栃木のナニコレ 1 革ハッピ


この5月に、誘われて、栃木の「蔵の町」を散策した。

「蔵の町」というから、酒蔵か♡ お酒といそいそ出かけたら、
酒ではなく、麻などの商売が盛んで蔵が建てられた町らしい。ガックリ


蔵の町

黒塀


前日には加山雄三もTV取材で来ていたということで、えっ
注目のスポットなのか、なにやら観光客でも賑わっていて、クラッカー
美味しい地酒もありそうだったのだが、ラブラブ!
昼からお酒なんて……という方々とご一緒だったので、NG(お酒は大好きだけど、よほどのことがない限り、昼間っから飲まない人々。)
とうとう酒を1滴も飲まずに帰るという
私にはちょっと残念な散策ではあったのだが、しょぼん



驚きの発見をした点はとても楽しかった。チョキ
それは、革ハッピはっぴ



塚田歴史伝説館なる記念館のようなところの、蔵の一つの中で、展示されていた。Σ(=°ω°=;ノ)ノ
蔵の中は撮影禁止だったので、写真なし。しょぼん

塚田歴史伝説館

古民家の蔵の中のように、当家に伝わるらしいあれこれが展示される中に、
その法被も展示されていた。

薄茶色い立派な法被。キラキラ

随分厚みがあるなぁ? と、じーっと見つめていたら、どうも革製にしか見えない。目

説明は一切ないので、
その館の係りの人に聞いたらば、
な~にわかりきったこと、聞くんだ?ってな顔されて、
革ですよ。鹿の革です」と教えて頂いた。Σ(・ω・ノ)ノ!

同行した方々に聞いたら、法被が皮製だとは、誰も気がついていなかった。∑(-x-;)
あれ、珍しいから、ちゃんと「鹿革の法被」と説明入れたらよいのに~。パンチ!


革法被なんて、初めて見たよ。
どうして革製なのだろう?はてなマーク
革の方が丈夫だし、冬は暖かかったろうね。
当時はいくらくらいしたのだろう?はてなマーク
誰も彼も手に入れられる品物ではなかったのだろうね?はてなマーク

疑問をゆっくりぶつけられるところもなく、
皮製ということだけを確認して、その場をあとにしたのだったが、しょぼん



その後、別の和菓子屋さんの店にも、同様の鹿革製と思われる立派な法被が
ガラスの額に入れられて店の奥に飾られていた。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ


その和菓子屋さんも老舗らしかったので、財を成して革の法被を手に入れられたのか。はてなマーク
それとも、栃木では革の法被は当たり前だったのだろうか?はてなマーク

その和菓子屋さんは、気の遠くなるほどゆーーーーーっくりと客に対応するので、あせる
ちょっと和菓子を買うにも10分20分掛かってしまっていたので、あせる
そこでも詳しく聞くのが憚られ、疑問は疑問のまま。しょぼん



ところが、最近、ニュースで栃木での鹿災害の話を耳にした。耳
栃木は鹿が多い? 鹿の名産地?Σ(・ω・;|||


……とググったら、

栃木県でシカによる被害が問題化したのは、昭和60年代に入る頃です
参照:「栃木県 ニホンジカの管理」∑(-x-;)


ということで、
江戸時代の頃から鹿がたくさんいたのかどうかは、わからず仕舞い。┐( ̄ヘ ̄)┌
栃木では鹿革製品が古くからよく作られ、使われていたのかも、わからず仕舞い。┐( ̄ヘ ̄)┌
今回「蔵の町」を1日散策しただけではわからないことだらけの栃木であった。汗






ちなみに、ネットでは、
小田原ガイド―②倭紙茶舗<江島>」の説明に、
皮製の法被などの歴史を物語る展示コーナーもあります。」とな。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ



小田原でも、和紙やお茶を取り扱ったお店でも、皮製法被を使っていたのか?
革法被……栃木に限ったことではないようだ。(-_☆)


さらに、革についてググッてみたら、あせる

参照:「皮革の歴史

日本では古代、「革」といったら「鹿革」だったとか、

鎌倉時代には、なめし技術はさらに発展をとげた。皮革は武具の製造に不可欠のものであった。また、膠は高性能の接着剤であり、これまた武具の製造には不可欠であった。」
「現代につながる製革技術の基礎が確立されたのは江戸期である。そのころには、牛馬の皮が多く使用されていた。江戸時代に入ると貨幣経済が発展し、都市へ人口が集中して消費者が出現、商人も勃興してきた。そのような情勢の下で革製品もまた全国へ流通していった。


とか。(=◇=;)

要所に「江戸時代の被差別民であった穢多・非人身分の頭領。穢多頭(えたがしら)」である弾左衛門(ダンザエモン)なる人(役職?)がいて、その人が革を管理していたようだ?(=◇=;)

参照:「弾左衛門


被差別民の頭領……どんな人だったんだろう? 気になる~。(///∇//)
     
               もしかして、つづく
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俳句弁当挫折

テーマ:
俳句弁当挫折


俳句弁当、ついもうちょっと頑張ってみるかとにひひ
続けてみちゃった。

でも、やっぱり上手く(美味く)できない。ガックリ





連想でわかってもらえるかな?あせる
……と、目には青葉(ミント)を入れてみた。

目には青葉


写真に撮って見直してみたら、カメラ
ゴ〇ブリみたいじゃん。Σ(=°ω°=;ノ)ノむし
我ながら、これはチドイと思ふ。(ノ◇≦。)


目が分かりにくいかと思って、
睫をたくさんつけようとしたら、猫目
塩昆布が言う事を聞かなくて、こーなった……。ガックリ


ちなみに、お題は「目には青葉 山ほととぎす 初鰹 (山口素堂)」








これは、私がしばしば口にする俳句だから、分かってもらえるかな?
と思ったが、甘かった。

荒海や


天の川をスライスチーズでなんとかしようとしたら、こーなった。ガックリ
シラスで夜の海に仄見える白波をチリチリチリと描こうと思ったら、
冷蔵庫にシラスを切らしていた。ガックリ
煮サンマで、佐渡を表現しておるのだが……。ガックリ
我ながら、これも無理があるねと思ふ。しょぼん


お題は、「荒海や佐渡によこたふ天河(松尾芭蕉)」





「俳句はもういいからパンチ!」と終結願いが出たので、やめることにした。
「普通の弁当でいーからっあせる」と。(-""-;)クッ


普通の弁当……料理が苦手で下手な私にとって、
「普通の弁当」なんてモチベーションが上がらない。ヾ(。`Д´。)ノ


キャラ弁、国旗弁、俳句弁ときて、
次はどうしてくれようか……。(-_☆)
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2015年四国の旅

1月下旬に、香川県の川鶴酒造さんを見学するツアーに参加させてもらったときの日記です。毎度のことながら、だらだら更新する予定なり。
  


18 おまけ 菊池寛たる人

香川県で菊池寛記念館を訪れ、特別菊池寛に思いを新たにすることもなく、(/ω\)
菊池寛の作品を読んだことのない私は、
じゃ、これから読むか? と言われれば、読んでみたいが、
その前にもっと読みたい本が山積みで、なかなか菊池寛まで手がでない……
と思う。(●´ω`●)ゞ


で、
記念館の人に、“香川の人たちは菊池寛の作品を絶対読んでいるものか?”と聞いてみたら、
“一作品くらいは必ず読んでいると思う”という返事を頂いた。(=◇=;)

どの作品が一番読まれているのか、気になったが、あまり突っ込んで聞いてはいけないような気がして、やめておいた。あせる



そこで売られていた『図録 菊池寛』を帰宅後読んでみたら、
なかなかどうして、面白かった。クラッカー



菊池寛の小説より、おそらく……おそらく、だが、
彼の生き様や、エッセイなどの方が、“ためになる”のではなかろうか。о(ж>▽<)y ☆
(小説や戯曲を読んでいないので、なんともいえないのだが。あせる




いまや小説家の登竜門となっている『文芸春秋』を創刊し、
芥川賞」、「直木賞」を創設したことで知られる菊池寛だが、

『文芸春秋』は、なんと創刊当時はたった32ページの同人雑誌だったというのだ!Σ(=°ω°=;ノ)ノ
大正12年1月、菊池寛36歳のこと。



みずから考えたことを信じ、信じたところを実行して、その一生を貫く”人だったらしい。((゚m゚;)

だからこそ、「実行第一」に生み出された『文芸春秋』は、創刊のその年、関東大震災に遭っても、戦争の時代を迎えても、成長を続け、アップ
いまや押しも押されもせぬ「総合雑誌」として、毎年小説家たちにエールを送っているのだろうね。ヾ(@^(∞)^@)ノ



菊池寛の哲学は、「生活第一、芸術第二」と言われているようであるが、
これって、ちょっと語弊があるんじゃないかな。
生活か芸術かと二極の選択を迫られるとき、
敢えて言えば、彼にとっては「生活第一」なのであるわけだけど、
それはただ食べて寝るだけの漫然と暮らす生活第一なのではなく、
人生」としての「生活」であり、
己の精神生活を充足させるための生活。グー




作家を目指す人に対して、

小説を書くということは、紙に向かって、筆を動かすことではなく、
日常生活の中に、自分を見ることだ。

すなわち、日常生活が小説を書くための修行なのだ。

学生なら学生生活、職工ならその労働、会社員は会社の仕事、各々の生活をすればいい。

而して、小説を書く修行をするのが本当だと思う。




すなわち、小説というものは、或る人生観を持った作家が、世の中の事象に事よせて、自分の人生観を発表したものなのである。」(『小説家たらんとする青年に与う』)

として、
自分なりの「世の中を見る眼、それから人生に対する考え方」をしかと持つことをまず進言していた。グー

言うだけでなく、菊池寛は自分自身もそう実践していたと思われる。(=◇=;)





図録の中で上林吾郎氏は、

人生は毎日の勝負である。人生の達人とはその日その日を大切にし、それを充実して生きる人である。毎日を粗略にあつかって人生の幸福は絶対にあり得ない

という河盛好蔵の言葉を紹介して、
これは菊池寛のことを言っているのではないかと思ったという。Σ(・ω・;|||



昭和11年、世がきな臭くなってきた頃には、あることないこと言われたようで。

文学の正当なる立場は、いかなる時代が来ても、自由主義意外にはないであらう。文学及び文学者は、常に時代及び生活について第三者の立場に在つて、これを公平に批判し表現するのが、その職責であらうと思ふ。しかし、世の中が険悪になると、自由主義的な立場を守ると云ふことも、相当困難でかつ勇気を要することになるだらうと思ふ。」


『文芸春秋』は、左傾でも右傾でもない、
もっと自由な智識階級的な立場をいつまでもつづけて行くつもりである。ファッショの先頭を勤めるなど云ふゴシップはウソである
。」(「話の屑籠」より抜粋)



結局、戦争中は、戦争を賛美するような立場にあったとして
戦後、菊池は戦争責任を問われ「公職追放」とされたらしいが、。(´д`lll)

彼はそれに対する不平を述べていた。
彼だって戦争は反対だったが、日本が戦争すると決めてしまったのだ。
そうなったら、一丸となって戦争するしかないではないか!ヽ(`Д´)ノ

……というような内容だったと思う。(この部分は『図録』に収録されていないので、私の記憶による。あせる


彼の不平は実によくわかる。
戦争反対を唱え続けられた人は、ある意味、幸せだ。
そうできなかった人だってたくさんいたはずだ。

戦争責任を問われなければならない人間が、全く責任を問われず取らず、オバケ
なぜに菊池寛が「公職追放」になどならねばならんのか、パンチ!
私は理解に苦しむ。
これが日本なのだ……と暗然とする。ガーン





菊池寛、彼の人生も、苦労の連続だったようだが、
『図録』では、井上ひさし氏が実にわかりやすくまとめていて、(「直木賞と菊池寛」)
とても面白い。クラッカー

面白いので、ちょっと抜粋。


貧しい家に生まれた彼は、
高松中学に入学したものの、学費が続かない。ダウン

『市内の商店で小僧修業か』と覚悟を決めたとき、同じく高松中学に通っていた次兄に放縦な行いがあって退学を命じられ、彼は次兄に代わって中学を続けてもいいことになった
。」アップ


さらに上級学校への進学は諦めかけているところへ、ダウン
推薦入学制度が発表され、推薦入学制度を利用して、「東京高等師範学校」に入学。アップ


しかし、
授業を怠けてテニスをやっているところを生徒監に見つかって除名処分。」ダウン


途方に暮れていると、親戚の老人が」、「養子になって法律を勉強すること」を条件に学費を出してくれるという。
で、明治大学法科に入学するが、アップ


文学に惹かれだして、折角入った明治大学を3ヶ月で退学。ダウン
親戚の老人は怒って離縁。またも途方に暮れるが、


今度は父親が学費を借金して送ると言い出す。アップ
で、一高に入り直してしまう。
一高で順風満帆と見えたが、


卒業間際に、友だちの罪を着て退学になり、東大進学を諦めざるを得なくなった。」
ダウン


そのとき、別の友だちの父親が口を利いてくれて、京都大学に進学。アップ


……と、
菊池寛の人生は、真面目なのか不真面目なのか、よくわからないが、( ´艸`)
困ったときには助け舟」が出てきて、なんとか彼のいいようになっていっている。ベル



井上ひさし氏は、菊地寛という男を主人公の劇を書き上げたのか、私は知らないけれど、
もし書かれたのなら、それはとっても愉快で強烈な男が描かれるであろうね。( ´艸`)


こうして菊地寛について少し知るにつけ、
こういう人間こそ、若者のお手本になるのではないかしら、と思う。合格
いや、オバサンの私にも、十分励まされることが多い。合格


つい“忙しさ”に追い立てられて漫然とその日その日が過ぎていくように感じていたが、あせる
それこそが、多いなる怠惰ではないか。グー


まぁ、思い切り、オノレのためにサボるなり、振り回されるなりするならするでよいのだとも思える。

自分が今何をしているのか、よく自覚して生きろ、ということね。(^^ゞチガウカ


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ロンボク島の愛情深~いジンジャーコーヒー



5月末日、インドネシアはロンボク島にご在住のみどりさんに申し込んでいたロンボク島発信のコーヒーが届いた。クラッカー

みどりさんのお姑さんが炒ったコーヒーだそう。ヾ(@°▽°@)ノ



みどりさんのブログはこちら

み~んなしあわせ♪ロンボク島の人と自然とゴム時間

おいしいね うれしいね ありがとう-from ロンボク島



わたくし、自分で申し込んでいたことを失念していまして、(//・_・//)
ある日、妙な不在通知票にびびりました。えっ

「差出人」が「海外さま」……ってなっていて、
ネット犯罪の一種かしら? と。(((゜д゜;)))

海外さんから

「海外さん」から届いた郵便物には、なにやら注意書きが。えっあせる


どうやら、郵便物が破損した状態で日本に届いたらしい。あせる

ひとまず当局において補修いたしましたが
お客様の大切な郵便物をこのような状態でお送りいたしますことを
深くお詫び申し上げます


というメッセージとともに、
ビニール袋に包まれていた。(=◇=;)

郵便物にはちゃんと差出人にみどりさんの名前も書いてあったけれど、グー
わざわざ“補修”したあと、郵便局の人が、差出人をいちいち書くのが面倒になったので「差出人:海外さま」となったと思われる。

「海外さま」には驚いたけれど、о(ж>▽<)y ☆
「補修」してくれたなんて、なんと親切なのでしょう! 感謝感謝。(。-人-。)
日本の郵便局って、優しいなぁ。



ビニール袋を開けると、
本来の封筒は縦横、あちこちまるでわざとのように大きく破けていて……Σ(=°ω°=;ノ)ノ

ぱっくり

日本の郵便局さんは、この破けて届いた封筒を、ビニール袋で包んでくれたわけだ。

それにしても、ダイナミックな裂け方。
みどりさんはちゃんと包装してくれたはずなのに、破れ過ぎじゃないか?あせる

……これって、もしかして、なにかイケナイ薬物かと疑われて、封筒の中身をチェックされたんだろうか?ひらめき電球| 壁 |д・)


封筒の中のコーヒー粉は、さらにビニールに頑丈に包まれていたので、
全然大丈夫だった。

ビニールでぐるぐる

コーヒー粉

みどりさん、無事に届きましたよ。ありがとうございました!ヾ(@^(∞)^@)ノラブラブ


生姜や米などをコーヒーと一緒に真っ黒に炭のようになるまでよ~く炒ったものを粉にしたというみどりさんのお姑さん特製のコーヒー。クラッカー
聞いているだけで、体によさそうだ♪チョキ




コーヒーの粉5gを100ccのお湯で溶かすだけ
お好みで砂糖など入れます。お手軽でいいよね♪('-^*)/

で、早速作って飲んでみました。

一杯のコーヒー


封を開けると、まず、ふわん……と香ばしさが漂う。キラキラ
まずは、正確に量を測り、お湯を注ぎ、掻き混ぜ、飲む。チョキ


香ばしい! ラブラブ!
そして、ジンジャーが効いてる!ラブラブ!
そして、
まるでロンボク島の夜のように黒い!黒
(……って、ロンボク島にはまだ行ったことがないのだが。にひひ

微かにコーヒーの香りがする。キラキラ
うん、体によさそう♪( ´艸`)





しかし、


4口、5口と飲み進めるうちに、
喉越しがいかんせんいがらっぽい感じになり、
辛くなってきた。あせる


インドネシアのコーヒー(いわゆる「コピ」)って、
私は大好きなのだけど……?あせる
このお姑さんの粉末コーヒーは、いわゆるインドネシアコーヒーとは、またちょっと違うらしいのだけど。汗


で、
牛乳を入れてみた。milk

粉は焦げ茶色なのに、牛乳を足したら
……灰褐色になってしもーた。アジャー叫び
なんか、火山灰を飲んでいる気分になってもーた……。о(ж>▽<)y ☆
でも、飲みやすくなった♪チョキ


生姜が効いてるから、お味はスパイシー且つマイルド、
一言で言うと、深~く優しいお味。クラッカー


暑いロンボク島で、お姑さんが、カッカッと大きな鍋でコーヒー豆などを一生懸命炒り続ける姿が目に浮んだ。ドキドキ

日本でも、蜜柑や梅干を焦げるまで焼いて食す民間療法があるけれど、
それと似た効果が黒炒りのコーヒーにもあるかもしれない?| 壁 |д・)


このコーヒーの粉をお料理に使っても面白いんじゃない?ひらめき電球




ってんで、パウンドケーキに混ぜ込んでみた。グー
ロンボクコーヒー入りパウンドケーキ

パウンドケーキ粉

小麦粉にコーヒー粉(大さじ1杯弱)を入れてみた。
粉を一緒に振るったら、火山灰のようになった。えっにひひ

火山灰?

焦げているわけではないが、黒く(?)焼きあがっていく。

焼き上がり

おおおおお! 黒いパウンドケーキが出来たよ♪合格

美味しい一切れ

これが、そこはかとなく香ばしく、ジンジャーやらコーヒーやらの風味が微かにして、美味しい!合格合格合格

食べると、普通のパウンドケーキより、むしろなんだか落ち着く感じがする。キラキラ
(鎮静効果でもあるのかしら?)

なんせ私が作ったのだから、見た目やら何やらが、むにゃむにゃだけど、味はよし!……と思う。(///∇//)
クルミとレーズンともよく合う。チョキ




最近、朝はオートミールに牛乳を入れて、2分ほど加熱し、
シナモンなどを振りいれて食すのが好きなのだが、
この仕上げにもロンボクコーヒーを入れてみた。

オートミール


これも、ほろ苦さが加わって、美味しい♪合格合格合格

ロンボク島のお姑さんのコーヒー粉……これって、調理用のスパイスとしても、すっごく活用できる予感。チョキ

カレーにも入れてみようとしたが、もう粉がなくなっちゃったので、未チャレンジなり。
(でも、きっとほろ苦さが加わって美味しくなる予感。にひひ


私はもっぱら調理スパイスとして利用したいと思ったロンボクコーヒーでした。
これ、薬用効果を専門家にでも調べてもらったら、すごい効果があるかもね?(o^-')b




2015年四国の旅

1月下旬に、香川県の川鶴酒造さんを見学するツアーに参加させてもらったときの日記です。毎度のことながら、だらだら更新する予定なり。
  



18 見所いっぱい、考えどころいっぱいの土佐



再び高知の中心地に帰ってくる。走る人


途中、宮尾登美子の小説『陽暉楼』の舞台となった陽暉楼(得月楼)があった。
普通の通りに、普通に建ち並んでいた。ビックリΣ(・ω・ノ)ノ!
「陽暉楼」とは、「得月楼」の操業当初の名前らしい。
得月楼は、今も老舗料亭として営業中の模様。ホォ~(=◇=;)

陽暉楼



お昼には、再び鰹の塩タタキに感激しつつ、昼間から日本酒飲んで。
鰹の皮のほんわりとした熱さと香ばしさがたまらない。
塩が合うーっ!ラブラブ!

やはりうまい鰹のタタキ

餃子


餃子は普通に美味しかった。


ほろ酔い気分で、
吉田東洋の殉難の地」の標識を見つけ、辿っていけば、工事中で。ナンジャイしょぼん

吉田東洋殉難

残り数時間ほど、
友は高知城へ、私は高知城の敷地内にある高知県立文学館へ。

高知県立文学館

文学館は、石垣のような石牢のような、面白い建物だった。(  ゚ ▽ ゚ ;)

(それにしても、香川の菊池寛記念館にせよ、この文学館にせよ、
落ち着いていて清潔でよいのだが、展示にもう少しダイナミックさが欲しいなぁ。全国の文学館関係者は協力しあって、色々な企画展を催してみればいいのに……。文学館は遺跡じゃないんだから、今に繋がる文学を熱くアピールしてほしいなぁ。ラブラブメラメラ


高知城の手前にあった、山内一豊公の銅像。
山内一豊公……土佐藩の初代藩主さん。1

山内一豊銅像


後日調べたところによると、サーチ


山内を「やまのうち」と読むか、「やまうち」と読むか、はてなマーク
一豊を「かずとよ」と読むか、「かつとよ」と読むか、はてなマーク
はっきり決まっていないようだ。∑(゚Д゚)

でも、「やまうち かつとよ」が主流になってきている感じ?
読みがはっきり定まらないと、なんかちゃんと覚える気が起きないわ。あせる
こういう銅像のところでは、どちらか決めて、読み仮名を振っておいてほしいなぁ。ラブラブ



1600(慶長5年)、静岡の掛川を治めていた山内一豊が、関が原の戦いの際、家康側に付いたから、そのご褒美として、土佐を与えられ、土佐藩主となったらしい。プレゼント

が、その前は、土佐はどうだったのか?はてなマーク

と気になって、私なりにざっくり調べると……サーチ




江戸時代以前の土佐は、
諸侯が勢力争いしていたようで、油断ならない状態だったみたい。メラメラ

1575(天正3)年、長宗我部元親(チョウソカベ モトチカ)(36)が土佐を統一。ベル

山が多く耕作地が少ないから、土地が欲しいってんで、グー

1575(天正3)年、阿波(現徳島県)に侵攻。天正7年(1579)阿波を配下に。おーい

1578(天正6)年、讃岐(現香川県)に侵攻。天正10(1582)阿波・讃岐を平定。おーい

1585(天正13)年、伊予(現愛媛県)を降伏させ、おーい
四国制覇達成。元親46歳。




土佐が4国統一できた勝因のひとつに、「一領具足」があるらしい。

一領具足(いちりょうぐそく)という、農民的な武士の力(中略)。」


一領の『領』は、鎧や衣服等の揃いのものを数える際の助数詞ですが、具足(甲冑)一領を常に用意し、田畑の耕作を行う際は、槍の柄に具足をくくり付けて田の畦に立てておき、やれ戦だという時に、それらを身に付け戦場に向ったと伝えられています。」

   以上、参照:「長宗我部元親

つまり、半農半武士的な領民が、長宗我部元親の下、いい仕事をしたのだね。チョキ
彼らに対するご褒美の与え方が、長宗我部元親は上手かったのだろうか。( ´艸`)




天正の戦国時代、強い者が奪う時代。パンチ!
長宗我部さんは、22歳で“戦場デビュー”してからクラッカー
わずか十数年、36歳で土佐を統一するまでになり、アップ
さらに10年ほどで、46歳の頃、四国4国まで統一しちゃったわけだ。アップ
(タブン……“四国統一は果たしてない”という説もあるみたいだけど。)

しかし、4国統一した同年1585(天正13)年、
豊臣秀吉の「四国攻め(四国征伐)」を受け、降参。ダウン
折角広げた領土は、土佐だけに縮小させられたようだ。ガックリ
4国統一は一瞬の夢だったのね。

(自分の力で四国を纏め上げたという自負のある長宗我部は、
讃岐などを欲しがった織田信長たちのゴリ押しにやすやすと従わなかったらしいから、やっつけられたのかな?)

んで、
1586(天正14)年、
元親47歳の頃、自慢の長男を戦で失い、がっくりと精気を失い、もうメタメタに崩れていったようだ。ガックリ


10年かけて攻め落し大きく築いた己が領土を、
あっさり豊臣に奪われ、
翌年には期待の長男の死亡。
長宗我部元親、激動のアラフォー時代を送った彼が、
50を前に、ガックリきてちょっとおかしくなってしまうのも、わかる気がするよ。しょぼん

1599年、60歳(?)で、失意のまま亡くなったみたい。天使
そうこうするうちに、1600年、関が原の戦いが起こったわけだ。メラメラ


で、
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に使えて家康の“覚え”もよい山内一豊が、
静岡の掛川を治めていたけれど、

関が原の戦いのご褒美として土佐を与えられ、
掛川から土佐へと入り、
土佐藩主となった……と。
江戸時代の土佐藩の始まり~。クラッカー




この際、従来の「一領具足」の民が、新しい藩主や藩体制に反対し、ヽ( )`ε´( )ノ
一揆まで起こして抵抗したとさ。

山内一豊は、すったもんだで土佐を統一したとさ。DASH!


で、
山内の家臣たちは身分の高い「上士(ジョウシ)」アップ
新しい土佐藩に従うことになった長宗我部の家臣たちは、身分の低い「下士(カシ)」ダウンに分けられた。
上下間に相当厳しい差別があったらしい。全国的にも群を抜いた差別だったようだ。。(´д`lll)

階級はさらに細分化されていて、

参照:「坂本龍馬人物伝

身分について

■上士
上級藩士。
関ヶ原の戦いで東軍側についた山内一豊は、その功績を認められ土佐一国を与えられた。上士は主にそれ以前の山内家の家臣たちにあたる。
上士と郷士の差別化は徹底しており、下駄や日傘の使用は上士しか許されていないなどその違いは多くあった。

■下士
下級藩士。白札、郷士、徒士、徒士格、下席組外、古足軽、足軽、下足軽、庄屋というように細分化されています。
・白札

藩に対し功績をあげ、認められたものは郷士であっても上士の扱いを受ける白札となる制度がありました。

・郷士(ゴウシ)
長宗我部家の家臣の一領具足の系譜を引く者たちが、山内家に取り立てられそう呼ばれるようになった。

他藩に比べ、土佐藩は上士と郷士の差別化が徹底して行われていた。
坂本家はもともと商家でしたが、郷士株を新規に取得し郷士となりました。


■地下浪人(ジゲロウニン)
郷士の株を売った者は地下人と呼ばれました。その中でも40年以上郷士であった家は、特別に藩から名字帯刀が認められていました。
岩崎家は40年以上郷士であったため、名字帯刀が認められていました。
」(以上引用)




差別は日常生活にまで及び、
それはそれは、えげつないほど。ガーン


山内一豊って、その夫人(「内助の功」の代表とされる千代)の逸話などでも有名で、

妻を大切にしたいい男だったのかな? ラブラブという希望的憶測があったのだけど、
これだけ身分差別を徹底させるって、どーよ?( ̄_ ̄ i)




身分差別はいかんぜよ。パンチ!


しかし、差別を徹底させて、旧家臣(長宗我部氏を慕う人々)を押さえ込まなければ、統一も治安もままならない……と恐れていたのだろうか。はてなマーク

それにしても、身分差別も人種差別も、“差別”はいかんぜよっ!!!ヾ(▼ヘ▼;)




高知は太平洋側にあるせいか、どこか明るく開放的な雰囲気を感じた。キラキラ
高知は貧しかったこともあって、男同様に働く逞しい女が多く、共働きが当たり前、
そのため、男女同権的なムードだと聞いたことがある。


旅行者として1日2日歩いただけでは、そこまでよくわからなかったが、あせる
あちらこちらに歴史の足跡が残されていて、
歴史探訪してもよし、鰹のタタキの食べ比べも楽しそう、酒もうまいし、
また訪れたい高知であった。ドキドキ
牧野植物園に行くためだけにも、また行きたいものである。ヾ(@^▽^@)ノ

龍馬空港


              おしまひ