観想のパートナー

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すでに昨日のことになるけれども、小暮助祭の話の途中で、私は聖書を開いた。すると、ローマ6.1-14、7.7-25を開く。
小暮助祭のお勧めのテーマはマルタとマリアだけれども、私に与えられたテーマは肉と罪について。
本当に神父のらぶらぶらぶ・・は迷惑だし、呪い殺したくなるほど迷惑だ、宦官になっちまえ、くらいにほざいてまして、その理由が説明できない。らぶらぶらぶ・・は愛に飢えたものにとってはよいのかもしれないけど、らぶらぶらぶ・・は気持ち悪いわけ。少なくても、思春期以降の若者が、年寄りにらぶらぶらぶ・・とやられたら気持ち悪いに決まってるじゃないですか。
神父様が素晴らしいのは、そういう恋愛感情なしで、らぶらぶらぶ・・というかったるさから抜け出すために、聖性なるものを与えられているはずなのに、えろじじいかと思われた、聖性も何もないのである。
可愛い女の子のゆめをみながら、らぶらぶらぶ・・
楽しいかもしれないが、信者にとっては大迷惑なのである。つまり、信者に癒しを求めるなと言いたい。
実際に悪いことなど一切してないに違いない。困れば助けてもくれるだろう。教会でも目にかけてくれるかもしれない。だけど、その動機付けがらぶらぶらぶ・・では困るわけ。あくまでも聖性の源に、神さまのお考えにより、それを誰よりも感知する能力を与えられ、そのように行動しているからこそ、神父の行動は信者にはわかりにくいものであるにもかかわらず、受け入れらるようになるのである。
違う?
 
詩編52.8-11
 
本当にそう。
莫大な富により栄華を夢見るよりも、オリーブの木、神さまの慈しみに生きる人たちに栄光あれ。
 
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