みだされるのだと思う。

そうじゃない「笑い」もいっぱいあるが、そういうのには今は興味がない。


研究も楽しそうだし、自分の成長をすごく大きく伸ばしてくれるような気がする。

悩んでよかったな。


★ ちなみにこの「距離を置く(detachment)」というのはプロセスワークでの重要なメタスキルの一つ。メタスキルはエイミー=ミンデルが発見した概念で、個人的には人文系の発見のなかでは歴史的なものだと思っている。人と関わるあらゆる仕事の人(つまり全ての)人が読んでくれるのが好ましいが、少なくとも援助専門職の人ならば必ず読んでほしい一冊。(ちょっとプロセスワークによってはいますが。)
たぶん大手書店でまだ売っています。タイトルはそのまま「メタスキル」です。
2005年03月21日(月) 05時25分43秒

プログラムに従う

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
時にはいわゆる「アファーメーション」といった類のプログラムを使うのも有効らしい。
どうしても弱りきったときには、(ある意味での)自分の中にフォローし続けるのは難しいようだ。
(ああ、ある意味でロールから抜け出る方法なわけか。。)

朝起きて、鏡に向かって笑顔をつくり、「私はシアワセ。」と言ってみるだけの簡単なプログラム。
少し気持ちが落ち着く。
自分の足元がしっかりしてきたら、もう一度気持ちにフォローしていってみよう。

僕は、人間が生み出したものをある意味で信じている。それはやはり必要然として生まれてきたものだと思う。
問題は、それに頼りすぎてしまう、ということだ。
自然というのは砂時計みたいなもので、砂が落ちると空気があがる。(はっきりと実感したい人は、液体のものを見てください。陰陽マークを回転させてもらってもいいです。)
いわゆる「自然」と「人工」というのは(★)、そのように常にお互いを補完しあっているのあって、バランスをとっているのではない。砂が落ちきったら、ひっくり返してあげないといけない。また反対側の要素のものを入れてあげないといけない。そうしないと時間は止まってしまう。

どちらを基本に見ていったほうがいいか、というと、基本的には「自然」を中心に見たほうがよい。「人工」は「安定」の要素が強いから、いつのまにか巻き込まれてしまって、砂時計をひっくり返すことを忘れてしまうようになるから。
私たちの身体自身が、実感ではわからないが、常に変化しているから、「人工」にあんまり偏りすぎると少し無理がでてくる。
歳をとることに対して、現代社会の世界中の多くのところでネガティブなことだと考えられるのはそのせいでもあると思う。ある「一番良い状態」を想定しすぎなのだ。(☆)
現代では、変化に対応していくことに取り組みながら、時には振り返って安定を試みるくらいでちょうどよいのだと思う。


★ いわゆる「自然」と「人工」の定義については、おおまかにいうと「流動的」と「固定的」、「暫時的」と「普遍的(指向)」などとなります。またそのうち説明します。
ただし、大きな視点からみると全てが流動的であり固定的でもあると思うのですが、それを私は自然(じねん)とよんでいるのですが、それもまたそのうちに。

☆ ほかには、現代は「労働」などといったものにたいする機能中心主義であるためでもある。本来は、歳を取るにつれ様々なものに対する経験が豊かになっていくのだが、それが実際には簡単に「お金」を生み出すわけではないので、権力者にとっては使いにくいのだ。日本はバブル前まではそういった豊かさも価値として社会を形成していたが、だんだん無意識的になったのと、濫用する人が多くなりすぎた(ようするに歳が上なだけで威張り散らすような人とか)ので、崩壊したと考えられる。機能中心主義は、「男の欲望」を中心として、とくに女性に対しては未だかなり抑圧的に働いているように思う。

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