• 23 Jun
    • 『パウロ-伝道のオデッセー』 ルナン著

      パウロ―伝道のオディッセー/エルネスト ルナン 病気になっても次から次へと仕事は溜まっていくし、やらなければならないことも発生するし、それでいてフラフラするものだから少しも片付かない。ちょっと動くと疲れるし・・・入梅も手伝って、倦怠感が続いている。 ルナンの『パウロ』を読み終える。わたしが生まれる100年くらい前に書かれた本とは思えないほど面白かった。翻訳本なので読みやすいのかもしれないけど。 この本は、かなり物議をかもした人物によって書かれたものらしい。大学でヘブライ語を教えていた頃、イエズスを「比類なき人間」と言ったため停職になっている。フランス育ちのケルト人で、自らも聖職を志したこともあるのだから本当は信仰心の篤い人なのだろうけど、カトリックについてはボロカスに言っている。でも、面白い。 カトリックの教育を受けて一番役に立っているのは、何を言われても柔和にしていられることかも。これは仕事をする上で役に立つ。いろいろクレームがあったとしても柔和にしていることにより、自然と和らぐことが多い。それでは本当は怒っていないかといえばそういうわけではないらしく、たまにスコールのように爆発するが、あまり長続きしない。 初期のキリスト教の律法についての確執はあまりにも幼稚な気がする。そういうことで暴動になったり殺し合いになったりするのだと思うと、恐ろしくはなるが、親が子どもに決まりごとを言うのは当たり前のことだ。あーしなさい、こーしなさい、あれをやっちゃいけない、とか。何のためにかと言えば、子どもを危険から守るため。それと同時に、子どもの公園デビューを考えると、モノの取り合い、ケンカ、じゃれあい、年中騒動が絶えないし、どんな立派な人になろうとも、誰でも子どもの頃はそんなものだ。 そうやって考えると、16世紀の宗教改革などはまさしく思春期の反抗期の若者という感じ。人類も少しは成長したのかもしれない。 本を読んでいると、やたらと神学という言葉が出てくるけれども、もともとそういうことに興味があったわけではないし、何世紀に誰が何を言おうと、今の時代に誰が何を言おうと、それはその人の勝手。所詮はイマジネーションの産物という気がしてしまう。 わがジーザスが神か人か・・・ 死んで神になったと考えるほうが仏教的な発想かも。正確には、神の右に座した、と言うべきか。そして、聖霊となりわたしたちと共にいる。 わたしは仏教の家庭に育ったせいか、すんなりそういうことを抵抗なく受け入れてしまう。逆に、復活してからだを持ち、魚を食べていたというほうが理解しにくい。 パウロが生前どんな人だったのかはともかく亡くなったら聖パウロとなり、神の啓示を受けて布教したという話も、アシジの聖フランチェスコの出家した修行僧のような生活も、東洋ではめずらしくも何ともないような気がする。 日本でも、高僧という人たちがいて、それぞれに始祖となり宗派がある。元は一つなんでしょうけど、ローマ・カトリックみたいに統一した教会組織はない。それでも何も困っていないみたいだけど・・・ どうでもいいんだよね・・・くま先生は若い頃にキリストの教えに感銘を受けて、聖公会で受洗したらしいけど、わたしはパウロの手紙を読んで、あまりにも古臭くてグワッとなった記憶がある。実際、古いんだけど・・・ 要するに、教えに感銘を受けて信仰心を持つ、というわけでもなさそうだ、少なくてもわたしの場合。いまだに教義を理解していないような気もするし・・・ 終わりの日がいつ来るかもわからないのに煉獄でどれくらい待つんだろうとこの前のお婆さんに言われて以来、救いのことも考えないようにしているし・・・ 要するに、愛と言うからわかりにくいわけで、パウロの手紙の愛という言葉をイエズス・キリストに置き換えたらわかりやすいかも。愛=イエズス・キリスト。だから、ほかの宗教には愛はない。イエスがいないから。どんな善いことをしても愛がないければ無に等しい。というのは、イエスがいなければ無に等しい、という気持ちかもしれない。どんなに素晴らしい教えでも、イエスがいなかったらつまらない。それが本音に近い。(いや、それがホンネだ。) (マタイ 23. 1-22)

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  • 02 Jun
    • 『ナザレのイエス』

      聖霊降臨の主日・・・・教会の誕生日。 なぜかすごく感動した。 入信のときも、受洗のときも、ぼーっとしていただけだが、神父さんに、「今日は教会のお誕生日です」と言われたとき、なぜかすごく感動した。聖霊がやってきたとき、教会が生まれた。教会が生まれたということに感動したのだろうか。あるいは、教会とは生まれるものなのだ、ということを知り、もはやあることが当たり前だと思っていたことが、実は、祖父母や親にも子どもの頃があったのだということを子どもの頃に初めて知ったときのような感動を覚えたのかもしれない。 プロテスタント系の書籍を途中で読むのをやめて、今、ベネディクト16世の「ナザレのイエス」を読んでいる。これもすごく面白い本。 ナザレのイエス/教皇ベネディクト16世ヨゼフラツィンガー ややこしいことは抜きにして、ものすごくわかりやすい。山上の説教や主の祈りなど、何回読んでも言っても、本当の意味はわたしにはわからない。わからないけれども、教えられて、そのまま覚えている。でも、考えてみれば、わたしのような無知な人が尋ねるのならともかく、イエズスの弟子たちが、イエズスに、どうやって祈ってよいのか尋ねるのは不思議なこと。ユダヤ人は子どもの頃から会堂へ行き、宗教どっぷりの生活をしているのだから、今さら尋ねるのは不思議なのである。 聖書を解釈を読みながらやっと読み終えて、この本を読み、実は何もわかっていないことに気づかされる。 ほかにイエズスについて書かれた本はたくさんあるけれども、どれもあまり共感しない。ただ、知識として、ユダヤのことについて少し知る、というだけのことで、それがわかったからといって聖書がわかるわけでもないことを知る。そしてあらためてこの本を読み、わたしたちはイエズスについて実は何もわからない、ということを前提に、イエズスのことを考えると、イエズスの神秘と単純さに驚かされる。 単純さに驚かされる・・・ イエズスは少しも嘘を言っていない。 「父から聞いたことをそのまま言っている」のであって、自分のことを話しているわけではない。 そうすると、無理なんだな・・・ 行ったこともない、見たこともないところを誰かに訊いても、わたしがそれを理解するのは不可能だし、逆に、日本のことを知らない人たちに日本のことを説明しようとしても不可能。だから、わたしがみことばを理解できないとしても当たり前だというのは言いすぎだろうか。 でも、面白いから・・・ ガラス越しでは、何が言いたいのか聞こえない。 おそらくは、わたしはガラス越しでイエズスの話を聞いているのであり、そのガラスはわたし自身の心の壁なのかもしれない。 現存する神・・・ つまり、神さまは生きている。 でも、神さまが生きていることを認めてしまうと、なんだか自分が死んでいるような気がしてしまう。ややこしい壁。 (イザヤ 36. 17)

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  • 11 Aug
    • 『沈黙』 遠藤周作著

      沈黙/遠藤 周作 ¥540 Amazon.co.jp この本を読んだ後に、ドラマ『はだしのゲン』を観たせいか、踏絵という発想と非国民という発想が連動し、集団と個の違いや、信念や心情や、それを拷問や死刑を含めた意味での暴力でねじまげようとする時代背景や、その他諸々宗教って何なのかとあらためて感じたのでした。 この小説の主人公は背教の司祭なのだが、ユダになぞらえるようにキチジローが出没する。彼は弱いがゆえに踏絵も踏むし、誰をも裏切る。それでいてずっと転んだ司祭のそばでずっと生涯を終える。それでは転んだ司祭が本当に棄教したのかと言えばそれもどこか中途半端で、キチジローですら時代が時代なら単なる陽気な切支丹にすぎなかったのかも・・・という小説本文中の回想もどこかシニカル。生まれた国によって自然と宗教が決まってしまうというのも事実だろうし、それを無理にねじまげようとすると、非国民的な集団からの逸脱とみなされる。それでは本当に宗教によって国がキープされているかと言えば、本当は違うのかもしれない、という疑念がいつもつきまとう。 お盆の季節になると、人は戦争を思い出し、ほかの蝉がうるさく鳴く中で、羽を広げて道路に落ちている蝉を眺めることになる。おそらくは自然死なのかもしれないし、アクシデントがあったのかもしれない。蝉の一生は短く、夏とともに彼らの鳴き声も聴こえなくなってしまう。それでいて、夏になると再び蝉のうるさく鳴く暑さを迎える。 自民党が大敗した。おそらくは年金のことよりも、「しょうがない」発言のほうが静かな影響力を持っていたような気がしてならない。憲法改正や教育基本法の改正のほうが遥かに人の気持ちの中に波が引くような感情をもたらした。怒りではない。ただ、静かなる否定。むしろ、無視に近い何かすら感じた。 毎年毎年蝉の鳴く季節を迎えると、蝉は死に、また蝉の季節が訪れることに気がつく。 暑い季節、教会へ行くと、娘が言うのは、「わたしはクリスチャンではないから行きたくない」という台詞と、「この教会はいつも誰もいないね」という言葉。人の気配のない教会にも慣れてしまい、それでいて入り口が封鎖されているわけでもなく、ただ、人は皆それぞれ忙しいのだという気持ちにさせられるだけ。それでも何か行事があるときには誰かいるのだろう。が、しかし、誰もいないというのもさっぱりしていていいものだ。神さまとだけお話できる。 誰もいない教会に慣れてしまいそうだ。それでも踏絵の時代に比べれば実に平和。

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  • 23 Jul
    • 『銀魂3年Z組銀八先生 2』 空知英秋・大崎知仁著

      銀魂3年Z組銀八先生 2 (2) (JUMP J BOOKS)/空知 英秋 ¥680 Amazon.co.jp すみません・・・いったい、この本、なんですか? 娘が読んでいるから漫画かと思ったら小説でした。 おそらくは演劇部で使う本なんだと思うけど、漫画を活字で読むってむちゃくちゃ変な感じ。おちと勢いだけで進んでいき、さらにノリが漫画なので、面白いような気もするし、わかりにくいような気もするし、ひたすら想像力だけで読み進んでいくしかないジャングルのような小説だった。 でも、まんざら嘘っぽくもなく、この前、大阪学芸高校の生徒が1人で73校も合格した記事を読んだけど、学校が受験料を出した上に報奨金まで出して合格実績をアップさせる時代だもの・・・生徒は生徒であり、かつお客さんであり、成績の良い生徒は学校でも予備校でもひっぱりだこ。世の中、受験が絡むと教育も何もないような気がする。教師もサラリーマンだし、合格実績に応じてボーナスの額も違うような気がするのは気のせいだろうか・・・ この本を演劇のネタにして、娘が近頃描く漫画ちっくなイラストの少女はやけに冷たい目をしている。浴衣を着た女の子の絵を見せてくれたが、どうも下品な気がして、なんて言っていいのかわからず「・・・・・」状態になっていたら、無理やり何かを言わせようとするので、観たまんまを答えてやった。すると、これは「ヤクザ少女」だから当たり前だと言う。不良ではなく、「ヤクザ少女」。よーわからん。 そういうのが友達にもウケる時代なのかも。日頃、勉強ばっかりやらされているから、あんなのを描いて皆で喜んでいるのだろうか。空想の世界だから、好きにやってくれ・・・

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  • 14 Jun
    • 『プロ級ナンプレ』 ウェイン・グールド著

      ウェイン・グールド プロ級ナンプレ―中毒確実!!脳を鍛える数字パズル ナンプレも飽きてしまって、この手の文庫がたくさん売られていることは前から知っていたが今までは素通りしていた。でも、ショッピングセンターに駐車して、駐車料金を支払うのが悔しいので本屋へ入り、一番手ごたえのありそうなのを選んだ。 ・・・・・・・・が、しかし、素晴らしいですね~♪ 解き味がまるで違う。 ナンプレも簡単すぎると何となく機械的な作業のようでつまらない。 が、しかし、これは次から次へと解きたくなるほど切れ味がある。一つ躓くと全部やり直さなければならず、間違えて放置するにはもったいなさすぎ。というわけで、修正テープを使ってまで遊んでいます。 お昼休み、今日は早く仕事に戻らなければ、という気がしていたが、ついうっかりパズルにはまって遅れてしまった。そういう時に限って仕事が多い・・・ なんかね・・・

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  • 28 May
    • 『マルセル・エメ傑作短編集』 マルセル・エメ著 露崎俊和訳

      マルセル エメ, Marcel Aym´e, 露崎 俊和 マルセル・エメ傑作短編集 この本はとってもおもしろかった。 読んでいて楽しくなったり、夢や希望が持てたり、そういう類の本ではない。逆に、ぐったりするような内容が多い。 ある日サーカス団のこびとが急に成長し、美しい若者になってしまったとしたら? 花形スターで永遠のこどもだった彼が、今度は自分で生活費を稼いだり、仕事を見つけたりしなければならなくなる。 浮浪者やならずものが主人公だったり、犬の話だったり、ある日年齢が半分になってしまい、年寄りが若く、若者はこどもに・・・ なんか、こう、いびつな小説が多く、シニカルなトーンで描かれている。願望が願望として達成されてしまったら、世の中が大変なことになってしまう・・・という夢も希望もなくなるような語り口で、ドラマチックな世界が展開してゆく。

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  • 27 May
    • 『泳ぐのに安全でも適切でもありません』 江國香織著

      江國 香織 泳ぐのに、安全でも適切でもありません とりあえず書評を書いておこうかというか・・・ わたし的には栄養士のつくった味のない食事を連想してしまうくらい読後の印象の薄い短編集だった。今、エメを読み始めたので、なんとなくそちらに引きずられているのが原因かもしれないけど。 それではなんで買ったのかと言えば、売れ筋だから一冊くらいは読んでおこう、とか、短いお昼休みに軽く読めそうだから、とか、大して深い意味はない。どことなくパステル調のデッサン画を観ているようで、それがものたりなさの原因かもしれないが、さりとて濃厚に書かれたこの手の小説を果たしてランチタイムに読む気になるか疑問。 多くの題材が、中年男と若い女の不倫。おとなになりきれない夫婦。中でも犬小屋で暮らすようになった夫の話は笑ってしまった。恋愛の延長線上に結婚があったとして、その状態の中で生活するとこうなりますよ、という逸話なのだろうか。 若い人にはおもしろいかもしれないが、どこか醒めた眼で眺めてしまう。

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  • 17 May
    • 『プラナリア』 山本文緒著

      山本 文緒 プラナリア この本、すごく面白かった。 帯の「働かないって、いけないこと?」という文字に惹かれるものがあったのだろうし、それ以上に他愛もない日常が何となくリアルに書かれていると、他人の心の中や生活を覗き見しているような気分になり、うしろめたい気分を覚えながら、何となく読んでしまった。 小説を読んでいて「うしろめたい」という言い方はすごく変なのだけど、飲み屋に入ってたまたま知らない人たちの会話を聞かないふりをしながら聴いているときのようなうしろめたさ。知りたくはないが、どうしても知りたくなってしまう。 たとえば、乳がんの女の子の話やご主人がリストラになった奥さんの話。収入もない彼氏からプロポーズされた女性の話。どこにでもあるような話でもあり、それでいていつわが身にふりかかってもおかしくないような話。そういう人たちが何を考え、どうやって生活しているのか、興味がなくてもつい知りたくなってしまう。 不幸自慢の羅列のような気がしなくもないが、それぞれの主人公が淡々としているのがやけに印象に残った。

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  • 14 May
    • 『ネジ式ザゼツキー』 島田荘司著

      島田 荘司 ネジ式ザゼツキー ひとこと感想としては、こんな本、読まなければよかったな~、という感じ。 冒頭、記憶に障害を持つ男が出てきて、その男が書いたファンタジー小説がつづく。ネタとしては面白い。が、しかし、内容があまりにも猟奇的で、島田作品としてはめずらしいものでもなんでもないが、20年以上も昔、初めて島田作品を読んだ頃には単なるフィクションにすぎなかったものが、かつて義理の姉の家の近所に住んでいた少年Aが今度はわが家の近所に住んでいるという噂があり、その噂をわたしに教えてくれた人が心底怯えているため、時代とともにわたしも加齢したせいか、読まなければよかったとしみじみ感じてしまった。 いつの頃からか、島田作品の中には実話がたくさん収められるようになり、史実に基づく生々しい写真や話が多く登場するようになった。でもそれはわたしにとっては心霊写真を眺めるときのような気分であり、実態をともなわない、リアリティが欠如した世界、時代の出来事にすぎなかった。だから小説なんでしょうし、だからフィクションなんでしょうし、それが何となく推理小説の魅力でもあった。 本格ミステリーというのがどういうものなのかわからないけれども、パトリシア・コーンウェルといい、島田荘司といい、史実のミステリーを題材にしたものを脚色した小説を書いており、視点という点では興味深いが、今のわたしの気分としてはどこかこころがすさんでしまいそうで、気分転換に買った推理小説がもう一冊どこかにあるはずだけど、何となく読む気力が欠如してしまった。 それと同時に、納骨の際、お坊さんの説法があり、念仏のサンスクリット語の講釈を長々と始めたのにはまいった。それは一つにはわたしがお数珠の代わりにロザリオを持っていたのが原因で、念仏の書かれたお墓の前で、娘がロザリオを持っていたのが気に入らなかったのだろう。すなわちわたしは坊さんにまで信仰心が足りないと説教されたわけで、もうわたしのことは放っておいてほしい、というか、生命保険会社の社員に企業健診を紹介する代わりに生命保険に入れと言われ、やんわり断ったときに文句を言われたときのしょぼい気分にも似ている。 宗教と保険会社を一緒にするのはどうかと思うが、なんかよく似ているな~、と思った。

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  • 09 May
    • 『冷たい密室と博士たち 』 森 博嗣著

      森 博嗣 冷たい密室と博士たち 人間は自分にはとうていわからないであろうことを考えているときが一番楽である。というのは、ひたすら解を待てばいいから・・・ という大昔の退屈な数学の授業を連想してしまうような読みっぷり。 だったら最初に問題があり、その解き方だけを解説してもらって覚えたほうが遥かに時間の無駄を省ける。にもかかわらず、いつも順序だてて延々と説明されたあげく、「はあ?これだけのことだったの??」とイライラしてしまい、しまいにはどうでもよくなってしまうような感覚にしばし浸りながら、何となく読んでしまった。 犯人と被害者の人間関係と動機がわかっていれば、ものすごく簡単なトリックなのだけど、それが最後までわからない。しかも、動機がわかったとしても、そういう動機によってどうやったらこんなに綿密な命がけともいえる計画を立てて実行しなければならないのか、そのさらなる動機というか気持ちがわからない。ナットクがいかない。理解ができない。だから、答えがわかっても、「だからなんなのさ?」的なすっきりとしない後味のわるさが残る。 何が真のミステリかといえば、それを何の疑いも持たずに受け入れてしまう人たちがいる、ということがわたしにとっての最大のミステリかもしれない。わからない小説なんだよね・・・何がわからないかといえば、そこに出てくる人たちがわからない。 で、わからないから、わたしにはわからない、一生懸命に考えてもわからない、わからないから解を待つだけ。 というわけで、何も考えないでよい、という理由だけで、何となく読んでしまう気楽な小説。

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  • 06 May
    • 『転がる香港に苔は生えない』 星野博美著

      星野 博美 転がる香港に苔は生えない ゴールデンウィークを過ごすのに、分厚い本を選んだ。 時間を気にせず本を読んだりネットをしたり、そういう主婦ライフをずっと剥奪されているため、この数日はずっと活字を読んでいる。 どうして活字を求めるのか? 感想としては、まずはちょっとした気分転換のため。それから、自分の日常を見つめなおすため。誰かのことを考えるため。自分について考えるため。 休息や息抜き。 当たり前のことだけど、外に出れば自分と違った価値観や生活をしている人たちと一緒に何かをしなければならないわけで、これが仕事以上にストレスとなる。自分がストレスを感じているということはほかの人たちもストレスを感じているのだと思うし、数の論理が働かない職場のため、どうしても異分子としてはどこかでガス抜きが必要な気分に陥る。 それがどうしてこの本なのかよくわからないけれども、わたしが感じている息苦しさはおそらくはアジア的息苦しさなんだと思うし、年上の世代の人たちと一緒にいるといつも感じてしまう息苦しさ。 どちらが正しいかということではなくて、いつも上へ上へと進もうとする香港的な息苦しさは20世紀後半の日本の息苦しさでもあり、もしかするとそういう息苦しさが当たり前なのかもしれないし、他愛もなく好きな時間に起きて寝て本を読んでいられる気ままさとは相容れないからかもしれない。 中国人のノンフィクションは面白い。何となく日本と似ているからかもしれないし、他人の人生や生活を眺めることにより、自分の生活を考えてしまうからかもしれないし、自分が何を不満に思っているかがわかるからかもしれない。 別にわたしにとって香港が中国に返還されようがされまいがどうでもいいことで、むしろこの何年かの間にリゾートへ行けば大抵は中国人の団体や韓国人がやけに目に付くようになったことが逆に不思議でもあるし、当然のことのような気もするし、ただ、つい最近まで台湾人かと思っていた中国人のツアー客が本当に中国人だということを知らなかったので、あのかつての農協を思わせる人たちとビュッフェでは一緒になりたくないとか、その程度の興味でしかない。 ある若者が言うには、「中国人や韓国人は昔の日本人みたいだから嫌い」だそう。 その親が言うには、「昔の日本なんて知らないくせに。」 その話を聞いて、わたしはそのお嬢さんが何を言いたいのかがすぐにぴんときたが、いざそれを母親のほうに伝えようとしてもうまく伝わらない。そこでわたしは何となく国籍の見分け方みたいなことを大雑把に話す。たとえば、空港でずっと列をなして大家族で移動しているのが中国人で、韓国人はカップルや核家族で来ている人たちが多いし、日本人に似ているとか。違いと言えば、日本人は髪の毛を染めているし、出入国カードをなくして微笑んでいられる若者も日本人、とか。 すると、韓国人が日本人に似ているのは、かつて日本の植民地だったからだと言われ、韓国人が聞いたら怒るだろうなぁ・・と思いながら話を打ち切る。なんか、こう、もともとの日本という国がいかに大陸と似ているか?ということを知ったらよくもわるくもショックを受ける世代の人たちに何を言っても無駄なのは今までの経験上理解している。 あっさり語れば、ある若者が言う昔の日本人というのは、親の世代以前の人たちのことを暗喩しているわけで、親からすればもっと昔の日本人が身近にいるためにまさか自分がその中に含まれているとは想像もしていない。 長寿社会ってすごいと思う。 姑さんが、年中、「長生きなんてしたないわ」とこぼす。そのたびに、「いや、充分長生きしていると思いますけど」と言うわたしもわたしだけど、視点が違うのだから仕方がない。わたしからすると、そのうちひ孫まで生まれるだろうに、と思ってしまうし、姑さんにしてみれば、高層マンションでひとり暮らしをしているため、どうもぴんとこないらしい。というか、もはやひ孫までいくと、自分の支配からまるで外れてしまうために興味がないのかもしれない。 なんか、こう、常に新しいものを求め続けるエネルギー。古いものを破壊して新しいものを建ててしまうエネルギー。それが発展なのかどうかは知らないが、そういう時代に生まれ育ったがゆえに、前にも後ろにも進めない。そういう気がする今日この頃。

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  • 03 May
    • 『六番目の小夜子』 恩田 陸著

      恩田 陸 六番目の小夜子 久しぶりに小説を読む。娘の本。 ストーリー的には、前半と後半とが微妙にタッチが違い、後半のほうがどこかスリリングで面白かった。ホラーを期待して読めば期待はずれだろうし、謎の転校生が次第にごく普通のキャラへ変貌していき、結局、真相がよくわからないままに終わっていた気がする。 ただ、学校というところが器が一緒で中身だけが変わっていく、つまりは川の流れのようなものでいつも同じ水が流れているわけではないのに川が川として存在しているだけに見えてしまう、ということを、うまく伝えているような気がして、それは学校に限ったことではなく、おそらくは社会という存在がそのようなもので、あるいは生態系というものがそのようなもので、どこかそういった器を客観的に眺めてしまえるようになったとき、作者の言わんとするところがうすらぼんやり見えてくるような気がする。 つまり、実際にはストーリーテラー的な要素としては平凡で凡庸な気さえするけれども、それが平凡であるほどにどこか淡々とした面白さと共感を感じてしまう。一度は絶版となった小説がひっそり息を吹き返していったのは、最初に読んだ人たちがおとなになったからかもしれない。 ちなみに娘がこの小説を読んでいるのは、演劇サークルの練習で一部を使っているから。同じ制服を着て、同じ学校へ通っているという安堵感と連帯感は、互いにまるで知らない者たちですら既知の関係のような気がしてしまうほど。懐かしいような気もするし、今はそれがどこか重荷のような気もするし、一つわかっているのは、同じ小説を読んでいても、娘とわたしとではまるで違うことを考えながら読んでいるのかもしれない、ということ。

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  • 24 Nov
    • 『グレート・ギャツビー』 スコット・フィッツジェラルド著 村上春樹訳

      スコット・フィッツジェラルド, 村上 春樹, 村上春樹 グレート・ギャツビー タグを打ち込むのも面倒になってしまっているのに気づく。 毎日やっているから毎日できるのであって、たまに画面に向かうようになるとすべてがかったるい。 それでいて、こんな時間にまで起きているというのは、朝から出勤する意思が欠如し始めたからでもあり、そのうちまた家でだらだらとした生活に戻るのだろう。それが素晴らしいとは思えないが、少なくてもお天気を気にするように来院患者数を気にするような生活からは逃げ出したいと思うほうがまともな気がするし、デパートへ行き、銀行へ行き、その客足を探るように暇な時と忙しい時とを店員と立ち話をするようになる、というのはどうも気が引けるのである。(病人は少ないほうがいいに決まっている・・) 天邪鬼というものはとことん天邪鬼であり、電子カルテを導入し、やたらとスピーディなチェックイン・チェックアウト。来院患者数も少ない。その上、数少ない常連さんは来院すると診察券も出さずにチェックインし、そのまま処置室へ行ったりする。たまに待っているのは小児科の患者が多い時で、不思議なことにほとんどのお子さんたちは本を持参している。 といった具合だから、待合室にこんな小説を置いても、誰も気がつかないだろうと思いながらも、仕事の合間に本くらい読んでいてもいいだろうと思いつつ、生真面目な受付の女の子は本など読まないし、暇な時には、医師も看護師もまるで文学には興味がなさそうに、もっぱら談笑にふけっている。 そこで、誰も読まない本を(最初からわかっていたはずだ・・)、わたしは書類と一緒に持ち歩き、長めのランチを食べながら暇をつぶしている。看護師たちはお弁当持参。わたしは外でランチ。それが素晴らしいとは思えないけど、わざわざお弁当をつくり、気を使いながら一緒に食事をして、休憩時間をつぶすのはもったいない。 が、しかし、受付の子に、「外食はお金がかかるし・・」と言われ、おそらくはそういうことのために彼女は学校が終わってからアルバイトをし、週末までバイトをしていたから、「今の仕事をするようになってから楽になりました」と言われてしまうと、学生時代はそれが当たり前だったと思いながらも、返答に窮したりしているあたし・・・ そのくせ、「わたしにはお弁当をつくってくれるお母さんがいないから」と言って逃げる。 どうでもいいような気がするし、それでいて、今頃になり看護師が、「(うちのダンナが)ほかの職員と一緒にご飯を食べないのは自宅へ帰っていたからだと思っていました」と言う。・・・・・いや、そうではなく、単に病院の食堂のご飯が美味しくなかったせい、と答えたかったが、事実はそれとも違い、「食が細いから、そのことを指摘されるのがいやみたいです」と、わたしはダンナの台詞をそのまま伝えた。 が、しかし、正確には、そういうこともあるだろうけど、本当の理由はずっと職場に束縛されているのが好きではないから、というのが大きな理由であることをわたしは知っているし、ひとりで食べたいものを食べに行く、というのがそれなりのストレス発散だということも知っている。なぜなら、わたしも同じだからだ。 つまらないことかもしれないが、そうやって他人に説明するのが困難なことを、あっさり共感できるからこそ長年一緒に暮らしているような気がする。ほんとうにつまらないことなのに。 ******* 『グレート・ギャツビー』を読もうと思ったのは、その冒頭を読んだからでもあるし、その冒頭から連想するのはどこかの地方都市の裕福な家庭に育った若者の苦労話とサクセス・ストーリーを思い描いたからでもあるし、それでいてアメリカ東部を舞台としながらもそこに集まっているのは西部の出身の人たちばかりだし、どこか地面に足のついていない様子が気に入ったからかもしれない。 そう・・・ どこか地面に足のついていない生活。 もっぱら、それはそれで意外でもない展開。意外でもない展開が、無機質な視点で語られている。フィッツジェラルドの人物描写は面白いし、かくも美しく自然や風景が描写されているのとは対照的。自然が美しく文学的に描写されるほどに、人間の行動が奇妙にも微妙に波乱を含んだまま好奇心をそそられる存在となる。 もし、わたしが若ければ、もっとストレートな描写や展開を望んだかもしれないが、単なるゴシップとなるようなストーリーをドライなものにしている美しい描写が快適に感じられた。 そして、わたしはまた地面に足のつきそうにない、不真面目な生活に戻りそうな予感がしている。何が不真面目というわけではないが、来院患者数をカウントするような生活よりも、不真面目な書評を書いているほうが、何となく救われそう。(うそぶく)

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  • 15 Mar
    • 女性週刊誌考

      女性週刊誌というのを初めて買ってしまった。理由は簡単で、ブログ仲間のぐるぐるさんが20年ぶりくらいで作品発表(マンガ)するから。原作者がいて、毎週連載。 最初は、一体どんな作品だろうと思ってくらくらしていた。女性週刊誌のマンガというのはわたしが子どもの頃に読んだ漫画家の作品が多い。しかも、内容が過激で、美容院で美容師さんが男だとうっかり読んでいられないなーと思うほど。だから、目の前に女性週刊誌が積まれたら、マンガは飛ばすことにしている。 が、しかし、ぐるぐるさんのマンガはほんわかしていて、登場人物のイラストもブログで拝見していたせいか、いかにもぐるぐるさんっぽく癒し系のマンガ。 ストーリーは知らないが、登場人物が当たらない占い師と閉店間際の喫茶店のマスター親子。そしてこれから登場するであろう謎の人物を予感させる展開。唯一わかっているのは、メイドカフェならぬ執事カフェの誕生?(こらっ、ネタをばらすな) *** ・・・・・いや~、でも買うときちょっと恥ずかしかった。レジのまつげの長い女の子がレジを打つときわたしの顔を見る。 何となく最初に籠に入れて、何の雑誌かわからないように裏返しに手前に置き、レジの人に、「おや?」という具合で怪訝そうな顔をされ、田舎っていやだなーと思いつつ買った。週刊誌というのは駅の売店や夜中のコンビニで、いかにもひまつぶしという感じで買わないと変に思われるのかもしれない。 そのマンガのすぐ後に、島田荘司さんの小説があったので一瞬感動したけど、数ページを読んだのではまるで内容がわからない。タレントの記事が多いけど、ほとんど顔も名前も知らない人ばかり。(わたしは宇宙人か?) 唯一まじめに読んだ記事は、子どもをフィギュア選手に育てるためにどれくらいお金がかかるか、という記事。初心者の教室は普通の習い事と同じくらいだけど、選手コースだと年間最低300万円はかかる計算。しかも、トップスケーターになるとコーチ代だけでも年間1千万とか2千万とか?(その前にスケート場がないことに気づいたが・・・うちの周辺) まったく関係ないが、娘が近頃ピアノが上達しているので驚く。幼稚園から始めて、娘がレッスンを嫌がるので小学校に入ったら辞めさせてしまった。こんなことなら嫌がっても続けさせたほうがよかっただろうか。・・・・・・なんてね、記事を読みながら考えてしまった。おそらくは、髪の毛をカットしてもらいながらそういう話の続きをするのだなーと、このところカットをサボっていることに気が付いた。 *** *「執事カフェはジョーダンですから~~(笑)」・・・・だそうです。(汗

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  • 08 Feb
    • 『コンニチハ世界の子どもたち』 田沼 武能著

      田沼 武能 コンニチハ世界の子どもたち *** この本は写真集。たぶんこの本だったと思う、としか言えない。ずいぶん前に買って、すでに誰かに差し上げてしまったので、手元にはない。 子どもって何ナノかな・・・と思う。 子どもというと、あるイメージがあって想像しているけど、世界の子どもたちはあっさりそのイメージを破壊してくれる。それこそ宝石で飾られた中東の女の子もいれば、谷中の商店街でゲームをしている日本の小学生もいるし、裸でジャングルの川遊びをするパプア・ニューギニアの子どもたち、南米のストリート・チルドレン、あるいはちびのくせしておとなの持つような立派な剣を腰につけた目つきの鋭いベドウィンの男の子。 その昔、子どもという概念はなく、小さなおとなとして子どもが扱われていたことを考えると、子どもとはまさしく次世代に生きるおとなとしか思えない。 *** 先日読んだ『日本人とユダヤ人』 の中で、しきりに遊牧民の生活が書かれており、日本が世界の別荘のように平和でのんきな国なのは遊牧民と接触がなかったかららしい。つまり、安全と水はタダだと思っていたし、城壁のない都市というのがめずらしい? 城壁どころか、鍵もないとかね・・・その昔は蚊帳の中で窓を開けたまま寝ていたとか? 行ったこともない国を偏見で見てしまいそうだから、真に受けたくない話だが、遊牧民というのは略奪も生活の手段らしい。農家が刈り入れを済ませると次に彼らの略奪が始まる。農家を襲って殺し、収穫物や家畜を奪う。 聖書の中にも奴隷の話はたくさん出てくるけど、この奴隷という概念も遊牧民を理解していないと理解できないらしい。つまり、ヒト家畜。家畜が生活の糧。そのためヒトの売買も成立する。 伝統や文化というけれど、それが民族であり、国家であるというのはどうも。アベルとカインの話から始まり、すべての民族のルーツは一つと語る一方で兄弟は他人の始まりどころか諍いの始まり? *** 旧約から新約へ。 福音か。 宗教が原因で戦争が起きると勘違いしている人たちは、聖書を旧約から新約まで読むべき。わたしも今日に至るまでいろいろなことを勘違いしていたらしい。生活が違うから、理解できないところがたくさんある。

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  • 05 Feb
    • 『日本人とユダヤ人』 イザヤ・ベンダサン著

      イザヤ・ベンダサン, Isaiah Ben-Dasan 日本人とユダヤ人 *** この本のおかげで、どうして娘が算数1だったのか理解できた。 小学生ってとても不思議なことがある。計算は合っているのに、式を平気で間違えたり・・・ 計算はできるのに、式を書けないとか。娘の場合、かけ算はできるけど、九九ができなかった。このことが致命的で、たちまち算数嫌いになってしまった。(かけ算はできるが、九九が言えない、九九を覚えていない。) ベンダサンの説明によると、日本人の頭の中にはソロバンがあり、ソロバンがあるから、アラビア数字を使う以前から計算ができたのだと言う。つまり、普通は数式を書いたり、筆算を使わないとできないような計算でもソロバンを使えば簡単にできてしまう。名人級になると、頭の中にソロバンがあり、暗算で計算ができる。 ユダヤ人にとっての律法というのは、頭の中のソロバンのようなもので、目の前に存在しないけれども頭の中に”実存”し、無意識のうちにそれに従って行ってしまうものらしい。意識する以前の問題だと言われるとそうかもしれない。神は目の前に存在しないけれども、実存している、というのはそういうことだと説明されると何となくわかったようなわからないような・・・ それでは、日本人にはそういう律法に相当するものはないのだろうか? それが、ベンダサンによると、人間教らしい。 それは人間的ではないとか、人間なら当たり前、とか、大抵の日本人なら、そうやって言われると納得してしまう。法律とか律法という前に、人間的という意味での黙契があり、無意識のうちにそれに従ってみんなが行動してしまう。だからといって、「人間的ってどういうこと?」という問いに対し、これといった定義があるわけでもない。情の問題というか・・・ まあ、なんと言うか、そういう風に言われると困ってしまう。 もともと文字もなかった国だし、文字ができたとたんに自由奔放にそれを使いこなす。しかも、明確なルール(数式のようなきちんとしたルール)がないにもかかわらず、何となく読めてしまうというか、意味が通じてしまうというのも変なのだそう。(主語がないとか・・) そうやって説明されると、ロゴスというのが言葉であり数式であり、だからこそ言葉はまるで数式のようであり、明確なルールによって構成されている、という大前提が欧米語やヘブライ語にはあることが理解できるようになる。だから、最初に数式があって答えが導き出されるように、最初に言葉があって答えが導き出される。だから、議論や対話が発展してきたらしい。 ところが、日本の場合、ソロバン文化だから、最初に数式があるわけではなく、だらだらと書いているうちにそれが文章として完成してしまう。主語が欠如していても意味が通じるというのはそういうことらしい。パッと思いついたからと言って、それがどうやって導き出されたものであるのかを説明するのは非常に困難であることを考えると、便利なような不便のような・・・ というわけで、ベンダサンに言わせると、日本のクリスチャンというのは正確には日本教徒キリスト派なのだそう。日本の古典などにも強く、ユダヤ教徒キリスト派について説明されると、そういうものなのかもしれないという諦めすら感じてしまう。 たとえば、「ユダヤ人とはユダヤ教徒のことだとも言われているが、ユダヤ人の中にはキリスト教徒もいるからユダヤ教徒がユダヤ人だとは必ずしも言えない」という文章をどうやって翻訳するのだろう? ユダヤ人という言葉をギリシャ語になおすとユーダイオスであり、ユダヤ教徒という意味。だから、「ユーダイオスとはユーダイオスのことだと言われているが、ユーダイオスの中にはクレスティアノス(キリスト教徒)もいるからユーダイオスがユーダイオスだとは必ずしも言えない」という意味不明の文章になってしまう? 一つわかったのは、ユダヤ人と議論しても勝ち目はないということかもしれない。 でも、面白かった。

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  • 04 Feb
    • 『これで古典がよくわかる』 橋本治著

      橋本 治 これで古典がよくわかる *** 一気に通読。 古典がわかるようになるというより、日本語の変遷の歴史がメンタリスティックに理解できるようになる。 ひらがなやカタカナが使われる以前から始まり、ひらがなとカタカナの利用のされ方の違いなど、そういう意味では古典(文学史)がわかったような気になってしまう。つまり、明らかに、漢文というのは男性が使うもので、今でも漢字とカタカナで書かれた活字といえば古い法律関係の本などを思い浮かべてしまうことを考えれば、いかに堅苦しい世界か理解できる。 じゃ、なんで、男がひらがなを使ったか? 要するに、女性は漢文などまるで理解できないものであり、理解できないことが女性のたしなみであった時代、女性のために何かを書こうと思えば、ひらがなを使うしかなかった、ということがよぉ~っくわかった。 書き言葉と話し言葉の違いの伝統も、どうして長い間、漢字とひらがなとが同時に使われた書き物がなかったのかも、よぉ~っく理解できた気がする。 漢文。 あれって昔から胡散臭いと思っていたら、やっぱそうだったのかという気分。 漢字と記号とカタカナ。 なんか胡散臭いでしょ? 要するに、どーやって読むのかわからなくなるから、カンニングのつもりで書き込んだのが最初。 ひらがなの文学。 あれはどちらかといえば、話し言葉の世界。とてもくだけたもの。お話するような調子で、気楽に書く。法律に関する書類がいい加減だったら大変だから、これはいい加減なものではない、という意味で漢文、あるいは漢字+カタカナが用いられるのとは逆。 問題は・・・・ひらがな文学の場合には、とてもコムズカシイことを子どもが語ろうとするととてもわかりにくくなってしまうのと同じような感性で読まなければならないということかも。 和歌も(随筆も)、それがいかにくだけた人間的な書き物であるか理解できた気がする。 文字を使って自分の気持ちを表現するってとても人間的なことなんだろうし、それを技巧と言ってしまうのは少し寂しい。素朴な感情、複雑な感情、心境、心境の変化、それを詠みこむ。そして気持ちが伝わってきたとき、初めて感嘆する。 古典嫌いが歌を詠むようになり、そういうアンビバレントなところが少し解消できた気がする。 いや・・・逆に、どうしてわたしが古典が嫌いになったのか、そういうシンプルな疑問が解決したような気がする。コムズカシイ注釈やわかりにくい文章。ストレートに読むのではなく、いつも他人の注釈を気にしながら読まなければならない古典なんて面白いわけないじゃん。

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  • 28 Jan
    • 『絶滅寸前季語辞典』 夏井いつき編

      夏井 いつき 絶滅寸前季語辞典 この本、ぜったい面白い。わたしが俳句に手を出さないのは、季語がややこしいからでもあるし、その季語の中でもさらに難関季語が集められている。 いくつか知っている言葉もある。たとえば、「あっぱっぱ」とか。 最初、どこかで聞いたことのある言葉だと思ったけど、意味が思い出せない。本文を読んでいるうちに思い出す。 夏服、といえば聞こえはいいけど、当時はムームーなど袖なしのワンピースのことを「あっぱっぱ」と呼んでいた気がする(母が)。(ムームーも死語?) あっぱっぱをもう少し解説すると、母流のあっぱっぱのつくり方というのがあり、布を買ってきて子どものサイズに合わせて適当に裁断し、それを縫い合わせる。次に子どもに着せ、適当に胸の部分のギャザーを決めて縫う。最後にとも布か余った部分で肩の部分を縫い付けて終わり。丈が短すぎたと思えば、裾にフリルのように布を縫いつけて調整。 昔ははぎれというのが売っていて、布屋さんへ行くと1.5mとか2.3mとか札が付いてワゴンに積んであった。服をつくるには足りないけれども、子どものあっぱっぱをつくるなら充分なので、母が縫っていた記憶がある。まだTシャツやジーンズなどもめずらしい頃。夏の子ども服の定番はあっぱっぱ。 ワンピースなどという高級なものではない。あっぱっぱのウエストにゴムを入れたらワンピース風? が、しかし、袖まできちんと付けたらそれはもはやあっぱっぱとは呼ばない。麦藁帽子にあっぱっぱ。 今はいくらでも売ってるからなぁ・・・(言い訳がましい) いや~、それにしても季語を絶滅させないための努力が痛ましい・・・ 火鉢なんて今時どこに売ってるんだろう・・・絶滅させないためには火鉢を買って、炭を買って、練炭を探し、・・・あげく茨城では違法ですと言われたらどうしよう。「インバネス」とか「カンカン帽」と言われてもわからない。でも、着てるのか・・・(さすが俳人)

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  • 22 Jan
    • 『絵の教室』 安野光雅著

      安野 光雅 カラー版 絵の教室 昨日に引き続き、安野光雅さんの『絵の教室』をパラパラめくっている。正直、まるで先に進まない。少し読むとぷあ~っとイマジネーションが広がってしまうせいか、それともいろいろなことを考え始めてしまうせいか、まるで先に進まないまま今日も書評を書いている。 推理小説と大きく違うのは、読む速度の違い。ストーリー・テラーを楽しむものはあっという間に読み終わってしまう。早く結末を知りたいからでもあるし、展開が速いからかもしれないし、いずれにせよ文庫でも近頃は値段が高いためにもったいないと思うほどあっけない。 それに引きかえ安野さんの本は先へ進まない。 たとえば、序文ですら考え込んでしまう。いや・・・考え込む、という表現は間違っている。そうではなく、共感が広がり始めると自分の世界へ入ってしまうからとしか語れない。 絵の好きな人たちは自分の言葉で話す。絵だけではなく、本でも音楽でも好きな人たちは自分の言葉で話す。野球でも競馬でもそうらしい。自分の好きなこととなると自分の言葉で話し出す。 ところが、政治や社会事象のこととなると自分の感性だけではなくテレビやラジオから流れてくる声に流されしまいやすいし、そしてそれがやがては世論となっていく。 そのようなことが書かれていたため、今まさに考え込んでしまった。 *** インターネットの楽しさは、絵の好きな人たちに通じる。皆がそれぞれ自分の言葉で話しているから面白い。ニュースネタでも、そう。それぞれの人たちが気ままに自分のブログに書いていることを読みながら、背中でニュースを聞き、あれこれ考える。 おそらくはその結果が、あの選挙だったんだなぁ・・というのが今の気持ち。それがどういう具合に進んでいくのかわからない。 ライブドアのことにしても、あれはライブドアの問題だろうし、上場が廃止になったからといってライブドアが消えるわけでもなさそう。上場していない企業はたくさんある。マネー・ゲーム的な側面が抑制されたというだけのことなのかもしれない。 なんか、こう・・・ テレビのチャンネルを変えながら、「またライブドアか」と言いながらテレビを消して友達の家に遊びに行ってしまう娘のほうがまともな気がした。 *** おっと、話が大きくずれてしまった。 こうやって、自分が何が言いたかったのかを忘れてしまう。 それがいいのかもしれないな・・・安野マジック。

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  • 21 Jan
    • 同じ著者なのか・・・

      今日、買ってきた本4冊。 安野 光雅 カラー版 絵の教室 中原 中也, 吉田 熈生 中原中也全詩歌集〈上〉 中原 中也, 吉田 熈生 中原中也全詩歌集〈下〉 中原 中也 中原中也全訳詩集 *********** 本当は別の本を探していたのだが、結局、見つからず、同じ著者の別本を少し立ち読み。何となくイメージしていたのとは違ったため、その本を探すのはやめた。ブログの書評を読んで、タイトルだけで面白そうと思ったんだけど、実際に手に取ると興味をなくすケースが多いことを思い出す。 林 文子 失礼ながら、その売り方ではモノは売れません そうそう・・・この本だ。密林に記録が残っていた。 「その売り方ではモノは売れません」では素通りしてしまいそうだけど、「失礼ながら・・」と始まるところがミソ。そのまま密林で買う気はしなかったけど、買い物のついでに本屋へ行かせるくらいのパワーはあるなぁ・・・ 何となく言われると気になってしまう言い方ってある。 で、そのパワーがどこへ結びついたかというと、結局、安野さんの著書と中原中也。 安野さんの絵本は家にも何冊かあるけど、新書というので買ってみた。 パラパラとめくりながら、クールベの写実主義のところを読み、あの時代の写実主義はカメラが発明される以前の感覚で、実際に目の前にある風景を描いているわけではない、というところに目が行く。それ以前は光といえば宗教的な意味を持っており、写実的な光とは異なるというフレーズから始まり、そこから決別しクールベが進んだ道が写実主義。 つまり、見たことのないものは描かない、この世に存在しないものは描かない、という意味でのリアリズム。・・・ってことは実際にない場面を描いても写実だし、家の中で風景を描いても写実だし、イメージだけで描いてもこの世に存在するものを描けば写実。 それってちょっと違うのではないかと思ったけど、それってちょっと違うと思うのはカメラに慣れてしまったからそのように感じるだけなのかもしれない。光が的確に方向性や角度すら正しく描かれていないと何となく写実でないような気がしてしまうというのは一種の現代病なのかも。 中也の3冊は文庫。未刊詩がたくさん載っていたので。 密林で検索したおかげで、安野さんの著書だと気づかないで買った本がほかにもあることに気がつく。絵本もそうだし、短歌の本もある。 安野 光雅 片想い百人一首 おそらくは未読のままどこかに埋もれているはず・・・

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プロフィール

りん

性別:
女性
お住まいの地域:
茨城県
自己紹介:
Copyright@Aihana Sugai

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