続・断捨離

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続・断捨離

断捨離・学生時代のメモ


またも断捨離の続きをしたら、小汚いメモ用紙がいっぱい出てきた。(^_^;)
ン十年前の、学生時代のメモだった。
超黄ばんでいるわ。あせる

悪戯に升目を塗りつぶして遊ぶ習性は今も変わらない……。(^^ゞ



なんか、一生懸命メモっていて、
一見、なんだかんだ自分なりに一生懸命書き込んであるので、
学生時代、私って真面目だったんじゃない?
と勘違いしてしまいそうになる。о(ж>▽<)y ☆

折角なので(?)、大切にとって置きたくもある。ラブラブ


が、
自分で書いたことが頭にほとんど入っていないメモなんて、オバケ
もう意味ないね。ドクロ
時効です。

さようなら。(/_;)/~~
若かった私。

一生懸命ではあったけれど、
結局はあまり真面目ではなかった私。ヽ(;´Д`)ノ




jobi

こちらは、この冬、ずっと一緒だったジョービタキちゃん。ドキドキ

友だちがプレゼントしてくれたもの。
ご本人は、これがジョービタキだとはご存知なかったみたいだけれど、( ´艸`)
私が大好きな小鳥さん。ビンゴでした。クラッカー

部屋着につけて、毎日一緒に過ごしました。(=⌒▽⌒=)

これは断捨離なんてしない。チョキ
これからも、一緒だよ♪キスマーク

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猪軍団の神業

2015年晩秋の京都旅行です

猪軍団の神業



2日目の午前中は、京の“西山”なる辺りを散策。大山

お山のあちこちに面白そうなお寺が点在しているのだが、
足腰の弱った老母と一緒だとあれこれ見ても歩けず。あせる
タクシーを使って、絞りに絞って回ったのは、
まずは、善峯寺(ヨシミネデラ)。
――タクシーは前日に予約して、駅で待っていてもらった。車


向日駅(東向日だったか、西向日だったか記憶曖昧なり?)から西へ、
“西山”へと入って行く。
結構急な坂を上っていくと、善峯寺の古びた立派な山門が出迎えてくれた。クラッカー


山の斜面を均し均し造られているようで、境内は山に即して上り下りが多い。↓↑


平安中期の長元2年(1029)源算上人が小堂に御自作の千手観音を奉安して、阿智坂の法華院と号したのが始まり」のお寺、とな。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ


その後で、
長元7年(1034年)には後一条天皇から『良峯寺』の寺号を賜った。
長久3年(1042)後朱雀天皇勅命により、洛東鷲尾寺の千手観音を遷座して本尊とされました。」……そうな。(=◇=;)


思うに、
何かを始めようとするとき、何も揃っていなくとも、
心ひとつで始められる……
立派な仏像があるとか、立派なお堂を建てるとか、そういうことではなくて、
肝心なのは、身ひとつで己は何を行うかだ……って感じだったのではなかろうか。グー


最初は何もなくて、千手観音を不器用ながら(?)自分で彫って“本尊”として始めたのだけど、
数年後には、後一条天皇から、寺の名前を賜ったり、アップ
後朱雀天皇からは、とあるお寺の(きちんとした?)千手観音像を置くように命じられたり、アップ
後鳥羽天皇からは「善峯寺」の宸額(シンガク)を賜ったり、アップ
(山門に掛っているのが、その「宸額」らしい。)

善峯寺山門

白河天皇や後花園天皇からは伽藍寄進整備がなされたり、アップ
後嵯峨天皇や後深草天皇など皇室の崇敬を受けたりアップ
まぁ、あれやこれや時の天皇さまが気に掛けている。ベル

……ってことは、常に天皇から気に入られていた
=よく庇護を受けた、ということなんだろうね。| 壁 |д・)



応仁の乱に巻き込まれて伽藍が消失したのち、江戸時代になってから桂昌院(第3代将軍徳川家光の側室にして、第五代将軍綱吉の母)の寄進によって再興された」と。メモ


「応仁の乱」の戦火って、京の西のこんな山の上まで及んだのか?と、またも改めて呆れる。(((゜д゜;)))
善峯寺の背後の山を越えたら、もう大阪テリトリー。
比喩でなく、本当にリアルに、京都がことごとく隅々まで火の海となったのねぇ。叫び


善峯寺は焼け落ちた後も、将軍関係から篤く扱われている。ドキドキ
神社仏閣は沢山ある中で、ずっと目を掛けられている。ドキドキ
いったいこの寺は天皇や将軍家の人々に、どんな魅力があったのだろう?はてなマーク




この寺の伝説に、「猪の地ならし」なるものがあって、
(「吉峯寺」


最初にお堂を建てるとき、この地が岩だらけで土地をならせずに困っていたところ、あせる
源算上人は夢で“お告げ”を受けた。
次の夜、野猪の大群が現れて、一夜にして牙で大岩をうがち、平地と」なり、
この場所にお堂が建立されて法華院」とされた……という。∑(゚Д゚)いのしし

んな馬鹿な! とは思うが、о(ж>▽<)y ☆
猪が一夜で地ならしをしてくれちゃったという、ありがたいお話。(。-人-。)

猪は人々の畑を荒らしたり、人を傷つけたりと嫌われているようだけれど、
善峯寺では、神のお遣い、頼もしい助っ人だったわけだ。

動物たちが人を助けたり、人と仲良しになったりする物語は、なんとも微笑ましい。
今も、こんな“猪軍団”がいたら心強いものだが。( ´艸`)ラブラブ



源算上人手彫りの仏像とお堂ひとつで始まった善峯寺は、
猪のお蔭か、源算上人の力か、次々、他の堂も増築され、
天皇たちの覚えもよく、
今は、山の静かさの中にも、どーんと風格を感じさせる寺である。キラキラ

有名な「遊龍松」は樹齢600年ともいわれる五葉松。Σ(~∀~||;)
現在全長37mとな!

遊龍松1

横に枝を広げて、伸びる伸びる伸びる伸びる
まだまだ伸びるアップ(=◇=;)

遊龍松2

無駄に長いインドのサドゥのロンゲのようだ。にひひ



紅葉散り敷く紅の小道も美しく、キラキラ

紅葉絨毯

ってか、11月中旬で、ちょっと紅葉に早いようでもあり、あせる
既に散っている枝もあり、あせる
丁度真っ盛りの紅葉はないか?と探し歩く。あせる

釈迦堂と紅葉

深紅紅葉

オレンジ色とかグラデーションの紅葉もいいけれど、
鮮烈な紅! やはり、これを見ないと、だ。ラブラブ!




日本では珍しいという「合掌」ポーズのお釈迦様も。(。-人-。)

合掌釈迦

不信心な私には、
「そうだっ! 今夜はトンカツにしましょっ」なんて、夕飯のメニューを思いついた主婦のようにも見える。( ´艸`)


向こうに見えるのは、京都の町と、比叡山かも?(源信上人は比叡山で修行した方。)

見晴らし


幸福地蔵」――ヤグラ(舞台?)状の小さなお堂(踊り場?)に、なんて~ことはないお地蔵さまが。

幸福地蔵

自分以外の幸せを願いましょう」とな。∑(-x-;)

人の幸せを願うことこそ、自分の利害に囚われず、心安らかで、
結局自分が幸せでいられる……ということだろうか。キラキラ


願いごとを前もって制限されるのって、ちょっと興ざめだけど……。むっ
ってか、神仏に「願い事」をする時って、まずは自分以外の人のことだけど?(・ω・)b
ってか、自分以外の人の幸せを願うことは、すなわち自分の幸せであって、
結局は己の幸せを願っていることに他ならず……(-"-;A
う~む?あせる



この善峯寺を復興させた桂昌院(ケイショウイン)は、
自分の息子を将軍にさせるべく、最後まで諦めず尽力したようだから、
そもそもエゴイスティックな欲望に燃えた方ではなかったろうか?(-_☆)



桂昌院は名を「お玉」といい、八百屋の娘から第3代家光将軍の側室に、アップ
さらに将軍の母親(息子は第5将軍綱吉)にまで出世したラッキーウーマンだったようで。アップ
一説には、「玉の輿」の語源となっているとか。キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!



善峯寺だけではなく、他にも護国寺など多くの寺社を手厚く庇護した人らしい。クラッカー
あの大奥の中で、自分の息子をまんまと(?)将軍にさせたって、
並みの執念ではできないのではないか?| 壁 |д・)
まったく天の采配だけでもなかろう?| 壁 |д・)
……と思うのは、邪悪な私だけでしょうか。汗

参照:
桂昌院を仏心深い女性として好意的にまとめてあるサイト→「大奥シンデレラ・ストーリー~将軍の母・桂昌院 玉の輿物語…NHK歴史秘話ヒストリアより



善峯寺は、もちろん桂昌院の像もあり、実に好意的に祀られていた。クラッカー


お守り納めどころ」なる可愛い壺もあり。ラブラブ!

お守り納め壺

金属工芸作家小泉武寛(ブカン)氏の制作。←制作者の名前が明示されているのって、いいね♪ヾ( ´ー`)


桂昌院様の名前『お玉』にちなみ、3匹の仔犬が玉の輿を担いで、皆様のしあわせを願っております。」って。(。-人-。)


この寺を開いた源算上人は、「玉の輿」なんて願ってはいなかったのでは……と思うのは、
私だけ……?あせる




帰りがけ、ご住職らしき方が、焼きたての小さなかわいい煎餅を差し出してくださった。ドキドキ
ひとつまみの小さなお煎餅が、ほんのり甘くて、温かくて、美味しかった♡ 
そんなものを振舞ってくださるということに、ほんわかとした気持ちにさせられた。ラブラブ


ふと見ると、横には今配られた煎餅が売っているではないの。∑(゚Д゚)
思わず購入しちゃいました。(///∇//)(これは、ある意味、戦略だったのだろうか……。汗

と、と、とにかく、山の空気も澄んだ、気持ちのよいお寺でした。キラキラ




おまけ

善峯寺のさらに山の奥の方には、「覚快外四新王(カクカイホッシンノウ)墓」なる墓があるようだ。ダレジャソレハ?はてなマーク

寺を巡っていると、その奥の方に、耳慣れない名前の墓がしばしばある。(-_☆)
その寺にゆかりのある人の墓なのだろうが、そういう人って、いったい何者だったのか……
いつもちょっと気になりながら、そこまで足を伸ばせずに観光を優先して訪ねずじまいに終わる。
ガックリ

槙?



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2015年晩秋の京都旅行です

宇治の興聖寺(コウショウジ)


宇治神社をちょっと先へ行くと、
琴坂」……紅葉真っ盛りの頃はさぞきれいだろう。
(「宇治12景」のひとつだそう。シランカッタ~叫び
 ↓
琴坂


琴坂を上った先には興聖寺(コウショウジ)。

山門

どこか中国寺のようなムードだよね?
どうやらこの山門は「竜宮門」と称されるようだ。
そういわれれば、竜宮城っぽくもある。( ´艸`)


境内は、全体洗い清められたように清浄な空気が漂っていた。キラキラ


特に印象的だったのは、
茶筅塚」Σ(・ω・ノ)ノ!

茶筅塚

古くなった茶筅などの供養塚だ。(。-人-。)

各地で、その土地独特な「塚」に出会えるのが、面白い。
「筆塚」、「針塚」を始め、
「鰹塚」、「力塚」、「髪塚」、「包丁塚」、「鋏塚」、「櫛塚」、「カード塚」などなど。
そして、さすが宇治。「茶筅塚」ですよ。(*^-^)b



後日ネットで調べていたら、サーチ

宇治河畔一帯で、毎年10月第一日曜日に、「宇治茶祭り」が開催されるようで。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
宇治茶祭り

中でも興聖寺は、「茶壷口切の儀」が執り行われる寺らしく、
今も、宇治川から汲んで来た水で、お茶が立てられるそうだ。お茶
森閑と佇む塚からは、そんな盛大な祭りが行われる所などとは、想像もできなかった。(=◇=;)


境内の木々もかなり“古びた艶”があって、
樹齢300年なる「ひめこまつ」もなかなかだが、
私が目を奪われたのは、こちら。ラブラブ!



残念ながら、何の木だかわからないけれど。あせる
私の写真の腕がないので、ただの木にしか見えないけれど。
そばに立つと、ほぉ!と思わず唸って見とれてしまう存在感があった。キラキラ
“気の合う木”に出会えるとテンションが上がる。アップ


後日わかったことだが、
背後に見えるは「朝日山」なる山らしい。

朝日山


ここら一帯は、「朝日茶園」なる大きな茶園があったそうな。Σ(・ω・ノ)ノ!

そもそも、曹洞宗の開祖道元が、
1233年伏見深草に開いた興聖寺であったが、
なんだかんだで、10年後には廃絶。ダウン

しかし、
1649年、淀城主の永井尚政が万安英種(バンナンエイシュ=江戸時代の曹洞宗の僧)を招聘して5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に復興し」(ウィキペディアより)たのが、現在の興聖寺だそうで。∑(゚Д゚)

――約400年前に廃れた寺を復興させようって、どうして思い立ったんだか?はてなマーク



宇治の有名な茶園、朝日茶園のところに再建されたから、
お茶にも縁がとりわけ深くなったことだろう。
それで、「茶筅塚」も出来たのだろうね。ひらめき電球


しかし、
興聖寺の辺りを歩いていて茶畑なんて目に入らなかったけれど?……と思ったら、┐( ̄ヘ ̄)┌


斯波氏の『朝日茶園』は宇治川右岸の朝日山山麓に作られた大規模なものであった。 」(中略)

斯波氏は戦国期に入って衰退するも、『茶園』はその後も独自に経営されていたと考えられる。

しかし、江戸時代に入って、慶安元年(1648) 、この地を淀城主の永井尚政が買収して興聖寺を建立したため、茶園の面積は大きく失われた。

そして、僅かに残っていた茶園も、明治に入り宇治発電所建設に伴って完全に姿を消したのである。


参照:「宇治・「朝日茶園」(斯波氏の茶園)」


はいはい。興聖寺の手前に、ありましたよ、宇治発電所!('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)

宇治発電所

ここら辺一帯、かつては茶畑だったんだ!?ビックリマーク


興聖寺を建立したために!?
宇治発電所が建設されたために!?
“宇治の7大茶園”とも称された「朝日茶園」は消滅!ドクロ
なんと……。汗


これもまた、時代の流れというものでしょうか。
しかし、
茶園や茶畑は消滅しても、
“茶の心”や、茶を広め、茶の道を深めてきた先人たちを敬う心は
今も脈々と受け継がれているのだね~。ドキドキ


思わず座禅して、心を一旦無に帰してみたくなるね。DASH!



興聖寺はこの他にも、ゆっくり回れば、色々見所があるお寺のようだ。
宇治……たっぷり時間をとって再訪したいものだ。(o^-')b


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2015年晩秋の京都旅行です

見返りウサギ(宇治神社 ウジジンジャ)



お土産代わりに買ってきた“見返り兎”のオミクジが可愛いのだが、(-^□^-)
後ろを振り向いているそのポーズ、その振り返りっぷりが尋常でないので、あせる
それを買ってきた宇治神社を振り返っておこうと思う。

見返り兎みくじ


宇治に来たのだから、宇治と冠した神社に行かねば! ってんで宇治川沿いにある
宇治神社に参拝してみた。走る人


宇治神社の赤い鳥居の手前に、「兎楽(ウラク)の樹」なる樹が生えていて。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ

立て札の説明には、

河内の国から来られる莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)皇子を、
兎が先導し、振り返りながらお連れした場所がこの宇治神社です。
その兎達が、今も楽しく集い戯れる宇治神社を象徴する樹が、この楠の樹です。
ほら、楠の足下に楽しそうな兎達が見えるでしょう
。」

兎楽の樹

「ほら」……と言われても……。汗

どこをどう見立てているのか、全然わからなかった。あせる
(敢えて、線で兎らしきラインを描いてみたけれど、かなり無理がある。)



この神社の“売り”は、なんといっても“見返り兎”さんらしく。ラブラブ

見返り兎


莵道稚郎子皇子がちゃんと自分の後をついて来ているか、
ふりむきふりむきしている様の兎さん。
そう思うと、「こっちだぴょん。私の後を、ちゃんと付いてきてる?あせる」と
心配そうに振り返っている顔に見えてくる。可愛らしいものだ。( ´艸`)


この時は、ざっくり参拝しただけで、境内をじっくり見てこられなかったのだが、汗
実は、この神社には“兎さん”があちこちに仕掛けられている(?)ようだ。

パワースポット
(ネットより拝借:宇治神社のパワースポット)

境内中、兎を探して数えて回ったら、また楽しかったろう。音譜兎おいし白うしゃぎしゃん。うさぎ

埼玉の浦和にも、調神社(ツキジンジャ)というウサギが一杯置いてある神社がある。
兎と関わりの深い神社って、案外多いのかもしれない?
(特に平安時代以前くらいに古い神社に多い気がする。| 壁 |д・))


それにしても、莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)って、誰?
「宇治」って、「兎道(ウジ)」に由来しているのかしら?
なぜ兎は莵道稚郎子をここへ導いたの?
どういうこっちゃ? と、後日ググッたら、
例によって例のごとく、天皇の跡目問題の悲劇がここにも!……なのであった。叫び


ざっくりしたストーリーは、
父(応神オウジン天皇)が次期天皇として、2人の息子のうち、兄ではなく弟(莵道稚郎子ウジノワキイラツコ)を選んだ。
父天皇が亡くなると、弟は兄に次期天皇の地位を譲るために、
遠くこの宇治の地へとやってきて、
とうとう、この地で自殺し、
結局、兄が仁徳天皇となった……と。(=◇=;)



一瞬、継承権を巡る権力闘争か? と思ったが、
宇治神社のサイトの説明を読むと、
話は“地位を奪い合った”というよりは、“譲り合った”果ての悲劇だったようで。Σ(~∀~||;)



応神天皇が菟道稚郎子命を皇嗣と定められ、
命の御兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと 後の仁徳天皇)を太子の輔導にあてられた。

これは、わが国の古代の慣例で、なるべく若い者に嗣がせた方が一代の活躍期間が長く、国の繁栄を期待する可能性が強いとされていたからである。

ところが、菟道稚郎子命は博士王仁(わに)から儒教の思想を受けておられ、長男相続説を守っておられたので、応神天皇崩御の310年に兄宮に皇位に即かれるようにと勧められた。

しかし、大鷦鷯尊は日本的な思想の方で、互いに皇位の譲り合いが続いた。

菟道稚郎子命は御父天皇崩御の後、312年に宮居を菟道に移され、皇位を早く定めて天下の煩いを除くために自害せられ、兄宮に譲られたである。

(「宇治神社HP」)

……とな。Σ(=°ω°=;ノ)ノ


基本、仏教や儒教、ところどころキリスト教で培われてきている現代の我々では、推測及ばぬ話だ。あせる
“なるべく若いものを選ぶ!” ――理に叶っている気もするが、あせる
 


応神天皇
(ネットより拝借:応神天皇)

応神天皇の在位は、応神天皇元年(270年)~応仁天応43年(312年)。
第15代、応神(オウジン)天皇は、応神天皇元年(270年)に71歳で即位、Σ(・ω・ノ)ノ!
41年(311年)に111歳で崩御とも、
いや、130歳まで生きたとも言われているようで。(((゜д゜;)))

とにかく超高齢化社会だったみたい!?あせる
(でも、年月の数え方が、現代とは絶対違うよね?)

より若いものに譲る……とか言うのだったら、自分が死ぬまで天皇やっていないで、
長兄がいい年頃になったら、
ほどよいところで、とっとと譲位したらよかろうにねぇ。┐( ̄ヘ ̄)┌はてなマーク



仁徳天皇
(ネットより拝借画像:仁徳天皇)

弟が宇治で自殺して即位した兄の仁徳天皇の在位は、
仁徳天皇元年(313年)~仁徳天皇87年(399年)。

仁徳天皇が没したのは、仁徳天皇87年(399年)、143歳で没したらしい。(^_^;)
だとすると、56歳で即位した計算だ。
これまた、超高齢である。叫び


100歳以上は当たり前の時代(?)に、多少若いからって、たいした差はないように思うが、
(いや、昔は兄弟が親子ほど年が離れていたことも、あったかも?)

ともかく、父の応神天皇は下の息子、莵道稚郎子を跡継ぎに指名し、

莵道稚郎子は、兄を差し置いてそれはできないと河内を出て、

兎に導かれて宇治神社のところ(その頃は、そこは応神天皇の離宮だったらしい)まではるばる出てしまった。

しかし、兄はそれでも弟が次の天皇になるべきだとして即位せず、3年も天皇不在状態が続いた。

で、莵道稚郎子は、自分が死ねば……と、自殺してしまった。

で、兄が即位した……ということのようだ。




なにも死ななくともよかろうに、と思うのは、現代人の私だからだろうか。(/ω\)

“日本古来からの考え方vs儒教の教え”とも言えるこの物語は、
実はもっと深い教訓を含んでいるように感じる。


参照:
上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧

天皇の一覧





第15代、応神(オウジン)天皇は、「河内王朝の始祖」とする説もあるようで(ウィキペディア)、

で、莵道稚郎子が河内から宇治に向かう途中、道に迷ってしまい、(°Д°;≡°Д°;)
そのときに、件の兎が現れ、うさぎ
彼を宇治神社の辺り(当時は「宇治神社」は存在せず、父の離宮だったはず)の楠木のところまで導いた……というわけだ。DASH!


つまり、“見返り兎”は、“迷えるものを正しき道へと導く”……そんな意味づけがされているのであった。クラッカー


自分が迷っているときに、そんな兎が現れて誘導してくれたら、いいねぇ。(‐^▽^‐)

――しかし、

莵道稚郎子は、ここ宇治に逃れる隠れるようにして来たにも関わらず、
兄が天皇位を継ぐことはなかったし、
結局莵道稚郎子は自殺してしまったわけで、ダウン
それって、彼が辿るべき“正しい道”だったのだろうか?はてなマーク
他にやりようはなかったのだろうか?


ってか、彼が儒教の考えに縛られなければ、
兄は弟を補佐する気、満々だったわけだし、
とりあえず自分が天皇を継いで、兄と一緒に世の中を治めていけばよかったんでないか?はてなマーク

……なんて思うのは、現代人の発想でせうか。(/ω\)



宇治神社は、亡くなった弟を悼み、兄仁徳天皇が祠を作って祀ったのが起こりらしい。
やはり、莵道稚郎子を祀っているから、ウジ神社なのだ!Σ(=°ω°=;ノ)ノ



小さな神社と思いきや、なかなか立派な赤い鳥居。

ウジ神社鳥居

狛犬さんも2タイプあり。
縦長タイプと……

狛犬たて

横長タイプ。(どちらかといえば、こちらが“普通バージョン”だよね。)

狛犬横


狛犬からして、ちょっとただごとではない神社に思われるね。( ̄▽+ ̄*)


これまた、後でわかったことだが、
かつての縦長タイプの吽形の狛犬は、一角獣だったらしく、∑(゚Д゚)
今は「歴史資料館」にあるらしい。見そびれたーっ。(´_`。)



宇治神社から更に5分ほど登っていくと、宇治上(ウジカミ)神社があったらしい。
宇治上(ウジカミ)神社と宇治神社は、明治時代以前は、上社下社、二社一体だったらしい。(*^o^)乂(^-^*)

いつの世も、天皇継承も神社仏閣も、人々の主義主張も生活も、
時代の“縛り”、己の“縛り”に翻弄されることであるよ。DASH!


おまけ:

息子の莵道稚郎子が「河内から」宇治神社まで兎に導かれてやってきたということから考えると、
当時、皇居は「河内」にあったというのだろうか? 
この応神天皇、出生の秘密(?)があるそうな、
また、「八幡」にもかかわりがあるそうな、
大阪にも関係があるような、
色々ありそうなお方のようだ。| 壁 |д・)



2015年晩秋の京都旅行です

霧立ちのぼる宇治川


平等院から宇治川に沿って少々歩いてみた。走る人
小雨降る宇治川は霧(?)立ちのぼって、なかなか壮観だった。キラキラ
(宇治川が……というより、周囲の山々から霧は立ちのぼっていたのかしら?)

霧たちのぼる2

霧たちのぼる1

宇治は霧で有名で、その霧がお茶の葉の育成にも適しているとのこと。∑(゚Д゚)
少し雨が降った日でこれだけの霧なのだから、
霧の季節(?)はさぞ壮観であろう。アップ
霧って、いいよね。山や大地が呼吸してるなぁって感じ。DASH!
風景がただの風景ではなく、風景そのものが生命体のように感じる。


宇治川というと、静かで雅なイメージがあったが、
これがなかなかワイルドだった。Σ(・ω・;|||

白波を立てながら、荒々しく流れていくその流れの速いこと!

あふれる

川が膨れあがって、今にも堤防(?)を軽く超えてしまうのではないかと
ちょっぴり不安にさえ思えてきた。(((゜д゜;)))

白鷺たちがこぞっているからには、お宝(お魚)も豊かなのだろう。うお座

しらさぎ


支流へ

枝分かれした支流(水路?)へ、本流からドクドクと音を立てるが如く分け入っているように見える。鬱蒼と木々に囲まれた支流へと、ちょっと小船で入って行きたくなる。( ´艸`)ラブラブ


「宇治発電所」もあった。発電所あるところ、水量あり!だ。グー

宇治発電所





宇治川の水面を黒い鵜が時折横切っていたが、鵜飼
宇治川では、鵜が飼われてもいたのだった。Σ(・ω・ノ)ノ!

野生の鵜を捕まえて飼い慣らすらしい。
女性の方が鵜飼らしい。頑張ってるね!^^

鵜飼




しかし、川にいるのに、なぜにウミウなのだろう?はてなマーク

後日、ググッたら、同じ疑問を持っている人が書かれていた。(ネットって本当に便利ね~)( ´艸`)

鵜飼に用いられるのは、ほとんどがウミウです。と書くと、皆さんは『あれ?』とお思いでしょう。鵜飼は川で行なわれます。なのに、わざわざ海でウミウを捕まえてきて、川で訓練します。なぜでしょうか?
これは謎です。

川にいるのにウミウ(海鵜)?


「謎」かいっ! о(ж>▽<)y ☆


古墳からも首輪をつけた鵜を象ったものが出土してるというのだから、∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
相当太古の昔から日本人は鵜飼をしていたようだ。
その頃の日本人は、もっともっと鵜と気持ちが通じ合っていたんじゃなかろうかね。ラブラブ


古墳時代の日本人「うっう~う、うっ?(鵜よ、しっかり魚獲って来い)グー
古墳時代の海鵜「グルルルルル。グワァ(仕方ないなぁう。獲ってきてやるぜう。任せておきなう。)チョキ
古墳時代の海鵜「グワァァ!グルルルグワァグワァ!(う~、とったど~う!)クラッカー
古墳時代の日本人「ぐぉっ!うー!うっ、う~!(鵜よ、よくやった!)合格

……ってな会話が。(・∀・)

「鵜」という名前も、「うー!(でかした!)」という快哉の叫びから来てたりして? ( ´艸`)ナイナイ