江戸時代のオランダ画家と儒学者

 

東京ミッドタウンで気の置けないお仲間とのランチ会があった。

ついでにサントリー美術館へ。音譜

 

本当はちょっと足を伸ばしてダリ展に行こうと思っていたのだけど、

サントリー美術館で開催されている展覧会のタイトルが刺激的で、

ダリを諦め、そちらへ。リサイクル

すなわち、「世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画」展!クラッカー

 

江戸時代、秋田の画家、小田野直武(オダノ ナオタケ)なる人こそが、江戸で『解体新書』の挿絵を描いた人だというのだ。びっくり

しかも、日本にオランダ絵画を取り込んだ魁らしい。

しかも、江戸で頑張っていたのに、たった7年でなにやら偉い人の怒りを買って(?)秋田に呼び戻され、滝汗

その翌年に、帰郷してから半年もしないうちに亡くなっている。オバケ

 

なにやら謎めいた人生ではないか。

それにしても、『解体新書』の挿絵って、どんなのだろう?

と見てみた。走る人

 

展覧会は、江戸の蘭学者たちが所蔵した洋書の挿絵などから直武が学んだ遠近法やら陰影法などを日本画の中に取り入れようと工夫した跡が見て取れて興味深かった。照れ

 

そして、江戸時代、広く世界の文化や学問(博物学)を取り入れんと自らも絵筆を取ったり勉強したりしていた「博物大名」なる藩主達がいて、びっくり

彼らのネットワークが存在していたらしいことも解説されていて面白かった。爆  笑

各地に賢者がいて、各地で連絡を取り合って、切磋琢磨していたんだなぁ。

 

時代の最先端ともいえる『解体新書』の附図を任されるという大抜擢をされた直武が、

なぜ突然「遠慮」を申し渡されてしまったのか?滝汗

なぜ帰郷後まもなく亡くなってしまったのか?チーン

彼の人生が俄かに知りたくなったことであった。ラブラブ

 

どんな人だったのだろう? はてなマーク

彼の死後、やがて世間からは忘れ去られていたようだが、ダウン

今また光があてられた。キラキラ

江戸時代、異質な世界に触れ、取り入れ、短い命で散っていった日本人……。

そんな人々のことをもっと知りたいと思ったことであった。

 

そんな思いで帰宅したら、走る人

昔お世話になった先生から本が届いていた。えっ

彼がまとめた本であった。

児玉南柯著『漂客紀事』を読む」 とな。滝汗

 

児玉南柯(コダマ ナンカ)、1746年~1830年。

江戸時代後期の教育者、儒学者。岩槻藩士……とな。真顔

 

小田野直武より3歳年上なだけだ。ビックリマーク

なんと同時代に一方は秋田、一方は埼玉で、

一方は蘭学やオランダ画を取り入れ、一方は儒学者として。

 

児玉南柯は、岩槻藩の人だったらしいが、千葉の方で遭難して漂泊していたところを救助された中国人漁師たちを取り調べた(?)人のよう。――まだちゃんと読んでいないから、よくわからんが――あせるあせるあせるあせるあせるあせるあせる

天が私に1700年代後半をじっくり勉強しなさいと言っているようだわ。滝汗

 

とりあえず、本日12月11日は小田野直武の生誕の日ってことで、

めでたいのである。クラッカー

 

毎日世界中のどこかで小さな命が生まれ、あるいは消えていく繰り返しの中で、

今より250年ほど前に生まれ生きていた日本人が、

忘れ去られ、あるいは殆ど人口に膾炙されることもない日本人が、

 

日本中のあちこちで、一生懸命生きていたんだグーあせる

 

それぞれに挑戦をした人々の業績も営みも

ひとつの文明が埋れていくように

時の砂が降り積もり、時の地層の中に埋れてしまう。

それでも、行く時代か経たときに、

誰かがひょっこり掘り起こしたり、埃を払ったりして、

かつての人々の生き様の片鱗を窺えたりする。

ありがたいことだね。ドキドキ

 

追記:もうひとつの出会い

 

展覧会の絵葉書の中に、

色絵五艘船文独楽形鉢 伊万里」、「重要文化財」

という江戸時代の鉢の写真があって、

 

それがなんと使い慣れた我が家のトリ皿の模様ではないの!おーっ!

(ネットより拝借画像)

 

昔、友達の結婚式の引き出物で頂いて、未だに使っているのだったよ。

絵柄が気に入っていたのだけど、

そんな名のある器を模したものだとは、知らなんだ~。ガーン汗

 

犬も歩けば棒に当る……。

たまに外出してみると、色々なことに気づかされるものなのであった。ウシシ音譜

 

 

小田野直武について備忘録

 

1749年、12月11日、小田野直武(オダノナオタケ)は秋田藩「角館城代の槍術指南役・小田野直賢の第4子として生まれる」。

8歳の頃から絵を描き、注目され、

11 12歳の頃から藩主の家(?)に出仕しだし、

20 21歳で結婚、

21 22歳で父となり、

1773年、24 25歳で江戸へ出て、

1774年、25 26歳で杉田玄白訳『解体新書』の附図を描き、跋文を書く。

1779年、30 31歳で突然「遠慮」を申し渡され、角館に帰郷。

1780年、5月死去。(享年32歳)。(どうやら数えで歳を数えた方がよさそうなので、一部訂正しました。あせる

 

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