スーパー・ギドク・マンダラ

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スーパー・ギドク・マンダラ


 キム・ギドク監督の最新作『絶対の愛』の公開を記念して、日本初公開となる『ワイルド・アニマル』、『リアル・フィクション』を含む11作品が《スーパー・ギドク・マンダラ》と題して、渋谷のユーロスペースで2月24日~3月16日にわたって公開されている。監督第1回作品『鰐』を除く全作品が上映されることになったわけだが、これは、快挙というしかない。映画文化はエンターテインメントとアートの両輪がバランス良く回ることで発展していく。最近の日本はエンターテインメントに傾きすぎている部分もあったが、このような企画がキッチリと開催されることは、世界の先進国でも東京くらいのものであり、誇っていいと思う。日劇文化、新宿文化のATGから始まる、日本のアート系単館上映の約40年にわたる歴史はダテではない。監督の母国、韓国でこのようなイヴェントは現在のところ成立しないであろう。そういう意味では、韓国でも、元気さばかりでなく、映画文化の成熟を期待したい。一方、日本は築き上げてきたこの文化が衰退しないよう、次世代に継承しなければならない。ということで、この“一挙上映”には多くの方々が劇場に足を運ぶことを期待したい。
 キム・ギドク監督は、04年にキネマ旬報社と韓国のシネ21とで、全州(チョンジュ)国際映画祭のときに行った、《日韓若手クリエーター・ワークショップ》のとき、石井聰亙 監督と共に講師として参加していただいた。ギドク監督は若い映画人たちに対して、その作風、風貌とは裏腹に、センシティヴに、優しく丁寧に、そして熱く語りかけていた。その後の打ち上げの宴席でも、自らすすんで回りの人たちの杯に酒をつぎでまわるなどの気配りをする人だった。苦労を重ねてきた人の優しさが滲みでていた。若き日の苦しい放浪時代の体験が、彼の作品の登場人物の激しさ、哀しさ、優しさとして現われ、見る人の心を惹きつけるのだろう。
 2月24日(土)の『ワイルド・アニマル』のレイト・ショー公開の前に、歓迎パーティーと舞台挨拶がおこなわれた。パーティーには映画監督の崔洋一 監督をはじめ、多くの友人、ファンがつめかけた。ギドク監督は、何故いつもキャップをかぶっているのかという質問に、苦労時代の思い出を語りながら目に涙を浮かべるほど熱心にかたり、その優しい人柄を偲ばせた。
 以下、パーティー、舞台挨拶の一部を紹介します。


『絶対の愛』はどういうことがきっかけで作りましたか ?


「スペインのサン・セバスチャン映画祭に行ったときに、ある外国映画を見ました。その映画には二人の女優さんが出ていたのですが、その二人がそっくりなので、どっちがどっちだか分からなくなって、混乱してしまったことがありました。それを考えているときに、こういったイメージで映画を作ったらどうかと思いました。つまり、似たような顔の二人が出てくるんですけど、誰が誰だか、どっちがどっちか分からないような、そういう映画を撮ってみたらどうかと思いつきました」

『ワイルド・アニマル』は映画監督になる前にフランスで絵を描いたりしながら放浪していた時代がありましたが、そのフランスで撮影した作品です。この撮影のときにはどんな思い出がありますか。
「この映画は、1990年ころ、私がフランスへ、ほとんど物乞い同然で行ったときに、辛い経験もあったのですが、そういった中で私が目にしたものをひとつの映画にまとめたものです。そして、この映画を撮ろうと思った目的は3つあります。ひとつは南の問題、韓国側の問題ですね。もう一つは北、北朝鮮側の問題、そしてもう一つは韓国内で捨てられて誰も引き取り手がなくて、養子として外国に出される養子縁組の問題があるんですが、その3つのことを描きたいと思いました。出てくる主人公は、1人は韓国を離れてフランスで画家として生活を人と、それから北を脱出してフランスの外国人部隊に入ろうとする人、もう1人は、さっきの3番目の問題、養子縁組のようなかたちで海外に引き取られて、そこでストリップ・ガールをしている3人の人物を描こうと思いました。そして90年のころは今と状況が違ってまして、南と北、南北は近づけない間柄にありまして、お互いが憎しみあうような、まさに緊張した関係にありました。そういう状況の中で、わたしがフランスのパリという場所を選んで、まったく朝鮮半島にある、そのどちらの国でもない、まったく違った都市から朝鮮半島を眺めて、お互いを和解させたいという、そういう気持ちが強かったです。キャラクターもそういったことを踏まえまして、南の方のキャラクターは資本主義に毒されてしまった、詐欺師のようなキャラクターとして登場させまして、北のほう人物は、心は純粋なんですけれども、暴力を使ってのし上がっていく、マフィアのような感じの、そういうキャラクターにしまして、その両者を衝突させようとしました。私の2作目にあたり『ワイルド・アニマル』はパク・チャヌク監督が撮られました『JSA』という映画の低予算版だと思っていただければいいかと思います(笑)。この映画を撮ったときは、いろんなことがあって、たくさんの思い出が残っているんですが、最も記憶に残っているのは、ストリップ・ショウに出ているような人たちが生活しているような町で撮影していたんですが、パリの警察から、ここでは撮るなと言われたんですね。でも、こっちとしては、死んでも撮るといって、イザコザがあったことを覚えています。パリの警察官が拳銃を突きつけて(拳銃を突きつけるジェスチュアをいれる)、早くここから立ち去れ、ここでは撮ってはいけないと言われました。そういうふうに警察から脅しが入ったものですから、私も言い返したんですね。フランスは芸術の国なのに何故映画を撮ってはいけないのかと、コブシで壁を本気で10回くらい叩きました。右のコブシのフシブシが太くなってしまったのですが、そういうふうに自分の気持ちを表したので、警察は30分だけ撮影して帰れといわれました。そう言われたので、30分のあいだに5つのシーンを撮ったんですね。カットでいいますと20カットくらい撮りまして、撤収しました。だから映画は、ちょっととりとめのない、ちょっとまとまりのないように見えるかもしれません。しかし、そうは言っても、私が伝えたいと思っていたことは、この映画の中で生きていると思いますので、どうか皆さん楽しんでごらんください」



この映画にはドニー・ラバンとリシャール・ボーランジェといったフランスの名優が出ていますが、どういったいきさつで出ることになったのですか ?



「わたしもフランスに初めて映画を撮りにいったかたちなので、二人をキャスティングしたいと思っていたのですが、無理だと思っていました。ですから、その二人に私のデビュー作の『鰐』という作品をヴィデオで見せたんですね。その二人は私の1作目の『鰐』を見て出演を決めてくれました。ですから、今でも、その二人には感謝しています」
「『鰐』という映画が公開されたときには、それほどたくさんの方が見てくれたわけではないんですが、見てくれた人はかなり衝撃を受けたようです。当時『鰐』という映画が世に出たときに、評論家の方、100人いたら二人くらいが支持してくれた、そういう状況でした。その『鰐』以降、私の作る映画は危険な映画だという烙印を押されたようなそういう感じになっていました。その後『悪い女~青い門~』、『魚と寝る女』、『悪い男』と、こういう映画が出てからは、完全に悪い監督というように言われてました。『悪い男』が出たころになりますと、もうこれ以上わたしの映画に関心を見せないというような人がたくさんいました。さきほど言いました『鰐』を支持してくれた二人の評論家のうち、ひとりは《シネ21》という映画雑誌の、その後、編集長になった人(ナム・ドンチョル)、もうひとりは韓国の著名な映画評論家のチョン・ソンイルさんという方でした。その二人は私の作った13本の映画すべてを支持してくれていますし、次の作品も期待して待ってくれています。私はその二人に映画を作るのを辞めろと言われたら辞めるつもりです。とにかく、この『ワイルド・アニマル』という作品は私にとって重要な作品であり、私なりの愛国心がこめられている映画です。私は皆さんとお話しがしたくて、ちょっと話しが長くなってしまいました。映画がつまらなくても許してください。『ワイルド・アニマル』があったから、今日の自分があると、皆さん心にとめておいてください。思ったよりは悪くない映画だと思います。ありがとうございました」



いつもキャップをかぶっていることについて?



「昔、わたしが仕事がなかったころ、そして自分自身に自信が持てなかったころ、そういう時期があったんですね。具体的にいうと、いまから20年くらい前の1987~1988年ころ、そのころは全てにおいて自信が持てなくて、仕事がないので、道端で絵を描いていたんですね。似顔絵を描くような仕事をしていたんですが、それが恥ずかしかったんです。俯きかげんに絵を描いていても、ときどき自分のことを分かる人がいたんですね。そして、自分のことを気付かれたくないと、思いから、ホントはかぶりたくなかったんですけど、気付かれたくないという思いからかぶるようになって、2年とか3年過ぎていったんですね。今、映画監督になってわたしの顔に気付いてもいいんですけど、当時のコンプレックスが残っていて、未だに帽子を脱げなくなっているんですね。当時は、あの人は道端で似顔絵を描いている人なんだよとよく言われまして、それが、まるで人生に失敗したように皆さんが口々に話していたので、それが劣等感になってしまった。それを半分でもいいから自分を隠したい、自分の劣等感を隠したいという意味もあって、かぶっているうちに、それがやがて習慣となって、脱いでもいいんですけど、未だにかぶるようになっています。
 実は、こういった話しを公の前でするのは初めてなんです。なぜ、帽子をかぶっているんですかというのはよく訊かれます。10年くらいこの仕事についていて、100回くらい訊かれたんですが、今の自分の心情を告白したのは本当に初めてのことです。100くらい訊かれるたびに、日差しがイヤ目に入って眩しいからと嘘をついてきたんです。でも、正直に言いますと、劣等感を隠すために帽子をかぶっていました。こういった話しも、やっと正直に言えるようになった気がします」
ここまで話すと、監督は目に涙が溢れそうになっていた。









崔洋一 監督(左)




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市民による映画館“カーテンコール”がオープン


昨年の11月福岡県の久留米大学で開催された、“地方発の映画”のシンポジウムに招かれた。久留米は瀬木直貴監督の「千年火」と、新作「卒業写真」を応援するなど地方発信の映画作りに力を注いでいる。そのシンポジウムで、閉館した映画館を、NPOを設立(現在準備中)して、新たに市民による映画館として再生しようとする有志の方々と会った。NPO任意団体、カーテンコール設立準備室の代表、金子盛司さんをはじめとする方々だ。久留米市にはかつて映画館が11館あったが、東映、松竹会館などが次々と閉館し、昨年の7月にスカラ座1,2がクローズして、成人映画の久留米スバル座を除いて映画館はすべてが閉館してしまった。現在は久留米市郊外のシネコン、T・ジョイがある。
久留米の都心部では大型スーパーのダイエーが3店舗閉店し、中心部の商店街には空き店舗が目立つという。これは久留米に限ったことではなく、地方都市で普通に見ることのできる風景である。そこで、金子さんたちは、地方都市の映像文化を守ろうと立ち上がった。スカラ座1,2をそのまま借り受け、市民による映画館として運営し、3月21日(祝)にオープンを予定している。シネコンではなかなか上映されないミニ・シアター系の作品や、良質な作品でもすぐに打ち切られた作品を上映していきたいという。また、落語、シンポジウム、朝市などのイヴェントも企画し、市民のコミュニティの場としても活用していく。さらに託児所や介護師をつけた企画上映も計画している。昨年は邦洋あわせて821(邦417、洋404)本の映画が公開されたが、その多くは地方では上映されない。シネコンでは拡大公開作品か、ミニ・シアター公開のなかで特にヒットした作品しか公開されない。上映機会を求めるミニ・シアター系の製作者、配給会社といった発信者や、様々な映画と出会いたいファンである受信者にとって、この試みは喜ばしいことである。地方都市の駅前商店街に空き店舗が並んでいる風景は珍しくないと書いたが、久留米スカラ座が成功すれば、追随する町も増えるはずだ。その意味では、ぜひとも成功してほしい。しかし、現実はそんなに簡単にはいかないだろう。応援しておきながら、ひとこと言いたくなるのが私の悪いクセなのだが、東京でも苦戦する作品が多いミニ・シアター系の映画を久留米で上映するからには、たいへんな覚悟が必要だ。
NPO法人が運営する映画館としては、埼玉県、深谷市の《NPO法人市民シアター・エフ》が運営する“深谷シネマ”が成功している。この劇場は、代表の竹石研二氏をはじめとする関係者の映画館に注ぐ無私ともいえる情熱と地元住民の暖かい応援に支えられている。しかも、この劇場は座席数50という、扱いやすい規模でもある。一方、久留米スカラ座1は270席、2は250席という、どうどうたる映画館である。しかし、大は小を兼ねるということもあり、このスペースを活かした工夫をひねり出してほしい。
昨年のスクリーン数は3062となり、ついに3000を超えた。3000スクリーンあったのは1971年のことであり、その当時、映画人口は2億5000万人だった。しかし、その当時、3000スクリーンのうち、かなりの数の名画座が存在した。この時代に大学生だった私は、年間200本ほどは名画座で映画を見た。名画座がなければ今日の私はなかったとさえ言えると思う。しかし、現在の3000スクリーンの75%はシネコンである。多様な映画文化とシネコンは相容れないところが多い。だからこそ、スカラ座には何としても成功して欲しい。
久留米スカラ座の詳細は下記の通りである。ぜひ、みなさんも応援してほしい。


活動施設 スカラ座1、スカラ座2
所在地 福岡県久留米市東町22-34 
    都心部商店街ほとめき通り(西鉄久留米駅より徒歩3分)
会館予定日 平成19年3月21日(祝)
NPO任意団体、カーテンコール設立準備室(久留米市中央町20-13-205)
代表:金子盛司
副代表:小路賢司
技術責任者:福島英治

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