つれづれにラララ・ララ物資

 

 

最近私の中で、やたら「ララ」旋風(?)が吹き荒れていた。ララララララ~

 

映画「ラ・ラ・ランド」が面白そうだな~と思っていたら、ウインク

時々覗かせて頂いているつぶログさんの日記から「ララ物資」なるものを初めて知り、滝汗

三島に「ララ洋菓子店」なるお店があり、そこが、戦中名前を和菓子屋風に変えろと憲兵に迫られたという話をチョビさんから教えてもらった。滝汗

頭の中がララララ~♪な状態になった。ベルあせる

 

 

そういえば、なぜ歌うとき、とりあえず「ラララ~♪」と歌うのかしら?はてなマーク

英語(lalala)でもフランス語(tra-la –la)でも、大筋「ラララ」のようだ。(他の言語ではどうなの?)はてなマークはてなマークはてなマーク

 

フランス語で「tralala」を引くと、「おやおや、あらまあ(喜び、不信など)。」とある。びっくり

日本語の「あらら」とそっくり!ゲラゲラ

 

「麗」は「うらら」と読む。 「春うらら」と言えば美しいけれど、キラキラ

「ウララ~ウララ~音譜」と歌うと、かつての山本リンダの悩殺的な映像が思い浮かばれ、とても煽情的で攻撃的な響きを感じるよね。デレデレ

(「アララ~アララ~」と歌われたら、すっごく間が抜けるね。ゲラゲラ

しかし、よくよく思い返すと、

「ウララ、ウララ、ウラウラ で、ウララ、ウララ、ウラウラよ」って、なんて面白い歌詞なんだろう。ビックリマーク

「ウラウラでウラウラ」って、この接続詞の妙! 愉快この上ないのに、当時よく笑いもせず聞いていたなぁと思う。ゲラゲラ

 

ちなみに

ラ・ラ・ランド(La La Land)「この映画のタイトルはロサンゼルスと「現実から遊離した精神状 態」を意味する。」(ウィキペディアより) 

ララ洋菓子店(R・R洋菓子店)

ララ物資(LARA—Licensed Agencies for Relief in Asiaの略:アジア救援公認団体)

ラララ(Lalala)♪ 

ですがな。イヒ

 

 

ラララについて考え始めると、とりとめもなくなってしまうのだが、あせる

とりあえず、

私が知らず知らずにその恩恵を被っていたらしい「ララ物資」について、

おくればせながら調べてみた。サーチ

参照:「歴史とはずがたり」「ララ物資と朝野七之助

参照:「タイムスリップ横浜 ララ物資

参照:「ララ物資のはなし 敗戦直後日本人への救援 by奥須磨子」

参照:ウィキペディア「ララ物資」

参照:ララ物資の碑

参照「給食ひろば」(2014年11月13日 「戦後学校給食に使われたララ物資を保管していた倉庫が解体されています。)」

 

第二次世界大戦終結間もない昭和20年(1945)秋、

日本は食料品や医薬品・日用品などが著しく窮乏し、

食糧については大正、昭和を通じて最も凶作の年となり、

翌21年(1946)には1000万人以上の餓死者が出るとまで云われていました。えーん

(「歴史とはずがたり」「ララ物資と朝野七之助」より引用)

 

当時、「アメリカにおける対外的な慈善活動の対象地域はヨーロッパ地域のみであり、日本は含まれていませんでした。アセアセ

(「歴史とはずがたり」「ララ物資と朝野七之助」より引用)

 

で、日系アメリカ人の人々などが尽力して日本への救援物資を日本へ届ける組織を立ち上げ、それを実行し、戦後の餓えと貧困に喘ぐ日本人に救援物資が7年に渡って届けられたという。横浜だけでなく、やがて各地にも運ばれたって。クラッカークラッカークラッカー

 

その救援物資のお蔭で学校給食が始まり、子供に栄養のある食事をとらせることができるようになっていったのだった。チョキ

小学生の頃、嫌々飲まされていた脱脂粉乳……あれはララ物資だったらしい?ゲロー

(いぁ、昭和28年にはララ物資の搬入は終ったらしいから、私が口にさせられたのは、もはや「ララ物資」ではないのだろう? あるいは倉庫に保存されていた在庫の脱脂粉乳か?)はてなマークはてなマークはてなマーク

 

 

 

先日、横浜の港の方へいく機会があり、ついでに「ララ物資記念碑」を探してみた。グー

 

 

赤レンガ倉庫の脇の方にありそうだったので、すぐに見つかるかと思いきや、音譜

そうは問屋がおろさなかった。ガックリ

(ネットより拝借画像)

 

かつては汽車が通っていた「汽車道

――「1911年明治44年)開通の旧横浜駅と新港埠頭を結ぶ臨港線(通称税関線とも)の廃線跡」を通って~走る人

 

線路跡に沿って赤レンガ倉庫の方を目指す。走る人

海風が爽やかな気持ちいい昼下がり。キラキラ

 

が、この日(6月3日)は、横浜開港記念日の翌日の土曜日とあって、

夜には花火大会があるとのことで、おーっ!

昼からなにやら賑わっていて、人で溢れ、滝汗あせるあせるあせる

 

係りっぽい人に聞いても、なんちゃら記念館の人に聞いても

みなさん「ララ物資」なんて知らないし、あせる

「ララ物資の記念碑」などもご存知ないのであった!あせる

(って、私もつい最近まで知らなかったのではあるが。ねー

 

後日わかったことだが、

赤レンガの脇というより、「横浜海上防災基地」の方(新港埠頭)まで行かねば見つけられなかったんだった。汗

(ネットより拝借画像)

 

まぁ、「碑」を見るより、その出来事、内容を知ることが大切だよね。うん。あせる

戦後直後、うちひしがれた日本に自分の食事を少し削ってでも日本を救おうと奔走した日系の人々がいた。その物資が「ララ物資」であり、

「ララ物資」を保管したのが、「ララ倉庫」と呼ばれた「旧三井物産横浜支店倉庫」で、

赤レンガ倉庫とは別物らしい。アセアセ

 

で、その歴史的遺産ともしたくなるような「ララ倉庫」は

2014年には市民の反対も虚しく解体が始まったと。ダウン

つまり、現在「ララ物資記念碑」だけが、ララ物資の存在の“備忘録”的存在なんだね。叫び

 

しかし、その記念碑、

碑面には、昭和241949)年に、香淳(こうじゅん)皇后が昭和天皇とともにララ物資の倉庫を行幸啓(ぎょうこうけい)した際に、救援物資を贈った人々への感謝の気持ちを詠んだ御歌(みうた)が刻まれている。」(「浜の風、中区から―第193回 戦後の日本国民を救ったララ物資(2015年8月号掲載)」より引用)びっくり

 

 

ララの品/つまれたる見て/とつ国の/あつき心に/涙こほしつ
あたゝかき/とつ国人の/心つくし/ゆめなわすれそ/時はへぬとも
」(。-人-。)ラブラブ

 

昭和天皇……戦争を始めちゃった天皇の、戦争を適切な時期に止めることもできずに、

日本を敗戦の焼土としてしまい、なんの責任もとらず、

戦中は「神」として、戦後は「象徴」として生きたお方の

その奥方様が、

「あ~海外の方の温かいお心尽くし、ありがたいこと。決して忘れてはなりませんわ」

と歌ったのか。ヤマガラ

 

当初アメリカは日本を救援対象外としていたのだから、感謝すべきは、日本への援助物資輸出を可能にした浅野七之助を始めとする海外で暮らしていた日系の人々や、アメリカの宗教団体の人々なんだろうにな、と思う。ねー

 

昭和天皇はどんな思いで、ララ物資の倉庫を見たのだろうね?汗

 

とにもかくにも、横浜港は、今や空襲の跡さえ見えず。キラキラ

敗戦の悲惨の影もない、近代的建築物が並ぶ港になっている。キラキラ

 

(70階建て高さ296.33m ランドマークタワー)

 

しかし、「ララ物資」。

ひとにぎりの人々の篤い思いが戦後日本の窮状を救った

という美談だけで終れない……とも思う。むっ

 

アメリカでは禁止or制限されている農薬まみれのフルーツが日本ではOKで、ドクロ

アスベストがやばいとなってアメリカで使われなくなれば、それ、日本で使えと

日本では政府がかりで日本中の建物に使わせ、ドクロ

原子潜水艦の補修工事がアメリカでダメとなると、こっそり日本の港で行い、ドクロ

etc. ……。ドクロドクロドクロドクロドクロ

 

光もあれば影もある。

アメリカも日本も他の国々も

どこの国も光と影の部分を持っているのであろうとは思う。あせる

肝心なのは、表面的なごまかしに惑わされないこと。グー

……などと考えていたら、まとまりもなにもなくなってきてしまった。ヽ((◎д◎ ))ゝ

 

 

とりあえず、一首。

 

鼻につく脱脂粉乳飲み下す 苦行であった学校給食えーん

まずくとも栄養あるぞと強いる権利が教師にはありきえーん

臭くてたまらぬマーガリン 残せば先生に怒られたえーん

 

学校給食、鯨の竜田揚げや揚げパンやエビフライ、カレーなどなど、

美味しくて楽しいものになったのは、高学年になってからだったなぁ。ラブ

 

ら~ら~ら~、らら~ら~、ら~ら~ら~、やっぱり~音譜

長々だらだら~書いてる~♪ゲラゲラ

 

ららら、ら~ら、ら~ぶ そ~んぐ♪音譜

やっぱり、「ららら」は不滅の音楽だね。チョキ照れ

 

(四季亭の鯵寿司は絶品)

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