2016年秋 仙台・気仙沼旅行 7 歌枕の正体

(ちょっと間があいちゃったけれど、9月の仙台、気仙沼旅行のつづき。あせる

仙台の国府多賀城駅から多賀城跡を散策した後の話です。)

 

実はこの時、国府多賀城駅前にある東北博物館をじっくり堪能するか、

歌枕の「末の松山」や「沖の井」を見にいくか、迷った。(°Д°;≡°Д°;)

でも、多賀城跡で芭蕉が感動したという「壺碑」を見たことだし、

今回は芭蕉も見たという「歌枕」を見てみることにした。( ̄▽ ̄)

 

 

「歌枕」とは和歌の技法のひとつだが……あせる

 

平安時代後期の歌人源俊頼の著書『俊頼髄脳』には、『世に歌枕といひて所の名かきたるものあり』とあって、すでにこの頃には歌枕について、名所や由緒ある場所に限ることがあったと見られる。(中略)メモ

 

もともと地名の歌枕は実際の風景をもとに親しまれてきたというよりは、その言葉の持つイメージが利用されて和歌に詠まれていた面がある。(中略)メモ

 

また一方では、地名の歌枕は歌や物語で場面として繰り返し登場する中で、実際の風景から離れたところでイメージが形成されてきたものともいえる。(後略)メモ

(以上ウィキペディアより引用)

 

つまり、

平安後期以降、「歌枕」は、

実際には行ったこともない、見たこともない地(地名)なれど、

昔から歌に詠まれてイメージが定着していて、

そこからさらにイメージして歌われる、

和歌における“トリガー”みたいなもの……って感じ?Σ(゚д゚;)

 

イメージの固定された言葉を使って、歌う……それって、どーなんだろう?( °д°)

それがまたひとつの醍醐味だったりしたんだろうね?多分。f^_^;

 

 

でも、旅行中はそんな風に認識していなくて。あせる

“「歌枕」といったら、古人が感動して思わず歌っちゃった所なんでしょ~?”

ってくらいに思っていて、 (//ω//)

 

昔とは変わり果てた風景になっていたとしても、

とりあえず自分が行ってどんな感じを受けるか、

ちょっと楽しみでもあったのよ。ラブラブ音譜

 

 

仙石線多賀城駅のちょっと先にある歌枕を目指す。走る人

東北本線国府多賀駅から仙石線多賀城駅までは直線距離だと1.5kmほどか。

 

地図を見ると、あまりランドマーク的なものもなく、

道も相当わかりにくかった。あせる

が、人に尋ね尋ね、辿り着いた。DASH!

 

入り組んだ道を進んだ住宅地の一角に

ぽつんと現れた「沖の井」オキノイ(沖の石えっ

街中の「池」やん?

海ないやん?

岩がごろごろ。

池の中に置いた「置きの石」かっ?汗

 

そもそも、

「井」と「石」がなぜ同格なの?はてなマーク

この時点で面食らう。

「石」がもともとで、「石」を略して「い」だけになって、

字を当てて「井」になったの?はてなマーク

 

奇岩が作り出す景観が“みごと”とされているようだが……。汗

この景観(?)を見て、どんな感慨を古の人々はもったというのだろう?はてなマーク

どうみても井戸にも見えず、なぜに「沖の井(あるいは「石」)」……?はてなマーク

 

 

説明板には二首有名な和歌が紹介されていた。ビックリマーク

 

 

   小野小町    (オノノコマチ 800年中ごろの女性ね注意

 

おきのゐて 身をやくよりも かなしきは 宮こしまべの わかれなりけり

             (古今和歌集)
 

……なんのこっちゃ?滝汗

後日ネットをググって探したところ、あせる

この歌には、「いてのしまというたいを」という前書きがあり、えっ

(井手の島という題を)

どうやら陸奥に「井手の島」という島があったようで、サーチ

それをお題に詠んだようで?はてなマーク

 

イデ 「いで(井手)」→オキノイデ “「沖の井」で”、

さらにオキノイテ 「燠の居て」 を掛けて作ったようで?はてなマーク

 

意味は、

炭火がくっついて身体を焼くよりももっと悲しいのは、都へ行くあなたと、島辺に残る私との別れでございます。」メラメラ

 

で、

奥州にいる女が、都に帰る男との別離を悲しんで、奥(おき)の井の都島という所で酒を飲ましながら詠んだ歌てす。」

と、歌を詠んだ場所を「奥の井の宮古島」と限定しているサイトさえあった。びっくり

 

あれれ? お題は、「井手島」じゃないのか? はてなマーク

歌枕になった「沖の井」は意味的にも見当たりませぬが……?はてなマーク

チンプンカンプン笑い泣き

現地の説明板には解説は一切ないので、不明なり~。ダウン

 

  参照:「千人万首」 「帯とけの小町集」 「名歌鑑賞

 

 

しかし、小野小町は陸奥方面にいたらしい伝説もあるようなので、

彼女が、陸奥にすまう女が、都へ上京するという男との別れを惜しむ気持ちを切々と歌った……ってことはありうるだろうね。チョキ

 

「熾き火」……めらめら燃える炎ではなく、消えずに静かに燃え続ける火。ドキドキ

しかし、触れれば身を焦がすような、そんな静かで熱い恋の歌。メラメラ

こりゃ成熟した女の歌やね~。ウシシ

 

そんな恋の熾き火も、

この現実の”池”の風景を目にすると、ジュッ! と消えてしまう気がしなくもないが……。ぶー

 

 

説明板に紹介されていたもうひとつの歌は、

小野小町より200年以上後の歌人のもの。

 

  二条院讃岐   (ニジョウインノサヌキ 1141~1217年の女性ね注意

 

わが袖は しほひにみえぬ おきの石の 人こそしらね かわくまぞなき

                       『千載集』

意味は、
私の袖は、引き潮の時でさえ海中に隠れて見えない沖の石のようだ。他人は知らないだろうが、(涙に濡れて)乾く間もない。」(「小倉百人一首講座」より引用)
この歌も、調べたら、前書きに、「寄石恋といへるこころをよめる」とある。びっくり
“石に寄せて恋の歌を詠み合いましょうよ!”ってな話になって、
彼女はこの歌を詠んだのだろう。v(。・ω・。)ィェィ♪
私ならどう詠むかな。はてなマーク
「石」といったら固い……恋人と交した固い約束のこととか?
変わらぬ恋心とか?
一度熱したらなかなか冷めない保温性のよさを恋心に例えるとか?
そんなところを、二条院讃岐さんは、
海の沖の波間に隠れている岩を持ち出して詠む!
なかなかワイルドじゃない~?波岩
まして、歌といったら雅。雅
雅の世界にあって、この歌いっぷりは、
恋ゆえにめそめそと泣いてる女という常套手段ながらも、
たとえがワイルドという新境地をもしかしたら見せているのかもしれない?爆  笑

 

こちらの歌は「沖の石」(「井」ではないが)がしっかり歌われているし、

意味も通っている。チョキ

 

彼女も陸奥の守を勤めた男性と結婚したりなど、奥州とは縁のある女性だったようで。

 

 

さらに、多賀城駅から徒歩15分ほど?のこの「沖の井(石)」あたり、

昔はここら辺まで海だったという説もあるようだ。びっくり波

 

 

さらに、さらに、こんなサイトもあった。

浄土ヶ浜の沖さ、沖の井っつーどごがある。
 海の底がら、真水が湧ぎ出でんだぁな。
 四、五町ばがり沖合いっつーがら、五百メーターぐれえだべな。
 北東っつーがら、日出島寄りのほうだべ。
 ――すなわち、いにしえよりその名聞こゆる沖の井これなり。
『奥々風土記』っつー古い本には、そう書がれでる。
 沖の井ど呼ばれで、むがすから有名だったっつーこったぁな。

(「宮古ものがたり」より引用)
 

 

結局、古の人々も「歌枕」のことは詳細に知らず、

歌のみにて想像を掻き立てられ、アップ

それはどこか? などと推察を楽しみ、

噂に尾ひれ端ヒレ付いて、

あるものは廃れ、あるものはむしろ噂に従って創られなどし、

そこに旅人歌人が訪れたり、

イメージだけで歌ったり……

それが「歌枕」なのかな。ニヤ

 

 

詳しいことを知らない私には、

なにやら澱んだ小さな池とごろごろ岩に草木少々……という感じの場所だった「沖の井(沖の石)」。ダウン

 

小野小町の歌も、二条院讃岐の歌も、

あぁ、こんな歌、あった気がする~と遠い記憶を少し刺激しただけで、

これといった感動もなく。ダウン

なぜにこの風景がこれらの歌に繋がるのが、とんと理解不能。ゲッソリ

 

例えば江戸時代、この辺りの風景はどうだったのか、

浮世絵などがあって、それと見比べられたら面白かっただろうが……。汗

 

 

で、

ものの10分もしないうちに次なる目的地へ移動。あせる

この「沖の井」から徒歩3分ほどのところ、

坂をちょっと上った辺りにある、「末の松山」。クラッカー

「末の松山 波こさじとは」とか歌で色々歌われてきた「末の松山」。

 

何の「末」なのだか、私にはわからず仕舞い。(最近調べる気力も意欲もなくなってる。あせるあせる

貞観の大震災のときも、津波はここまで来なかったらしい。

そんなこんなで、「まさか起こるまい」の代名詞のように詠み込まれてきたようなのだが、

やはり、どうも私にはしっくり来ないのであった……。ダウン

 

「松山」って言ってるけれど、松が生えまくっている山にも見えず。あせる

歌枕の「末の松山」なる2本の松の木ばかりが大きくて立派。キラキラ

大きいけれど、幹はさほど太くないし~。

何か腑に落ちない。あせる

 

むぅ~っと憮然と見上げていると、うーん

上の幹の途中、枝を剪定した跡に

なにやらくっついてるものを発見。ビックリマーク

鳥?

虫?

カメラをズームしてみたら、

キノコだっ!?

美味しそう。食べられそう。ラブ

「末の松山キノコ汁」なんてあったら、味わい深そうね♪爆  笑

 

 

名だたる「歌枕」の「末の松山」にキノコが生えていた!音譜

そのことの方が、私にはとても愉快に思えたことであった。ウシシ

 

 

多賀城辺りは、他にも歌枕がたくさんあったし、

物語を含んだ小路もあったし、

有名な万葉人の跡があったりしたが、

 

「沖の井」と「末の松山」だけでも

“歌枕ガッカリ”度が強かったので、ダウン

疲れてしまい、撤収することにしたのであった。

 

 

 

おまけ:

 

後日

芭蕉の『奥の細道』をチェックしてみたら、

「壺碑」を見た後、「野田の多摩川・沖の石を尋ぬ。」と、

「沖の石」には特に感想なっしんぐ。(≧∇≦)

 

「末の松山」については、行を割いて、

末の松山は寺を造りて末松山(マッショウザン)といふ。」とな。えっ

 

もしかしたら、歌枕は夫婦を思わせる2本の「松」よりも、

松のあい間あい間に墓が点々とある原っぱになって」いる辺りから、その上の小高いところに建てられた「末松山」なる寺まで全体を指していたのではないかいな?!?

 

松の合間に点在する墓石を見て、

いつまでも変わるまいと約束した愛情も、永久に続くわけでもなく、

約束を交した人も結局終わりにはこのように墓に埋められてしまうのだと

悲しさが強く迫ってきてしょぼん」……と芭蕉はしんみりとした感動を綴っている。

 (参考:引用箇所は『おくのほそ道』野崎典子より)

 

 

「末の松山」というと、起こりえないことの代表。

私が恋しいあなたを忘れるなんてことはない!グー

この愛情は永遠だ!チョキ ……みたいな。

 

それを芭蕉は、そうはいっても、やっぱり死ぬ時はひとり。汗

みんな死んでいく。無常よのぉしょぼん……などとしんみりしたんだろうね。

 

旅の醍醐味は、自分がそこで何を感じるか、だね。

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近況報告

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近況報告

 

9月下旬に実に何年ぶり?ってくらい久々に風邪を引いてしまい、ドクロ

しかし、素直に内科病院へ行って速攻治癒。チョキ

 

しかし、咳や鼻詰まりはなかなか治らずにいたらあせる

内科の先生が、内科的にはもう治すところがないから

耳鼻科へ行きなさい!と仰る。びっくり

 

無理やり鼻をかもうとして、耳の鼓膜が破れちゃったような気がしていたので、あせる

とりあえず行ってみた。

怒涛のスピードであれやこれやされて、

副鼻腔炎と言われ、またも薬漬けの日々。ダウン

 

薬が原因と思われるほど体調が悪くなり、がーん。

薬を問い合わせなどしつつ、減らしたり戻したりしつつ。

でも、登山計画があるから、必死で薬を飲んだり差したり。あせる

 

そんな折、またも実家の老母が家の中で転んで

肋骨骨折~。いやーん、元気でいてー!えーん

 

でも、入院には至らず、お家で安静に、普通に生活してよいとのことで、

一安心。(でも、痛そう。)チョキ

 

で、今日、これから予定通り、お山に向ってGO! やっほーい!アップ

オババがこれ以上転ばないことを祈りつつ。(。-人-。)

 

みなさんも、体調を崩さないように。

元気でいてね。(。-人-。)

 

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2016年秋 仙台・気仙沼旅行 6 大黒柱

 

国府多賀城駅の南側に出てすぐ左側の道を行くと、

すぐに東北歴史博物館で。

立派な博物館。キラキラ

時間を気にして館内の展示などを見てこなかったのだけど、

しっかり中に入れば、アテルイに会えたんだそうで……。えーん

 

博物館の脇(?)には、「今野家 コンノケ 住宅」なる立派な民家が!えっ

石巻にあった江戸時代の有力者の家をここに移築したのだそう。

なぜにここに? と思わず寄ってみた。

中にはボランティアの方がおられて、丁寧に説明してくださる。アリガタヤ

 

見事に黒光りした柱はいわゆる「大黒柱」。ドキドキ

 

なんでこんなに黒いんですか? と素朴な(アフォな?)疑問を投げかけてみたら、

そりゃ、フッ、囲炉裏の煙に燻されて黒くなるんですよと、ニヤニヤ

ちょっと鼻で笑われた気がしたのは、私がすでに疲れていたせいかもしれない。ダウン

 

本当に家中、黒光りしている。キラキラ

燻りのパワー畏るべし!

 

しかし、

本当に燻されるだけでこんなに黒光りするもんだろうか?はてなマーク

木の種類とか、柱に何らかの丁寧な仕事(エゴマ油を塗るとか?)が施されているとか、

昔は糠袋で毎日磨き上げたんだとか、etc.……

そうした人々の手(凝らした意匠)も大黒柱を黒くしてきたんじゃないのだろうか。はてなマーク

でも、柱の上の方まで磨くなんて無理だよね?はてなマーク

 

う~ん、そこら辺を聞いてみたかったのだが、

つっこんで尋ねる気力は私にはもうなかった。ガックリ

(台風と一緒に北上するつもりで、レインコートなど着込んで、長い傘を持って、

そんな格好で暑い中を歩いたから大汗かいてヘトヘトだったの。バタ!

 

今野家の“庭”にはナツメの木が実をつけていた。

ナツメの実が生っているところなんて、初めて見た。ビックリマーク

それだけで実に嬉しい。ニコニコ

                 つづく

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2016年秋 仙台・気仙沼旅行 5多賀城跡への道

 

 

南門跡から、北へ向って、多賀城跡を目指す。走る人

南門からまっすぐ北に多賀城はあったようだ。アップ

その道は奈良時代、平安時代にかけて作られた古い道らしいのだが、キラキラ

今はまっすぐ通れなくなっていた。ガックリ(「養生」中で縄が張られていた。)

古道の脇には萩の花が咲き乱れていた。キラキラ

 

で、ちょっと迂回するように細い道をいくと、

道端に傾いだ墓石。

なんとも静かな風景。キラキラ

 

 

多賀城への階段が現れる。合格

 

 

この道を坂上田村麻呂も歩いて通ったのか? いや、馬でご出勤だったか?ラブラブ

 

広々した階段はみごとなまでに同じような大きさの石を並べて整えられていた。キラキラ

 

上りつめると、多賀城跡!クラッカー

 

 

 

中央に位置しているのが「政庁跡」だそうで。目

ここで昔々の人々は「重要な政務や儀式」を行っていたという。グー

 

木靴など履いて、正装したお役人たちが立ち働いていたのだろうか。

都の睨みを利かせんとばかりに?ニヤ

 

アテルイ好きの私としては、なんとも小憎らしいくらいの多賀城で、

政庁跡に降り立ってみて、

いかんともしがたい歯がゆい気持ちに襲われる。ウシシガーンぼけーぐすんえーんアセアセイヒにやりおーっ!

 

それとは別に、滋賀県の多賀と絶対関係があるであろうこの多賀城。|д・)チラッ

当時多賀城建設に携わった人々は、

東北の地を滋賀の多賀のようにしたいと思ったんだろうなぁ。

 

ここが……。ここに……。ここで……。ニヤニヤゲロー滝汗ゲッソリ真顔ニヒヒチーンデレデレムキー笑い泣き

むむむ~……などと考えていたら、

自分の影が思い切り真北に落ちていることに気がついた。えっ

時は丁度お昼頃。晴れ

まさに南門から一直線に真北に、多賀城は建てられていたんだなぁ。アップ

思わずパチリ。

 

――政庁跡の台に、俯いたまま、しばし仁王立ちしている女……はたから見たら、さぞ不気味だったろう。汗ニヤあせるゲラゲラ

 

我に帰って、さて帰ろうとしたら、DASH!

ゴミ一つ落ちていないと思われた政庁跡の端っこに

 

 

 

犬の糞を発見。ネコうんち ガックリ

小型犬のものと思われる。パグ

 

ちょっと乾燥し始めていた黒っぽい2片(本?)が

現実ってそんなもんワンパグ と言っているようであった。(^◇^;)

 

            つづく

2016年秋 仙台・気仙沼旅行 4 多賀城碑の壺碑(ツボノイシブミ)

 

多賀城跡に行くなら、JR仙石線の「多賀城駅」ではなく、

JR東北本線の「国府多賀駅」下車を勧められた。注意

――しかし、東北本線の本数はかなり少なかった。要注意だ。注意

 

多賀城の南端の辺りに芭蕉も感激した「壺碑」なるものがある

奈良時代に彫られた文字である

……ってな情報をチラッとゲットしていたので、

それが見てみたかった。ラブラブ

壺のような形をした碑なのかしら?……と。ニコニコ

 

が、この壺碑については、

国府多賀駅前のインフォの方にお聞きしても、

あまり明確な答えが返って来なかったので、(私の聞き方が曖昧だったためあせる

とりあえず、多賀城跡南端辺りを目指して、GO!走る人

国府多賀駅を出て、教えられた小道を進む。

 

すぐになにやら小高くなっている広い草地があって、

館前遺跡」とのこと。

 

昭和54年の発掘調査で、平安初期の建物跡が発掘された場所とな。びっくり

多賀城に赴任した高級役人たちの邸宅があったと推察されているようだ。 

平安時代にこの草原の大地にセレブなお邸がいっぱい建っていた……。キラキラ

昭和54年までは全てが埋もれたままだったのだろうか? はてなマーク

駅前の広大な土地なのに?

……なんか、ただの遺跡としてとっておくのがもったいないような気がするのは

私だけでしょうか。得意げ

 

駅から10分ほど歩くと、“あやめ園”と思われる一画が。走る人

季節はずれに1輪咲いていてくれた。( ´艸`)

 

あやめ園を横切り、

なにやら古墳へ続きそうな階段を上って行くと……

 

ゆったりと波打っているような丘に出た。

さらに北の方へ進むと、

多賀城の南門跡が。

昔昔はここに立派な門があったのね~。

 

さて、

ここら辺に壺碑があるはず。ラブラブ

 

しかし、この周辺を歩き回っても「壺碑」なるものは見当たらない。あせる

多賀城跡の見取り図もあったが、「壺碑」の表示がない。あせる

どこやねーん?えーん

 

しかたないので、

さらに進むと、あったのは多賀城碑ぐすん

高さ2m弱、横幅1m弱くらい。

そして、この多賀城碑が「壺碑」とも呼ばれているようなのだった。びっくりクラッカー

 

どこから見ても「壺」の形には見えない。あせるあせるあせるあせるあせる

なぜに「壺碑」?はてなマークはてなマークはてなマークはてなマークはてなマークはてなマーク

彫りこまれている文字は、丁寧に彫られているものの、

古人の魂が伝わってくるっっ!ってな熱い文字ではなかった。汗

しかし、確かに古そう。

奈良時代の人が一生懸命彫った字なんだなぁと思うと、

ある種の感慨を覚えなくはない。DASH!

 

内容は

日本各地から多賀城までの距離。

そして、創建者は大野東人(オオノノアズマヒト)で、修造者は藤原朝獦(フジワラノアサカツ)であることが明記されているばかり。汗

 

なので、「多賀城修造記念碑」とみなされているらしい。うーん

 

 

後日調べてみたら、

「壺碑」には諸説あって、

青森県にも「壺碑」が存在していた!ポーン

 

青森の壺碑(南部の壺碑?)は、1000人で引くほどの巨石で、坂上田村麻呂が字を刻んだと言われている。真顔

昭和24(1949)年に湿地帯に埋れていたところを発見されたらしい。ウインク

石碑には「日本中央(ヒノモトノマナカ)」と刻まれていて、ニヤニヤ
「石が発見された集落の名は、今でも残っている地名ですが、なんと『石文(いしぶみ)』。隣の地名は『坪(つぼ)』であり、これがまさに『つぼのいしぶみ』の伝説と地名の符合する場所だったのです。」笑い泣き

(「大発見?珍発見?青森東北町に『日本中央の碑』の謎」より引用。)

 

 

とな!∑(゚Д゚)

 

つまり、東北には青森と宮城とに二つの「壺碑」と呼ばれる碑があるチョキ

歌枕として有名な壺碑は、さぁ、どれなんだか?はてなマークはてなマークはてなマークはてなマークはてなマークはてなマークはてなマーク

 

 

『奥の細道』では、

つぼの石ぶみは、高さ六尺余り、横三尺計か。

苔を穿ちて文字幽かなり。

四維国界(シユイコクカイ)の数里をしるす。

として、一字一句洩らさずに碑文を写し取っている。

その内容はまさしく「多賀城碑」に彫りこまれている内容だ。合格

石碑の大きさといい、

芭蕉は確かに「多賀城碑」を「壺碑」として受け止め

感動しているのだ。マチガイナイグー

 

私が訪れたときは、屋根付きの格子で覆われていて、

石に苔も生しておらず、碑文もはっきり読めた。ウインク

 

この石碑が苔に覆われて

ゆるやかにうねる丘の草はらに

野ざらしにぽつんと建っているのを見たら、

その苔を払って刻まれた文字を辛うじて読み解くことができたとしたら、

移りゆく時代の中で、1000年ほどの時を越えて

今も佇み続けるこの石碑に

感慨深いものがあったかもしれない。キラキラ

 

多賀城碑である壺碑が発見されたのは、江戸時代らしい。びっくり

青森の巨石の壺碑はまだ発見されていない。

芭蕉の頃はすでに青森の方の壺碑は泥濘に埋れ、

伝説だけになってうやむやになっており、

多賀城碑こそがそれだ! と勘違いされていたのだろうか?はてなマーク

それとも、この多賀城碑こそが歌枕の壺碑で、

この壺碑を見て、代々歌人は歌を詠んできたのだろうか?はてなマーク

 

刻まれた文面を比べると、

青森の壺碑の方は「日本中央」……蝦夷(と都からは卑下されて恐れられた東北の人々)が自分たちの地域を「日の本」と呼んでいたというのは感慨深いし、巨石にはおそらく不思議なパワーを感じさせもしただろう。

一方多賀城碑は「多賀城修造記念碑」だ。

私なら、感動して歌に詠みたくなるのは、青森の方ではないかなぁ?と思うのだが、

とにかく芭蕉が感動したのは、多賀城碑の方なのだ。

そして、芭蕉だけでなく、

多賀城碑を歌枕の壺碑として歌に詠んでいる歌人は他にもたくさんいるようだ。

あの多賀城修繕記念碑を目の当たりにして、何を感動するのか、現代人の私には理解不能。ヽ(●´Д`●)ノ ハニャ~

 

古さに感動するにしても、

1000年の時を越えるものは、壺碑に限らないと思うのだが、

どうしてこの壺碑が歌人、俳人たちを惹きつけたのだろう?はてなマーク

 

『奥の細道』で芭蕉は続けている。

 

「歌枕、おほく語り伝ふといへども、

山崩れ、川流れて道あらたまり、

石は埋れて土にかくれ、

木老いて若木にかはれば、

時移り代変じて、その跡たしかならぬ事のみを、

ここに至りて疑なき千歳の記念(カタミ)、

今眼前に古人の心を閲す。

行脚の一徳、存命の悦び、覉旅(キリョ)の労をわすれて涙も落つるばかりなり。」

とな。

 

芭蕉は、どんな「古人の心」を壺碑に見たというのだろうか。ドキドキはてなマーク

この壺碑に、1000年前と変わらぬ何を感じたのだろうか。はてなマーク

(確かに刻まれた文字は1000年前だろうけど。)

 

そもそもこの壺碑も後世(江戸時代に)発見されたもののようで、

1000年もの間、ずっと今のように建っていたわけではなさそう。

江戸時代、“歌枕誘致作戦”があったようで、

伊達藩が発掘されたその碑を、「これが伝説の歌枕の壺碑じゃ~!」

ってことでアピールしたんじゃなかろうか。

その作戦に芭蕉はまんまと乗せられて、

おお!これが古人の……なんて感動したんじゃなかろうか。ニヒヒ

芭蕉に限らず、

我々は案外、作られた伝説や己の勝手な妄想に感激しているのかもしれない。滝汗

 

(壺碑の背後)

 

よぉわからんのぉ~と首をかしげるしかない私であった。

 

参照:「つぼのいしぶみ」ウィキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%BC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%97%E3%81%B6%E3%81%BF

 

          つづく