世間では、「金があればなんでもできる」とか言われたり、
「お金をとるか?愛をとるか?」が究極の選択として扱われたりしますよね?
でも、お金なんて大したことないと思うのです。
本気です。強がってる訳でもないし、奇麗事を言っている訳でもありません。
小難しい話になりますが、お付き合いのほどヨロピコです。
まず、お金が存在しなかった大昔のことから考えてみます。
人々は、動物や植物を獲り、その日に食べ、その日暮らしの生活をするのが精一杯でした。
しかし、人は、時が経つと、徐々に知恵(技術)を身につけていくものです。
獲った食料を保存したり、農耕により、食料を蓄えることが可能になりました。
食料の蓄えができることにより、自分達の飢餓の不安は解消されましたが、周辺に住む飢餓状態の者(村)からは、その蓄えが狙われるようになります。
食料がなく餓死するよりも、他人が蓄えた食料があれば、それを獲得しようとするのは自然の流れです。
そこには、法律、倫理、道徳なんて存在しなかったのですから。
蓄えた食料を獲得すべく争いが生じ、多くの命も犠牲になったことでしょう。
これは大昔に限ったことでなく、今現在だって、(食料ではなく)利権を争っての戦争はありますよね。
このように戦争は自然の流れだとも考えられますが、絶対に反対なのは強く主張しておきまする。
しかし、他方では、蓄えた食糧を友好的に獲得しようとする試みもなされたはずです。
太古人A 「俺、今、食料ないから、お前の食料分けてよ。お前が食料ない時には、俺の食料分けるから」
太古人B 「今度食料を分けてくれる約束の証をくれよ」
太古人A 「じゃぁ、約束の証として、この珍しい色の石なんてどう?他にはないぜ」
太古人B 「これは珍しい!じゃあ、今度食料を分けてくれたら、この石を返すことにするよ」
かなり妄想入ってますが、この珍しい色の石がお金の原点だったというのは事実と遠からじだと思うのです。
太古人Bは、機転を利かせて、「太古人Aから食料もらえる証である石と、太古人Cのカッコイイ虎柄着物とを交換したい」と思ったかもしれませんし、形こそ違えど、まさにお金と同じ価値と言えます。
ここでは、太古人Bが本当に必要としているもの(真のニーズ)は、珍しい色の石(お金)ではなく、困ったときの食料であったり、カッコイイ虎柄着物であることを考慮すべきです。
つまり、人が生活する上で、真のニーズは、「お金」ではなく、「お金を使って獲得しようとするもの」と言えます。
恐らくは、「お金があるから将来が安心なのだ」と考える方が多いでしょう。
でも、その場合であっても、真のニーズはお金ではなく、お金を使って獲得するもの(サービス)にあるはずです。
例えば、老後の生活を送る上での、食料、住宅、医療サービス、介護サービスなどでしょうか。
これらなら、国が社会保障を充実させることで得ることができますし、それにより将来が安心できます。
「お金」のみならず、「愛」だの、「戦争」だの、「将来の安心」だの、大風呂敷を広げ、散らかしたままですが、結論です。
お金が大事なのではなく、お金を使って得ようとする対象が、本当に求めているものであり、重要なのです。
このように我おもふ、故に金つかふ ・・・ なんちゃってw