こんにちは。祇場駿矢です。

 

前回の続きで、さっそく「悟り」とは何なのかについて説明します。

 

 

 

「悟り」とは、

 

「世界を知り、自分を知ること」です。

 

自分の外側と内側ですね。

 

でも、自分にとっての外側というのは「自分が考えたり、感じたり、思っていること」なわけです。

 

だから、結局、「悟り」とは「自分を知ること」となります。

 

自分のことは一番わからないなどと言いますが、実際にはそれ以上にまったくわかっていないと考えた方が適切でしょう。

 

「盲人と象」の寓話のとおり、私たちはわかったつもりになっているだけで、自分のこと、ひいては、世界についてまったく知らないのです。

 

普通に生きている状態とは、自分(と世界)についてよく知らず幻想に浸っているような状態、つまり、眠っているに等しい状態です。

 

自分を知ることは、幻想から目覚めること、すなわち、「悟りに通じる道」なのです。

 

別の言葉で言うと、まだ知らない自分とは潜在意識のことです。

 

「悟り」とは、潜在意識に(顕在)意識の光を当てるということです。

 

「悟り」が進むと、心の深い部分までどんどん意識できるようになっていきます。

 

他人や物事についての見方が広がり、片方だけでなく両面をフラットに見ることができます。

 

これができると、自分の物差しでいい悪いを判断して、感情的に反応したり、不適切な行動をとることがなくなります。

 

いつもこころ穏やかに落ち着いていて、的確な選択ができれば、人が幸せになるのは当然でしょう。

 

また、心の深い部分、魂と言われる領域まで意識できる範囲が広がります。

 

いつも自分の魂の声が聞けて、自分が生まれた目的に沿った行動ができたら、自分の中心軸が定まり、迷わずに生きられるのはこれも自然ですね。

 

 

 

では、なぜ多くの人にとって、潜在意識に意識の光を当てるのがむずかしく、潜在意識は潜在したままなのでしょう。

 

それはひとえにあるもののせいです。

 

そのあるものとは「痛み」です。

 

痛みを感じたくがために、多くの真実を都合の悪いこととして意識することなく潜在化しているというわけです。

 

「痛みのために見ない(見えない)ことにしている」なんて、信じられないかもしれません。

 

しかし、評価の基準となる価値観は自分そのものと強固に結びついています。反対サイドを認めることは、自分そのものの存在価値を否定されたかのような強い痛みを引き起こすのです。

 

例をあげましょう。

 

戦争は絶対に悪だと思っている人がいるとします。

 

こういう人は戦争のデメリットしか見ていません。

 

すべてのものはメリット、デメリットが均衡し、バランスしているのが例外のない宇宙法則です。

 

つまり、戦争にも、その人にとってのメリットは必ず存在します。

 

しかし、戦争を悪として憎んでいるような人の場合、そのメリットを認識することは非常な苦しみを伴います。

 

まるで自分そのものを否定されたかのように。

 

痛みが記憶を潜在意識下に追いやる例は他にもあります。

 

大きな事件や事故による強い衝撃で記憶を失うようなケースです。

 

実際には、これは特定の人に限った話ではなく、ほとんどすべての人に当てはまります。

 

この世に生まれるという体験がまさにそうだからです。

 

出生は、人の一生で最も大きな環境の変化であり、激しい痛みを伴うものです。女性の産みの苦しみの2倍という話をある本で読みました。

 

そのため、誕生時の記憶を持っている人は稀なのです。いえ、記憶そのものはあるのですが、潜在意識下に抑圧されていて思い出せないのです。

 

さらに、強い痛みを伴う経験はトラウマとなり、同じような状況下で痛みを引き起こします。

 

たとえば、自分は愛されていないと感じるような状況ではトラウマが反応し、物事をありのままに見えなくしてしまいます。

 

つまり、この場合は、自分は愛されているという見方もできるという可能性を閉ざしてしまうのです。

 

 

 

「悟り」とは「自分を知る」という極めてシンプルなことにもかかわらず、心の強い痛みのために多くの人にとって簡単ではないという、屈折した構造があるのです。

このブログのタイトルにある最高の自分とは、「悟り」、悟った自分をイメージしています。

 

最高の自分を生きるとは、悟った自分として生きるということです。

 

悟った自分は、どんな環境にあっても、こころ穏やかで幸せに満ち、自分で自分に思い込みによる制限を課すことはありません。

 

やりたいことをやりたいだけ、すべて自己一致した状態で成していきます。

 

それでいて、周りの人といさかいになることはありません。

 

なぜなら、自分は他人であり、他人は自分である、自他一体を体現しているからです。

 

多くの人がそんな風に生きていける世の中になったらいいなと思っています。

 

 

 

ところで、上記からもわかるように、ここでいう「悟り」はゴールではありません。

 

それは多くの人が抱きがちな誤解です。

 

悟りは一生をかけて進んでいくプロセスであり、「道」そのものです。

 

現代にありがちな目的がすべてという考え方からは、決してたどり着けないなら無意味という短絡的結論が出そうですが、そうではありません。

 

道を歩くことそのものに意味があるのです。

 

「悟り」とは、ブッダやイエスが達成した特別な境地のことでもありますが、そこに至るかどうかは実はどうでもいいことです。

 

特定の状態に執着することは、むしろ道を逸れることにつながります。

 

悟りへの道は自分を高め、成長させる道です。

 

と同時に、本当の意味での幸せに向かう道でもあります。

 

本当の意味とは、自分の心にある一番の根っこの部分、つまり、魂が望む幸せということです。

 

ですから、万人共通の幸せの道なわけです。

 

言い換えれば、誰一人として、悟りへの道が関係ないという人はいないということです。

 

情報が溢れ返り、誰もが進むべき道を見出せず、将来の不安に頭を抱える現代にこそ、開かれるべき王道と言えるでしょう。

 

 

 

とはいえ、悟りへの道というと、出家して厳しい戒律を守りながら修行に明け暮れるというイメージがあるかもしれません。

 

山野を身一つで駆け回ったり、滝に打たれたり、静寂の中でひたすら座禅を組んだり。

 

そんなこと、会社に勤めたり、都会で暮らしながら、できっこないじゃないかと。

 

実はそれこそ、悟りに関するもう一つの誤解です。

 

現代の悟りの道は、戒律や修行とは無縁です。

 

要求されるのは、「自分と向き合うこと」、ただその一点です。

 

簡単なことでしょう?

 

でも、その簡単なこと、できる人はほとんどいません。

 

それには理由があります。

 

その理由とそもそも「悟り」とはなんなのか、を合わせて次回お伝えしようと思います。

 

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