雨夜花
『望春風』と並ぶ台湾の名曲。薄幸な女性の運命を雨の夜に咲く花に喩えた切ない歌詞とが人々の心の琴線に触れます。台湾ではその物悲しくも美しいメロディーからお別れ(葬式)の場でもしばしば演奏されるほど民衆に根付いており、ある人はこれはまさに台湾人の悲哀を表した歌だとも評しています。日本語版もあるのでよく日台間の交流会でも歌われています。
雨夜花 u ia hoe ~雨の夜の花
(1934年) 周 添旺 詞 鄧 雨賢 曲
u ia hoe u ia hoe
一、 雨夜花 雨夜花
雨夜の花 雨夜の花
siu hong ho chhoe-loh te
受風雨 吹落地
風雨に吹かれて地に落ちる
bo lang khoaN-kiN mi-jit oan-chheh
無人 看見 暝日 怨嗟
振り返ってくれる人もなく日夜怨めしい
hoe sia loh tho' put chai hoe
花謝 落土 不再回
花は枯れて地に落ち再び返らない
hoe loh tho' hoe loh tho'
二、 花落土 花落土
花は地に落ち 花は地に落ち
u siaN lang thang khoaN-ko'
有誰人 通看顧
誰が顧みてくれようか
bo cheng hong-ho' go' gun chian-to'
無情 風雨 誤阮 前途
無情な風雨が私の前途を誤らせる
hoe-lui tiau-loh beh ju ho
花蕊 凋落 欲如何
花が枯れ落ちるのをどうすればいい
ho' bo cheng ho' bo cheng
三、 雨無情 雨無情
雨は無情 雨は無情
bo siuN gun e chian-teng
無想 阮的 前程
私の行く手を思ってはくれない
peng bo khoaN-ko' loan-jiok sim-seng
並無 看顧 軟弱 心性
もろくなった心も顧みてくれない
ho' gun chian-to' sit kong-beng
乎阮 前途 失光明
私は前途の光を失った
ho'-chui tih ho'-chui tih
四、 雨水滴 雨水滴
雨水が滴る 雨水が滴る
in gun jip-siu lan ti
引阮 入受 難池
私を受難の池に誘い込む
choaN-iuN ho' gun li hioh li ki
怎樣 乎阮 離葉 離枝
なぜ私を葉や枝から離すのか
eng-oan bo lang thang khoaN-kiN
永遠 無人 通看見
永遠に振り返ってくれる人はいない
『雨夜花』は『望春風』と並んで台湾人にもっとも親しまれている歌ですが、この二つの内容を比べると、同じ台湾の代表曲でも雰囲気が陰と陽とで対照的なことがわかり興味深いと思います。
一九三四年、周添旺が二十四歳の時、新作『月夜愁』の売れ行きがよかったため、彼は日本人柏野正次郎が設立したコロムビアレコードの招聘を受け、仕事上の関係でよくバーやスナックまがいの店に出入りしていました。そこで偶然一人の憐れなホステスに出会い、彼女は自分の身の上話を彼に語ったといいます。この田舎の少女は同郷の少年と知り合ったが、少年が台北に出稼ぎに行ったきり三年もまったく音信がなかったので、彼女はそれを仕方なく黙認し、機会を見つけて台北まで少年を探しに行った。しかし彼はすでにほかの女性と結婚していて、少女は故郷にも帰るに帰れず、台北の街をさまよい、生活を追われ、ホステスに成り下がるしかなかったといいます。
雨の夜にこの女性の話を聞いた周添旺は深く心を打たれ、この女性の境遇を詞にして鄧雨賢が曲をつけてこの『雨夜花』が完成しました。その哀愁を誘う叙情的な歌詞とメロディは、人間のはかない一生を連想させるからなのか、台湾では道教式のお葬式で、アメージンググレイスなどとともにラッパで演奏されていました。中にはこの歌は台湾の歴史的な姿を歌っているという人もおり、みなそれぞれに何かの姿に重ね合わせてこの歌を感じるのでしょう。
作曲者の鄧雨賢(1906~1944)は、日本統治時代に優れた作品を数多く残しただけでなく、レコード文化を通じて芸術と大衆をより近い関係に導こうと努力した人物です。日本による台湾統治が始まって、西洋の音楽が台湾にも入り込んできました。しかし当時の台湾の音楽水準は低く、また西洋音楽を鑑賞するのは一部の特権階級の人々と限られていました。しかもいきなり西洋音楽の普及だけを推進しても大衆には受け入れられずに音楽から離れてしまうと考えた鄧雨賢は、元からある台湾音楽の旋律を改作し、歌詞を改善するようなことから始めなければならないと考えました。つまり鄧雨賢は、西洋文化がつぎつぎに台湾に流れ込んでこようとする時点で、西洋文化崇拝の傾向に警鐘を鳴らし、郷土文化を発展させてこそ大衆にとっての芸術理解が深まると気付いていたのです。
そんな希望を抱いていた鄧雨賢でしたが、戦況はしだいに厳しくなり、皇民化運動が始まると、既存の台湾の曲に戦争への士気を煽る内容の日本語の歌詞をつける方法がとられました。『雨夜花』は『誉れの軍夫』(下記参照)、『月夜愁』は『軍夫の妻』のように、本来の歌の雰囲気とは全く違う歌詞がつけられ日本人歌手によって歌われました。そしてとうとう鄧雨賢自身も日本軍の圧力の下、「唐崎夜雨」という筆名でこのような時局歌を作曲せざるをえない状況となってしまうのです。『郷土部隊の勇士から』、『月のコロンス』などがその代表作です。偽名を使い、自分の同胞が強制的に戦場へ送られ犠牲になる戦争のための行進曲を書くことは、当時台湾で音楽に従事する者にとって最大の悲哀であり、屈辱であり、無力を感じた時であったと思います。鄧雨賢の息子の鄧仁輔氏によると、それらの歌は海外に出兵させられた軍属の気持ちを慰めたとはいえ、彼の気持ちはこの上なく沈んでいたようです。ちなみにこの2曲は戦後それぞれ、『媽媽我也真勇健』、『月光海辺』となって歌詞も新たに再び流行しました。作詞者の「愁人」は実は歌手の文夏でした。
雨の夜の花 (日本語) 西条八十 訳詞
一、雨の降る夜に咲いてる花は
濡れて揺られて ほろほろ落ちる
二、紅がにじんで 紫ぬれて
風のまにまに ほろほろ落ちる
三、明日はこの雨 やむかもしれぬ
散るをいそぐな 可愛い花よ
四、雨に咲く花 しんからいとし
君を待つ夜を ほろほろ落ちる
誉れの軍夫 (時局歌) 栗原 白也 詞
一、赤い襷に 誉れの軍夫
うれし僕等は 日本の男
二、君にささげた 男の命
何で惜しかろ 御国の為に
三、進む敵陣 ひらめく御旗
運べ弾丸 続けよ戦友(とも)よく
四、寒い露営の 夜は更けわたり
夢に通うは 可愛い坊や
五、花と散るなら 桜の花よ
父は召されて 誉れの軍夫
実はこの『雨夜花』は歌曲版のほかに、物語版もあります。『雨夜花』の売れ行きがかなりよかったため、周添旺は『雨夜花』の脚本作りに取りかかり、当時大変有名な「辯士」、すなわち映画解説員であった詹天馬によって、ストーリーを音楽や効果音にのせ、二枚組のレコードとして完成させました。物語の内容は以下のようになっています:
台湾南部の田舎に英蘭という名の少女がいた。英蘭の恋人美榮は彼女の元を離れて台北に出稼ぎに行ったが、三年間まったく音信不通である。英蘭は台北に美榮を探しに行こうとするが、母親にこのことを話すと、母親は、台北というところは大都会で行ってもただ傷ついて悲しみが増すだけだから行くのはおよし、と彼女を止めた。しかし英蘭の決心はすでに固く、その日の晩夜行列車で台北へ向かった。
田舎の少女が初めて大都会台北にたどり着いたところで、当然そこには知人もいなければ土地にも不案内である。ましてやものすごい人ごみの中で美榮の行方はまったくわからず、生活を追われ、英蘭はやむを得ずホステスとして身を置くことになった。
ある日、英蘭はふと『雨夜花』の歌を耳にすると、その歌詞から自分の境遇を思い、思わず涙を流すのであった。するとそばにいた客が不思議に思い、尋ねると、英蘭は自分がホステスになったいきさつを語り出した。すると、なんとこの客が偶然にも美榮の友人で、三日以内に必ず美榮を彼女のところへ連れて来てくれるというのだった。しかし、日は一日一日と過ぎて行くが、愛しい人の姿は現れない。まさかあの客がからかって口から出任せを言ったのではないか。それ以来、英蘭は毎日酒を飲んで気を紛らわすようになった。
大雨の降るある晩、ひどく酔っ払った英蘭はバーを飛び出すと向かってきた車にはねられてしまう。病院に運ばれて目を覚ますと、そこには朝な夕な思いこがれていた美榮の姿が。英蘭は夢を見ているのではないかと思った。美榮は、英蘭がバーで働いていることを知ったその夜、バーの入り口をうろうろしていたが彼女に会わす顔がないので中に入れずにいたことを話した。自分の愛していた男性にすでに妻子がいることを知った英蘭は傷ついた。しかしそんな美榮を彼女は少しも責めることなく、ただ「おめでとう」と一言つぶやくのだった。英蘭は再び夜行列車に乗り、辛い思い出のつまった台北を後にし、故郷に帰って行った。






