パウロ―伝道のオディッセー/エルネスト ルナン

病気になっても次から次へと仕事は溜まっていくし、やらなければならないことも発生するし、それでいてフラフラするものだから少しも片付かない。ちょっと動くと疲れるし・・・入梅も手伝って、倦怠感が続いている。

ルナンの『パウロ』を読み終える。わたしが生まれる100年くらい前に書かれた本とは思えないほど面白かった。翻訳本なので読みやすいのかもしれないけど。


この本は、かなり物議をかもした人物によって書かれたものらしい。大学でヘブライ語を教えていた頃、イエズスを「比類なき人間」と言ったため停職になっている。フランス育ちのケルト人で、自らも聖職を志したこともあるのだから本当は信仰心の篤い人なのだろうけど、カトリックについてはボロカスに言っている。でも、面白い。


カトリックの教育を受けて一番役に立っているのは、何を言われても柔和にしていられることかも。これは仕事をする上で役に立つ。いろいろクレームがあったとしても柔和にしていることにより、自然と和らぐことが多い。それでは本当は怒っていないかといえばそういうわけではないらしく、たまにスコールのように爆発するが、あまり長続きしない。


初期のキリスト教の律法についての確執はあまりにも幼稚な気がする。そういうことで暴動になったり殺し合いになったりするのだと思うと、恐ろしくはなるが、親が子どもに決まりごとを言うのは当たり前のことだ。あーしなさい、こーしなさい、あれをやっちゃいけない、とか。何のためにかと言えば、子どもを危険から守るため。それと同時に、子どもの公園デビューを考えると、モノの取り合い、ケンカ、じゃれあい、年中騒動が絶えないし、どんな立派な人になろうとも、誰でも子どもの頃はそんなものだ。


そうやって考えると、16世紀の宗教改革などはまさしく思春期の反抗期の若者という感じ。人類も少しは成長したのかもしれない。


本を読んでいると、やたらと神学という言葉が出てくるけれども、もともとそういうことに興味があったわけではないし、何世紀に誰が何を言おうと、今の時代に誰が何を言おうと、それはその人の勝手。所詮はイマジネーションの産物という気がしてしまう。


わがジーザスが神か人か・・・


死んで神になったと考えるほうが仏教的な発想かも。正確には、神の右に座した、と言うべきか。そして、聖霊となりわたしたちと共にいる。


わたしは仏教の家庭に育ったせいか、すんなりそういうことを抵抗なく受け入れてしまう。逆に、復活してからだを持ち、魚を食べていたというほうが理解しにくい。


パウロが生前どんな人だったのかはともかく亡くなったら聖パウロとなり、神の啓示を受けて布教したという話も、アシジの聖フランチェスコの出家した修行僧のような生活も、東洋ではめずらしくも何ともないような気がする。


日本でも、高僧という人たちがいて、それぞれに始祖となり宗派がある。元は一つなんでしょうけど、ローマ・カトリックみたいに統一した教会組織はない。それでも何も困っていないみたいだけど・・・


どうでもいいんだよね・・・くま先生は若い頃にキリストの教えに感銘を受けて、聖公会で受洗したらしいけど、わたしはパウロの手紙を読んで、あまりにも古臭くてグワッとなった記憶がある。実際、古いんだけど・・・ 要するに、教えに感銘を受けて信仰心を持つ、というわけでもなさそうだ、少なくてもわたしの場合。いまだに教義を理解していないような気もするし・・・


終わりの日がいつ来るかもわからないのに煉獄でどれくらい待つんだろうとこの前のお婆さんに言われて以来、救いのことも考えないようにしているし・・・

要するに、愛と言うからわかりにくいわけで、パウロの手紙の愛という言葉をイエズス・キリストに置き換えたらわかりやすいかも。愛=イエズス・キリスト。だから、ほかの宗教には愛はない。イエスがいないから。どんな善いことをしても愛がないければ無に等しい。というのは、イエスがいなければ無に等しい、という気持ちかもしれない。どんなに素晴らしい教えでも、イエスがいなかったらつまらない。それが本音に近い。(いや、それがホンネだ。)


(マタイ 23. 1-22)

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『ナザレのイエス』

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聖霊降臨の主日・・・・教会の誕生日。

なぜかすごく感動した。

入信のときも、受洗のときも、ぼーっとしていただけだが、神父さんに、「今日は教会のお誕生日です」と言われたとき、なぜかすごく感動した。聖霊がやってきたとき、教会が生まれた。教会が生まれたということに感動したのだろうか。あるいは、教会とは生まれるものなのだ、ということを知り、もはやあることが当たり前だと思っていたことが、実は、祖父母や親にも子どもの頃があったのだということを子どもの頃に初めて知ったときのような感動を覚えたのかもしれない。


プロテスタント系の書籍を途中で読むのをやめて、今、ベネディクト16世の「ナザレのイエス」を読んでいる。これもすごく面白い本。


ナザレのイエス/教皇ベネディクト16世ヨゼフラツィンガー

ややこしいことは抜きにして、ものすごくわかりやすい。山上の説教や主の祈りなど、何回読んでも言っても、本当の意味はわたしにはわからない。わからないけれども、教えられて、そのまま覚えている。でも、考えてみれば、わたしのような無知な人が尋ねるのならともかく、イエズスの弟子たちが、イエズスに、どうやって祈ってよいのか尋ねるのは不思議なこと。ユダヤ人は子どもの頃から会堂へ行き、宗教どっぷりの生活をしているのだから、今さら尋ねるのは不思議なのである。


聖書を解釈を読みながらやっと読み終えて、この本を読み、実は何もわかっていないことに気づかされる。


ほかにイエズスについて書かれた本はたくさんあるけれども、どれもあまり共感しない。ただ、知識として、ユダヤのことについて少し知る、というだけのことで、それがわかったからといって聖書がわかるわけでもないことを知る。そしてあらためてこの本を読み、わたしたちはイエズスについて実は何もわからない、ということを前提に、イエズスのことを考えると、イエズスの神秘と単純さに驚かされる。

単純さに驚かされる・・・

イエズスは少しも嘘を言っていない。

「父から聞いたことをそのまま言っている」のであって、自分のことを話しているわけではない。


そうすると、無理なんだな・・・

行ったこともない、見たこともないところを誰かに訊いても、わたしがそれを理解するのは不可能だし、逆に、日本のことを知らない人たちに日本のことを説明しようとしても不可能。だから、わたしがみことばを理解できないとしても当たり前だというのは言いすぎだろうか。


でも、面白いから・・・


ガラス越しでは、何が言いたいのか聞こえない。

おそらくは、わたしはガラス越しでイエズスの話を聞いているのであり、そのガラスはわたし自身の心の壁なのかもしれない。


現存する神・・・

つまり、神さまは生きている。

でも、神さまが生きていることを認めてしまうと、なんだか自分が死んでいるような気がしてしまう。ややこしい壁。


(イザヤ 36. 17)

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『沈黙』 遠藤周作著

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沈黙/遠藤 周作
¥540
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この本を読んだ後に、ドラマ『はだしのゲン』を観たせいか、踏絵という発想と非国民という発想が連動し、集団と個の違いや、信念や心情や、それを拷問や死刑を含めた意味での暴力でねじまげようとする時代背景や、その他諸々宗教って何なのかとあらためて感じたのでした。


この小説の主人公は背教の司祭なのだが、ユダになぞらえるようにキチジローが出没する。彼は弱いがゆえに踏絵も踏むし、誰をも裏切る。それでいてずっと転んだ司祭のそばでずっと生涯を終える。それでは転んだ司祭が本当に棄教したのかと言えばそれもどこか中途半端で、キチジローですら時代が時代なら単なる陽気な切支丹にすぎなかったのかも・・・という小説本文中の回想もどこかシニカル。生まれた国によって自然と宗教が決まってしまうというのも事実だろうし、それを無理にねじまげようとすると、非国民的な集団からの逸脱とみなされる。それでは本当に宗教によって国がキープされているかと言えば、本当は違うのかもしれない、という疑念がいつもつきまとう。


お盆の季節になると、人は戦争を思い出し、ほかの蝉がうるさく鳴く中で、羽を広げて道路に落ちている蝉を眺めることになる。おそらくは自然死なのかもしれないし、アクシデントがあったのかもしれない。蝉の一生は短く、夏とともに彼らの鳴き声も聴こえなくなってしまう。それでいて、夏になると再び蝉のうるさく鳴く暑さを迎える。


自民党が大敗した。おそらくは年金のことよりも、「しょうがない」発言のほうが静かな影響力を持っていたような気がしてならない。憲法改正や教育基本法の改正のほうが遥かに人の気持ちの中に波が引くような感情をもたらした。怒りではない。ただ、静かなる否定。むしろ、無視に近い何かすら感じた。


毎年毎年蝉の鳴く季節を迎えると、蝉は死に、また蝉の季節が訪れることに気がつく。


暑い季節、教会へ行くと、娘が言うのは、「わたしはクリスチャンではないから行きたくない」という台詞と、「この教会はいつも誰もいないね」という言葉。人の気配のない教会にも慣れてしまい、それでいて入り口が封鎖されているわけでもなく、ただ、人は皆それぞれ忙しいのだという気持ちにさせられるだけ。それでも何か行事があるときには誰かいるのだろう。が、しかし、誰もいないというのもさっぱりしていていいものだ。神さまとだけお話できる。


誰もいない教会に慣れてしまいそうだ。それでも踏絵の時代に比べれば実に平和。

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銀魂3年Z組銀八先生 2 (2) (JUMP J BOOKS)/空知 英秋
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すみません・・・いったい、この本、なんですか?

娘が読んでいるから漫画かと思ったら小説でした。


おそらくは演劇部で使う本なんだと思うけど、漫画を活字で読むってむちゃくちゃ変な感じ。おちと勢いだけで進んでいき、さらにノリが漫画なので、面白いような気もするし、わかりにくいような気もするし、ひたすら想像力だけで読み進んでいくしかないジャングルのような小説だった。


でも、まんざら嘘っぽくもなく、この前、大阪学芸高校の生徒が1人で73校も合格した記事を読んだけど、学校が受験料を出した上に報奨金まで出して合格実績をアップさせる時代だもの・・・生徒は生徒であり、かつお客さんであり、成績の良い生徒は学校でも予備校でもひっぱりだこ。世の中、受験が絡むと教育も何もないような気がする。教師もサラリーマンだし、合格実績に応じてボーナスの額も違うような気がするのは気のせいだろうか・・・


この本を演劇のネタにして、娘が近頃描く漫画ちっくなイラストの少女はやけに冷たい目をしている。浴衣を着た女の子の絵を見せてくれたが、どうも下品な気がして、なんて言っていいのかわからず「・・・・・」状態になっていたら、無理やり何かを言わせようとするので、観たまんまを答えてやった。すると、これは「ヤクザ少女」だから当たり前だと言う。不良ではなく、「ヤクザ少女」。よーわからん。


そういうのが友達にもウケる時代なのかも。日頃、勉強ばっかりやらされているから、あんなのを描いて皆で喜んでいるのだろうか。空想の世界だから、好きにやってくれ・・・

ウェイン・グールド
プロ級ナンプレ―中毒確実!!脳を鍛える数字パズル

ナンプレも飽きてしまって、この手の文庫がたくさん売られていることは前から知っていたが今までは素通りしていた。でも、ショッピングセンターに駐車して、駐車料金を支払うのが悔しいので本屋へ入り、一番手ごたえのありそうなのを選んだ。


・・・・・・・・が、しかし、素晴らしいですね~♪

解き味がまるで違う。

ナンプレも簡単すぎると何となく機械的な作業のようでつまらない。

が、しかし、これは次から次へと解きたくなるほど切れ味がある。一つ躓くと全部やり直さなければならず、間違えて放置するにはもったいなさすぎ。というわけで、修正テープを使ってまで遊んでいます。


お昼休み、今日は早く仕事に戻らなければ、という気がしていたが、ついうっかりパズルにはまって遅れてしまった。そういう時に限って仕事が多い・・・

なんかね・・・