ちょこボラ!しよう

「ちょこボラ」とは、「ちょこっとボランティアする」こと。今すぐ簡単にはじめられる「ちょこボラ」の数々を紹介します。


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先日、『玄牝』という映画について書きましたが、
なんとその直後に、実際の出産現場に立ち会うという
きわめて貴重な体験を得ることができました。

このかけがえのないチャンスをくれたのは、
40代で初産を迎える私の友人。
「ぜひ出産に立ち会わせて」
という私のずうずうしいお願いを快く受け入れてくれました。
まずなにより、
この友人に心からのお礼を伝えたいと思います。
ありがとう。本当にありがとう。


゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

友人の場合、陣痛よりも前に「破水」がやってきました。
漏れ出た量はわずかでしたが、だいじをとって即、入院。
夜中に知らせを受けた私は、朝いちで病院にかけつけることを友人に伝え、
興奮冷めやらぬまままんじりとした一夜を過ごし、翌朝5時に家を出ました。

そして午前7時前、病院に到着。
朝ご飯を食べ終えたあと助産師の検診があり、

「破水が始まったら48時間以内には出産をしなければいけない。
点滴による陣痛促進剤を使用したいので、OKであれば同意書にサインを」

赤ちゃんの生命の安全と妊婦の年齢を考慮して、友人が同意書にサイン。
抗生剤などを投与したのち、午前11時すぎころから陣痛促進剤の投与が開始されました。


「うぅぅぅ、イタくなってきた。始まったかなあ」

投与開始から30分もしないうちに、あきらかに陣痛とわかる痛みが。
インターバルは5分程度。
ふつうに話すことはできるけれど、
やってくる痛みがしだいしだいに強くなってくる様子。

気を紛らわすために話しかけたほうがいいか?
それとも、枕元にいるとかえってジャマか?
病室を出たり入ったりしつつ、もどかしく見守る時間がすぎてゆく。


その後、投与量が増やされてじょじょに陣痛がすすみ、
午後2時。ほとんど口がきけないほど苦しい状態に。
寝返りをうったり体勢をかえたりしながら、
波のようにひいてはおしよせる痛みを、
妊婦は必死に受けとめます。
この痛みとつき合っていくコツは、
痛みにあわせてできるだけ長くゆっくりと、
吐き出す呼吸に意識を集中すること。

「そう上手。痛みをうまく逃しているわよ」

友人は助産婦さんにそうほめられていましたが、本人の苦しみはそうとうなもの。
こんなときに「がんばれ」はあまりに陳腐だけれど、
小声でくり返し「がんばれ」とささやくしかできない。
神様、どうかママと赤ちゃんを守り給え。


その後、陣痛のあいまに2度の診察をうけ、
午後5時をむかえるころ、とうとう分娩台にあがることに。
個人的な経験からすると、
「もう少し赤ちゃんがおりてくるのを待ってもいいのではないか?」
とも感じましたが、
自分のときとちがい、友人の場合はすでに破水している状態。
一刻も早く赤ちゃんを出したほうがよいと、病院側では判断したのでしょう。
分娩には数人の助産婦が物々しく立ち会い、
担当医がやってくるあいだ、
子宮口に手を入れてようすをみたり呼吸法をアドバイスしたりしています。

そして担当医がやってくると、
いよいよ始まりました。

「吸引」と「腹部圧迫」。

『玄牝』のなかに登場した妊婦さんが「とてもこわかった」という吸引と圧迫。

じっさいどのようなことをするのかというと、
何らかの薬剤を投与しながら陰部に器具を差し込み、
子宮が収縮するタイミングでお腹をぐぐーっと圧しながら吸引のスイッチを入れ、
赤ちゃんを人為的に引っ張り出します。

分娩というよりは、施術に近い行為。
現場に満ちている緊張感も、
まさに「医療」の世界を感じさせます。

なるほど。
「こわかった」という意見にも、深くうなずけるものがある。
「母子の安全確保」ための処置として否定はしないけれど、
妊婦に対して恐怖や不安を与えかねない処置であると、
少なくとも私にはそう感じられました。
(とはいうものの、友人の場合苦しみと戦うのに必死で、
恐怖や不安を感じることはなかったようです。
誰もが「こわい思いをする」ということではないのです)

結局、赤ちゃんがなかなか出てくることができなかったため、
急きょ、帝王切開に。
それを聞かされた友人は一瞬驚いていましたが、
まさかこの場で悠長に迷っていられるはずもなく、
ダンナさんが同意書にすばやくサインをし、
妊婦は分娩室から手術室へ。
あとはもう本当に、ひたすら元気に生まれてくれるのをまつのみ。

それから30分後、
元気な赤ちゃんの泣き声が、手術室の外まで響いてきました。

おおおおーっ! 生まれた生まれた!

泣き声が聞こえてからさらにまつこと15分、
体重約2800グラムのかわいい男の子とご対面することができました。
肺に羊水が入ってしまい、やや呼吸が弱めでしたが、
チューブで吸引されると「ギャア、ギャア!」と元気に抵抗。
よし、これならきっと大丈夫。

術後の処置を終えて赤ちゃんとご対面した友人は、

「かわいい、かわいい」

としみじみ喜びをかみしめていました。虹


゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆


陣痛開始からおよそ8時間あまり。
本当におつかれさまでした。

ずっとずっとほしかった赤ちゃんが生まれて、
本当の本当におめでとう。

「帝王切開になっちゃって、感動のご対面ができなくなっちゃってゴメン」

だなんて、どうかそんなこと気にしないで。
本当にもう、じゅうぶんすぎるくらい、感動的でした!

結局、ママと赤ちゃんがすこやかで問題なければ、
自然分娩かどうかなんて関係ない。
「医療」としての分娩を経験できたのは、
自分にとってはむしろ大きな勉強になったと思います。

重ね重ね、この貴重な体験をくれたことに、
こころから感謝します。

どうもありがとう。

*☆*:;;;:*☆*:;;;:





























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遅ればせながら、河瀬直美監督作品『玄牝』を観てまいりました。

本作品の舞台は、愛知県岡崎市にある産院・吉村医院。
ここでは、妊婦たちが家事や炊事をこなしながら、
医院に併設された古民家で共同生活を送っています。

木々の生い茂る豊かな環境では、
「水も空気もさぞかしおいしいにちがいない」とは思うものの、
タイムスリップしたかのような重厚な古民家や、
薪割りやぞうきんがけに精を出す妊婦さんたちのすがたは、
一見すると、特殊な思想にもとづいた何らかのコミュニティのようにも感じられます。
「閉鎖的でいや~な感じ」はさほど受けませんでしたが、
そこはかとない「敷居の高さ」は、否めない。
出産に「こだわり」を求める人や、
「自然分娩」に対して思い入れの強い女性がやってくるのだろうか?
あるいは、現代文明に否定的な人々が集うているのだろうか?
だとしたら、ちょっとひいてしまうなあ……。
正直にいうと、はじめのうちはそんな先入観もありました。

しかし、登場する妊婦さんたちの言葉を聞くうちに、
みんなが「こだわり」などという表面的なものではなく、
きわめてシンプルな出産を求めてにここを訪れたということが、
しみいるように理解することができます。
「自然分娩」を求めてやってくるというより、
しばしば病院で行なわれる「不自然な分娩」に対して、
違和感や不信感を抱いてやってきていることもわかります。

たとえば、

「第一子を出産したときに、病院で陣痛促進剤を打たれ、
吸引をされ、お腹を圧された。自分のことが大事で、
子どもをかわいいと思えなかった」

「病院はこわい。照明もにおいも分娩台も、
何だかこわくて落ち着かない」

たしかに、病院には緊張を強いる雰囲気があります。
「母子の生命を最優先」にするがために、
快・不快をおざなりにした「最善」の処置がとられることもあります。
「陣痛促進剤も吸引も、命を救うがための当然の処置」
という見方を否定するわけではありませんが、
処置の過程で妊婦に過剰な不安や恐怖を与えることは、
決して「しかたがない」ですまされることではない。

「母子の生命を救う」ということだけでなく、
「出産という行為がいかに繊細なものであるか」ということを、
私たちはあらためて考え直してみる必要があるのかもしれません。

じつをいうと、私自身、助産院での出産でした。
「病院はイヤ。助産院がいい」と考えていたわけではなく、
たまたま、近所に住んでいた出産したばかりの女性に
「いい助産院があるよ」
と教えてもらい足を運んだのがきっかけ。
吉村医院のような「古民家」ではありませんでしたが、
昭和の昔なつかしい「おばあちゃんの家」といったたたずまいの助産院です。

分娩する部屋は畳と床ばり。
小さな庭と縁側があって、
ときどき近所のネコちゃんたちがのぞきにやってくる。

陣痛のあいだ「う~ん、う~ん」と唸りながら畳の上でゴロゴロしたり、
かけつけた義母に「ラクにしてな」と腰をマッサージしてもらったり、
「徹夜続きでくたびれた~」と言いながら医院長がそばで添い寝してくれたり、
(医院長はもちろん女性です)
いざ分娩のとき、
「楽な姿勢をとっていいよ。音楽をかけようか?」
と助産婦さんが声をかけて和ませてくれたり。

出産をコワいとも苦痛だとも思わず、
むしろ幸せな体験で何度でも妊娠・出産したいとさえ思えたのは、
おそらくこの助産院で、リラックスして出産することができたおかげ。
その後の子育てが楽しくてしかたがなかったのも、
この助産院で出産したからではないかとすら感じられるほどです。

これはおそらく、「助産院で自然分娩」をしたからではなく、
家族や周囲からの支えを得て、
そこはかとない「祝福」に包まれて出産ができたからではないか。
この映画をみて、もう10年も前にさかのぼる自分自身の出産が、
今さらながらに思い出されます。

この映画では、死産してしまった妊婦さんや、
出産をひかえた妻を残して夫が家出してしまうというシーンも登場します。

もちろん、どちらも本物、実話。
作り物ではない、圧倒的な重みがあります。

「赤ちゃんをかき出さず、できるだけ自然に下りてくるのを待ちたい」
死産を告白した女性がつぶやく場面は、
本人の姿は映らず声だけが流れていましたが、
声の背後には、その場にいた人々の声にならない共感、
深い悲しみに満ちた静寂がありました。

病院ではかなえられることのない「死を悼む、静謐で厳かな共感」が、
吉村医院にはたしかにあるのかもしれません。












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夕方からの勉強会。
寒いし、暗いし、テンション下がるな~ダウン

……なぁんて、思わずヨワネをはいてしまいましたが、
勉強会の第二回目も、がんばって勉強してきましたゾ電車

この日は「印刷や出版の歴史」から始まり、
日本の出版流通システムや、
電子書籍を含めた最近の書籍事情について学びました。

たとえば日本の出版の大きな特徴。それは、

1.再販制度
2.委託制度

1の再販制度は、カンタンにいえば、
小売店(書店)は作り手(出版社)が定めた「定価」で販売せよ、というルール。
通常の品物は小売店が任意に価格を設定することができますが、
本やCDなどは出版社が定めた「定価」で販売するのが基本。
「この本は定価じゃ売れそうにないから、
値段を大幅に下げて叩き売りしてしまえ!」
とならないのは、この再販制度があるおかげです。

2の委託制度は、小売店(書店)が版元(出版社)に返品できるというルール。
本は通常、出版社→取次店→書店というルートで出回りますが、
「この本、仕入れてみたけどどうも売れそうにないな」
と書店さんが判断した場合、3カ月以内であれば、
出版社に返品することができます。
この制度のせいで、
「売るための努力」よりも「売れそうにないなら返してしまえ」
という風潮が強まっているともいわれますが、
そうはいっても売れるものを仕入れないことには商売成り立たないのだから、
いたしかたないですよね。……いたしかたない。

つまり、編集者やライターにとってだいじなのは、
「売れそうにないから返してしまえ」
と思われないような本をつくること。あるいは、
「売りがいがある!」
と感じてもらえるような本をつくること。

「儲かりゃイイ」ということとはちがうのですが、
一目見て、手に取って開いてみて、

「何だかワクワクする!」
「これ、いいネ!」

と感じてもらえるものを目指すべき。
重要なのは、
「読んでくれる人のことを考える」
ということなのですよね。女の子男の子




















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陰鬱な北国の冬。
身も心も滅入りそうな灰色の街。
映画『海炭市叙景』は、
そんな「わびしさ」「むなしさ」に包まれた架空の都市で展開されます。

全編をつうじて、太陽のあたたかさを感じられるシーンはいっさいなし。
冒頭で登場する元旦の日の出のシーンさえ、どこかしら寒々しく感じられます。
この作品は最初から最後まで、
これでもかというくらい「凍てついている」のです。

しかし、にもかかわらず、なんだろう、このなつかしいかんじ。
私は北国の生まれではないけれど、
この凍てついた作品になつかしいぬくもりを感じずにはいられません。
どんよりと曇った空、重く冷たい空気に、
やるせなくも落ち着きを感じてしまう。
日本の気候風土と何かしら関係があるのでしょうか?

展開される物語もたいへんに陰鬱です。

仕事を解雇されて絶望する兄妹。
宅地開発のなかで立ち退きを迫られる老婆。
冷えきった家庭で一人孤独に悩むプラネタリウムの職員。
仕事も家庭もうまくいかず暴力的にふるまう若社長。
寂れゆく故郷にも自分の人生にも希望を見いだせずにいる若い男。

みな悩み絶望し、思い通りにいかない人生を抱え、往生しているばかり。
「きっといいこともあるさ」という救いもいっさいみられません。
ここまで救いがない映画というのもめずらしい。
あまりの救いのなさに
「クラくてやだなあ。こういうのは好きじゃないよ」
と目を背けたい感想をもつ人も少なくないかもしれません。

でも。

この映画には、そんな救いのない現実をていねいに掬いとり、
突き放すことなく見守る「視線」を感じます。
絶望しているか否かにかかわらず、
いっしょうけんめいに生きよう、生きていきたいと願っている人ならば必ず共感を抱くであろう、
「それでも人は生きていくのだ」というメッセージを受け取ることができます。
そう、はかなげに見える物語の奥には、
「そうやって生きていく君が、たしかにここにいるではないか」
というはげましのようなものが感じられるのです。

救いがないシーンやエピソードばかりなのに、
なぜそんなはげましが感じられるのか?

それはおそらく、この作品にやどっている「リアリティ」です。
『海炭市叙景』は、作品の舞台のモデルとなった街・函館の市民たちの協力なくしてはあり得なかった映画だといいます。エキストラとして数多くの市民が参加しているだけでなく、プロの役者たちにまじって素人の人も重要な役を演じています。素人役者さんのなかには、「え? 本当に素人なの?」という存在感を放っている人もいる。「この映画だけのために役者になった役者さん」が何人かいるのです。これは、考えてみればたいへんにぜいたく、きわめて新鮮な現象ではないでしょうか。

素人が参加すれば作品の質が落ちるのではないか、と思うかもしれませんが、
この作品ではむしろ函館市民の参加によって、
ノンフィクションのようなリアリティが生み出されています。
そのリアリティが、作品にあたたかい魂を吹き込んでいるのです。

リアリティを与えているのは素人の役者さんの存在だけではありません。
市内を走る古めかしい市電、寂れたプラネタリウム、
決して美人とはいえないスナックの女の人たち、
飾り気も素っ気もないプロパンガス事務所、
小さなブラウン管テレビとこたつが置かれた雑然とした室内。
スクリーンに映しだされるこれでもかというほどの匂いたつ生活臭が、
この救いのない物語に力強さを与えているのです。

作品では谷村美月、小林薫、南果歩、加瀬亮、村上淳など有名な役者さんが出演していますが、
彼らも、地元の人みたいになっています。いい意味で存在感を消しています。
おそらく、こういう映画で芝居を演じるのはもっともむずかしいはず。
ヘンに目立てば、作品の流れをこわしてしまう。
さりとて印象に残らなければ役者としての意味がない。
本物の役者さんというのは、こういう映画でこそ才能を発揮するものなのかもしれません。

泣いて笑って多いに感動したい。
映画にそういうものを求める人にはおすすめできませんが、
これはおそらく、世界に通用するすばらしい映画です。
DVDではなく、映画館に足を運んで見るべき映画です。
観賞後の余韻をだいじにしたい映画です。
こういう映画をつくってくれた製作者のみなさん、
そして函館市民のみなさんに心からありがとうを言いたいです。

……でも、ひとつだけ、ごめんなさい。
映画もすばらしかったけれど、
ごめんなさい、作品の「原作」にはかないませんでした。

佐藤泰志が書いた小説『海炭市叙景』。
たぶん、ここ十数年のなかで、個人的にはベストワンです。
次回は、小説『海炭市叙景』の話をしたいと思います。









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今週から、出版関連のセミナー(勉強会)に参加しはじめました。メモ
これまでは手探りと自己流、ほとんど勢いだけででお仕事をしてきましたが、
今後の人生を充実させるためにも、
ここらでちょっと立ち止まって、
自分が経験したこと、試行錯誤してきたことをまとめてみようかなと。

昨日の教室では、「そもそも本とはなにか」ということについて考えました。
歴史をふりかえれば、紙でできた巻物状のものからはじまって冊子のかたちへ。
そして現在では、紙を使用しない電子書籍が登場しました。

電子書籍はとてもお手軽。
紙のほんより安いし、持ち歩くのも便利。
まだ購入したことはありませんが、
音楽や映像をリンクできる「リッチコンテンツ」もあると聞けば、
本の可能性が広がることを、期待せずにはいられません。

でも、その一方でまだまだ紙の本に強い愛着を感じるのも事実。
おはずかしながら、私は本好きな子どもではありませんでしたが、
本の「匂い」が大好きでした。
新しい教科書を配られると、本文に顔をちかづけて匂いをかぎ、
「ああ~いい匂い。憂鬱な新学期の唯一の楽しみ」音譜
と思っていました。
本を傷つけないようにと、ごていねいに紙とビニールを使ったお手製のカバーもつけていました。
書き込みをするのもページを折るのもぜったいにイヤだったので、
教科書は1年たっても新品同様の美しさ。
私にとって教科書や本は勉強をするものではなくきれいに保存しておくものだったのです。

本の担う重要な役割のひとつに、「情報を伝える」ことがあげられます。
本は匂いをかいだりきれいに保存しておくためのものではなく、
そこに書かれた文章、文章を介して伝えられる情報を吸収するもの。
本とは本来、そういうものだといわれます。

「書き込んだり、折ったりして使ってこその本。きれいに扱うなど言語道断!」

そんな専門家の意見を参考に、思いきり本にラインや書き込みなどしてみると、
なるほど、これも悪くない。
本を食べているような、まさに吸収しているような一体感をおぼえます。
そこに書かれていることが自分のものになっていく。
心のなかが満たされているような気持ちになります。

でも、それはそれとして、やっぱり本はていねいに扱いたい。
本のもつ質感や手触りをそこはかとなく楽しみたい。
手に入れた本は捨てたくないし古本に出すのもなんかイヤ。
意味のない執着かもしれませんが、
本に対するこういう感覚って、
電子書籍にはない紙の本ならではの魅力ですよね。

今後、電子書籍の発達に伴って紙の本は少なくなるでしょう。
10万部、100万部のベストセラーのほとんどは電子書籍のみになると思います。
紙の本はせいぜい数千部程度のものに限られてくると私は考えていますが、
この「数千部程度の紙の本」はきっと末永く生き残っていくはず。

匂いをかいでページを捲る。

役立つ情報を運ぶのではなく、
温もりという価値をもたらすものとしての紙の本は、
決してなくなることはないと思うのです。本








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あけましておめでとうございます!
ちょこボラ情報や体験談をゆるゆると発信しております本ブログを、
今年もどうかよろしくお願いいたします。

鏡餅


お正月休みに、一冊の本を読みました。
ALSという難病をテーマにしたノンフィクション。
大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した話題作です。

本書は、ALSを患った女性とその娘さんの闘病の記録ですが、
心にもっとも刻まれたのは闘病生活そのものよりも、
本書前半部で描かれる母に対する娘の葛藤。

「家族に迷惑をかけるよりも美しく死んでゆきたい」
と語っていた母親が、病が悪化するにつれて
「どんな状態になっても生きていたい」
と本音をあらわにし、生への飽くなき執着を見せるようになっていく。

著者である娘は、悩みとまどいながらも、
愛してやまない母の望みにこたえるべく、
自分の夫や子どもよりも母の世話を優先し、
母との闘病生活に身を投じる。

これは壮絶なる親子愛か、はたまた呪縛か。

「母と子どものどちらかを選べ」
といわれたら、迷わず子どもをとる自分ですが、
著者の選択を愚かであるとは思いません。
共感できるか否かは別として、
闘病をつうじて著者自身が人生をつかみとってゆくさまは、
人間の強さ、底力を感じさせてくれるからです。

『逝かない体』、一読をおすすめしたい一冊です。本

逝かない身体―ALS的日常を生きる (シリーズケアをひらく)/川口 有美子

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