以前から疑問に思っていたことがあった。


それは「なぜ日本に、そしてなぜ広島に原爆が落ちたのか?」という疑問であった。


世田谷徒然日記-h7


この疑問に対する1つの回答を、今回の広島訪問で知ることができた。これで全て疑問が解けたともいえないであろうが、すくなくとも理由の1つが分かった。


まず、第1の疑問、「なぜ日本に原爆が落ちたのか?」「なぜアメリカは、同じ対戦国のナチスドイツには原爆を投下しないで、日本に対しては、広島、長崎と2個も原爆を落としたのか?」という素朴な疑問であるが、原爆ドームを見た後訪問した広島平和祈念資料館で、そこで解説を伺い、いままでもやもや抱き続けてきた疑問が少し氷解した。


世田谷徒然日記-h8


以前は、ナチスドイツに原爆を投下しなかった理由は、「欧米人であるドイツ人とアジア人である日本人への対応の違い」、「アメリカには多くのドイツ系アメリカ人が居た事情」等、一種の人種差別意識がその判断の根底にあったのではと思っていたのであるが、それを全面否定するかはともかく、どうやらそれ以外にもっと具体的で明確な理由があったようである。それは、「科学水準」である。


当時アメリカは、ドイツが原爆開発をしているという風評を聞いていた。近い将来ドイツは、アメリカや対戦国の主要都市に対して原爆を投下するかもしれないと危惧していた。それを根っから恐れていた。つい先のイラク戦争時の大量破壊兵器問題に似ている議論である。そこで、マンハッタン計画を立ち上げ、ドイツよりも先に原爆開発をし、製造を急いだ。


そこで、投下都市をどこにするかで1つの議論がおこった。当然仮にドイツのベルリンでもミュンヘンにでも原爆投下し、その際に、万が一不発弾であった場合、その技術をドイツの優秀な科学者によって解析され同等以上の原爆開発に応用されることを恐れたらしい。その点、日本にはその懸念がないと判断された。すなわち、日本人には、原爆が仮に不発弾であっても、その技術解析は不可能であろうと見くびられていたようである。後の史実が示すところによればそれはアメリカ側の根拠無き勝手な思い込みであった。日本にも原爆の構造原理を理解しうる優秀は科学者は多く居たし、予算と一定の資源さえ確保できれば日本人の力で原爆を開発することは技術的には可能であった。思えば、勝手なアメリカの日本の科学技術に対する「偏見」が日本への原爆投下を決意させた大きな要因となっていたらしい。


2つめの疑問は、「なぜ広島に原爆が落ちたのか?」という疑問であった。いままではた、広島には重要な軍事工場があったことに加え、たまたま候補地の中で不運にもその日が快晴であったのが広島であったことが理由であるのかと思っていたのであるが、天気だけの事情ではなかった。さらに具体的な事情があったことが分かった。それは、「米国人捕虜居留問題」であった。


世田谷徒然日記-h9


既に周知の事実であるが、当初は京都や小倉等の複数の都市が投下候補都市に選定されていた。しかし、広島や長崎以外の都市は、米国人捕虜が居留している可能性があったらしい。そして、今回資料館でうかがった説明によると、米国人捕虜が居留している可能性がないと判断された広島が、人類史上はじめて原爆を投下された悲劇の都市となった。思えばアメリカ側の勝手な判断である。広島の市民が戦時下とは言え、焼夷弾の破壊も免れささやかながらその日々をすごしていたその海の向こうではかような末恐ろしい企てが冷静沈着に薦められていたのである。


世田谷徒然日記-h8


ついでに言えば、なぜ広島には焼夷弾が一切落とされなかったかと言えば、前回説明を付記した通リ、原爆投下の被害の状況を正確に分析するために、それ以前の無傷な都市の状態を維持するたまに、一切広島だけは、都市部に焼夷弾投下を免れていた背景があったらしい。思うにつけ、身の毛も逆立つ話ではある。人間をなんと思っていたのであろうか。友人は、かような同じ穴の狢(むじな)のアメリカに、ナチスヒトラーのアウシュビッツ等の一連の残虐非道な行為をを批判する権利が本当にあるのかと言っていた。


以下は、その日、爆撃機「エノラ・ゲイ」が広島に向かったコースである。


世田谷徒然日記-h9


以下は、その日、原爆投下直前の平時の爆心地の風景、その下は、原爆投下直後の悲惨な爆心地の風景である。広島ドームだけがかろうじて残っていることがエ分かる。一瞬にして人の尊い命も抹消した恐るべき大量破壊兵器である。


世田谷徒然日記-h11
(原爆投下直前の爆心地の模型)


世田谷徒然日記-h10
(原爆投下直後の爆心地の模型)



以下は、「原爆死没者慰霊碑」である。向こうに原爆ドームが見える。この碑には「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませぬから」という文字が刻まれている。

よく通う銀座の老舗インド料理店主のナイル氏がこう言っていたことを思い出した。

彼の父親は、彼の大切な友人で、東京裁判で戦勝国側の判事の中で唯一反対票を投じたパール判事(Radhabinod Pal)と広島を訪問したことがあった。その時、2人で、「原爆死没者慰霊碑」の前で慰霊した。この際に、この碑の文字を読んだパール判事は怒りを抑えきれずにこう言ったそうである。この文字には大切なこ言葉が欠落している。「過ちは繰り返しませぬから」という大切な文章の「主語」が欠落していると。


世田谷徒然日記-h4


世田谷徒然日記-h3


【パール判事について】・・・公開情報より引用

ラダ・ビノード・パール英語 :Radhabinod Pal, ベンガル語রাধাবিনোদ পাল, 1886年 1月27日 - 1967年 1月10日 ) インド法学者裁判官日本 では主に、極東国際軍事裁判 (東京裁判)において判事 を務め、同裁判の11人の判事の中で唯一、被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書 」)の作成者として知られている。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB


【広島平和祈念資料館】

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/


世田谷徒然日記-h6


世田谷徒然日記-h2
(原爆の子の像)


世田谷徒然日記-h1
(元安川沿いに咲くひまわり。当時も割いていたのであろうか)