臨床自然学(りんしょうじねんがく)とは、自然というダイナミズムを臨床という現場でも体験、利用できるようことを目的とした学問・実践です。まだできていませんが。

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2005年09月04日(日) 10時06分34秒

移転です。

テーマ:全ての人へ
URLを変更しました。
今後はこちらへお願い致します。
http://jinengakukenkyujo.blog22.fc2.com/
2005年09月02日(金) 21時43分02秒

言葉というのは

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
言葉というのは、いうなれば生きているんです。
どういうことかっていうと、ずっとそのままでは使えないってこと。

言葉はある人とある人が話しているある場においてのみ、本当には有効なのです。
どんなことでも言葉にはできる、でもそれはその場においてのみ意味がある。
その場で起っていること、感じていること、伝わっていること、全て飲み込んで、意味は言葉を通して伝わっていくのです。

書かれた言葉は、内容が分かっている人にのみはじめて意味が伝わるもの。
でも、知っているけどわかってないこと、というのはいっぱいあるものなのです。だから書かれた言葉というのは、お互いに分かる人にとっては、とても大事なのです。それは時代を超えます。

殆どの人は、本を自分の読みたいように読んでいくんじゃないかな。
でも、本を本当に読み解こうとするならば、こうだ、と思ったコアに対して雑音を響かせない言葉がないかどうかを批判的に読んでいくのが良いと思っている。
もし、「あれ?これちょっと意味わからないな。。。」なんて文が出てきた時、それはあなたの感じていることは著者が感じていたこととは違うということです。
本当に伝わることなんてないのかもしれない。でも、それは誰も証明したことがないし、証明できないから、どうなのかは僕にはわかりません。
でも、その解釈のズレっていうことにもまた、様々な新しいものを生み出していく面白さがある。

言葉もまた「鏡」であり、読む人が今自分で必要としていて実は自分で知っていることを、改めて意識的に拾っていく道具にも成り得る。
だから語ることに意味があるのかと思うけれど、それがきっと素晴らしいことだと思うので、書いています。


言葉については、もちろん山ほどいろいろな理解があるだろうし、僕としてもいっぱい言いたいことがあるのだけれど、今はとりあえずふと言いたくなったことだけ。

2005年08月31日(水) 10時47分57秒

欲望と感謝

テーマ:自分への覚え書き

求めればどれだけ持っていてもキリがないということに気づく。


逆に手元を見れば、いくらでももっているということに気づくのである。

2005年08月31日(水) 05時23分01秒

宇宙の夢のお話

テーマ:自然論-世界や人をもっと知りたい人へ

僕のいう宇宙の夢、または単に夢、という言葉についてここで説明しておきたい。僕はこの言葉をよく使うから。

同じ内容を何度も繰り返し書く。それでなんとなく感じを掴んで頂けると嬉しい。


とても不思議なものだと思うのである。

ある他人の書庫を眺めると、僕がああこいつは大したことをいってないよ、と思ってる作家・思想家の本がずらりと並んでいるのである。

それだけならんでいると分かることは一つ。

ああ、彼らを好きになる一つの流れがある、と。


僕が、実はあまり大したことをいってないなあ、と思う人たちは、一見深層にふれているような話題に触れていながら頭で考えすぎで、そのために深みに足を踏み込むことがなかったであろう人たちだ。

彼らの理由はわからない。

深みが見えないのか、先にいくことを怖れているのか(そういう深みは大概にしてオカルトっぽくなるからだ。)、見えるけれど先に行く能力がないのか。

でも、それにしても、その先にまだまだ先がある可能性を考慮してかせずなのかはわからないが、わかっているような感じで書く態度がどうにも理解できないのだった。

しかし、そういう人ばかりに限ってある人は好きだ、凄いという。


こういうことってどんな物事にもある。

そういうとき、僕はあらかじめ存在しているその人たちの流れをみる。

他の言い方でいえば世界観、尺度、視点、タイプ。


僕はかれらは同じ宇宙の夢の一部なのだと思っている。

ある何かを成し遂げようと同じ方向に向かっている人々。たとえ肉体として誰かがいなくなったとしても、変わったとしても、その先を、同じ夢をみていた人がそれを継いでいくものだ。

歴史というのはそうやってできていく側面がどうしてもある。そのために、それは一時期「ミーム」と呼ばれたものであろうと思う。

あらかじめ存在しているようにしか考えられないある方向性。そこから何が発生してくるかはまだ見えない。でも繋がっているもの。創造されるものは、まだ無いが、見える人には見えている。すでにあるもの。


武術のお話。武術では良い師匠と出会うことも重要なことだといわれている。

では、どうやって何も知らない人が良い師匠を見つけることができるだろう?

だから、かなり多くの人は、ただやみくもに情報誌や他人の言葉から「良い」といわれている人のもとにゆき、ただ闇雲にその先生を信じ、練習するのであるが、

そういうとき、私たちはどこかで「強さ」「達人」などのイメージと会話をしている。

そして、微細ではあるのだが、常に確実に、あらゆる決断を迫られる瞬間瞬間にそのイメージは本人の判断に影響を与えている。

もちろんそのイメージは思い込みであることもある。しかし、ふと、鼻先をかすめる香りのように、ふわりと脳裏をよぎるなにか神話的なイメージがある。

それは消えるものではない。人は人生の中でつねにその像を追い求める。見失うと、というか拒否すると、その人はずっと心のどこかでそれを追い続けることとなる。

この像に正対して向き合い一歩でも近づこうとするとき、人は力を得る。


それは子供の時にみた夢である場合も多い。もちろん象徴的な像を借りているだろうが。

それは遠くに見える何か。

すごく身近でありながら、すごく遠いもの。


自分が、自分である夢に成りえた人は、幸せである。



では、それを何故僕は「宇宙の夢」と呼ぶのか。

それは、起る構造が、いわゆる普通の夢と非常にそっくりである(そしておそらく同じ)からだ。

ただ「宇宙の」というのには、根拠は無い。別に「地球の~」でも「神の~」でも構わないのだが、僕が「宇宙の~」と呼ぶのが好きなだけであることは断っておく。

この「夢」というのはイメージそのものではない。イメージはそれを生み出している「力」のその瞬間の写し身にしか過ぎない。人もまた然りである。ただ期間の長さに違いはある。

人や、また物自体というのは、ある瞬間における「夢」または「力」の像でしかない。そのときに可能であった結果でしかない。人やものというのは型であり、夢はそれに姿を映し、そして通り過ぎていく。

夢のなかの像は、その夢を作り出す力そのものではない。力には姿がない。

人やものというのは、ある独特のスペクトルをもった鏡のようなものでもあり、そこにその独自性がある。それぞれの反射可能なスペクトルによって、鏡は様々な姿かたちを映し出す。しかし、鏡の中の像は結局光でしかないように、その像自体なわけではない。


この「力」または「力動」こそが自然であり、「像」は結果である。

力に名前をつけてしまうことによって、それは名前という像を帯びてしまいそれ自体ではなくなってしまう。だから本当はなんと呼ぶこともできない。

だが、人間は結果しか感知できないから、それを、その「力」自体(こう書いている自体で矛盾しているが、便宜的に。)を知ることは出来ない。


僕らが見ている夢は、宇宙の夢であり、それはどこに向かおうとしているのか。

僕はそれにとても魅了されるのである。

2005年08月28日(日) 16時36分26秒

死の淵に立って

テーマ:自分への覚え書き
生と死の境界。
極限の、ギリギリの状態。
一つ間違えれば命を失う。
そんな瞬間に人はもっともエネルギーを発する。
その状態を美しいと思う。

僕はそんなところで仕事がしたい。
ギリギリのところ。

そしてそんな仕事が好きだ。
針の上のような限界点で、針の先のように繊細な研ぎ澄まされた感覚で作られたもの、行われる仕事。

僕が武術をやっているのはきっとそんなところに理由がある。
ギリギリの感覚。
本当はそれを望んでいるのだ。実戦の中での、一瞬が永遠にも感じる時間のなかで、極微細な決定が全てを決めるようなそんな瞬間。
興奮。

人はそういった自分という夢を生きるのだ。その夢を生きるときもっともエネルギーが生まれる。

その夢を僕は宇宙の夢と呼ぶ。それは「僕」という何かを通して顕在してこようとする夢。

人は生まれながらにして尺度を持っている。何かを評価する基準。人生を決める基準。
人はなぜか生まれながらにして判断基準をしっている。それはつまり、あらかじめ「知っている」ということに他ならない。
僕はそれをその人の夢、と呼ぶ。なぜなら、その基準の頂点とは、その人が成るべき所だからだ。
その尺度を持っている人は、自分以外にはどこにもいない。正確な意味では。
ただその頂点に行ける、またはその尺度が分かるのは、ただ自分をおいて他にいない。
なぜ、どこからその尺度は現れたのだろう?

それは「美」または「真実」、「夢」、「成功」、「善」と様々な言葉で呼ばれるだろう。
そしてそれはその人に最も力を与えているものであるはずだ。


僕は、生と死の境界にいて、そこで全力で命を燃やしているそんな人たちと会い、そんな人たちのために仕事をしたいと思う。
そしてそんな仕事をするだろう。

2005年07月24日(日) 11時29分52秒

臨床自然学研究所 再開

テーマ:全ての人へ

韓氏意拳との出会いにより、プロセスワークを通してわかりかけていた自然とは何かという問いについに答えを得ることができました。

これを機にほんの少しの変更ですが、こブログを臨床自然学研究室として開設したいと思います。

時をみて、具体的な空間を持つことになると思います。

僕である一つの夢はいよいよ具体的な形を持ち始めたのだということをこのブログのタイトルを変えることによってみなさんにお伝えしたかったのです。


自然それ自体は、私たちは永久に認識することはできません。私たちが認識することができるものは常に結果でしかありません。

自然というのは、ある方向へのまとまりをもった可能性であり、無限の可能性であります。

この世界、私たちが体験するものは、すべて必然の糸が偶然にからまりあった結果であり、それぞれの現象は必然でありながら偶然です。

それがいかにありのままの可能性により近いものであるかはいかに活き活きとしているか、ストレスがないか、のびやかであるかによって認識することができるのはないかと考えています。

あらゆる結果自体は悪いとか良いというものではないのですが、それは偶然の絡みの中でいわゆる社会的、環境的に自己・他者破壊的になることがあります。そのときは結果からもう一度自然の流れに戻り、新しい結果を作り出すことが大事だと思います。

それゆえにプロセスワークでは「問題・紛争」からワークをはじめることにならざるを得ない、ということになるのでしょう。


自然のまま、というのには、自然農法の福岡正則さんが「ありのまま」と「放任」という言葉を使って誤解を説明されておられました。

「放任」というのは今起こっている結果をそのままにすることであり、「ありのまま」というのはその可能性の流れの強い方向に沿うことです。ある状態がストレスを持っているとき、それを放任してしまうのは自己・他社破壊的悪循環への道へとはいっていくことです。

他人と自分とは別であり同じであるのですから、他人をストレスの中に放っておくことは、自分を破壊していくこととなんら変わりはありません。

それはより大きな流れの一つでもあります。人というのは個人であるという錯覚の中で暮らしていますが、それは「意識」と呼ばれるあまりに矮小なものを信じ過ぎているからです。「意識」はとても有用ですが、しかし「意識」で認識できるものはいわゆる現実からあまりにも小さいとわかっておく必要があるのではないかと思います。

人間は呼吸をすることすら意識によってはコントロールできないのですから。

自分がどのように息をしているか観察してみてください。意識がそこに向いた瞬間、その瞬間に呼吸の仕方は変化するはずです。

「意識」というのは諸刃の剣のようなものです。そのこと自体はどうすることもできませんが、そうであると知ってほしいと思います。


これから少しずつ、実践のなかでいかに効率よく自然となれるかを研究していきたいと思っています。

後、自然について絵本を書こうと思っています。





2005年07月21日(木) 12時50分42秒

韓氏意拳

テーマ:全ての人へ

おひさしぶりです。先日、京都で、意拳のもっとも原型に近いといわれる韓氏意拳を習い、感銘を受けました。

プロセスワークの他に、これほど「自然」という力動を体験できるものはないのではないかと思うほど、衝撃的な体験でした。この体験が僕のプロセスワークへ及ぼす影響はとても大きいものと思います。

武術もここに極まれり、という感じです。


単純な動きの中に、自ずと生起する動き、それを求める武術といえるのではないかと思います。

か弱くあまりに繊細でありながら、それがありのままに起こったとき発生する驚くほどの力を感じることができる武術です。(韓氏意拳では武学と呼んでいるようです。)

武術をやっていてよかったな、と思う体験でした。古武術研究家の甲野氏が自分の今までやってきたことを見つめなおさなければならなかったほど衝撃を受けたのもよくわかりました。


また時間ができたら続きを書きます。



2005年06月28日(火) 17時39分03秒

将来のことを考える

テーマ:自分への覚え書き
歳をとったなあ、と思う。
純粋に肉体的と数字的な話だ。
精神的にはますます自由になっている。
これからどうなっていくのだろう。

プロセスワークセンターを卒業したらどうしようかな、と考える。
その頃には31か32くらいかな。どこかの大学で博士課程をとろうか。
自由でいたい。学位などで武装するために、数年も棒に振りたくない。
僕が探しているものは実践的な技術と経験、それ以外の何物でもない。博士号など何でもない。
このままプロセスワーク関係者としてやっていくもよいだろう。いずれもっと有名になるのだから。
お金はどうやって稼ごう。一度お金持ちになってみたい。でも、時間に束縛されたくないから、なんとか今のペースでやりながらお金をもっと稼ぐ方法を考えなければならない。

本を出版したい。でもそれには本当の技術と体験が必要だ。誰かの為ではない、お金の為でもない、名声のためでもない、自分のために出版するのだ。そして十分なお金とある程度評価してもらいたい。そんな欲望を押さえ込むつもりもない。僕が通るべき道だ。

そんなことができるのか?
不安になる。
でもいつも未来は今ここにある。
未来はいつも決まっている。僕らはただ歩み出すだけだ。未来には平行した未来がいっぱいあるけれど、それはもう決まっているのだ。今ここで。
ただ今をしっかり生きよう。過去と今と未来はいつもここにある。
これは他人から借用した言葉でも、頭で言っているだけの言葉でもない。しっかりと感じる。

世界や私というはの結局、この閃きでしかないのだ。それは本当は「今ここ」でもない。それは便宜上の言葉に過ぎない。
この経験という瞬間。それだけが本当に在るものなのだ。この瞬間がいかなる深みを持っていたとしても、そうなのだ。
今ここに繋がっているように感じるもの。それはこの瞬間の沿革に過ぎない。よく観察するとそれは端っこの方に向けてだんだん薄れていくのがわかる。そう、それっきりなのだ。

この感覚をこれからの一時帰国の際に忘れないようにできるだろうか?
これは小さな挑戦だ。
でも、きっと大丈夫に違いないのだ。

2005年06月27日(月) 18時09分56秒

「身体障害者」の人と話して

テーマ:自分への覚え書き
コンタクトインプロビゼーションをやっていると、「身体障害者」(Different Ability と言いたいのだが、日本語でなんと訳されているのかわからないので、この言葉を使います。)の人と会う機会も多く。そこからいろいろなことを学ぶ。

ある人と話していたら、どこかで声の小ささ(声が出せないので)や咳をしなければならないのでその聞き取りにくさにイライラ、またはわかるまで何度も繰り返し言ってもらうことに申し訳なく思っている自分に気づく。

でも、それは自分の問題なのであって、彼らの問題ではないし、ましてや彼らが「障害者」ではないということに気づく。
僕はその人とコミュニケーションをとっているのであって、なぜその人のコミュニケーションに合わせることができないのだろう?(もちろん「障害者」と呼ばれる相手は何倍も僕のコミュニケーションスタイルに合わせる努力をしている。)
問題は僕自身だった。

イライラするのは、僕がある話のテンポを勝手に想像しているからだし、何か焦っているからだ。
繰り返してもらうことへの悪気は、自分が繰り返して言うことを何度も要求されるとき、恥ずかしさを感じるからだ。(声が小さいのがまるで悪いことのように感じているから。)
僕はそんな自分の世界のなかで相手とコミュニケーションした気になっていたのだろう。でも、そこに本当の相手はいない。

コミュニケーションとは、ある意味できっと、今その瞬間に二人または多数の人の間で起っていることを大事にすることに違いない。それはただの情報のやりとりではないし、ただ話しをするためでもない。
コミュニケーション自体が大事なのだと思う。
僕は人とコミュニケーションすることはあまり得意ではないので、こういうことは気づかなかった。案外分かっている人というのは多いに違いない。
大事なのは、相手ともっとコミュニケートしたいという気持ち。なんとしてでも相手をもっと知りたいという気持ち。

今まで、「相手をもっと知りたい」という言葉に対して、否定的な反応をしていた。他人のことなど分かるはずがない、と。でも、それはいいのだ。そういうことこそが問題ではないのだ。コミュニケーションとは、場であり、気持ちなのだ。「相手をもっと知る」とは、相手の存在にもっと触れるということなのであって、情報を知ることではない。

個人的には大きな問題のとっかかりが出来たように思う。
出会いに感謝。

2005年06月27日(月) 18時07分11秒

コミュニケーションへの意志

テーマ:自分への覚え書き
アメリカに来て、英語や文化差で随分苦労しているのだが、結局人と人を繋ぐきっかけになるものは、技術そのものより「コミュニケーションしたい。」という意志なのだろうと思った。

意志がなければ歩み寄りもできぬ。


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