2006年夏、カンボジアのシェムリアップ日記の続きです。
(ちなみに、2006年カンボジア旅行記は、サイドバーの「テーマ」欄中、「カンボジア旅行記①~24 」にあります。)
やっと最終回。


カンボジア(シェムリアップ)旅行記25 アキー・ラーの言葉


最後に、アキー・ラーの言葉を伝えて、この旅行記を終わろう。



アキラの言葉は、「カンボジア(シェムリアップ)旅行記⑲」で既に
「My Story」(日本語版)を引用して紹介したが、メモ
日本語版には訳されていなかったことを少々補足しておこうと思う。(重複もある。)
(訳には自信がないので、念のため、原文を挙げておきまふ。あせる



くどいようだが、


You can help me by informing people in your country about the problems we face in Cambodia

and hopefully, we will eventually get enough support to assist us to speed up making this country safe for its people
.


我々がカンボジアで直面している問題を、あなたの国の人々に伝えてください。
そうすることで、
我々はこの国を早く安全なものにするための援助支援を、いつかは得ることができるでしょう。きっと。






って、アキー・ラー氏が訴えているように、
まず、伝えることが大切と思うから。ラブラブ
私に出来ることって、これくらいだから。(。-人-。)








「My Life Now」と題された最終章で、
現在(地雷博物館を創設以後)の様子が綴られている。メモ


After so many years of bad times, my life is now good.と。
長い悲惨な時代を経て、今、私の人生は上々です。)

アキー・ラーは結婚して、2人の息子さんに恵まれたクラッカー
2003年に生まれた最初の息子さんの名前は、
クメール語で「永遠」を意味するAmatak。男の子
次男君はMine。男の子
(Mine……ウーム、これは何と訳すべきか……?「地雷」では、まさかないだろう?「宝庫」とか?「鉱脈」とかか? 英語ではなく、クメール語で何かいい意味があるのかな? 不明なり。(→o←)ゞ)


そして、
若い地雷被害者や、孤児、その他、面倒を見てくれるように親から頼まれた子供などを引き受けて、一緒に暮らしている。グー


そして、貧しい地域に学校を建てて子供たちを学校に通わせるよう努めている。



比較的安全になってきたと思われるシェムリアップでさえ、いまだに地雷は埋まっている。
まだ多くの人々が地雷の被害者となっている。
まだまだその危険は多い。爆弾




We must all do what we can to educate our children
and make Cambodia a safe country again
so that all children like my son Amatak (and his little brother Mine)
can really live “Forever”.

子供たちに教育を与えるために、
我々にできることは、全てしなければならない。
そして、
カンボジアを再び安全な国にしなければならない。
我が息子Akatakとその弟Mineの名のごとく、
子供たちが本当に“永遠”に平和に暮らせるように
。)







アキー・ラーはその後も多くの人々の助けを得て、
NGOライセンスも取得。クラッカー
より活動しやすくなったようだ。チョキ

Roy(NGOライセンスを得るのに助けてくれた人) also helped me
to see that it is better to make friends with my enemies
rather than fighting them.

Royはまた、私に敵と戦うよりむしろ友達になる方がよいのだと分からせてくれた。)


理屈では分かっても、なかなか割り切って、敵対心を捨て友達になることって
難しいことだと思う。叫び
そして、アキー・ラーは本当に実践できているんだと思う。グー

彼がそんな風に思えるようになるには、
やはり第三者の「助け」があったからこそだろう。パー



敵と戦うより、友達になる――これができれば、地雷なんていらないんだ。グー
いつか地雷だってなくなるだろう。グー



たくさんの困難を抱え込みながら、
着実にgood lifeを歩み続けているアキー・ラー。
彼の歩いた後に地雷はなくなる。
彼の一歩一歩が安全で平和な道を伸ばしていく。虹
彼の思いと行動がどんどん広がっていけば……。キラキラ



感謝の言葉をたくさん述べた後、彼は次の言葉で締めくくっている。

I want to make my country safe for my people.”
私は私の人々のために、私の国を安全なものにしたいんだ。)


            


後記:

前回は重たくやりきれないポル・ポトの話。ガックリ
誰も読まないだろうなと思ったら、
最後まで読んでコメントまで入れてくださった方が1人2人ではなかった。Σ(・ω・ノ)ノ!
感謝感激です。(ノ◇≦。)
ありがとうございました。キスマーク
やっぱり、コメントを頂けると超嬉しい!爆о(ж>▽<)y ☆

クドクドダラダラにめげず、
最後までお付き合いくださって、ありがとうございました。
      ドキドキ
             2006年夏のカンボジア旅行記   終
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2006年夏、カンボジアのシェムリアップ日記の続きです。
(ちなみに、2006年カンボジア旅行記は、サイドバーの「テーマ」欄中、「カンボジア旅行記①~⑮2006http://ameblo.jp/chantichanti1114552coco/theme-10003880620.html」にあります。)

キリング・フィールドの辺りから、どんなにさっくりまとめようとしても、まとめられない。もう1週間経ってしまった。
複雑極まりないカンボジア王国の歴史には歯が立たない。ギブアップ。
中途半端だが、気になったことだけ書きとめて、終わりにしようと思う。あせる



カンボジア(シェムリアップ)旅行記23 ほとほとポル・ポト





かつてキリングフィールドで処刑された人々の、
砂色に染まったような骸骨たち。ドクロ

彼らはなぜ
教師だからといって、
音楽家だからといって、
僧侶だからといって、
文字が読めるからといって、
大量に殺されねばならなかったのか?・°・(ノД`)・°・



クメール・ルージュ(正式名称:カンボジア共産党)は、何を求めていたんだ?はてなマーク
ポル・ポトって、いったいどうしてあんなイカレタ殺戮独裁者になったのだろう?はてなマーク


と、改めて気になって、ほんのちょっと調べていたら、
ポル・ポトではないけれど、
ゲロゲロ~? と、驚きの事実を見つけちった。Σ(~∀~||;)

タイ・カンボジア国境紛争の闇


現カンボジア王国の首相フン・セン氏はかつて、クメール・ルージュだったんじゃん!Σ(・ω・;|||
1975年大虐殺時代に23歳だった。年齢から言って、中堅どころって感じだったんじゃないか?
1977年にはポルポト派に嫌気がさし、離脱してベトナムへ亡命しているが……。
汗


当時、ポルポト派(クメール・ルージュ)に入らなければ殺されたのだろうから、
彼がポルポト派であったことは、仕方のないことであっただろう。
しかし、かつて無実の民を残虐に殺戮しまくった一味であった者が、
その国の首相になるとは……。
(=◇=;)

いぁ、その悲惨さを知っているからこそ、
二度と同じ悲惨を繰り返さないという安心があるとも言えるだろうか……。汗







さて、
肝心のクメール・ルージュが大量虐殺へと暴走した中心人物、ポル・ポトだが、
これも、ちょっと調べたら、これまた驚かされた。ヽ((◎д◎ ))ゝ




参照:ウィキペディア「ポル・ポト」



「ポル・ポト」って、本名ではなかった!∑ヾ( ̄0 ̄;ノ


そして、
文献によって多少違いがあるようだが、
彼の人生は、“教養を身につけられない”環境ではなかった。
親族の女性が王様の側室となったため、王族との親族関係さえあったようだ。Σ(・ω・ノ)ノ!



1925年または1928年生まれの彼は、 ――“昭和”ノ人ナノネ。
少年時、寺院で見習いとして暮らす。
その後、2年ほど「僧侶」になったという話もある。)



8歳で、カトリックの私立エリート校に入学。6年間過ごす。

――当時、「カトリックの私立エリート校」に入学できるなんて、かなり特権かコネがなければできないことだろう。
しかし、寺院で仏教の教えのもと学んでいただろう彼が、いきなりカトリック系?
これは彼自身が望んだことだったのだろうか。はてなマーク



14歳の時にプノンペンの高校の入学試験に失敗したため、
コンポンチャムのクメール人市場の中にあった高校に入学。6年間過ごす。


――この時、彼は「挫折」を感じたろうか?はてなマーク



1948年(20歳くらい)始めにプノンペンへ戻り、郊外にあるル技術学校で寮生活をしながら木工を学ぶ。



1年後に奨学金を得て、パリへ留学。2年間の技術コースを受ける。

――パリに留学していた!?Σ(・ω・ノ)ノ!
充分エリート路線ではないか。
充分インテリ路線ではないか。



ところが、


試験に3年連続失敗し奨学金を打ち切られたため、1953年(25歳くらい)1月、カンボジアに帰国。

――奨学金もらっていて、これはマズイだろう。ガーン
これって、彼にとっての第2の挫折だろうか?はてなマーク 
コネを使ってパリに留学したはいいが、彼はあまりお利口さんではなく、パリの学校についていけなかったということだろうか……。
それとも、フランス共産党の活動などに夢中になっての試験失敗だったとしたら、何の問題も感じていなかったかも?



チャムロン・ヴィチェア(Chamroeun Vichea)私立高校で歴史の教師として働き始める。一方、民主党で活動を行っていた。「このころ、独立闘争に加わる。」

――大虐殺時代、教師などの知識層の人々が狙われということだが、当の本人が教師を勤めていたことがあるとは、びっくり!Σ(~∀~||;)



「(「民主党」で、)その後約1年間生産部隊に配属され、食事の雑用や、耕作用の有機肥料の運搬などに従事していた。しかし、パリ帰りのインテリでありながら政治教育、イデオロギー教育を受けられず、幹部やリーダーとして昇進できなかったことに深い恨みを抱いたようである。」

――なぜ“政治教育、イデオロギー教育を受けられず、幹部に昇進できなかった”のだろうか。落第生といえども、“おフランス帰り”であるのに……? はてなマーク
他の人々からは「性格に問題ある」とか「やっぱりお馬鹿」とか、思われていたのだろうか……。汗





ポル・ポトについて、細かい疑問がぽこぽこっと湧いて来る。
細かい点を突いていくと切がないので、あせる
抜粋していく。(ウィキペディアより引用。読みやすいように、勝手に行換えしました。)





ポル・ポトが知識階級を虐殺したワケは……サーチ

「ポルポトは自身が国家より奨学金を得て留学したのに係わらず反体制的運動に参加した経験から、対自的に目覚め政治体制の矛盾を見抜きうるインテリ階級を極度に恐れ、弾圧した。」


「医者や教師を含む知識階級は見つかれば『再教育』という名目で呼び出され殺害された。始めは医師や教師、技術者を優遇するという触れ込みで自己申告させ、どこかへ連れ去った。やがて連れ去られた者が全く帰ってこないことが知れるようになり教育を受けた者は事情を理解し無学文盲を装って難を逃れようとしたが、眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者など、少しでも学識がありそうな者はなど片っ端から収容所に送られ殺害された。この結果知識層は壊滅し、カンボジアの社会基盤は大打撃を受けた。」
眼鏡君血


なんたるビビリ魔!Σ(~∀~||;)
ポル・ポトの知識人大量虐殺は、
“知識階級に己の矛盾を見抜かれることを恐れてのこと”となっ!(((゜д゜;)))

そんなん、いくら殺したって、フランスには留学の記録だって残っているだろうし、
簡単にバレルやん?
仲間だって知ってるやろ?
親族は王族なのに、どうしたんや?




「ポル・ポト政権は、『腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない』と唱えて、政治的反対者を弾圧した。

通貨は廃止され私財は没収され、教育は公立学校で終了した。

更に国民は『旧人民』と『新人民』に区分され、
長期間クメール・ルージュの構成員だった「旧人民」は共同体で配給を受け自ら食料を栽培できたが、
プノンペン陥落後に都市から強制移住された新参者の「新人民」はたえず反革命の嫌疑がかけられ粛清の対象とされた。」

「彼ら(新人民)の監視に当てられたのは「旧人民」であり、
密偵という集団はポル・ポトから『敵を探せ』と命じられていた。」



国民同士を分けて、「敵」として見張らせる……。∑(゚Д゚)
なんてこと、しはるの、ポル・ポトはん?(ノ_-。)
「通貨廃止」って、勝手に何してんの? もう経済もワヤクチャやん。ヽ((◎д◎ ))ゝ





「カンボジアでは伝統的に上座仏教が信仰されてきたが、仏教もまた弾圧の対象とされ、多くの僧侶が強制的に還俗させられ、寺院が破壊された。ポル・ポト政権下において、仏教は壊滅的な打撃を受けた。」


ポル・ポトは幼くして寺院で過ごしたのに、(“2年ほど僧侶になっていた”という話もあるのに)どうして?はてなマーク

仏教を信じる人々がいては、彼の思うような共産主義を広められないと思ったから?

あるいは、
“寺院時代”、少年の頃に、僧侶を憎んで止まなくなる何かが彼に起こったのか?
だから、カソリック系の学校に進学を望んだのか?




「対外的には、ソ連やベトナムと断交する一方で中華人民共和国と北朝鮮との関係を強化し、ポル・ポト自身も積極的に外訪した。また、ポル・ポトが『完全な兵士』として賞賛した地雷は、地方に広く埋設された。」

同じ「赤」でも、なぜ〈ソ連・ベトナム〉vs〈中国・北朝鮮〉なのだろう?はてなマーク

そんでもって、
ポル・ポトさんよ。「地雷」は「完全な兵士」などではなく、
カンボジアの足を吹っ飛ばす、もとい、足を引っ張る、「迷惑な殺傷具」であるぞ。パンチ!




「カンボジア人の間では、隣の大国であるベトナムに対する反感が強い。それはイデオロギーに関係なく、ロン・ノル政権とクメール・ルージュはともに国内のベトナム人を虐殺・迫害した。

シハヌーク時代に50万人いたベトナム人のうち、1970年まで虐殺と迫害を逃れるためにベトナムに帰還したのは20万人以上にのぼる。

権力を掌握したポル・ポトたちは、ナショナリズムの姿勢を強め、東部国境でベトナムへの越境攻撃を繰り返し、現地住民を虐殺した。

彼はクメール・ルージュのラジオの放送で『ベトナムを排除するのに洗練された武器は必要ない。歴史ある民族の各人が、その手で一人につき10人のベトナム人を殺せば足りる』と放送した。これがベトナムの侵攻を招く要因になる。」



己の国や国民を誇る気持ちがあれば、他国にも同じ敬意を払えばいいじゃないか。
なぜ、出来ない?(´□`。)
国粋主義=人種差別……ここにはエゴしかないではないか。
彼は知識人同様、ベトナム人も恐れていたということだろうか……。




「1977年、ベトナム軍がカンボジアに侵攻、また親ベトナム軍が1979年1月7日、プノンペン入りを果たした。この時彼らは廃墟からカンボジア人が受けた虐殺を示す、頭蓋骨の山を見つけたという。クメール・ルージュ軍は敗走し、ポル・ポトはタイの国境付近のジャングルへ逃れた。1月にベトナムは、粛清を避けてベトナムへ逃れた元クメール・ルージュ構成員から成るヘン・サムリン政権(カンボジア人民共和国)を成立させた。このことは東部カンボジアでのクメール・ルージュ構成員の広範囲な離脱につながった。離脱者の大部分は、ベトナム側が宣伝した『離脱しなければポル・ポト政権下での残虐行為が告発される』ことへの恐れによって動機づけられた。ポル・ポトは国の西部の小地域を保持し、以後も武装闘争を続けることになる。」


「以前にポル・ポトを支援した中華人民共和国は『懲罰行為』としてベトナムに侵攻し中越戦争が起こった。」


……って、もう、みんな、何のために闘ってるんだ?はてなマーク
ただもう、侵略したくて仕様がなかったんじゃないか?
覇権を手にしたくて仕方なかっただけじゃないのか?
どこにもイデオロギーなんてものは、なくないか?






はぁ~、
以上に抜粋した他にも、アメリカももちろん絡んできて、
色々な国々の、色々な人々の思惑が絡み、
カンボジアという国の複雑な苦難の歴史を追いながら整理していくのは
私には至難の業。Y(>_<、)Y





独裁者ポル・ポトは、
己の中に矛盾を抱えていて、
それを見破られることを恐れていたんだ。爆弾

これって、他の独裁者や過激な共産党員とかに共通していないか?
日本だって、赤軍派しかり。

「人民」のことを考えていい国にしようとしてみせて、
実は自分の特権・地位のことしか考えていないんでないか?




結局、ポル・ポトは破れ、死体はタイヤのゴムと一緒に燃やされたらしいけれど、メラメラ


彼を狂わせたものはいったい何だったのか……? 


わからん。





列強各国の獰猛な利権争いも、一因だったろう。
人々の由無い感情を煽って利用して、
己の感情はコントロールできなかった人間なんだろう。
農家の倅が、どうしてこうも殺戮を愛する人間になれたのか……。
汗


そこにはまだ明かされていない、
もしかしたら実に些細な“掛け違い”が
あったのかもしれない。










さらに文献を読んで彼のことを知りたいとも思わない(そんな時間もないが)。Y(>_<、)Y


ポル・ポトの残した「地雷」はいまだにカンボジア各地に何百万と埋まっている。
百歩譲って、カンボジアを守るために地雷を埋めたのだとしても、
ポル・ポトさんよ、
あなたの残した地雷は、今もどこかでカンボジアの明日を作り上げる子供たちの肉体を吹き飛ばしている。

アキー・ラー氏たちは必死でそれを取り除いている。
今も、これからも。











己を直視できないほどの何か痛ましい“地雷”を抱えて生きた男(カモシレナイ)、ポル・ポト。爆弾





そんな男とクメール・ルージュと、その他諸々権力を狙う輩どもと、
列強各国のいざこざに巻き込まれたカンボジア。


19世紀中ごろから、フランスによって、「インドシナ」と括り称され、
1887年、とうとうフランス領インドシナに編入されてしまい、
1940年以降、日本軍の進駐を認めざるを得なくなり、
且つ、タイとフランス領インドシナ間で、カンボジア、ラオスの領土をめぐり国境紛争が勃発して、結局、カンボジアの一部がタイに割譲され、
1945年、カンボジアの独立を宣言するものの、
日本軍が連合国に降伏するや、再びフランスの保護下に戻され、独立は消滅。
それでも、シアヌーク王は独立運動を続け、
1953年、「警察権・軍事権を回復し、完全独立を果たした」。




日本軍まで、カンボジアで何してたんだ……?(-"-;A





何も知らないうちは、ポル・ポト、とんでもない野蛮な奴だとおぞましかった。

が、

カンボジアの歴史を大雑把にでも知ると、
人種を誇る気持ちと差別する気持ちとの激しい交錯、
“文明”という武器の格差の前に虐げられた国、
その中にあって、己が国を侵略から守ろうとする人々、
一方的な「正義」や「基準」を振りかざされ、
そんなもろもろがぐちゃぐちゃになって……


結局、
ポル・ポトが大虐殺の中心人物だったとしても、
彼よりも、
国と国が領土を奪い合う醜さと埒の明かなさが諸悪の根源に思われ、
暗澹とした気持ちになるばかりである。ドクロ
人間を狂わせるのは人間の欲望なのだ。



人間、欲望は尽きない。
欲望がなければ生きていけないだろう。
ただ、何を欲望するかが問題なんだ。



地雷はまだまだ埋まっている……。爆弾





参考:ベル

ポル・ポトの大虐殺について、
分かり易いサイトをmaguroさんが紹介してくれたました。
読みやすく、虐殺内容(証言)が具体的。ヽ(;´Д`)ノ

ポルポトの大虐殺~総人口の1/3を殺し尽くした戦後最大級の虐殺~
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2006年夏、カンボジアのシェムリアップ日記の続きです。
(ちなみに、2006年カンボジア旅行記は、サイドバーの「テーマ」欄中、「カンボジア旅行記①~⑮2006http://ameblo.jp/chantichanti1114552coco/theme-10003880620.html」にあります。)


カンボジア(シェムリアップ)旅行記22 キリングフィールド




アキー・ラーの地雷博物館の後は、キリングフィールドを訪れた。


かの有名なキリングフィールド。
クメール・ルージュによる大量虐殺が行われた場所。血
有無を言わせぬ処刑の場。血
殺戮の原。ドクロ



「きりんぐふぃーるど」という言葉を最初に耳にしたとき、
お馬鹿な私は、「キリング」が「killing」と結びつかず、
「キリング」=「麒麟+ing」?
“麒麟がいっぱいいる野原”?……みたいな、ジラフ
なんとも暢気なイメージに、
ひとりでウフウフッ♪と愉快な心持ちになったのだった。( ´艸`)音譜


モノを知らないということは、ある意味平和である……。おバカ





さて、
「麒麟」がいっぱいいるわけでない、(いるワケない。)
「殺し」の原だと知ってびっくり、
重たい気持ちで粛々と訪れたわけだが、ガーン



へ? ここ? この狭い敷地?目 
……というのが第一印象。汗


ワット・トメイだと案内された小ぶりの寺院。
境内は乾いた赤茶色の土がきれいに均されている。キラキラ


寺院風の屋根を冠した小さな白い蔵のようなものがあった。
細長いガラスがはめ込まれており、中が見える。
どちゃっと積んであるように見えたのは、
土ぼこりにまみれたような頭蓋骨たちだった。ドクロ


天井までぎっしり詰め込まれているわけでもなく、
内部にはまだまだ余裕がある。
あれ? 頭蓋骨、これだけ?Σ(~∀~||;)

……というのが、最初の正直な私の感想だった。汗



ガイドさんは付けず、勝手に見に行ったので、
細かいこともわからないまま、
漫然とただその地に立ったのだったが……汗


ネットで見ていたら、
参照:「シェムリアップのキリングフィールド

この蔵かと思ったものは、虐殺慰霊塔で、
この「現在は寺院」なっているキリングフィールドは、
ポルポト時代に刑務所」の跡地であったらしい。
1970年代後半にポルポト派による大虐殺が行われ」、
「この周辺で発見された遺骨が僧侶達によって集められ」、塔に収められた
らしい。


つまり、ここら周辺すべてが「キリングフィールド」だったということだろう。
いや、ポルポト政権下では、カンボジア全土が「キリングフィールド」だったのだろう。







夫婦世界旅行-妻編-ご本尊?

寺院は、広々とした集会所のような雰囲気の造りに思われたが、
周囲の壁には、なかなか色鮮やかに釈迦の物語らしい絵で埋め尽くされ、
やはり寺院であるのだった。
(もしかしたら、ちゃんとした本堂は別にあったのかもしれない?)


キリングフィールドで処刑された無実の人々を弔う寺院であれば、
ポルポト時代の悲惨なカンボジアの物語を描いてもいいのではないか……
などと私は思っちゃうのだが、
現地の人にすれば、
そんなものは描き残してはおきたくないかもしれないね。


夫婦世界旅行-妻編-ワット・トメイ

がら~ん……とした感じ。

夫婦世界旅行-妻編-寺院内

ここは寺院の中のどこら辺だったか……。
薪などが積んであり、
静かな生活の匂いがした。





キリングフィールドについては、あまり記憶のない私……。
覚えているのは、
埃立つ田舎道。
田舎の空き地のような境内。
薄汚れた頭蓋骨の積まれた蔵(塔)。
寺院らしき建物。
閑散とした暑さ。



このときはまだ、
クメール・ルージュがなぜ同じカンボジア人を教養人だからといって大量虐殺なんてしたのか、
そして、
「キリングフィールド」がカンボジアの各地にある
……なんて知らなかったのだった。



                つづく
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2006年夏、カンボジアのシェムリアップ日記の続きです。
(ちなみに、2006年カンボジア旅行記は、サイドバーの「テーマ」欄中、「カンボジア旅行記①~⑮2006http://ameblo.jp/chantichanti1114552coco/theme-10003880620.html」にあります。)


カンボジア(シェムリアップ)旅行記21 怒りの矛先


(「アキラ」は、ビンビンビガロさんに、正確には「アキー・ラー」だと教えて頂いたので、
以下、アキー・ラーと表記することにします。)




アキー・ラ-は『My Story』の中で、
ベトナム軍の罪について記している。メモ


ベトナム軍には、アンコール・ワット付近の貴重な文化財を破壊した罪があります。兵士たちは暇つぶしに文化財を射的にして遊んでいたのです。たくさんの貴重な古美術品を略奪したり、ジャングルの木材を大量に伐採して、自国に高価な日用品として流したりもしました。一日に三回、木を伐採したので、結果的に広大なジャングルの土地を失うことになりました




確かに、寺院遺跡の塀などにいくつもの銃弾の跡があった。銃
この穴は何? ツアーガイドさんと聞くと、
ガイドさんは、静かに、しかしうんざりしたような顔で、
「戦争の時、兵士が撃ったのだ」と教えてくれた。


あれれ? なに? そのトーンダウンした様子。えっ
沸々とこみ上げる怒りを抑えつつ、悲哀を込めて、 
「タイ人が撃ったよっ。タイ人みんな壊していったっ……。
大切なお寺にこんな穴、タイ人がみんなみんな、あけてっいたよっ!パンチ!
とかなんとか言いそうなところなのに、
いつもと調子が違うね?
……とちょっと妙に思ったのだったが、


そうか。
あの穴は、ベトナム人があけたものだから、
彼にはタイ人がしたことほど怒りを感じてなかったのかもしれない? ベトナム<タイ (=◇=;)



アキー・ラ-の書いたものを読んでいる限り、タイに対する恨み、怒りは感じられない。
むしろ、「自由の国」として好感度が高い。ラブラブ
(タイに限らず、アキー・ラーの書いたものからは、「恨み」「怒り」といったものは感じられないのだが。)


ガイドさんは、推測(?)1973年生まれのアキー・ラーと
年の頃はほぼ同じように見受けられたが、
ほぼ同世代でも、怒りの矛先は随分違うものだ。(°Д°;≡°Д°;)


カンボジアは
恨み、怒りの矛先が多方面に渡るので、
人によって偏りが出るのかもしれない?はてなマーク







――「敵が憎い」という理由やその感情は、
ほとんど戦争を始めた一部の人間によって作られ、刷り込まれるものかもしれない。ドクロ



敵を憎み戦争へと熱く突入していくほとんどの人々は、
実は別に個人的な恨みもなく、
強制されて(あるいは踊らされ?)戦い、
殺されないために誰かを殺し、
その結果、殺された数だけ恨みが確固としたものになり、
人々の結束を固め、
戦争へと向かう波は一層高まる。波


アキー・ラーの場合、幼い頃からクメール・ルージュに洗脳されたとしても、
飢えに苛まれる生活の中で、
自分が埋めた地雷を掘り起こして売るなどという滑稽きわまる現実や
生きる術として身につけたタイとの交渉などを通して、


普通ならば思考力も感情も失ってしまいそうなところなのに、
冷徹な眼差しで不合理、不条理なるものを見つめ、目
冷静に現実を洞察する力を自ら養ったのかもしれない。


おそらく無意識にせよ、
“自分を訓練する大人の言うことがおかしい”と、
“自分のさせられていることはおかしい”と、
自分は何のために銃を発射しているのかと、
わかっていたのではないだろうか。目から涙




生き方を選べなかった時代。
そんな時代に生まれ、育てられてしまった彼だが、
彼には、自分がこんなに不幸だった……という嘆きがない。(『My Story』を読む限り。)





1991年、「国連平和維持軍が到着して、たくさんのカンボジアの人に数え切れないほどの地雷を取り除く手伝いをしないかと呼びかけ」、
ジャングルから初めてシェムリアップの町に行ったとき、

電気、トイレ、道路もないジャングルでの生活しかしらなかった」彼は、
「見るものすべてに驚い」たという。Σ(・ω・ノ)ノ!ソリャソーダロウ


彼は綴っている。
すぐに英語を習得し、
カンボジア人や英語がわからない国連の職員たちにたいして通訳をし、
学校で学ぶ機会を与えられ、
「人生は良い方向へと大きく変わりはじめました
。」
と。チョキ




彼に嘆いている時間などなさそうだ。
すぐに自分のできること、やるべきことに取り組んでいったのだ。ダッシュ



カンボジアは取り返しのつかない過去をふりかえってばかりはいられません。

新しい生活の再建に前向きに取り組んでいかなければならないのだと信じています。

私たちは過去の遺物である地雷や不発弾などと共に今日も生活しています。

博物館とこの本を通してまだ恐怖は終わっていないということを是非みなさんに伝えたいのです。

(中略)

Siem Reapでの地雷の被害者はこれまでで27,000人にのぼります。そして今日もその数は増えつづけています。

この国や世界各地に埋まっている地雷の数は見積もりでしかわからず、まだ世界のどこに埋まっているのかも明らかではありません。

全ての地雷を撤去するにはあと50年から100年もかかるのです。
と。願っ






現在も、地雷や不発弾(推定600万個)によって、1時間に2人の割合で新たな犠牲者が出ているらしい。爆弾
バッタンバンで3日前、左足が吹き飛ばされた男がいたそうだ。爆弾




戦争による悲惨な過去とその遺物は、カンボジアだけに限ったことではない。
第2次世界大戦の頃の日本人が経験したことだって、壮絶悲惨を極めていると私は思う。
今回の原発問題だって、大量放出してしまった放射線が安全な数値まで下がるのに何十年かかることか……。
悲惨は過去にも現在にも、ゴロゴロ転がっている。



悲惨はあれよあれよという間に始まり、広がり、
はっきりと分かったときには、もう後戻りできないことになっている。叫び



だから、そうと分かったときから、
負の過去を明らかにして、
悲惨の原因を確認し、
よくよく戒めとして、
アキー・ラーの言う通り、
前向きに取り組んでいくしかないのだ。


いつか
みんなが安心して楽しく笑いあって暮らせるように。










地雷博物館までの道は大きな陥没だらけの未舗装の道路だった。キラキラ
馬がいて、牛がいる。キラキラ
小さな子供たちは、にこっと笑って嬉しそうに手を振ってくれた。キラキラ


地雷原を再現した区では、
にわとりが2羽、窪みに仲よさそうにぴったり寄り添って寝ていた。ヒヨコヒヨコ



おまけ:

Aki・Raの地雷博物館は、「どの組織にも所属していない」で、アキー・ラーの尽力とボランティアや募金で成り立っているという。


冊子、『My Story』に関するお問い合わせは下記までどうぞ。
(2006年に仕入れた冊子の裏づけの表記なので、現在は違っているかもしれないが……)

   夏目洋子(編集・写真提供)
   渋谷幕張シンガポール校教諭
   curious_yoko@yahoo.co.jp
              


2006年夏、カンボジアのシェムリアップ日記の続きです。
(ちなみに、2006年カンボジア旅行記は、サイドバーの「テーマ」欄中、「カンボジア旅行記①~⑮2006http://ameblo.jp/chantichanti1114552coco/theme-10003880620.html」にあります。)




カンボジア(シェムリアップ)旅行記⑳AKIRA 3




夫婦世界旅行-妻編-クメール・ルージュの子ども兵
(↑ネットより拝借:クメール・ルージュの銃を持つ子供達)





以下、私が博物館で殴り書いてきたメモを記しておこうと思う。メモ
(展示の何かを写したのか、誰かの話をメモったのか、もう覚えていないのだが……。(^^ゞ)





(私=アキラは、)タイ国境に地雷を埋め、爆弾
夜になると上司に内緒で地雷を2~3個掘り出して、シャベル
1個1バーツでタイの軍に売った。お金


クメール=ルージュは人々をクロコダイルのエサにした。こんばんワニ血



ショットガン230ドル、AK10ドル、RPG15ドル(で売った)、ガン(01)
1ヶ月の給料は5~10ドル、
TNTと起爆剤、ワイヤーを持って、夜、ジャングルに行き、狩りの罠をかける。トラップ
山猫、猿、猪などを捕って食べたり、黒猫メガネザル氏いのしし
タイ軍に売ったりした。お金



1970年からベトナム戦争。
実際、この戦争はカンボジア、ラオスにも大きな被害を与えた。
だから、カンボジアは1970~1998年(ポルポト死去)まで、戦争だった。いくさ

(注:ベトナム戦争は1960年が始まりとされている。
1970年は、ニクソンが大統領就任し、
南ベトナム軍とアメリカ軍がカンボジアに侵攻し、
カンボジア内戦が勃発した年なので、
カンボジアにとっては、「1970年からベトナム戦争」という表現になっているのだろう。(・ω・)b)



1980年~1990年の間、私がカンボジアで見たものは、たくさんの地雷と戦争だったのです。だから人びとや動物達はみんなカンボジアから逃げたのです。
そして、タイとカンボジアの国境には難民キャンプが出来、そこだけが唯一安全な場所でした。(そこからアメリカ、フランス、日本、イギリスなどの平和な国へ送られる。)
だから私のeメールのアドレスは
Thailandisfreedom(タイは自由の国)なのです。手紙






以上、
順不同で、かなり支離滅裂なメモだが、アキラたちの具体的な様子が垣間見られる。f^_^;


アキラにとってタイは自由の国だったとは!
自由への脱出を可能にした国だからだろう。
カンボジア人にとってタイは憎い相手なのかと思っていたが、(他日、我々を案内してくれたガイドさんのように。)
アキラの言葉からはそんな様子は微塵も見えない。
戦闘中も、地雷、武器やら食糧やらを買い取ってくれるありがたい商売相手でもあったようだ。お金


タイから自由の国、平和の国へ脱出できる……アップ
そうと知っていて、
なぜアキラはタイとの国境からタイへ、
あるいは、そこからさらに他の平和な国へ逃げなかったのか……。はてなマーク


自分が兵士としてしてきたことを十字架のように感じて、
いまさらカンボジアを逃げ出す気にはならなかったのかもしれない?



アキラは自分の心情については詳しく書き記していないので、よくわからないが、
彼が亡命せず、地雷撤去作業に従事し続け、
自費で地雷博物館を開設したとは、そういうことだろうと思う。祈り

               つづく カナ