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2005年02月28日(月) 11時00分53秒

生きるための予備校

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
このブログのタイトルについて少し説明したいと思います。

臨床自然(じねん)研究所とは、僕がそのうち作りたいと思っている学校のようなものの名前です。

高校から大学までの一年、知識の詰め込みを一通り終えた人たちが、生きる方法、生きる理由などを勉強するためにくる(それまでの人生の)予備校のようなものを考えています。(年齢は問わないつもりでいますが。)
レクチャーと個人セッションを教育の方法の基本の柱としてやっていきたいと考えています。


私は一部詰め込み学習には賛成しています。
やはり世の中にはいろいろと知っておくと役に立つことがあるし、知っておいた方がいいことがいっぱいあります。
ある程度までは、詰め込み学習というのは必要だと考えています。
(ただし、詰め込み学習の必要性をきちんと説明できる場合において。)

問題は、すごく簡単にいえば、だれもそれと同時にそれを何のために使うか、なぜ使うか、どう使ったらよいかを(考えることすら)教えてくれない、ということです。

残念ながら、すべての学校において同時に詰め込み学習と生き方を実践するのは無理でしょう。プログラムである、詰め込み学習の方が生産性は圧倒的に高く簡単なので、どう考えても勢力が強くならざるを得ないのです。プログラムは評価も簡単です。プログラムに合うか合わないかだけが問題なのですから。

「ゆとり教育」がほとんど無意味に見えたのは、「放任」と「ありのまま」を殆ど人が取り違えているからです。
自発的に伸びる基盤もなく、伸びる力自体がすでに奪い去られている子供たちを放っておいても、なんの芽もでてくるはずがありません。コンクリートの上に種を巻いても、ごく一部のたくましい草を除いて、何の植物も芽を出しません。
ゆとりも、ある程度は教育しなければ生まれません。「教育」というのは情報を押し付けることではありません。教育とは、土を豊かにし、種が秘めている可能性が芽を出すように応援することです。

*尚、本当のゆとり教育を提供していた一部の学校のご関係者様にとっては、今回の「廃止」は非常に残念なことであったであろうとお察しいたします。めげずにがんばって続けてください。
2005年02月28日(月) 06時32分51秒

視点

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
世界というのは、抽象的なパターンからできている。
これは非常に前言語的なものである。

物事を見るとき、実際に表面で起こっていることから離れて、そこでどんな抽象的なパターンが発生しているか見ることは非常に大事なことである。
「現実」とされている断面では見えない本当の現実。
個人的にこれをユングは元型といったのだと思っている。

この抽象的なパターンは非常に主観的なものであることは忘れてはならない。傾向はあるにしても、ほかの人がある対象を関連つける方法は自分と異なるのだということを忘れてはいけない。
抽象的なパターンは、個々の知覚および経験によって関連つけられていく。
だからパターンから他人のを読み解こうという試みは、あくまで確率的にそうである可能性が高い、程度のことであると知らねばならない。とくに援助専門職の方は。

なぜ象徴的なパターンという視点を持つ必要があるのか?
簡単な例をあげよう。
「「難しいもの」を扱う」(A)、という状況にある人がいるとする。
この人は、自分が(A)という状況に陥ったとき、それが指先の技術的なことであっても、人間関係のことであったとしても、同じパターンの行動(B)をとる。(実際には、この人は、それらの状況を実際に(A)と認識しているかどうかを確認する繊細な作業がいるがここでは省略。)
(A)に対し、(B)というパターンを自分がとっていると気づくことが非常に大事なことであり、(A)>(X)というパターンを取れるようになったときに始めて、その人は大きく変わるし、物事は本当に変わる。{(X)は任意のパターン}

象徴的なパターンで物事を捉え、象徴的なパターンによって扱っていくことをしなければ、輪の中を走り続けるハムスターみたいに生きてしまうのである。
抜け出されることなく残ったパターンは、自分の子孫へと代々引き継がれていく。

非常に不思議なことではあるが、そうなのである。
まさに世界の神秘。

★★★注意★★★
念のために付け加えておくが、表面的な現実を見るな、といっているわけではない。「スピリチュアル」な文脈ではよく忘れられがちになるのだが、
すべては今ここで起こっている。
いくら象徴的なパターンを把握しても、それを今ここで作用させるための情報や技術は必要不可欠だ。
それは、どんなにいろいろなことを考えてはいても、問題に対して解決法を知っていても、英語圏では英語を知らなければなにもできないのと似ている。根本的なコミュニケーション技術を磨けば、英語がしゃべれなくてもコミュニケーションはよりとれるようになるが、それでもやっぱり最終的には英語は必要であることと同じだ。
しかし、順番としては情報や技術が必要な時は、象徴的なパターンに気づき、それから抜け出せる準備ができた後であることは間違いない。
2005年02月27日(日) 18時15分31秒

エゴから超エゴへ

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
エゴを突き詰めて考えていくと、自分が幸せになる原因というのは概ね他人という事になる。
他人を幸せにすることが自分を幸せにすることになる。

自分がなにをして欲しいか真剣に考えて、どうしたら他人がそれをしてくれるか考えれば、
他人に何かをしてあげたくなったとき、その人が自分に何をしてくれたからなのかを考えていけば、
おのずと答えは分かる。
これはちょっとだけ真剣に自分と向き合えばわかる、とても簡単なこと。

これが本当の共生の道である。
実際、人間以外の生物はこれをやっている。「共生」を「するため」にやっている生物は間違いなく、いない。
最終的には「エヴァ」と船井幸雄氏がいっている状態に行き着くのだが、エヴァを求めるのは逆説的だがエゴである。だから最初から「エヴァ」を求めるとうまくいかない。
エヴァは、エゴ突き詰めていってエゴを超えたところに、結果としてある。

「エヴァ」を「求める」のは、「平和」を求めて「戦う」のと根本的にはあまり変わりがない。
2005年02月24日(木) 18時22分15秒

「信じること」とは。

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
「信じること」には二つのものある。

一つは、あるものがそうであると「思っている」こと。
もう一つは、生きている、考えている、感じている前提となっていて、それがそうでないと疑ってもみないこと。

日本にはよく自分が無宗教だと言う人がよくいる。
でも、実は多くの人は、無宗教ではない。

例えば、何にも感じることなく、目の前にあるご飯をその辺に放り投げて足でぐちゃぐちゃに踏み潰すことができるだろうか?
できる人もいるのは、私も知っている。
しかし、その人も、本当に何にも感じなかっただろうか?

キリスト教圏の人はいとも簡単に、造作もなくやってのける。
なぜそのようなことをすることが何か特別なことであるのかもまったく分からない。
これはもちろん彼らがおかしい、ということではない。
これが「信じている」によって起こる感覚の違いである。頭で考えることでない。殆どの日本人は何か悪いことをしたような気がする。どうしても、どこかで、人によってしれぞれ違うにしても、してしまう。
日本人は要するに、雑にいうと、物には魂がある、と感じずにはいられないのである。
もちろん上の事例はほんの一部にしか過ぎない。
物(動植物を含め)を扱うとき、殆どの日本人はそれに対してなにかを感じずにはいられない。

この「信じること」が本当はとても大きいことである。
信じることは悪いことではない。でも、問題なのは、自分が何かを信じているのにも関わらず、それに気づかず、ほかのことを信じている人のことを非難することだ。
非難すれば、非難される。当たり前だ。その人がやっていることはファシズムとなんら変わりがない。

頭で考えていることを変えることは案外難しいことではない。
変えるのが困難なのは、この、体に染み付いた「当たり前」のその感覚そのものなのだということを知っておくといいと思う。
2005年02月24日(木) 17時40分37秒

リバーベンドの日記から

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
イラクから送られてくるブログがある。
それはバクダット在住の女性リバーベンドが、イラク国内ではアメリカを始めとした多国籍軍の侵略によって今や貴重になってしまった電気の使える週に数時間の間に、イラクの現状を報告しているブログだ。
http://www.geocities.jp/riverbendblog/

イラクでは、今回の選挙によって、再び女性の権利が剥奪される可能性は高まっているという。

一体、世界をこのようにならしめているものは何なんだろう?
世界が悲しみに満ちているのはなぜだろう?
なぜ、私たちはお互いの幸福を願い、それを叶えるために一緒に行動できないのだろう?
為政者が悪いか?
お金が悪いか?
宗教が悪いのか?
一体、誰が、何が、この混沌の原因なのだろう?


それは、私たちがそれを他人事と思っているからだ。
それは、私たちが、自分のなかの、社会のなかで迫害され、価値がないとされ、してはいけないとされ、それを認めることさえ許されない部分を、自分自身であるにも関わらず、守って、認めて、愛してあげることさえできないからだ。
人は自分のなかに他人の苦しみと同じものを見出すとき、始めて自分の問題であると感じる。
そして自分が、自分が行動しうるものを見出したとき、始めて行動するのだ。
私たち自身が、私たち自身と向かい合わない限り、世界の問題は永久に消えない。

あなたは、ニュースで世界や比較的近くの問題を目の当たりにしたとき、その中に自分の「ありたい」自分と、自分のそう「あるべきではない/ありたくない」自分を発見するだろう。
あなたは、本当の自分自身の一部を否定するために、他人を否定する。
あなたは生まれながらにそうであったあなたを拒絶するために、認めるのが怖いために、目を背ける。
世界のどこかで虐げられている人たち、もの達は、ついにはたった一人で、助けを得ることができず、力尽き、死に絶えるだろう。
死は物理的な死だけではない。精神的な死もある。

恐怖は続く。
恐怖は、次の的を探す。恐怖は、より安全に、クリーンになるため、何かを締め出すだろう。
最後に残った人は気づくかもしれない。私は自分を傷つけてきたのだと。自分を殺してきたのだと。
そして最終的に向かう先は、自己嫌悪の果てに、自殺しか残されていない。
死に逝く社会、死に逝く人々。
もしあなたが、あれの存在を認めさえしていたら、あれは死ななかったのに。あなたは死ぬ必要がなかったのに。

私たちは世界を見る必要はない。世界を嘆く必要はない。
私たち自身を、もう一度振り返ればいい。
私たち自身の、私たち自身が切り捨ててしまった、自分のなかの泣いている部分を、苦しんでいる部分を、自殺してしまった部分を、絶望の中で消えていった部分を、愛することさえできたら。

世界を平和にすることとは、
実はまず自分を愛することから始まるのだ。
そうでない限り、
どんな「良い/正しい」信念が世界を圧倒しても、
必ず自己破壊がはじまる。
2005年02月24日(木) 04時48分32秒

自然の法則 「変化すること」

テーマ:自然論-世界や人をもっと知りたい人へ
自然にはいくつか法則がある。
一つ目は、「世界・人間を含む全てのものは常に変わっている」ということだ。
日本人には言葉としては馴染みが深いが、実感でわかっている人がすくないし、ましてやそれにあわせて行動している人など極稀である。

法則自体に対しては、上の一言以上に説明することはできない。だれの目からしても明らかなはずだ。人間は唯一この「変化」に対抗しようとしている生物であるが。

人間は、変化が怖い。そして変化などないとよく信じ込もうとする。変化がないように努力しようとする。一見、変化をとめられたように思っても、それは結局、あまりに鈍感なため(というよりはおそらく見たくないため)見えていないに過ぎない。
人間は安定志向である。これに関して文句があるわけではない。自然に人間のなかに起こる安定志向は、もちろん非常にいい面があるが、忘れてはならないのは、それでも結局安定はほんの一瞬のものに過ぎない、ということだ。
同時にわかっている必要がある。

人間は身の回りにものをつくる。それは自然環境からすると非常に「固い」ものだ。固いものとは変化しにくいものを指すのであるが、人間の一生と言う尺度からみて変化しきるまでに時間がかかるというだけで、もちろん一刻一刻変わっている。コンクリート製の家だって、車だって、いつかはボロッとして、崩れかけてくるし、かたちも微妙に歪んでくる。ついには崩れて土に空気に、戻る。
人間は、実感として感じるには、変化に対して非常に短い感覚の尺度しかもっていないので、何十年もして何かの機会にふと、ああ私もこの家もずいぶん歳をとったものだ、、、などと気づくのである。
開花の超スピード映像をみて驚いたことなどないだろうか?開花はたいてい数時間で起こるにもかかわらず、花があんなに動きまわっているとは誰も感じないだろう。

変化は悪いわけではなく、劣化する、という意味では決してない。ここにもまた本質的な間違いがある。
変化は本来、ただ変化するだけであり、価値自体も一刻一刻変化する。
若いときには若いなりの良さがあり、悩みもあり、老人には老人なりの良さがあり、悩みがある。
若いときはよかった、という人がいる。(最近は20代でも言う。)でも良く考えてもらいたいが、それは本当に「若いとき」が理由だっただろうか?今と同じような程度で、将来や仕事や恋愛や健康に関して悩み、頭のなかはいっぱいではなかったか?
一面ではなく、全体として考えて欲しい。今、若いときより悩んでいる部分が多いが、若いときより悩んでいない部分のことは忘れていないか?若いころなら(将来があるから、若いから、自分に適当な言い訳をしてといって)拒絶できたが、今の自分は、自分で自分を放棄できることに縛り付けていないか?

変化の感覚を忘れないで欲しい。これは特に環境問題や医療の問題、社会の問題と結びついている。人はあるものがいつまでも使えると思い込み、目の前から消えるとなくなったと思い込む。
人間は今を解決するために、自分の未来を犠牲にする。
以前にも書いたが、未来のことは未来の視点を想像して考えなければならない。
変化は常に起こっているものだ、と理解しなければならない。

後に書くが、あなたの一挙手一投足は、人生に、世界に反映する。次の行動から、すごく余裕をもってできることだけでいいから、ほんの些細なことでも変化について感じる行動に変えて欲しいと思う。
2005年02月23日(水) 14時51分52秒

お経と変性意識

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
よく考えれば、お経というのはあのように唱える必要はない。
なぜ、ただ読むのではなく、あの独特の詠唱をするのだろう。

非常に高名なお坊さんのお経を聴くと、その声は倍音を発していることに気づく。
倍音については、詳しい説明はしないが、上下のオクターブの同音階の音が同時に出ているということをいう。

倍音は、さまざまな精神的(スピリチュアルな)伝統のなかで、変性意識状態に導くために利用されている。
変性意識または極端な意識状態(extreme states of consciousness)というのは、現代では「変な」状態や「おかしくなった」状態と思われているが、ほんの100年前までは普通、とくに宗教ではサムシンググレート(something great)や霊(スピリット)と交流するたまに不可欠な状態だった。
もちろんお酒も、変性意識状態へ導くものだ。だから神社に奉納される。意外と現代でも当たり前のことであるが、当たり前になってしまっているので気づかない。もちろん大麻も戦後GHQが実はなんの理由もなく禁止するまでは、神事の重要な役割を担っていた。

話がそれたが、お経というのは今では日本人はなんとなく聞き流しながら退屈だなあ、、と思うものになってしまっているが、本来は、お経の内容に、ではなく、唱えること自体にも、非常に大事な精神的な伝統がひそんでいたと気づいたのであった。
お経を唱えることが、唱えている僧が悟るためなのか、聴いている人を変性意識状態に導くことによって何かが起こることを目的としていたのか、それとも唱える者と聴くものが共にある意識的な場に入ることを目的としていたのかはわからない。
しかし、なかなか興味を惹くトピックであることは一部の人にとっては間違いない。



2005年02月21日(月) 20時16分41秒

心体論 2

テーマ:自然論-世界や人をもっと知りたい人へ
ちなみに思考と心(と呼ばれているもの)は別のものである。
思考と心の関係は「思考⇔心」であり、「思考<心」である。
要するに、
思考は心と相互作用をしてはいるが基本的には思考は心(体)の影響下にある。

現代の人々は、以上の関係があるにも関わらず、思考を中心として生き(ようとし)ているし、計画や生活を組み立て(ようとし)ている。
だからおかしくなる。
だからうまくいかない。
だから苦しくなる。
2005年02月21日(月) 19時19分33秒

心体論

テーマ:自然論-世界や人をもっと知りたい人へ
最近、心と体は繋がっているという意見もずいぶんと理解されてきたように思うが、実はそれはまだまだ間違っていて、心と体とは同じものの違う知覚による表象つまり顕れであって、心と体が「つながっている」のではない。僕はここでは仮にその同じものを「心体」と呼ぶ。

ちなみにそれはある程度は他人からも、見えるし感じられる。微細な感覚なのであまり意識的に明確に気づいている人はいないようですが。
下を向いている人が陰鬱に見える、とか、心の美しい人は美しく見える(「美しい」は相対的だとしても。)とかは実はそういうこと。
ただ、心体はその人の主観的なものから表現されるので、他人が他人の視点から明確に分析するのは無理(傾向はあるにしても)であることはくれぐれも忘れてはいけない。

体や心についてかなりの研究を重ねた人でも、体が心に影響を与え、心が体に影響を与えるのだとまだまだ思っている。「心=体」といってはいるが、本当の意味で僕のいう心体を考えている人は明らかにまだまだ少ない。「心⇔体」と考えている人がほとんど。

たとえば、脳内の分泌物がでると精神状態が変わるから、「体」つまり物質が「心」に影響をあたえているのか?
ポジティブに物事を考えると脳のある物質が分泌されるから「心」が先なのか?
それとも両方の相互作用があり得るのか?
姿勢がスッとなると、気持ちもすうっとするから「体」が先なのか?
気持ちがシャンとすると背筋も伸びるから「心」がやはり「体」にも現れるのか?

どれも間違っている。
「体の変化→心の変化」でもなく「心の変化→体の変化」でもなく「体の変化⇔心の変化」でもない。
心と体は別の物、と信じ込んでいる考えを少し脇に置いて眺めて見れば「体の変化=心の変化」であり、「体=心」であり、要するに「体」と呼ばれているものと「心」と呼ばれているものはもともとは切り離せない同一体であるのは明らかだとわかると思う。

だから、夢は身体を通して現れるし、身体の障害は精神を変化させる。
人間は現象可能な限りばらばらに分解して理解しようとすることによって、時には一見当たり前の何かを見失ってしまう。
2005年02月21日(月) 18時13分24秒

世界で一人のゲリラ戦

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
僕は生まれた時から変わっていた。
いつもみんなとは見ているものが違った。考えていることが、感じていることが違っていた。今でもそうだ。理由は、わからない。

友達もできた。でも、いつも違っていて、どこか離れていた。

みんなみたいに周りに合わせようともしてみた。でも、そんなことはできなかった。

自然(しぜん)を観察していたら、「お前は正しい。」と言われている気がした。人だけが、草木や動物や雲や月とかと違うように動いていた。

何度も自分の頭がおかしいのだと疑った。僕だけがおかしい。
でも、自然はいつも変わらなかった。支えてくれた。そこに、目の前に明らかに感じられる、その「何か」をいつも探し続けていた。

21歳のとき、初めて自分のことを受け入れてくれる人と出会った。心の深いところから、ほっ、としたのを覚えている。初めて本当に自分がいていいのだと感じたのだと思う。

あの「何か」を探してエコロジーを学び、あの「何か」を表現しようと思ってファッションデザインやアートを勉強したように今考えれば思う。
プロセスワークもその延長でやっている。(自分が感じていたあの「何か」を実際に臨床でやっている人がいる!!!と思った。)

24歳のとき、始めて自分と近いヤツにあった。そのときはわかんなかったけど、今になるとなんでそいつとそんなに仲がいいのかよくわかる。
そいつもあいかわらず闘い続けている。孤独な闘い。
でも、周りに似たようなやつもちらほらいる。出会ったのは大阪の変な学校だった。批判も多い学校だ。あそこが気に入っていた理由が今はわかる。
外でも世界を相手に闘っている人に出会った。楽しい時期だった。

25歳のとき、始めて僕のことを受け入れてくれて、楽しんでくれて、しかも好きになってくれる人に出会った。それから一緒に暮した。もう死んでもいい、と思った。その時は、やっぱり俺はバカなのか病気なのかと思ったけど、今は理由がよくわかる。
本当に安心したんだった。



よく言われる「居場所を見つける」というのは、こういうことなのかなと思う。自分のありのままを理解してくれる、又は、受け止めてくれる、愛してくれる「人」をみんな探しているのかもしれない。今の社会はきっとほとんどの人の自然(じねん)にとって、それを受け入れるようにはできていないから。
人は一人では弱い。誰かたった一人でも支えてくれたら、もっと闘えるのに。ありのままでいられるのに。

僕はいつも自然(しぜん)を観察している。時々、自分はやっぱりおかしいのかなと何度も思う。でも、自然を見ていたら、僕が思ったように感じたようにすることが本来当たり前なのだと、確信する。
人間の中には自然にわきあがってくる感情や、感覚や、考えや、夢がある。それがどこからきて、なぜそうなるのかはまだわからないし、きっとわからない。でも、人間の中には確かに自然に湧き上がってくる何かがある。

人が苦しんでいるのがわかる。僕にはそれが自然(じねん)に逆らっているのだと見える。それを助けたいと思う。
なぜ助けたいのか?
それは僕には当たり前に見えていたものを、現実に見たいからだと思う。
自分の感じていたことを確信したいのだと思う。
もちろん、幸せそうな人の顔を見ると嬉しくなるのもあるけれど。

今、ようやく探し求めていたあの「何か」を目の前で掴める様になったと自信が出てきた。

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