2015年四国の旅

1月下旬に、香川県の川鶴酒造さんを見学するツアーに参加させてもらったときの日記です。毎度のことながら、だらだら更新する予定なり。
  


18 おまけ 菊池寛たる人

香川県で菊池寛記念館を訪れ、特別菊池寛に思いを新たにすることもなく、(/ω\)
菊池寛の作品を読んだことのない私は、
じゃ、これから読むか? と言われれば、読んでみたいが、
その前にもっと読みたい本が山積みで、なかなか菊池寛まで手がでない……
と思う。(●´ω`●)ゞ


で、
記念館の人に、“香川の人たちは菊池寛の作品を絶対読んでいるものか?”と聞いてみたら、
“一作品くらいは必ず読んでいると思う”という返事を頂いた。(=◇=;)

どの作品が一番読まれているのか、気になったが、あまり突っ込んで聞いてはいけないような気がして、やめておいた。あせる



そこで売られていた『図録 菊池寛』を帰宅後読んでみたら、
なかなかどうして、面白かった。クラッカー



菊池寛の小説より、おそらく……おそらく、だが、
彼の生き様や、エッセイなどの方が、“ためになる”のではなかろうか。о(ж>▽<)y ☆
(小説や戯曲を読んでいないので、なんともいえないのだが。あせる




いまや小説家の登竜門となっている『文芸春秋』を創刊し、
芥川賞」、「直木賞」を創設したことで知られる菊池寛だが、

『文芸春秋』は、なんと創刊当時はたった32ページの同人雑誌だったというのだ!Σ(=°ω°=;ノ)ノ
大正12年1月、菊池寛36歳のこと。



みずから考えたことを信じ、信じたところを実行して、その一生を貫く”人だったらしい。((゚m゚;)

だからこそ、「実行第一」に生み出された『文芸春秋』は、創刊のその年、関東大震災に遭っても、戦争の時代を迎えても、成長を続け、アップ
いまや押しも押されもせぬ「総合雑誌」として、毎年小説家たちにエールを送っているのだろうね。ヾ(@^(∞)^@)ノ



菊池寛の哲学は、「生活第一、芸術第二」と言われているようであるが、
これって、ちょっと語弊があるんじゃないかな。
生活か芸術かと二極の選択を迫られるとき、
敢えて言えば、彼にとっては「生活第一」なのであるわけだけど、
それはただ食べて寝るだけの漫然と暮らす生活第一なのではなく、
人生」としての「生活」であり、
己の精神生活を充足させるための生活。グー




作家を目指す人に対して、

小説を書くということは、紙に向かって、筆を動かすことではなく、
日常生活の中に、自分を見ることだ。

すなわち、日常生活が小説を書くための修行なのだ。

学生なら学生生活、職工ならその労働、会社員は会社の仕事、各々の生活をすればいい。

而して、小説を書く修行をするのが本当だと思う。




すなわち、小説というものは、或る人生観を持った作家が、世の中の事象に事よせて、自分の人生観を発表したものなのである。」(『小説家たらんとする青年に与う』)

として、
自分なりの「世の中を見る眼、それから人生に対する考え方」をしかと持つことをまず進言していた。グー

言うだけでなく、菊池寛は自分自身もそう実践していたと思われる。(=◇=;)





図録の中で上林吾郎氏は、

人生は毎日の勝負である。人生の達人とはその日その日を大切にし、それを充実して生きる人である。毎日を粗略にあつかって人生の幸福は絶対にあり得ない

という河盛好蔵の言葉を紹介して、
これは菊池寛のことを言っているのではないかと思ったという。Σ(・ω・;|||



昭和11年、世がきな臭くなってきた頃には、あることないこと言われたようで。

文学の正当なる立場は、いかなる時代が来ても、自由主義意外にはないであらう。文学及び文学者は、常に時代及び生活について第三者の立場に在つて、これを公平に批判し表現するのが、その職責であらうと思ふ。しかし、世の中が険悪になると、自由主義的な立場を守ると云ふことも、相当困難でかつ勇気を要することになるだらうと思ふ。」


『文芸春秋』は、左傾でも右傾でもない、
もっと自由な智識階級的な立場をいつまでもつづけて行くつもりである。ファッショの先頭を勤めるなど云ふゴシップはウソである
。」(「話の屑籠」より抜粋)



結局、戦争中は、戦争を賛美するような立場にあったとして
戦後、菊池は戦争責任を問われ「公職追放」とされたらしいが、。(´д`lll)

彼はそれに対する不平を述べていた。
彼だって戦争は反対だったが、日本が戦争すると決めてしまったのだ。
そうなったら、一丸となって戦争するしかないではないか!ヽ(`Д´)ノ

……というような内容だったと思う。(この部分は『図録』に収録されていないので、私の記憶による。あせる


彼の不平は実によくわかる。
戦争反対を唱え続けられた人は、ある意味、幸せだ。
そうできなかった人だってたくさんいたはずだ。

戦争責任を問われなければならない人間が、全く責任を問われず取らず、オバケ
なぜに菊池寛が「公職追放」になどならねばならんのか、パンチ!
私は理解に苦しむ。
これが日本なのだ……と暗然とする。ガーン





菊池寛、彼の人生も、苦労の連続だったようだが、
『図録』では、井上ひさし氏が実にわかりやすくまとめていて、(「直木賞と菊池寛」)
とても面白い。クラッカー

面白いので、ちょっと抜粋。


貧しい家に生まれた彼は、
高松中学に入学したものの、学費が続かない。ダウン

『市内の商店で小僧修業か』と覚悟を決めたとき、同じく高松中学に通っていた次兄に放縦な行いがあって退学を命じられ、彼は次兄に代わって中学を続けてもいいことになった
。」アップ


さらに上級学校への進学は諦めかけているところへ、ダウン
推薦入学制度が発表され、推薦入学制度を利用して、「東京高等師範学校」に入学。アップ


しかし、
授業を怠けてテニスをやっているところを生徒監に見つかって除名処分。」ダウン


途方に暮れていると、親戚の老人が」、「養子になって法律を勉強すること」を条件に学費を出してくれるという。
で、明治大学法科に入学するが、アップ


文学に惹かれだして、折角入った明治大学を3ヶ月で退学。ダウン
親戚の老人は怒って離縁。またも途方に暮れるが、


今度は父親が学費を借金して送ると言い出す。アップ
で、一高に入り直してしまう。
一高で順風満帆と見えたが、


卒業間際に、友だちの罪を着て退学になり、東大進学を諦めざるを得なくなった。」
ダウン


そのとき、別の友だちの父親が口を利いてくれて、京都大学に進学。アップ


……と、
菊池寛の人生は、真面目なのか不真面目なのか、よくわからないが、( ´艸`)
困ったときには助け舟」が出てきて、なんとか彼のいいようになっていっている。ベル



井上ひさし氏は、菊地寛という男を主人公の劇を書き上げたのか、私は知らないけれど、
もし書かれたのなら、それはとっても愉快で強烈な男が描かれるであろうね。( ´艸`)


こうして菊地寛について少し知るにつけ、
こういう人間こそ、若者のお手本になるのではないかしら、と思う。合格
いや、オバサンの私にも、十分励まされることが多い。合格


つい“忙しさ”に追い立てられて漫然とその日その日が過ぎていくように感じていたが、あせる
それこそが、多いなる怠惰ではないか。グー


まぁ、思い切り、オノレのためにサボるなり、振り回されるなりするならするでよいのだとも思える。

自分が今何をしているのか、よく自覚して生きろ、ということね。(^^ゞチガウカ


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2015年四国の旅

1月下旬に、香川県の川鶴酒造さんを見学するツアーに参加させてもらったときの日記です。毎度のことながら、だらだら更新する予定なり。
  



18 見所いっぱい、考えどころいっぱいの土佐



再び高知の中心地に帰ってくる。走る人


途中、宮尾登美子の小説『陽暉楼』の舞台となった陽暉楼(得月楼)があった。
普通の通りに、普通に建ち並んでいた。ビックリΣ(・ω・ノ)ノ!
「陽暉楼」とは、「得月楼」の操業当初の名前らしい。
得月楼は、今も老舗料亭として営業中の模様。ホォ~(=◇=;)

陽暉楼



お昼には、再び鰹の塩タタキに感激しつつ、昼間から日本酒飲んで。
鰹の皮のほんわりとした熱さと香ばしさがたまらない。
塩が合うーっ!ラブラブ!

やはりうまい鰹のタタキ

餃子


餃子は普通に美味しかった。


ほろ酔い気分で、
吉田東洋の殉難の地」の標識を見つけ、辿っていけば、工事中で。ナンジャイしょぼん

吉田東洋殉難

残り数時間ほど、
友は高知城へ、私は高知城の敷地内にある高知県立文学館へ。

高知県立文学館

文学館は、石垣のような石牢のような、面白い建物だった。(  ゚ ▽ ゚ ;)

(それにしても、香川の菊池寛記念館にせよ、この文学館にせよ、
落ち着いていて清潔でよいのだが、展示にもう少しダイナミックさが欲しいなぁ。全国の文学館関係者は協力しあって、色々な企画展を催してみればいいのに……。文学館は遺跡じゃないんだから、今に繋がる文学を熱くアピールしてほしいなぁ。ラブラブメラメラ


高知城の手前にあった、山内一豊公の銅像。
山内一豊公……土佐藩の初代藩主さん。1

山内一豊銅像


後日調べたところによると、サーチ


山内を「やまのうち」と読むか、「やまうち」と読むか、はてなマーク
一豊を「かずとよ」と読むか、「かつとよ」と読むか、はてなマーク
はっきり決まっていないようだ。∑(゚Д゚)

でも、「やまうち かつとよ」が主流になってきている感じ?
読みがはっきり定まらないと、なんかちゃんと覚える気が起きないわ。あせる
こういう銅像のところでは、どちらか決めて、読み仮名を振っておいてほしいなぁ。ラブラブ



1600(慶長5年)、静岡の掛川を治めていた山内一豊が、関が原の戦いの際、家康側に付いたから、そのご褒美として、土佐を与えられ、土佐藩主となったらしい。プレゼント

が、その前は、土佐はどうだったのか?はてなマーク

と気になって、私なりにざっくり調べると……サーチ




江戸時代以前の土佐は、
諸侯が勢力争いしていたようで、油断ならない状態だったみたい。メラメラ

1575(天正3)年、長宗我部元親(チョウソカベ モトチカ)(36)が土佐を統一。ベル

山が多く耕作地が少ないから、土地が欲しいってんで、グー

1575(天正3)年、阿波(現徳島県)に侵攻。天正7年(1579)阿波を配下に。おーい

1578(天正6)年、讃岐(現香川県)に侵攻。天正10(1582)阿波・讃岐を平定。おーい

1585(天正13)年、伊予(現愛媛県)を降伏させ、おーい
四国制覇達成。元親46歳。




土佐が4国統一できた勝因のひとつに、「一領具足」があるらしい。

一領具足(いちりょうぐそく)という、農民的な武士の力(中略)。」


一領の『領』は、鎧や衣服等の揃いのものを数える際の助数詞ですが、具足(甲冑)一領を常に用意し、田畑の耕作を行う際は、槍の柄に具足をくくり付けて田の畦に立てておき、やれ戦だという時に、それらを身に付け戦場に向ったと伝えられています。」

   以上、参照:「長宗我部元親

つまり、半農半武士的な領民が、長宗我部元親の下、いい仕事をしたのだね。チョキ
彼らに対するご褒美の与え方が、長宗我部元親は上手かったのだろうか。( ´艸`)




天正の戦国時代、強い者が奪う時代。パンチ!
長宗我部さんは、22歳で“戦場デビュー”してからクラッカー
わずか十数年、36歳で土佐を統一するまでになり、アップ
さらに10年ほどで、46歳の頃、四国4国まで統一しちゃったわけだ。アップ
(タブン……“四国統一は果たしてない”という説もあるみたいだけど。)

しかし、4国統一した同年1585(天正13)年、
豊臣秀吉の「四国攻め(四国征伐)」を受け、降参。ダウン
折角広げた領土は、土佐だけに縮小させられたようだ。ガックリ
4国統一は一瞬の夢だったのね。

(自分の力で四国を纏め上げたという自負のある長宗我部は、
讃岐などを欲しがった織田信長たちのゴリ押しにやすやすと従わなかったらしいから、やっつけられたのかな?)

んで、
1586(天正14)年、
元親47歳の頃、自慢の長男を戦で失い、がっくりと精気を失い、もうメタメタに崩れていったようだ。ガックリ


10年かけて攻め落し大きく築いた己が領土を、
あっさり豊臣に奪われ、
翌年には期待の長男の死亡。
長宗我部元親、激動のアラフォー時代を送った彼が、
50を前に、ガックリきてちょっとおかしくなってしまうのも、わかる気がするよ。しょぼん

1599年、60歳(?)で、失意のまま亡くなったみたい。天使
そうこうするうちに、1600年、関が原の戦いが起こったわけだ。メラメラ


で、
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に使えて家康の“覚え”もよい山内一豊が、
静岡の掛川を治めていたけれど、

関が原の戦いのご褒美として土佐を与えられ、
掛川から土佐へと入り、
土佐藩主となった……と。
江戸時代の土佐藩の始まり~。クラッカー




この際、従来の「一領具足」の民が、新しい藩主や藩体制に反対し、ヽ( )`ε´( )ノ
一揆まで起こして抵抗したとさ。

山内一豊は、すったもんだで土佐を統一したとさ。DASH!


で、
山内の家臣たちは身分の高い「上士(ジョウシ)」アップ
新しい土佐藩に従うことになった長宗我部の家臣たちは、身分の低い「下士(カシ)」ダウンに分けられた。
上下間に相当厳しい差別があったらしい。全国的にも群を抜いた差別だったようだ。。(´д`lll)

階級はさらに細分化されていて、

参照:「坂本龍馬人物伝

身分について

■上士
上級藩士。
関ヶ原の戦いで東軍側についた山内一豊は、その功績を認められ土佐一国を与えられた。上士は主にそれ以前の山内家の家臣たちにあたる。
上士と郷士の差別化は徹底しており、下駄や日傘の使用は上士しか許されていないなどその違いは多くあった。

■下士
下級藩士。白札、郷士、徒士、徒士格、下席組外、古足軽、足軽、下足軽、庄屋というように細分化されています。
・白札

藩に対し功績をあげ、認められたものは郷士であっても上士の扱いを受ける白札となる制度がありました。

・郷士(ゴウシ)
長宗我部家の家臣の一領具足の系譜を引く者たちが、山内家に取り立てられそう呼ばれるようになった。

他藩に比べ、土佐藩は上士と郷士の差別化が徹底して行われていた。
坂本家はもともと商家でしたが、郷士株を新規に取得し郷士となりました。


■地下浪人(ジゲロウニン)
郷士の株を売った者は地下人と呼ばれました。その中でも40年以上郷士であった家は、特別に藩から名字帯刀が認められていました。
岩崎家は40年以上郷士であったため、名字帯刀が認められていました。
」(以上引用)




差別は日常生活にまで及び、
それはそれは、えげつないほど。ガーン


山内一豊って、その夫人(「内助の功」の代表とされる千代)の逸話などでも有名で、

妻を大切にしたいい男だったのかな? ラブラブという希望的憶測があったのだけど、
これだけ身分差別を徹底させるって、どーよ?( ̄_ ̄ i)




身分差別はいかんぜよ。パンチ!


しかし、差別を徹底させて、旧家臣(長宗我部氏を慕う人々)を押さえ込まなければ、統一も治安もままならない……と恐れていたのだろうか。はてなマーク

それにしても、身分差別も人種差別も、“差別”はいかんぜよっ!!!ヾ(▼ヘ▼;)




高知は太平洋側にあるせいか、どこか明るく開放的な雰囲気を感じた。キラキラ
高知は貧しかったこともあって、男同様に働く逞しい女が多く、共働きが当たり前、
そのため、男女同権的なムードだと聞いたことがある。


旅行者として1日2日歩いただけでは、そこまでよくわからなかったが、あせる
あちらこちらに歴史の足跡が残されていて、
歴史探訪してもよし、鰹のタタキの食べ比べも楽しそう、酒もうまいし、
また訪れたい高知であった。ドキドキ
牧野植物園に行くためだけにも、また行きたいものである。ヾ(@^▽^@)ノ

龍馬空港


              おしまひ



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17 ざっくり竹林寺

テーマ:
2015年四国の旅

1月下旬に、香川県の川鶴酒造さんを見学するツアーに参加させてもらったときの日記です。毎度のことながら、だらだら更新する予定なり。
  
17 ざっくり竹林寺


牧野富太郎の植物園の下の方の出口のすぐそばには
竹林寺なるお寺があった。


バスを待つ時間、ちょっと寄ってみた。
バス時間が気になるので、
ざっくりと参拝。あせる


そこここに歩行用の杖が、自由に使えるように置いてある。チョキ
さすがお遍路の国。(-^□^-)
それをちょっと拝借しながら石段を登り詰めると、竹林寺の境内で。アップ

階段


空海の像があったり。

空海


私の好きな「ビンズルさん」がいたり。(とりあえず、「痛い所を治してください」とビンズルさんを撫で回す。(。-人-。))

びんづるさま


小さいけれど、なんとも赴きのある池があったり。

池


五重の塔があったり。

五重の塔


クチナシの実がたわわに実っていたり。

クチナシ実



財善童子(ザイゼンドウジ)」の像があったり。えっ

財善童子


お遍路さんらしき小さなグループがいくつかお参りしていた。
なかなか人気のあるお寺のようであった。


特に、この「財善童子」は、

華厳経に登場する求道の志篤い少年で、
文殊菩薩の指南により53人の善知識を訪ねて教えを乞い、
ついには悟りの世界に至ります
」 

……とな。

だから、竹林寺の御本尊も「普賢菩薩」なのね。ヾ(@^▽^@)ノ
(……ってか、御本尊が「普賢菩薩」だから、それに纏わる物語のある「財善童子」が飾られているのか。)


その普賢菩薩に指南を受けた財善童子は、
“素直な心で一心に眼を開けば、この世は教えに満ちている”……ということの象徴のようだ。キラキラ



普賢菩薩ひとりに教えを乞うだけでは足りなかった……のだろうか?にひひ

――なんてひねくれた考えを持つ私は、眼が曇っている! 心を閉ざしてる! ってことになる、さしずめ邪悪童子(?)だ。ドクロ



この「財善童子」が歴訪した53人という「善知識」たちの数に因んで、
「東海道」は「53の宿場」が作られて、「東海道53次」なのだとか……?Σ(・ω・ノ)ノ!

(「へぇ~?」と思うけれど、よくよく考えると、財善童子が悟りを開くに至る53人と、東海道の宿場町の数とが、どう関係するのやら???ではある。はてなマーク




私は参拝しているときは、全然気が付かなかったのだが、
「竹林寺」は、土佐の高知の播磨屋橋でカンザシを買って恋に身を焦がした純信さんがいたお寺だったのでは?∑(-x-;)

と、後日調べたら、サーチ

純信さんは、「竹林寺の脇坊の一つ、南の坊の住職」(37歳)
(「グランマー啓子のホームページ」より引用。)だった。Σ(=°ω°=;ノ)ノ


竹林寺の純信とお馬悲恋物語」では、
「竹林寺の僧」とだけ説明されていたけれど、

脇坊とはいえ、住職さんだったとは!?ビックリマーク



そうなると、親子ほど年の離れた17歳のお馬と駆け落ちなどした住職の罪(?)はかなり重かったろうね。そのためか、かの有名な純信についての説明は目に付かなかった。汗






さくっとお参りを終えて、バス通りにもどる。
巡礼中らしき方々は、「へんろ道」と表示された脇道をさらに下って行かれた。

へんろ道

それにしても、この「へんろ道」標識……これじゃ、ぱっと見、トイレ標識かと思っちゃう。あせる
もう少し味わいのある標識にすればいいのに……?(/ω\)

             つづく
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2015年四国の旅

1月下旬に、香川県の川鶴酒造さんを見学するツアーに参加させてもらったときの日記です。毎度のことながら、だらだら更新する予定なり。
  


16 高知県立牧野植物園・牧野富太郎記念館



私が高知のガイドブックを何気なく見ていて、目に飛び込んできたのは、
牧野植物園」。( ゚-゚)( ゚ロ゚)(( ロ゚)゚((( ロ)~゚ ゚

これって、あの植物学者の牧野富太郎の?ラブラブ!



牧野富太郎に出会ったのは、もう7年前。彦根城でオオトックリイチゴに出会ったことだった。(「関西桜ツアー3(天然記念物第1号)」)


日本では、彦根城にしか生育していないオオトックリイチゴを発見したのが、
牧野富太郎博士平瀬作五郎さんだと。(=◇=;)



それから、なにかことあるごとに、植物の名に「マキノ~」なる名前を見たり聞いたりするようになった。Σ(・ω・ノ)ノ!

牧野富太郎博士……どれだけ日本の植物を発見したことか?あせる
いったいどんなお方だったのだろう? と興味津々だったのだ。ラブラブ





で、高知最終日、

播磨屋橋からバスで20分ほどの「五台山」なる小高い山の中腹(?)にある牧野植物園に友を誘って出向いた。バス

バスの運転手さんは、バス停でご自分も降りてきて、バス停の札をぺらんと。札
バスが通ったことを示すらしい。

バス停

これで、本数の少ないバスが通り過ぎちゃったか、まだ来ないのか、わからず待つこともなくなるね♪OK



まず山頂の方の入口(?)から入って、山を下りながらもう一方の門から出てくることにした。

入口



牧野氏1
(↑ 牧野富太郎氏)

「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。

その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。

小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定された。
(byウィキペディア)




くるくる巻いた「」の字。「まき」サインとして、牧野氏が編み出したのだとか。

サイン
(ネットより拝借)

お茶目な人だ。( ´艸`)ラブラブ




庭廊下1

施設はとても立派なもので、展示室もたくさんあり、展示室ひとつひとつも、ゆとりのある空間で、ゆったりと見られる。キラキラ
展示内容も、とても興味ある内容で、時間さえあれば一日中いたいところだ!ヾ(@°▽°@)ノ

園内は五台山の地形をうまく利用して、様々な植物が植えられていた。キラキラ
あいにくの雨模様だったけれど、とにかく歩いていて、気持ちが良い。アップ
ここは一年中楽しめそうだ。(-^□^-)

庭2



最近とんと見かけなくなったジンジョウゲがあって、私はひそかにテンションアップ。ヾ(@^▽^@)ノ
(まだ咲いていなかったけれど。汗

ジンチョウゲ



牧野像
↑ 牧野氏の像

お天気だったら、さぞ見晴らしもよさそうだ。キラキラ

眺め


雨でも、園内の木々は伸びやかに美しかった。キラキラ
(私にカメラの腕さえあれば、枝枝に咲く雨の花のような水滴がいかに美しかったか、写せるのに……。トホホしょぼん

滴の花





本来なら、野鳥もたくさんいるだろう。ラブラブ
が、貧弱な鳥目の私には、せいぜいヒヨドリ(?)くらいしか見つけられない。トホホガックリ

ヒヨドリ


……と思っていたら、鳥にはまったく興味のない友が、
「あれって、鳥?」と見つけてくれた。
おるわおるわ! トリですとも! アオサギ(ダヨネ?)っ!クラッカー

コロニー

雨の中、葉の下に身を寄せることなく、梢の上に止まるのね。いわゆる「コロニー」?( ´艸`)

それぞれ思い思いの方向を向いているようだ。

アオサギ




井上浩(イノウエヒロシ)博士。この方も土佐の植物学者で、苔の第一人者だったようだ。

井上浩




牧野植物園の一番上の館とその下の館とに、それぞれ食事もできる喫茶店があって。ナイフとフォーク
牧野氏のサインに因んでだろう、「の」の字「まきのロール」が! о(ж>▽<)y ☆
美味しかった♪ドキドキ

まきのロールケーキ


山の下の方には巨大な温室があって。(私が訪れたときは、あいにく閉館中だったが、ここも見応えありそうだ。)

温室


出口の椰子?



植物にも鳥にも興味のなかった友も、この牧野植物園には大満足。合格
いい森林植物浴ができたようだ。チョキ





今回、驚いたのは、牧野氏の写真!カメラ

なんともお茶目な写りっぷりなのだ!

1862年5月22日(文久2年4月24日) - 1957年(昭和32年)1月18日)」、江戸時代生まれのお方、なのにだ!Σ(・ω・;|||

明治時代の新しい日本とともに成長し、激動の大正、昭和を生き抜いたお方、なのに、だ!

若い頃から、ハンサムさん♡

若き日



江戸時代生まれで、明治の男なのに、このおしゃれっぷり!
植物に囲まれて、なんとも幸せそう。

笹見る



わしは植物の精だよ」と言っていたというだけあって、まさに植物たちと戯れているかのようだ。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ

お化け
↑ 
この写真のタイトルは「お化け」。
植物の精の彼は、人間にはお化けとして見られる気分だったのかもしれないね。( ´艸`)



わーい

まるで子供のような笑顔。テンションの高い人だったんだろうなぁ。
それにしても、こんなに嬉しそうに、無邪気さ丸出しに写真に撮られる人って、
当時珍しかったのではなかろうか。(=◇=;)


植物を発見すると嬉しくて嬉しくて、採りまくって、アップ

尾瀬で植物採集した際にあまりに植物を採ったため、尾瀬の保護運動の一人者であった平野長蔵が研究するだけでなく保護を考えろと叱ったというエピソードがある。

らしい。平野さん、偉い!f^_^;


牧野富太郎氏は、あまり周りのことを考えない、
夢中になると他のことなどどーでもよくなるタイプだったみたい。(いわゆる困ったちゃんタイプ。(●´ω`●)ゞ)
ただのファンとしてみている分には楽しいけれど、関わった人やご家族はさぞ大変だったろうね。あせる

でも、こんな姿を見ちゃうと、私なら、許してしまうわ。

感謝の姿




どの写真を見ても、それはそれは愛に溢れたお人柄が滲んで見える。ドキドキ
常に愛を以って、夢中に生きた人だったんじゃなかろうか。




明治21年(1889)26歳のとき、小澤壽衛(通称:壽衛子)と所帯を持つ

壽衛さんは、後先考えずお金を使いまくる夫をよく支えた。(ノ◇≦。)

13人の子供が次々と生まれた牧野家はとりわけ苦しく、
やむなく高利貸しから借りた負債は膨れあがる一方
」の生活で、


壽衛は、産後3日目から負債者の断りに出向くなど、懸命に富太郎を支えた。」(『牧野富太郎写真集』より引用)

……とな。Σ(・ω・ノ)ノ!


13人、次々と子供を産み、育てながら、金の工面……(((゜д゜;)))
何枚か壽衛さんの写真も写真集には載っているのだが、どれもどこか寂しそうな表情。ダウン
にこりともしていない。汗

それでも、牧野富太郎は、発見した新種の笹に「スエコザサ」と彼女の名前を冠したりして、彼女への感謝の意を表していたりするので、
“困った”夫なれど、幸せだったんだろうな?はてなマーク

のの字




おまけ:

2009年(平成21年)の映画『黄金花』で富太郎をモデルにした”牧老人”を原田芳雄が演じた」とな。Σ(=°ω°=;ノ)ノ

映画が製作されていたとは!
是非見てみたいものだ。ラブラブ



牧野富太郎……
今日はなんとなく気合が入らないなぁ……なんて思うとき、
彼の歓喜に満ちた写真を見ると、不思議とこちらまで元気になる。アップ
ぼんやりしている時間はないぞ! って気になるのであった。グー
私にとって、愛すべき、素敵な植物学者である。ドキドキ


積読

(今回の買出し。買ったはいいが、いまだに積ん読状態。涙)
                   つづく




2015年四国の旅

1月下旬に、香川県の川鶴酒造さんを見学するツアーに参加させてもらったときの日記です。毎度のことながら、だらだら更新する予定なり。
  




15 高知の酒とうまいもん

高知をほんの数十分歩いているだけで、しきりと目に付いた
たっすいがは、いかん!」というキリンビールのキャッチコピー。( ´艸`)

たっすいがは、いかんぜよ


どういう意味?と気になって仕方ない。ラブラブ

友がスマホですぐ検索。サクッとヒット。携帯

『たすい』とは、土佐弁で、『弱々しい・張り合いがない・手ごたえがない。』の意味。」

だとか。Σ(・ω・ノ)ノ!

薄い弱々しいビールは、ダメ! パンチ!ってことらしい。にひひ


TAN-SU 高知県の魅力発信プロジェクト」によると、

高知県の一人当たりのビール消費量が年間81リットル!!」で、
日本一」(2008年調べ)

とな!Σ(=°ω°=;ノ)ノ


日本酒をがぶがぶ飲みそうなのに、ビールをそんなに飲んでいるの?と意外であった。あせる



後日ググッたら、

都道府県格付け研究所」では、

「一人当たりのビールの消費量」、1位東京、2位大阪、3位新潟、4位京都で、高知は24.06リットルで、5位となっていた。∑(-x-;)
(何年の調べか、誰が調べたのか、不詳。┐( ̄ヘ ̄)┌)


調査する側の調べ方によって、随分消費量と順位が変わってくるようので、よくわからないが、あせる

とにかくガツン!とくるビールを高知の人が好んで飲むことには、想像にかたくないよね。アップ
事実、飲み屋さんに入っても、ビールを飲んでいる人が多かった。ビール



食いしん坊の友と、まずは「ひろめ市場」をチェック。(-_☆)

ひろめ市場


高知では、鰹のタタキが名物だが、「わらで焼く」「炭火で焼く」と、
その焼き方にもアピールが。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ

藁焼き


芋ケンピも名物で、芋ケンピも各種あり、芋ケンピで塔まで作られていた。エッフェル塔Σ(・ω・ノ)ノ!

芋ケンピタワー

芋ケンピは、JR高知駅の脇の土産物屋さん内にある、
芋ケンピ作り実演付きの芋ケンピ屋さんで、出来立て芋ケンピをゲットすることも出来る。チョキ



高知入りした晩、居酒屋で高知の食を堪能したものの、
このひろめ市場に入りなおし、飲み直し。にひひ

ひろめ市場の中には、フードコートのようになっているところがあって、
周りに並んだ店から、好きなものを買ってきて、テーブルで食べることが出来る。チョキ
テーブルには番号が付いているから、自分の席を決めてお店に告げれば、
料理が出来たら運んでもらうこともできる。チョキ


同じテーブルになったご婦人の二人連れは、70をゆうに過ぎて見えたが、仕事の合間だといって、昼間からビールをあおっておられた。カッコイイ!о(ж>▽<)y ☆

家族連れあり、カップルあり、一人飲みあり、食事だけ、あり。
好き勝手に食べて飲める。チョキ

中でも感動したのは、「やいろ亭」の鰹の塩タタキ

やいろ亭


外側がまだほんわか温かくて、温泉
この鰹の一切れを一口パクリとすると、
ひと嚙みした途端に、
にっこ~!と自分の顔が緩むのがわかった。(=⌒▽⌒=)

笑っちゃうの。美味しくて、ほっぺが笑っちゃうの!о(ж>▽<)y ☆
二日酔いなんて、綺麗にふっとんでしまったわ。アップ

鰹の塩タタキ


埼玉の我が家の近所のスーパーやデパ地下で手に入る鰹のタタキとは、まるで別物!

なんで、こんなに幸せになるの?ラブラブ って不思議なくらい、
にっこりが止まらなくなる鰹の塩タタキ!ヾ(@^(∞)^@)ノ
まっこと、うまいぜよ!ドキドキ


思わず、翌日も、帰る前にもう一回立ち寄って食べちゃいました。
そして、やはり、一切れ口に含んだ途端に、にっこー!って笑っちゃった。(=⌒▽⌒=)


付け合せの“レモン”がちょっと変わっていて、レモンというより、ネーブルとレモンを足して割ったような柑橘類だったけれど、
地元の人にお聞きしたら、「レモンよ」と教えてくださった。ホントカ?汗



鰹の塩タタキには、やっぱり日本酒よねー。(´0ノ`*)

日本酒

久礼(クレ)」、「豊の梅」、
うまいんじゃき!ジャキジャキジャキо(ж>▽<)y ☆ラブラブ


「亀泉」も「司牡丹」もうまうまじゃきジャキジャキ……

亀泉

司牡丹

旅の空、昼間っから飲める幸せ♡(///∇//)


鰹のタタキを出しているお店は他にもあり、こじゃんと旨いものがありそうで、
今度はそちらも試してみたい♡ラブラブ


肉まんもうまうまじゃき!売れ切れ必至ぜよ。

肉まん



実質たった1泊2日しか高知では時間がなかったので、味わえるものも限られてしまったがぜよ。
また訪れたい高知ぜよゼヨゼヨゼヨ。



高知から帰ってから暫くは、「ぜよ」と「じゃき」が口をついて出る。
高知弁(?)にすると、何事も勢いがつく気がするがぜよゼヨゼヨゼヨо(ж>▽<)y ☆
我が家では「ぜよ蝉」と「じゃき蝉」がこじゃんち鳴いておるがじゃ。(←俄か高知ファン(●´ω`●)ゞ)


              つづく