• 19 May
    • 自分らしさ

      少し自分らしさというものを取り戻したい。最初の頃は、気ままに詠んでいるだけだった。最初とはいつか?おそらくは神父様にメールを書き始めたばかりの頃のことだと思う。それが吾に帰ったら、教会で悪魔と言いふらされているらしく、その理由があくこのメールが原因になっていたらしいのである。今までそういう苦労をしたことがなかったのは、このブログの管理人として、インターネットで匿名で詠んでいたからだと思う。ところが、だ。教会ですから。神父様。たまに、シスター。「まあ、神父様に悪魔? 大変だわ、どうしましょう」おおげさでおおげさで、歌人というか、教会では普通の信者であり、役員も3年目に入り、普通にご奉仕活動をしている普通の信者!それが、神父様に対して悪魔と言っている?あのですね・・・私は洗礼を受ける前から、ネット歌人として、少しシニカルな作風を得意としていまして、それで何か言われたことはなかったわけです。それが素晴らしいかどうかは別として、文学というのはそういうものではないですか?当たり前のことを当たり前に詠む。それはそれで当たり前なのですが、不意にインスパイアされたことをそのまま詠む。そこに面白さがあるのではないかと思っていたわけです。日頃、面と向かっては言えないけれども、何となく思いついたり?そういうことはキッチン会議として、誰かが面白おかしく話している。特に本気にしているわけではないけど、その程度の小悪魔(サタン)なら教会にはいくらでもいる。それが当たり前。それが教会。だけど、メールの先が神父様ということを忘れていた、というか、次第に忘れていってしまう。ジャンキーというわけではないけれども、文学というのはそういうものではないか?役員会のメールを書いているわけではない。返信を期待しているわけではなくて、むしろ返信は無理だろうなと経験上思いながら、それでも毒づくことというのはありませんか?むしろ面と向かって教会の悪口を言われるほうが、神父様もシスターも考えながら真面目になるのではないかと思いますが、メールというのは、「これはあの白石さん!が本当に書いているのだろうか?」というところから悩み始められると、私も困るのですね。私も学生時代を通じて、それなりにあくこだったので、そういうシニカルなところはあっても、若い頃はゆるされるのです。ところが、教会の役員をやる年齢になりまして、いつまでもそういう調子なのは、短歌という特殊な世界に埋没しているからであり、役員会や教会内でやっているわけではない。だから、教会では意外と平穏に楽しくカトリック生活をしていただけなのに、修道会や他の教会などで話題になっていたそうなのです。ありえない。知らない方たちばかりだったら仕方ないかな・・・と。楽しいから真似をしている方たちもいた?よいこは真似しないでください。本気で悪魔に思われますから。アナはですね、いいのね。あくこだから。よいこではない。そこが大きな違いなのです。いずれにせよ、真似するからこういう騒動になるわけで・・・とクレームつけたいのですが、私は歌人としてわが道を行くことが使命なのではないかと、不意に思った。ただし、修道会にまで迷惑をかけたくないので、特に何かを思って詠んでいるわけではないことを申し伝え、ご迷惑をおかけした皆さまには、あくことしてではなく、歌人千秋アナとしてお詫びしたいと思います。エゼキエル 4.9 -17罪深き私をゆるしたまえ。

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  • 16 Dec
    • ネット歌人が好き

      私は、結社よりもネット歌人のほうが長いし好きだし気楽なので、本当はこのままのほうがいい。 結社の決まりで、インターネットにアップした短歌は結社には出せないことになっているから、本当は出し惜しみしたほうがいい。 だけど、気ままにしているほうが好きだ。 イザヤ 10.24-27

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  • 11 Jul
    • 実験的試み

      近頃、実験的な試みとして、画像を使って詠んでいます。短歌は写実が基本と言いながら、私は案外忙しいので、そんなことをしたら仕事の話とか、犬のことくらいしか詠めないですね・・・ というわけで、昨年、うちの教会を司牧していただいた神父様のところ から、画像をお借りして、詠むことが増えました。でも、神父様からお借りしているので、毒々しい歌は控えたほうがよいのではないかと思うのですが、根がどくどくしいので、たまにワープしてイメージがふわふわどこかへ飛んで行ってしまいます。普段ならそれでも構わない気がするのですが、写真から、となるとダメかも。 以前は、短歌が先で、後から気ままに好きなイラストなどを貼ることはあったのですが、テレビのバラエティ番組で、俳句の先生が写真を見せて俳句をつくるというのがあって、俳句の場合、練習のためにそういうこともありなのかと思って、参考にさせていただいています。 ただ、弱点があって、画像から詠むと、画像がないと意味不明の歌になってしまうことも多く、短歌としての表現力が弱まる気がします。概念歌みたいなものなら構わないのでしょうけど。 概念歌ということであれば、聖書がベースになってしまうのは、お借りしている先が先なので、仕方がないですよね。 そういった意味で、制約はあるものの、著作権のことやリンクのことやバナーのことなどを考えなくても良いという長所もあるので、ありがたいです。いくら美しい画像でも、そういうことを考えながらではさすがのずうずうしい私でも無理かも、です。 (ヨハネ 5. 13-16) ↑こういうのは本当は書かないほうがよいかも・・・? お休みがなくなると困りますね。 今、司祭不足で大変な時代なので・・・カトリックは。 優雅に詠んでいるようでいて、あくせくあくせく。平安朝がなつかしい? どうして時間が経過するに従って、いろいろ制約が出てくるのでせう・・・ いつの時代も変わらないかもしれないですね。 (歴代誌下 31. 1)

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  • 24 Dec
    • 自由

      21世紀になり、突然、短歌を詠み始め、どれくらいの月日が経過したのだろう。インターネットの気楽さで、ちょっとやってみよっかな~という軽いノリで始めたことだ。 サイトの荒らし事件が発生して以来、当時の仲間たちは消えうせ、神父さまのサイトに貼ってあったコンテンツもいつのまにか見えなくなってしまっていた。 時空短歌の主宰はとうとう謎のまま消えてしまい、わかっているのは短歌はいわばおまけのようなもので、ボランティアでクリック募金を広めるためにやっていたような気がする。インターネットに関する知識は豊富で、右クリックの使い方もわからないわたしに、あれこれ教えてくれた親切な人だったことは間違いない。 荒らし事件は、本当に深刻で、被害者はたくさんいたし、困ったことに誰がやっているのかもわかっていた。わたしはすでに忘れてしまったが、実際に警察に相談に行っていた人もいて、その人からのメールによると、犯人は大手の会社を定年退職し、一日中パソコンをやっているという。トリガーとなったのはお子さんの自殺が原因らしく、家族は皆が迷惑しているのにどうして放っておくのだろうかと批判が書かれていた。 この事件をサイバー上のことで終わらせたい主宰と、弁護士を頼むと相談している人たちとの関係がどういう具合になっていったのかはわたしにはわからないが、そのことが原因で投歌も減り、しばらくはサイトのコンテンツの作り方などを指導してもらっていたが、わたしが結社に誘われたのが気に入らなかったのか、突然サイトは消えていた。 サイトは消えてしまい、結社の水も合わず、しばらくは神父さんのサイトで詠んでいたが、ちょっと不思議なことに気づき、短歌を詠んだあとに聖書を開くというのが日課になっていった。 ちょっと不思議なこと、というのは、その頃、わたしはあまり聖書を読んだことがなく、聖書をそういう使い方をしてよいものかどうか迷ったが、詠じたあとにパッと開いて目に入ったところを読むと、何となく神さまからのメッセージのような気がしてしまうのだ。 最初のうちは、聖書のページをも写していたが、もしかすると著作権の問題があるかもしれないと思い、そのまま文章を写すことはやめている。聖書にも著作権があるのかと思うと憂鬱になるが、ためしに英語の聖書を数冊買ってみたが、まるで言葉が違うことに気づき、同じことを表現しているだけなのに、言い方、あるいは訳し方は自由なのだということを知る。 その頃から、わたしはとりあえず1万首詠もうと考えていた。あえて言うなら、それも神さまとの約束というか・・・(と勝手に思っていただけだが。) 日常を詠い、聖書を開く。 そういうことを続けているうちに、わたしは次第に自由になっていった。 受洗したいのだけど、それを妨げているいろいろなことから、自由になっていったような気がする。 今はすごく自由なのだ。仏教のお葬式にも出るし、筑波山へ行ったりもする。ただし、ロザリオを持ち、十字を切って参拝するだけのこと。変かもしれないけど、特に何も言われないのが逆に不思議だ。クリスチャンなんだけど、知人のお葬儀に参列したり、家族で神社に出かけたりする。ただし、御ミサは一人でたまに通っているだけだが・・・ 社会の儀礼的なことをきちんとしていると、しみじみこの国は心の中は自由な国なのだということを学んだ。形だけしていたら、後はその人が無宗教であろうが、仏教徒であろうが、クリスチャンであろうが関係ないと思っている人たちが多い。 短歌も最初の頃には、これは短歌ではないとかいろいろ言われたような気がする。にもかかわらず、お誕生日の記念に短歌を産経新聞に掲載したら、読者の反響がすごいと担当の人から電話がかかってきた。掲載までに時間がなかったので、本当に詠み始めたばかりの頃の歌を掲載していただいた。すると、今年一番の反響と問い合わせがあり、新人賞をくれるらしい。が、しかし、正直に語れば、掲載料は自前。辞退しようかと思っている。 新人賞はほしいし、読者からの反響というのもうれしい。一人で好きに詠んでいただけに、不思議な気分だ。批判されることに慣れていて、褒められると騙されているような気分になってしまう。うちの家族は、新人賞をくれるなら騙されてもいいと思っているらしい。 神さまはこんなわたしのことをどう思うだろうか? 単なるおバカ・・・ もともと歌人でもないし、舞い上がっているわけでもない。 フランチェスコもローマへ行ったし、今回の出来事はまるで予測不能なことに端を発しているため、逆らわないほうがよいのかもしれない。 困った・・・ わたしなんかが歌人と言われて、この国は大丈夫なのだろうか。 (エレミヤ 15. 9 「彼女は・・・」)

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  • 08 Sep
    • ノートの落書き

      あれ? 自分のブログを眺めたら、どうも最後にうたを詠んだのは去年の5月になっている。自分的には、19ヶ月ぶりなんだけど・・・ つまりは、自分のうたを保管しておこうという気になっていたのは、どうやら19ヶ月前までで、それからしばらく惰性で詠んでいただけなのかも。詠んでいた、という記憶すら、ない。 下手すると1万首を越えているかも? 1万首までは詠もうと決意していたため、記憶のないままに達成してしまっていた可能性もある。手帳に書いたままで放っているものまで含めると、自分でもすでにカウントできない状態で、放置していたのだろうか。 *** 懐かしい・・・ 自分の好きなうたばかり集めたノートの落書きを眺めていたら、なんだかジーンときた。

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  • 20 Oct
    • 青で歌集

      短歌はどうしたって? なんで誰も訊いてくれないのだろう・・・(汗 短歌を詠み始めたのも、最初はちょっとやってみよっかなーという・・・・それだけ。自己中は他人のことはあまり気にしない。インターネット歌人がどうたらこうたらなんて、たまたまそういう流行や風潮に重なっただけなのだろう。 題詠マラソンも今年はキャンセル。 別に理由はない。ただ、忙しくなったということと、気分ということと、出版って大変なんだなぁ・・と思ったのと、商業出版系のノリにはどうもついていけそうになく、それでいて出版社の苦労を知るにつれて、やはりこれは遊びではないことを知り、そのすべてが鬱につながりそうなのであっさりリタイアすることにした。 そのうち歌集を出すとして、自費で出すとなるとタダではない。かといって出版社へ原稿を持って行くような性格でもないし、歌集なんて売れないと思っているから諦めがよい。 主婦の趣味の領域として考えた場合、あまりにも高額すぎる出費。ダンナは出してもよいと言っているが、わたしとしては気が進まない。だって財布を握っているのはわたしだもの。やだ。 けち!>あたし・・・ というわけで、診療所が完成し、青色で給料を貰うようになったら、好きにやらせてもらおうかと。別に、自分で働いた金を何に使おうがわたしの勝手ではないかと思うんだけど・・・ほんで、入り口に置いて勝手に誰かに持っていってもらう。誰も貰ってくれないかもしれないけど・・・まあ、それでも道楽だから。 そうやって考えたら一気にさっぱりしてしまった。

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  • 19 Sep
    • もう忘れていた・・・

      去年の題詠マラソンの単行本がこれから出るらしい。 仮名遣いについて、あれだけの量をいちいちチェックしていたという・・・もしかして、1人で? 編集者というか、俳人というか、今年はとりあえず3冊ずつの買い上げが決定しているせいか、のんびりしているだけなのか・・・ わたし的には、今年の題詠マラソンはお休み。 理由は、一身上の都合というか、要するに娘の受験があるからそれどころじゃないというのが実情に近い。 ☆ 娘の進学? それは、最終的には娘が決定すること。わたしとしては、ややこしいことは考えずに、前期に東大、東大落ちたら後期に東京芸大を狙え、としか言えない。両方落ちたら、受かったところへ行ったらいいさ、程度。 あれこれ言っても、結局、娘の意思。中学受験にして、それを思い知る。 つまらないところがわたしに似てしまった。

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  • 01 Aug
    • 第6回 常陸国 小野小町文芸賞 短歌募集中

      ◆テーマ: 自由。 ◆表現形式: 歌の形式は不問。 ◆応募条件: 作品は未発表のもの。2首組とし、何組でも応募可。漢字にはふりがな。応募作品に関する一切の権利は、新治村に帰属。 ◆応募方法: 所定の応募用紙又はB5判の白色用紙に応募料2首組2000円(郵便小為替)を同封。(直接持参も可) 小中高校生無料。郵便番号・住所・氏名・年齢・性別・職業(学校名・学年)・電話番号を明記。 ◆応募先: 〒300-4108 茨城県新治郡新治村小野491    問い合わせ先: 新治村村立小野の館内 「常陸国 小野小町文芸賞」係       TEL 029-892-1002 (FAX兼用) ◆応募締め切り: 平成17年9月9日(当日消印有効) ◆審査員: 三枝昻之、磯田ひさ子、坂井修一 ◆賞: 審査の上、全作品から100首を入選とし、その中から短歌大賞1点、優秀賞5点、秀逸20点。ほかに小中学生・高校生入選各20点。賞状・記念品、応募者全員に入賞入選作品集の贈呈。*ただし、短歌大賞の作品は歌碑! ◆入選作品の発表: 平成17年10月下旬。入選者に通知。 ◆表彰式: 平成17年11月上旬。 以下、省略。 死ぬまでには歌碑! 憧れです。

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  • 23 Jul
    • PDF出版

      エキサイトにブログをつくった。まだ何も書いていない。アドバンス(有料)にグレードアップすると、PDF出版で本をつくってくれるらしい。このサービスは、ニフやティーカップでもしている。エキサイトの場合は、いまだに進行形。 なんか疲れる・・・ 出版という形で考えるのなら、毎日1首を詠み、そこにダラダラと日常を書いていくほうがいいに決まっている。なぜなら、そのほうが美しい日記に仕上がるから。しかも幻想的で美しい物語が書かれているほうがいいに決まっている。なぜなら、そのほうが面白いから。 わたしは長い間小説を読む週間が欠如していたため、あるいはもうずいぶん長い間映画にもドラマにも興味の持てない生活をしていたため、そのようにストーリーを追いかけるというのが非常に苦痛になってしまった。 わたしは案外リアリストである。 架空のストーリーを読むほど暇ではない。 それよりも現実にはしなければならないことが山のようにあり、それでいてこのように駄文を打っていられることがわたしの何よりの楽しみであり、ストレス発散である。 アメブロから学んだこと? それは想像以上に多いかもしれない。 あっさり語れば、とてもたくさんの人たちが出版の仕事に携わり、あるいは本を売ったり書いたりする仕事に携わりつつそれを憂いていること。その原因の一つがIT革命にあること、不景気によりごみ箱や電車の棚の上の雑誌や本がリサイクルされていること、競合する雑誌などがたくさん出版されていること、ゆとり教育により子どもたちの活字離れが進行していること、単にストーリーを追いかけるよりビデオやゲームで楽しむ人たちが増えたこと、ゆっくり本を読んでいる暇のある人たちが減ったこと、その他諸々出版物の全集化や絶版など、欲しい商品が欲しい時にないなど、書いていたらキリがない。 それと同時に、うまく説明できないけど、価値観そのものが商業ベースが主体となり、今の人たちは人生を考えるよりもどうやったらビジネスに成功するかや具体的な人付き合いの方法などマニュアルを求める傾向があり、人間がロボットに近くなりつつある。 そういう社会背景の中で、娘の楽しみは絵を描くこと。 が、しかし・・・・ そういう社会背景の中で、現実的に娘が絵の勉強をしたいとなれば、ごく普通に美大に進学し、留学させるくらいしかわたしには思いつかない。それでいてそうやって苦労した人たちが今は何をしているのか、わたしはよく知らない。 娘にはもっと勉強させなければならないと夫が言う。それは進学のためというよりむしろもっと日常的に勉強することが必要だと言う。わかってはいるが・・・娘はわたしの子である。必要性がないことに熱意を持つような性格ではない。 平凡な日常の中で、一つ絵を描くことが楽しみならそれが素晴らしい。 だるだるに受験勉強の夏は続いていくし、それでいて休みの日に友達と遊ぶ約束をしたり、旅行へ行ったり、そういう日常があるから絵が描けるのかもしれない。絵そのものが目的になってしまったらもはやつまらない。 すべてが道具として手段として存在している。 出版もタダではないことを考えると、記事もそれなりにまとまったものでなければならない。なんて厄介な作業なんだろう。そろそろ短歌も整理する時期なんだろうか。9割を捨てなければならない。テーマに分類したり日記だったりややこしい。記事数300というのが最大。ファイルの大きさを考えて整理せねば・・・

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  • 15 Jul
    • 近頃

      バッグの中には、古今と万葉。 素朴さが愛しい。 いかんなぁ・・・ 似合わないことしてる。

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  • 07 Jul
    • 無駄こそすべて

      そういえば、わたしも学生時代、考えた気がする。英語はともかくどうして古文や漢文を勉強しなければならないのだろう?って。あっさり語れば嫌いでもやらなければならないのは受験があったからで、その後国文や史学を専攻するのでないかぎり、まるで役に立たないまま忘れてしまっていた。 そうやって考えると、わたしは役に立つ勉強をしたことがあるのかどうか懐疑的だ。それでもうんざりするほど英訳を受験勉強でやったおかげで、それがかろうじて大学院へ入ってから役に立った。でも、もしも進学しなかったらもっと実用的な英会話をやっておいたほうが役には立つだろう。 でも、よく考えてみたら働いたこともなければどれもこれも役には立たない知識ばかり。それでよくこの年まで生きてこれたのか不思議かもしれない。 母はそういうことを否定する人ではなかったので、今は役に立たないと思うことでもそのうち役に立つこともあるかもしれない、とよく言っていた。人生は思いがけないところで思いがけないことが役に立ったりするものらしい。そうやって考えると、まさか自分が歌人になるなんて予想だにしたことがなかったため棄てられていた知識ももしかすると少しは役に立っているのかもしれない。パソコンにしてもそうかも・・・まったくもってして苦労の種というか、いやいやながらやっていたことが忘れた頃に役に立ったりする。 そうやって考えてみると、わたしの無駄な知識はわたしに利をもたらしてはくれないけれども理をもたらしてくれているらしい。

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  • 28 Jun
    • だるだるミクシイ

      わたしのミクシイはだるだるのまま放置されている。 入ったきっかけは、「ミクシイだとあらしはないです」というNatさん の説得力のあるメールだった。その結果一つわかったのはNatさんの奥さまがわたしの友達と小学校から大学まで同級生だったということ。奇遇といえば奇遇だけど、よく考えたら世間は狭いので間接的なお知り合いというのはちまたに溢れているのが普通。 ふじたさんは以前結社誌のことでお電話いただいて、「その節はどうも」というつながり。わたしはいまだに幽霊を続けているため、そのうち購読だけにしようかと思いながらもだるだるのままネット歌人を続けている。Natさんは間接的に「未来」関係のつながり。ふじたさんは「塔」。 Natさんはお父さまが有名な歌人だったらしい。まさぴんさんはおじいさまが白秋のお弟子さんだったらしい。「らしい」というのはわたしが歌壇のことにはまるで詳しくなく、おそらくはうたも知らない可能性があるため、深く追求しないことにしている。 Jasmineはサイトをつくり始めた頃からの友達。そのうち生姜湯を送る約束になっているのだけれど、だるだるのままそのままになってしまっている。 ごめん、Luluさま。忘れてた。誰か抜けているような気がしていたら・・・ Luluさんはアメブログを通しての関係。今、タンザニアのほうへ行ってしまっているため、空中庭園のようなつながりになっています。 ☆ 題詠マラソンもそういえばどうなっているのか気になるところだけど、どうも2年目の今年、だるだるなまま放置している。2004年版が本来ならそろそろ活字になっている頃なんだけど、どうも2003年版が売れ残っているせいか気合が入らないのかもしれない。世間でこれだけ話題になり、賞の候補にもなり、それでいて期待したほど売れないということが何となく雰囲気で伝わってくる。 わたしという人がいかにだるだるな人かを何となく自覚。 とりあえず、生涯のうち3冊歌集を出すことに決めている。もしかするとプレミアがついたりして・・・というのは、大抵は贈呈の世界だからつながりがありそうなところに送られるらしく、アマゾンで購入しようとしてもよほど有名な歌人で絶版になっていないという条件でなければすぐに売り切れてしまう。そういうものなんだなーというのが今のわたしのだるだるさに拍車をかけている。 その点、インターネットはオープンな世界。 いや・・・・・ミクシイをやりはじめて、それが本当にそうなのかわからなくなっている。 いずれにせよ、幻の歌人でいたほうが気楽なのかもしれない。どうせ、うた、下手だし・・・いかんなー。

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  • 14 Jun
    • 発露

      いつからだろう・・・ 一体いつから自分がその手の代物を排除するようになったのか、よく思い出せない。少なくても大学へ入ってからは、宗教その他諸々オカルトを含めてその手の代物を避ける傾向が高くなる。 このことはかなり矛盾に満ちているだろう・・・ 少なくても修道院の大学なのだから、年中その手の話題には満ちあふれているし、実際、毎日ミサ曲を歌わされていたようなものだし、信仰が日常的に落ちてはいる。それでいてわたし個人としては、その手の類を避けてきたわけで、その理由としていくつか考えられるものの自分でも明確な理由はわからない。 名目上は文学部の学生だったけれども、わたしはあまり文学にも哲学にも興味が持てず、ひたすら愛想のない世界で数字と戯れていたような記憶がある。おりしも時代はまだブラックボックスという言葉が使われており、心理学会も行動主義が主流。認知心理学が台頭してきたのはわたしが大学院へ入ってから。つまり、人間の「行動」を研究するのが心理学と教えられ、もっぱらアウトプットされた反応だけを扱うことにわたしはあまりにも慣れている。 実験で実証できない事柄は扱わない。つまり、神や神秘主義者の好むようなこと、あるいは哲学で扱うような事柄を含め、ユングもフロイトも心理学だという感覚で読んだことはない。バリバリの理系の人たちにすれば、フロイトは哲学だと言う。それでいて、哲学の人たちからすればどうなんだろう。精神医学というくらいだから、どちらかと言えば心理学の範疇に含めて捉えているのではないだろうか。 正直に語れば、わたしの目から見ても、青山圭秀さんはバリバリの先鋒というか、神秘主義者であるがゆえに物理学を専攻したという気持ちがよくわかる。さらに、神が見えないからこそ聖書学者になった前島誠神父さまのことも何となく理解できるような気がする。 否定しても否定してもわたしは神を信じている。 これって今の時代にはかなりきつい。 でも、考えてみれば、神父さんやお坊さんを考えれば、世の中自体がそんなものなのかもしれないと思う。つまり、一生懸命に否定する傍らで、死者は弔うのである。人間とはなんて矛盾に満ちた代物なんだろう。神仏を信じる気持ちがない人たちでも、聖職者が神や仏を信じていないとなったらいささかの不満を覚えるだろう。 バカだ。 人間というのはなんてバカだろうって思ってしまう。 そういうバカは自分だけだろうと思っていたら、実はおまえもかーということはめずらしくもなんともない。一生懸命に信仰や題目に目覚めている人のほうが実は信仰心がないような気がすることもめずらしくない。ってことは露出が多いほうが嘘っぽい。 遠藤周作氏がどうして小説を書いていたのか、少し理解できるようになった。というのは、例えば意識という言葉すら行動主義が全盛期の頃にはブラックボックスの中に閉じ込められていたのである。つまり、そんなことを心理学者が言えば完全にバカにされるという時代。 人間なんだから誰でも生きている。精神もあるだろう。ってことは、それが意識であるという部分は誰でも持っているはず。なのに、その部分はブラックボックスだから扱わない。 そのことに対して不満があったかどうか・・・・ 学部の頃は、かなり不満だったかもしれない。 が、しかし・・・・ 実験や研究には手続きというものがあり、妥当性にこだわれば排除せざるを得ない部分は思い切って排除しなければならない、という宿命に慣れてしまうと、さほど迷わなくなる。分野は違っても大なり小なりそういうものなんだろうな。そして、本当に大切なものは鍵をかけてしまっておくように、どこか人目につかないところに隠す。 小説はフィクションである。 フィクションを前提としているから許される部分が大きい。 研究はそういうわけにはいかないもの・・・ そして、どうしてわたしが研究を進路に選択したかと言えば、それがわたしの鎧となり、わたしを守ってくれるからだ。 ユングが自分の神秘主義者的な部分を隠すためにあのややこしいユング心理学が構築されたのかと思うと、なんであれほどまでも読みにくくコムズカシク書かれているのか少し理解できた。ユングの理解者たちはいともたやすく解説してくれるけど、ユング自身の著作物の難解さといったら苛々するくらいだ。つまりは、それくらいガードを堅くしなければならない理由・・・ わたしはすでに神がいるとかいないとか、信じるとか信じないとか、キリスト教とか仏教とか、西洋とか東洋とか、すべてのことに対してどうでもいいという投げやりな部分を抱えている。投げやりというのは正しい言い方ではないかもしれないけど、いわば「だから何なのさ」的に突き放すことに慣れている。つまり、神秘主義で語らず、それを何らかのアウトプットしやすい方法に置き換えて語るほうが遥かに楽だからだ。数値は素晴らしいとすら感じる。 他人と議論するパーツにおいては用語を用いる。それ以外のパーツは沈黙する。それらはわたしの中ではすでに違う。つまり、余計な露出を避けるために、わたしには専門用語が必要だったのかもしれないし、どうしてそんなに回りくどさが必要かといえば、それだけ世の中が唯物的で露出されたものだけしか必要としないということなのかもしれない。 信仰心が持てない人ほど変な意味で神秘主義にのめりこむ。だからといって、わたしは彼らに何かを言ってもムダだということを承知している。というわけで、傲慢にならない程度に逃げるに越したことはない。 無宗教ってどういうことなのかというと、鎧なんだろう。他人に踏み込まれたくない精神領域があるがゆえに、あえて露出を避ける。そこが無神論とは大きく違う。 でも、まあ、完璧なブラックボックス排除の世界で生きていたがゆえに、わたしは極めて普通の人なのである。変にオカルトや神秘主義に感知することなく、その手の人たちと一緒にされるのは非常に自分でも苦痛だし、それでいてわたしは神秘主義者でもある。バランスなのかもしれない、生きていく上での。 ・・・・・・・・・というわけで、わたしは歌人になったのかも。 どこかに発露がないと、つらい。

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  • 28 May
    • 構成への意志の欠如を嘆く

      短歌というのは、一つの沈黙の方法である。 理屈が飽和した時、あるいは、理屈で語るのがかったるくなった時、何となく自然とうたを詠むようになっていた。詩ではなく短歌というのも言葉を増やさないための手段だと思っていたのだけれども、結局、連作として詠み込んでいけば同じことのような・・・ 宗教や哲学の話は疲れる。わたしは心理学の人だからなおさら。しかも巷では心理学というとわたしの知らない意味を持ちながらこの言葉が徘徊しているため、なおさら語るのがかったるくなる。 そのすべてがかったるくなれば、薔薇の花が咲いていたことをボソッと語りたくなる。 ヴェイユの詩集の冒頭、「ポール・ヴァレリーの手紙」を読み、わたしはしばし作歌を止めている。通常ならば、わたしは大変素直な歌人でもあるために、作品からインスパイアされればされたなりにそのままを詠むようにこころがけているつもり。ところが、「構成への意志」の重要性を書くヴァレリーの言葉にしばし立ち止まる。 はてはて・・・・ わたしの作歌に足りない要素があればまさしくこれである。つまり、構成への意志・・・ 一つの作品、あるいは作品群に仕上げようという構成への意志が欠如しているのは以前から感じていた。つまりは、やみくもに2万首と決めているため、それ以外の要素はそれから考えればよろしいのではないかという先急ぎ感。 それは一つにはわたしが作歌歴が浅いからだと勝手に勘違いしていたけれども、実はわたしの怠惰さから来るものではないかと感じている次第。 エネルギーを集約させるのがつらい。 ある種の構成への意志を持ち、それを作品群としてまとめるための不毛な努力を考えると、ひねもすをのんびり作歌に明け暮れているほうが楽しい。それと構成への意志を持つことは主題を持つということであり、果たして短歌とはそういう世界なのだろうかと考えてみる。 わからない。 とりあえず、それが詩であることは感じてはいるものの、一つの歌の中に構成への強い意志のある作品をひねり出すためには、それ相応の忍耐と努力とインスピレーションが必要。それを考えると、勝手に手の動くままに、ある時は自由筆記のように言葉を選ばず、その日その時を詠み込んでいくほうがはるかに楽しい。 楽しいだけでよいのか? ならば、人生を楽しみましょう、という構成への意志を持ち、作歌を続ければよろしい? まあ、いいか。 いずれにせよ、いつかは取り組まなければ課題には違いない。構成への意志を持つためには激しい動機が必要である。激しい動機が欠如したまま歌人になってしまったためにのらくらのらくらしている。むしろストレスを排除しながらのらくら詠んでいるだけのほうがはるかに楽しい。 そういう意味では、帰着しなければならない着地ポイントが必要という点で、詩のほうが構成への意志を持ちやすい。その着地ポイントへ向かいながら詩は踊る。つまりは、57577の中にもどこかに着地ポイントを入れなければならないということで、それがどこに来るのか・・・どこに置くかで微妙に生きたり死んだりする。 まあ、いいや。 そうやってややこしいことを考えるからうたが詠めなくなる。 それでいて、わたしは何かを学ぼうとしているらしく、その何かをキャッチするためにこのように駄文に励む。

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  • 12 May
    • 日記文学とブログ文学

      ある日突然、アメブロの「本・書評・文学」のトップページで、『「山川塾」講座 第1回(仮) ブログは日本に固有な日記文学の復権だ』 という記事を見つけ、ジャンルを変更することにした。実際には、アメーバブックス編集部のブログなので、これもアメブロ企画の一つなんでしょうけど、「日記文学=ブログ」という発想がつらかった。 つまり、一つのブログ全体をまるごと日記文学として講評を山川氏が述べるという企画。何気ない日常の記述である日記を文学として講評するという姿勢がインターネット的ではない。 それでは一つの短編小説をそのまま一つのブログ記事にしてしまった幸田回生さんの小説『ペーパークラフト』 はどうなるのだろう? 幸田さんの場合は、小説だから少なくても幸田さんの日記ではない。 わたしの場合、短歌は文学であるとかないとか、ブログは日記であるとかないとか、ネットはメディアであるとかないとか、道具を使うのは人間のため、実際にはどのようにでも使おうと思えば使える電子の世界を不自由に泳いでいる。 今回、ほとほと悩んだのは、小説の場合、作者がいて登場人物がいる。幸田さんの『ペーパークラフト』も「さやか」という登場人物の日記である。実際には日記とは言えないでしょうけど、読みようによっては完璧な日記。書いているのは作者。だから、フィクション。 わたしの場合は、ブログの作者はわたしであり、小説ではないから、登場人物も実在の人たちであり(当たり前か・・)、わたしはわたしである。でも、もしかすると読む人たちにとっては実はどうでもよいことなのではないかというのが素直な感想。 これが幸田さんのブログがまるごと「さやか」という架空の存在を主人公にしてブログ記事を書き続ければ、フィクションであり小説であっても、日記文学というカテゴリーに含まれてしまうようにも思われる。 文学、ということで考えてしまえばおそらくはどうでもいいことなのかもしれないけど、ウェブを主な作歌の場としてうたを詠んできて、ついでにそれが発表だと言われ戸惑い、次にはそれが文学であると言われて急にジャンル変更したり、CSS編集記事を差し入れたりするわたしという人。 このほかにも実際的な問題はある。 例えば、わたしの場合、素材を借りているけれどもそれは前提に個人のサイトないしはブログであり、営利目的ではないという条件がある。だから、アフィリエイトについても本来なら控えるべきだと思っている。このため書評を書くのも憂鬱の種。なぜならアマゾンのアフィリエイトの画像を使うにはアマゾンのアフィリエイトに加入している必要があるから。そうでなければいちいち自分のサイトやブログに画像をアップしなければならない。 完全な書評のブログであれば、余分な画像を使う必要性がないのでおそらくはくだらない悩みなのかもしれないけど、例えばニュースの記事や写真にも著作権があり、いちいち莫大なブロガーたちがニュース・サイトに承諾を得てリンクを貼ったり画像を使ったりしているとは思えない。それでも問題にならないのは営利目的ではないからだろう。でも、アフィリエイトは営利目的である。 そこのデリケートな部分が、アメーバブックスの編集室(あるいは企画室か?)はもともとが営利目的で出版している人たちのせいか伝わらない。ブログまるごと日記文学として扱い出版を考えるというのは発想としては今の時代の風潮でもあり、ブログを書いてアフィリエイトするというのも一つの仕事だと思っている人たちもいる。それを推進する、というのは商売なら当たり前だろうし・・・ 感覚の問題なんだろうな・・・ 今回、ブログペットがとうとうアメブログでは使えなくなり、こういうのはむしろ企業間の問題であることが多い。わたしがほかのブログにブログペットを置くことは可能である。ところがアメブロだと使えない。新聞社の記事も個人ユーザならアメブログでも使えるでしょうけど、企業のブログでは許可なく使えない。翻弄される一人のユーザであるわたしという人。 ブログは一つの世論だからな・・・ 果たして、それを文学と呼び、文学にしてしまってもよいのだろうか? 文学記事として記事をアップするのなら、別でしょうけど。 どうもややこしい。 日記文学とブログ文学。

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  • 08 May
    • 短歌用語の語感

      うたを詠むようになって覚えたことばがいくつかある。 作歌の時にしか使わない。 例えば、吾子(あこ)、夫(せ)、汝(なれ)。 短い句の中に効率的に収めるためには都合がよいことば達。 「こころさえ聖らかなればそれでいい汝語りしや愛を信じて」 このうたはすごく初期の頃のうた。「汝」というのはおまえとかアンタ。つまり目下に使う。間違えて詠ったわけではなく、そういう気分だったからとしか語れない。ジーザスに向かって、汝と言っている。だから、捉えようによってはすごく反抗的でつっけんどんな言い方をしているわけで、その後、神父さんのサイトに「サマリアの女」のイラストと話が。 いろいろ。 例えば、心理学と哲学は相性が悪いらしく、わたしは学生時代、何度も「心理学は哲学ではない」と言われた。実験実証主義というのはそういうものらしく、科学的手法を使って精神を説明することに意義があった時代。だから、すべてを信仰で語る姿勢というのは違和感があり、どうして今さら宗教なのだろうという反抗的な気持ちが込められている。 ほかにもいろいろ。 日本人なのに、どうしてキリスト教なのかなーとか。ごく普通の疑問。そこに、サマリアの女。サマリアを通りかかったイエスがヤコブの井戸で休んでいる時、水を汲みに来た女。弟子たちは食べ物を買いに町へ出かけていたので誰もいない。サマリアの女にイエスは、「水を飲ませてください」と言う。サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と答える。(ヨハネの福音書 4章) イエスと話しているうちに、サマリアの女は彼がメシアだと確信する。そしてそれを町の人たちに伝える。イエスがサマリアの女と話しているのを戻って来た弟子たちが眺めても、誰もそれを止めようとはしなかった。当時は、ユダヤ人とサマリア人は交際しない習慣だったというのに・・・ 最初はピンと来なかったのだけど、あのうたを詠んだ当時のわたしの態度や気持ちがそのものズバリ「サマリアの女」。そうやって暗黙のうちに指摘されてみると、そうなのかもしれない。こころのどこかで強くジーザスに惹かれているのだけれども、あれにこれに。本当に余分なことがあれにこれにとあった。そういうつっけんどんさがうたにも現れている。わざとではない。あのうたは、そもそもが返歌をやりとりしていた時に不意に詠んだもので、サマリアの女をテーマにしようとかそういう高尚な意味はなく、ただどうして信者でもないわたしがあれにこれにと神の愛について語らなければならないのだろうかという、いわば自嘲的な意味も含まれている。 懐かしい。 ほかにも、「夕まぐれ」とか、「かごと」ということばをわたしは好む。夕まぐれは夕闇の時間のことで、青闇という表現のほうが好きかもしれない。青闇というのはわたし語。かごとは愚痴やぼやきのことで、わたしはあちこちからあれこれ言われてウンザリしている時、かごと渦と詠う。かごとだけでは足りず、かごと渦。 「敷島」は枕詞なんでしょうけど、わたしはそのものズバリ日本のことを指して使う。 含むと言うより、「ふふむ」と言うほうが好きだし、もはや短歌でしか使わないことばであったとしても語感と語数という意味で古いことばを好むことが多い。

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  • 07 May
    • 字が書けない

      漢字は手で覚えていたので、近頃ではまったく書けなくなってしまっている。キーボードばかり打っているせいだろうか・・・ 手書きで文字を書くことなんてカードのサインくらいのものだろうと高を括っていたら、いきなりアンケートを求められて書いてしまうわたしという人。断ればいいのに・・・というか断るべきだった。漢字が書けない・・・咄嗟に「豚肉」と書こうとして、つくりを隊と間違えてしまった。 変な漢字つくるなよー!>わたし それでも連休中、クイズ番組を見ていたら、叶恭子が「不可能」という漢字を書けないことを知り、それに比べればわたしのほうがマシかもしれないとほくそえんでしまった。漢字が書けないというのは一種の老化現象だろうか・・・外見はさほど変わらなくてもどうも中身が抜け落ちていくようで悲しい。 それでいてキーボードとなるといつの頃からかブラインドタッチ。一つ覚えて一つ忘れて、プラマイ0だからよしとしますか。 それにしても酷いよね・・・うちのダンナなんて九九が言えない。でも計算はできるらしい。九九が言えるということと九九の計算ができるということとは違うかもしれないとは思っていたけど、やはり違うらしい。娘に一生懸命漢字を勉強させてその実わたしはすでに忘れている漢字も多い。それでもうちのダンナよりはマシだろう。 すでにペンだこも無くなってしまった。そのせいで、どうもペンを持つと変だ。感触がわざとらしくて、しっくりこない。昔は文字を書く時にもこだわりがあり、わたしはウォーターマンの万年筆がお気に入りだったのだけれど、すでに何年も使っていない。字も下手になってしまった。キーボードの文字に目が慣れてしまったので、そうやって感じるだけだろうか。 昔は数字の羅列に強くて、電話番号などは一発で覚えてしまったものだけど、このところ自宅の電話番号ですら間違える。こんなんでいいのか・・・ダンナの携帯の番号も覚えていない。 生活がすでに電子化されている。お習字でも習いに行こうかな。今のままではキーボードが無かったらうたも詠めない。広辞苑使ってうたを詠んでいる人の気持ち、何となくわかった。

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  • 29 Apr
    • 文学ボイコット

      来月から、ジャンルを変更しようと思う。理由は簡単。毎日本屋ばかり行ってたら飽きるでしょ?あっさり語ると飽きてしまった。もっと普通にニュースやサウンド、映画や日常、その他諸々知的好奇心を刺激するような記述の羅列を眺めているほうが気楽になってしまったから。 久しぶりに村松恒平さんのメルマガが届く。わたしは無料版しか申し込んでないので有料版に移行した間に何が発生したのか知らないけれど、村松さんの入院と共にいつのまにか有料版は廃止になったそう。というわけで、ぽつりぽつり無料のメルマガが再び配信されるようになった。(⇒ 『文章が上達する学校』  ) 今週のネタは、「記事と文芸」について。(秘伝-通算166号) 質問者は編集/ライター。 小説を書いているほうが楽しいし、仕事に自信が持てないという悩み。 村松氏のお答え: 「ドライブが好きだからといって、タクシー運転手になって楽しいとは限らない」 もーね、だから村松さんのメルマガが好きなのよ。その時々にわたしのムーディでわがままな悩みにマッチしたメルマガが届く。こういうのは単なる偶然だから、電子文字にも相性ってあるのかもしれない。 記事と文芸の違いは、わたしでも分かる。 わたしは案外文学少女だったせいか、メタファーをちりばめたような文学的な表現を好む。そういう傾向は文学部出身者にはよくあるようで、わたしだけがスペシャルではない。でも、論文を書くようになると疎まれる。「小説でも書けば?」というのは揶揄である、少なくてもわたしにとっては。褒めてくれるならいいんだけどね、揶揄なのよ。バカにしてる。満足に論文一つ書けないのかとか、酷い論文ですね~って笑われるわけです。そういう世界だからね、仕方がない。 例えはいいけど、喩えはダメなわけ。 最初の頃はともかく、わたしの脳は次第に論文カキコに汚染されていき、今では逆にわたしのほうがダラダラとした小説的文章に堪えられない。 「あんた、いったい何が言いたいのよ!」という具合に苛々してきてしまう。 「だったら読むな!」と思うでしょ? その結果、途中で未読本として放り出す。 とてもじゃないけど、脳が優雅にストーリーを追えない。この傾向は2時間以上画面の前に座ってストーリーを眺めているのが苦痛という理由で映画を観ないことにも似ている。その2時間を確保するのが苦痛。映画館なら途中で出るのもつまらないので座っているかもしれないけど、家だとダメ。そのくせ観る時には3本くらいまとめて観ている。 切り替えなんだと思う。 今日は、映画を観よう、という気構えがないと落ち着いて座っていられない。昔は同じ映画を座る席を替えたりしながら前に座ったり後ろに座ったりスクリーンそのものを楽しんでいるくらいのゆとりがあったというのに、近頃だんだん短気になっていく自分を感じる。特に何が忙しいわけでもないのに時間が足りないような気がしてくる。 そういう中で、まるで本屋の店員のように年中書籍の話ばかり眺めていると、その世界から逃げ出したくなるほうが普通ではないだろうか? 本が好きでも本屋の店員になって楽しいかどうかは分からない。書くのが好きだからといってライターになって楽しいかどうかは分からない。書きたいことを自由に書くためにはその一歩手前に身を置くくらいがちょうどいい。ドライブを楽しむためには、タクシーの運転手になるべきではない。客を乗せるというのはそういうことだ。 それでも仕事が楽しくてたまらないという人たちは幸せだ。 作歌なら作歌、文章なら文章という具合に学び屋は楽しい。ここはしばし学生気分に浸り、そういうノリでやっていきたい。どこが違うかというと、ビジネスの話ならほかでやってよ、という気分かな。アフィリエイトなどを考慮し、今の時代は売れたら紹介手数料というのが出版物の値段に含まれるようになったらしい。消費税が上乗せされて、アフィリエイトが上乗せされて、それでいて利の薄い世界。そういうことを知りたいかな・・・知れば知るほど本を買うのが嫌になる。わたしが天邪鬼なんだろうか・・・ というわけで、ブログってるだけならほかのジャンルへ行きたい。

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  • 26 Apr
    • 「風マリア」

      ブログ名を変えた。理由は、ペンネームの意味を理解したから。 幸田さんはいつも「風マニアさん」と呼ぶ。いつもと呼べるほどコメントを残したかどうか記憶にはないけれども、それも一つの「あれ?」って感じるような印象で記憶の片隅に残る。ペンネームそのものがブログ名というのもありいなんだろうかと、いつも不可思議な気持ちでいた。 屋号。 すなわち、ペンネームというのは屋号らしい。店があれば店の名前が屋号でしょうし、芸人さんならそのまま芸名が屋号。だからペンネームというのは確定申告欄にあるように、一つの屋号であり、組織や会社名と大して変わらないことに気づく。 例えば、田中先生が田中医院を開業し、患者さんが「田中さん」と呼べば田中さんは田中医院そのものであり、院長のことだけではなくもっと広いイメージで使っている。院長は田中先生。「田中さん」は田中医院であり、一つの屋号。 というわけで、屋号「田中医院」、院長「田中太郎」というのがペンネームの由来だということを理解したために、世界観がぐるりと変わってしまい、患者さんにとっては院長の名前には興味はなく、ただ「田中さん」という屋号があればよいことに気がついてしまった。 ということは、ペンネームというのは集合名詞なのかもしれない。 インターネットを始めて、サイト名をつける。ハンドル名を使う。そのうちいくつか複数のサイトやブログを運営するようになる。それでもすべて自分が管理人なので、サイト名やブログ名はいわばタイトルみたいな感じ。作家がいて作品にタイトルをつける。作家の名前は変わらない。でも、タイトルは可変なもの。 そのうち結社や歌壇では本名を使っているために、次第にハンドル名を使うのがだるくなる。これはうまく説明できないけど、非常に疲れる。一人で複数の名前を使いこなせるほどわたしは器用ではない。 しかも、そのうち筆名を考えなければならなくなるとすると、やたらと気が重くなる。 そこにね・・・・「風マニアさん」 ピンと来た。さすがに鈍感なわたしでも・・・ というわけで、ブログ名を変更した。作品のタイトルとしてなら「風マニア」でもかまわないけれども、筆名としては変だ。娘の名前をつけるとき、わたしは本当はまぽちゃんと付けたかったのだけど、皆が反対するのでまほにした。漢字が同じなら読みかたは自由ではないかというのがわたしの主張だったのだけど、あまりにも変だと言われ、素直に直す。 ロックバンドでもあるまいし、マニアさんとは呼ばれたくない。 マリアさんと呼ばれることにもそれなりに抵抗がある。でも、友達の洗礼名を眺めるとマリア・ソフィアとかエリザベトとかね・・・マリア・ソフィアさんは2人いる。となると、わたしが洗礼を受けると、マリア・ソフィアになる可能性もあり、世の中がマリアさんだらけだということを知っているわたしとしてはマリア・ソフィアよりも風マリアのほうが自分っぽい。 そういうわけで、屋号を「風マリア」に変更。 自分で税金を払うという発想が欠如した人生のために、歌集を出版すればしたなりに赤字でも確定申告の手続きから逃れられないことを考えると、筆名というのはそういう手続きのために存在することを知る。 それとどう言ったらいいのだろう・・・今までは、わたしという人がいて、そのパーツとして歌人というわたしが存在していた。でも、筆名をつけるというのは、いわば独立宣言のようなものであり、わたしという人に依存しない歌人が独り歩きすることになる。それが作品を世に送り出すという気分なのかもしれない。 わたしは、白石として作品を世に送り出すのではなく、風マリアとして作品を選ばなければならない。歌壇は、歌人としての力量世界であり、一度読んだ歌を読みたくないとまで言われたことがある。常に新しい歌を詠み続ける力量を試される。つまり、個の世界。 でも、集合名詞として世界を描いたとき、風マリアを構成するのはわたしという個人ではなく、作品である。 ・・・・・・・・・・そんなことを考えていたら、歌が詠めなくなるのではないだろうか。 いずれにせよ、2万首までは遠い。来月までに9000首。ちょっと今のペースではきついな。わたしの世界ではなく、風マリアの世界を構築すること。課題。きつい。難しい。いやになるかも。わからん。なんでもいいや・・・おおげさ。おばか。直らん。直そう。今。今、今。今は今。今。(ヒマではない。)

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  • 23 Apr
    • 言葉のない対話

      柔道の谷 亮子がフランスで挙式し、彼女がクリスチャンなのかどうかわたしは知らないけれども、柔道の世界チャンピオンがクリスチャンでも驚くに値しない。   日本社会という制約の中にいると、文化として宗教を受け止めている人たちが多いことに気づく。スピリチュアルな世界においては、一切の制約は虚しい。わたしは日本人で、案外、日本人としてのプライドも高いし、愛国心もそれなりにあるかもしれない。それでいて、わたしはクリスチャン。日本の文化を否定することは自分や祖先を否定することであり、わたしにはそういう気持ちはない。   仮にわたしが生まれる時代が違って、丸髷を結っていたとしても、十二単を着ていたとしても、わたしはクリスチャン。精神は自由。天皇制を否定するわけでもないし、神道や仏教を否定しているわけでもない。ただ、神は人間よりも高いところにおり、唯一の存在であるとスピリチュアルに感じているだけ。つまり、天皇よりも、教皇よりも、大統領よりも、あらゆる世俗の権力を凌駕して絶対的存在としての神を思う。   それは思想という生やさしいものではなく、いわばスピリチュアルな世界の領域であり、理屈を凌駕して存在している。だから、それを言葉で表そうとすると、わたしのつたなさでは語りつくせないというだけのことであり、言葉を虚しく感じたとき、それをアウトプットするのに適していたのが詩の世界なのかもしれないし、どうしてそれが短歌という定型詩の世界なのか、わたしに分かるわけがない。   ただ、短歌という定型の狭い世界において、精神は自由ではないかと感ずることが、わたしには自分の置かれた何かをそれにより一層感じ入っているにすぎないように思うことがある。枠組みがあり、わたしはある種の制約の中に生きている。でも、精神は自由。   わたしの生きている世界や、物理的に存在している自分という存在とそれを取りまく環境とを考えた場合、そのどこに神がいらっしゃるのか懐疑的かもしれない。それでいて、それらのものを凌駕し、ひたすらスピリチュアルな自分を感じたとき、わたしはそこに神の存在を強く感じてしまう。   果たして、わたしはそれをどうやって伝えたらよいのだろう?   わたしに何ができるだろう?   無力。   いささか手続きに基づき、実験結果を述べるように語れたらどんなにかすっきりするだろう。理路整然と語る。わたしが少し『精神の自由』について書き始めたばかりの頃、そういうことを試みていたことがある。でも、それはもはや過去のことであり、真理に近づくにつれ、それが酷く虚しく、この「真理」という日本語ですらわたしには何やら汚染された言葉のようで使うのが嫌いである。何かほかに適切な表現がないものかどうか思索することもある。   それでいて、わたしにはその手の適切な表現を考える能力が欠如しており、共通の用語として存在しているものをどうこう語っても意味がない。誰かが勝手に歪曲し、使っていたとしても。   そういうもどかしさすら、ある瞬間消えてしまう。   混沌とした世界から光が出ように。   すべての思考と感情が停止したような真っ白な瞬間。   静かな愛。   言葉のない対話。   イザヤ書 30. 18-26 救いのとき    

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プロフィール

りん

性別:
女性
お住まいの地域:
茨城県
自己紹介:
Copyright@Aihana Sugai

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