ホルコンの科学!? 「パチンコにおけるマインド変革論」 第一話 「感謝の正体(7)」
こんばんは。
今回も、「ホルコンの科学」ですw
もう、飽きましたでしょうか?
「感謝の正体」というタイトルを完結して第二話に行きたいのですが、
雑談が多くて進みません (*v.v)。
ただ、そんなに不可思議な内容ではないと思いますよ。
昔は自分で書いた記事を読み直して書き直すこともありましたけど、
ここ最近は、別にいいかなと・・・ そうした感想を持ちます。
書きたいことはいくらでもあるのですけど、
それを理論的にまとめることが難しいです。
まぁ、みなさんのパチンコライフに何らかのよい刺激があればと考えます。
『仏教では、心の三毒である「貪・瞋・癡」、に「慢・疑・悪見」を追加して、
人間を不幸にする六大煩悩と言われています。』
貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)・慢(まん)・疑(ぎ)・悪見(あっけん)
忘れてました。六大煩悩の読み方ですね。
人間としてでもいいのですが、本来、悟りの高い人は、
この六大煩悩を持って人間観察の基準にするのではないかと考えます。
「人を観る」・・・ という言葉がありますけどね。
そのチェック項目になっているような気がしてなりません。
人間付き合いでもそうですし、会社の面接や人事などでもありえます。
例えば、この人はマジメに勤務できるのだろうか・・・
この人に任せていいのだろうか・・・
この人を信じていいのだろうか・・・ そうした判断があるときに、
無意識の内にでもその相手の人となりや将来性を観るような気がします。
それを儒学で言えば、「礼・智・信・義・勇」みたいな言葉になるのかもです。
「あなたに、礼節はありますか?」
「あなたに、知識や智慧を求める気持ちはありますか?」
「あなたに、信じる心はありますか?」
「あなたは、仁義を重んじますか?」
「あなたは、勇気がありますか?」
これが仏教になると・・・
「汝、貪欲さや貪る心がないか?」
「汝、私憤で怒れる心がないか?」
「汝、知識や経験を得ようとしない怠け心がないか?」
「汝、妙なプライドや自惚れる心がないか?」
「汝、神仏や人を疑う心がないか?」
「汝、世の中の事象を本当に正しく見ているか?」
まぁ、少々、味付けはしましたけど、本来の仏教はエグいですね。
例えば、儒教が前途洋々の若者に対してアドバイスをするときに、
軽い風邪をひいた患者さんに風邪薬を処方するようなイメージに対して、
仏教は、じいさんでもばあさんでも裸にしてメスを入れようとするイメージです。
心の奥の奥まで素っ裸にされて治療をされる感じですね。
もう、ごめんなさいって言いたくなるような・・・
私が仏教が好きだからという理由からでもないのですが、
それだけ本来の仏教の基本的な人間分析のレベルが高いのですね。
ですから、私も付き合いがありますけど、
現代的でもいいのですが、「悟りのレベルが高い人」と会話をするときに、
本当に余計な言葉を慎むようになります。
例えば、「人間は10年くらい付き合わないとわかるものではない」・・・
そうしたことを聞くこともありますけどね。
その相手が「悟りたる者」であれば、言葉の一行で見抜かれるのですね。
いや、もっと凄い人は、喋らなくても見抜かれます。
下手をすると、喋る前から、前世までほじくり出されて査定をされます。
こうなると、もう、嘘も吐けなければ誤魔化しもできません。
「はい、自分の未熟さを痛感しました。私は何を努力したらいいでしょう?」
自然とこうなりますね。
悟りたる者は、相手の心の針を正しい方向に誘導できる、という話です。
時事的な問題で体罰のニュースなどが流れていました。
学校の先生の理想像も本来はこうあるべきです。
生徒のほうから・・・
「先生、自分は若いし、まだまだ未熟なところが多いです。
こんな自分ですが、どんな努力をしたいいでしょうか?」
教師は聖職です。このように慕われるのが本来の姿です。
「ハゲ・チビ・デブ」とか・・・ 生徒から言われている時点でオーラがないのです。
それを私憤などによって反応するので余計に燃え上がります。
誰も納得できないままに残念な結果になることもあるでしょう。
生徒のほうから慕われるような教師になって頂きたい、
そうした人間の器を磨いて頂きたい、
私などが偉そうに言える立場ではないですけど、お互いに努力しましょうと、
そういう風に言いたいですね。
さて、「貪りの心」というテーマで記事を書いています。
この内容は非常に根が深いものであると、そう考えています。
前述の、「人徳もないのに尊敬を求める心」も「貪りの心」です。
「教師は尊敬をされる立ち場にあって当然」・・・ この考え方も危ないですね。
「尊敬をされるような指導力や器や人徳がある教師は尊敬をされる」
これを履き違いして、教師だということをもって、
尊敬をされなければならないと考えることに間違いが生まれます。
私もそうですね。
パチンコの分野ではマスターと呼ばれることもあります。
んじゃ、何か偉いのか?と考えたときに、別に偉い人間ではないでしょう。
仏陀から人間として採点をされたらマイナスかもしれません。
「まだ、人間として認めてないよ」って言われるかもしれません。
今、カブト虫からニワトリに進歩したくらいかなと、そうした評価かもです。
最近になってようやく、本人なりに正しいことを考えるようになった、
カブト虫のように甘い蜜だけを求めていたような人生だったけれど、
人様が朝寝坊をしないために、目覚ましになるくらいの声をあげるようになった、
そうした評価かもしれません。
さて、パチンコにおける「貪りの心」・・・
実はこれ、私も卒業をできていないことろがあるのですね。
以前から、「パチンコで金を稼ごうとする心とは悪か?」という、
そうしたテーマでも書いてきました。
パチンコで金を稼ごうとすること自体が「貪りの心」であるならば、
これは仏教の精神に反した考え方になってしまいます。
この数年、私なりに悶々としてきたことは事実です。
本来の仏教の考え方も信じたいし、パチンコも極めたい・・・
私にとっては、二律背反をするような、そう、茨の道です。
しかし、自分で結論を出せない以上は、もがくしかない。
もがいて、もがいて、新しい道を生み出したい、それが今の現状です。
そして生み出せたもの、正しく生み出せたもの、
それを遅れてくるパチンコで悩めるユーザーのみなさんにお伝えしたい、
そうした役割があるのではないのか、そう考えています。
また、雑談で長くなりましたので続きます。
ありがとうございました。