2014年4月京都の春 2婆の旅

2014年、4月に、2婆(姉・私)で、京都に花見旅行に行ったときの覚書です。





25 二条陣屋(ニジョウジンヤ)は「本陣」



カラクリを凝らして守りを固めた邸、二条陣屋は、
“大名たちの宿泊所”だったというのだから、
名称は「二条陣屋」というけれど、
その邸の機能は、「本陣」だったということね。



いまさらだけど、「陣屋」と「本陣」との違いを調べた。(//・_・//)


陣屋とは・・・主に3万石以下の大名の屋敷。
        つまり、お城のような役目をしています。

本陣とは・・・参勤交代で他藩の大名が宿泊する施設。

(「okwave」

とな。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ





他にも、

「陣屋」は、

江戸時代の幕藩体制における、大名領(藩)の藩庁が置かれた屋敷、
また徳川幕府直轄領の代官の住居および役所が置かれた建物のこと
」で、

一般的に3万石以下の城を持たない大名が陣屋を持った、
また上級旗本も知行地に陣屋を構えた。
さらに大藩の家老の所領地である知行所の政庁が置かれた屋敷も含まれる。
飛地を所領に持つ大名が、
現地の出張所として陣屋を設置することもあった
。」(「ウィキペディア」)

∑ヾ( ̄0 ̄;ノ


ザックリ言えば、

「陣屋」は、“小さいながらも一国一城”の主たるお殿様(大名)の城(もどき)。家
あるいは、大きな大名などの出張所兼別宅。

「本陣」は、大名たちのホテル。ホテル

……というわけね。\(゜□゜)/




ガイドさんに、「京都には陣屋がなかったから」
……と説明された気がしていて、あせる
本当にそうなの? と調べたら、
京都に「陣屋」はあった!

Shane旅日記 日本全国陣屋巡りの旅

陣屋は江戸時代に3万石以下の
無城大名が藩庁を置いたところや
徳川幕府の直轄領の役所の総称です
。」


園部陣屋
(ネットより拝借)

園部陣屋(ソノベジンヤ) 京都市の西に。(上図の黄色部分)
丹波山家陣屋(タンバヤマガジンヤ) 園部のさらに北西に。
綾部陣屋(アヤベジンヤ) 山家陣屋から、さらに西に。
峰山陣屋(ミネヤマジンヤ) 京都市から北西、丹後半島の方に。



どれも、京都の中心部からはかなり離れているが、
とにかく、「陣屋」は4つあった。4
(中には、江戸時代に入ってから造られたものもある。)

京都になかったのは、「陣屋」ではなく、
大名のためのホテル、「本陣」なのだ。(=◇=;)


きっとガイドさんは、「本陣がなかった」とおっしゃったのだろう。
でも、私の聞き間違いで、
ぼんやりとして分かっていなかった「陣屋」と「本陣」の違いがわかったので、
よしとしよう♪(●´ω`●)ゞ


しかし、
「本陣」代わりとして機能していたのなら、
なぜ「二条本陣」と名づけなかったのだろうか?はてなマーク
なぜ「二条陣屋」と呼ぶのだろうか?はてなマーク


                  つづく
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2014年4月京都の春 2婆の旅

2014年、4月に、2婆(姉・私)で、京都に花見旅行に行ったときの覚書です。





24 二条陣屋(ニジョウジンヤ)



二条城の南に位置する神泉苑を、さらにもうひとつ南に下った(?)辺りに
二条陣屋(ニジョウジンヤ)なる建物があった。

二条陣屋

忍者邸みたいらしいよ……と、姉が行きたがったのだ。(・∀・)(・。・)


完全予約制。
興味のある方はこちら。→「見学方法
入場料1000円は、ちょっとお高めね。(^_^;)




時間ぎりぎりに着いたら、時計
「みなさん、もうそろってますよ」などと急かされるのであった。あせる
仰るとおり、大広間に、他の見学者のみなさんはすでに到着していて、あせる
荷物はロッカーに預けなければならないし、あたふたする。あせる
予め、持ち歩く貴重品と、ロッカーに預ける荷物とを分けておいた方がよいね。注意


見学の際は、
余裕を持って、予約した時間より早めに着くことをお薦めします。ヽ(;´Д`)ノ



ボランティアのガイドさんの後について、
十数人~20人ほど?、みんなでぞろぞろ、屋敷内を見学。
邸内は撮影厳禁。禁止



公式サイトには写真入りで説明がある。チョキ

参照:二条陣屋公式サイト



「二条陣屋」と名づけられているその邸は、
実は、江戸時代の豪商、小川氏の個人の邸。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ


米・両替商標のある玄関

米・両替商の標章」という木札(?)が脇に掛かった玄関は、
一見、個人宅の玄関を、公開するために多少内部をリフォームしたという感じだった。


しかし、
邸内は複雑な造りになっていて、
カラクリのオンパレード!Σ(=°ω°=;ノ)ノ
色々な創意工夫が施されていた。


「釣り階段」、「隠し階段」、「落し階段」や隠し扉。
「武者溜り」といって、家来が隠れて様子を窺えるスペース、
いざとなったら家来たちがご主人さまを守りに瞬時に出て行けるカラクリなどなど。

隠し階段
(ネットより拝借 「隠し階段」)


敵が襲ってきたら、いかに食い止めるか、
敵が襲ってきたら、いかに迅速に逃げられるか、
火が出たら、いかに迅速に消火できるか、
逃げながら敵をやっつける防衛・防災重視の邸だった。パンチ!


それというのも、小川邸では、諸大名などをお泊めしていたからとか。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ


江戸時代、
参勤交代などのため街道往来の途中」、
大名が泊まれる宿(本陣)が街道のところどころにあったのだが、
京都には、なかった。Σ(~∀~||;)


それは、江戸幕府が命じて、
本陣のような城郭まがいの建造物を市中には建てさせなかった」し、∑(-x-;)

当初諸大名の京都立ち寄りを禁止していた」∑(-x-;)

ことによるのだそう。

――他の大名が、家康の目の届かないところで、天皇をそそのかしてまたもや天下を覆すといけないと思ったのだろうか。それなら、いっそ、二条城に江戸幕府を開けばよかったんじゃない? と、歴史音痴の私は思うのだが。――!?あせる



それでも、

二条城や京都所司代などに用事のある大、小名の宿泊所が必要」だし、
徳川幕府が安定してきた1660年代からは、
大名の京都見物も黙認されるようになり、
参勤交代の行き帰りに京都へ立寄る
」ことも許され、
そうした大名たちの宿泊所として、
小川邸が「本陣」としての機能を果たしてきたのだという。(=◇=;)


大名がお泊まりなので、警備を厳重にしたいが、
いかんせん、京のまち中、大々的な防御施設を設けるスペースもない。
敵がいつ忍び込んでくるかわからない……
ってんで、邸の中をカラクリで防衛したのだそうだ。(=◇=;)






大名がお泊まりになるので、
ゆったりとくつろいで頂けるような趣向もあれこれ凝らされていて、
「湯殿」まであった。温泉


本来なれば、大名は旅行の時に湯舟を携行するものなので、
普通、本陣などには湯殿の設備はない
。」(パンフレットより)

……って、これも驚き!Σ(・ω・ノ)ノ!

バスタブを持参して参勤交代していたのかっ!
参勤交代の行列って、まるで「お引越し」のお披露目みたいなものだね。
荷物係はさぞ大変だったろう。(@_@)



で、ご自慢の湯殿。

二条陣屋の湯殿
(ネットより拝借 二条陣屋の湯殿)

当時としてはとても珍しいという「陶板製の浴槽」。
壁にあいた穴には、外で沸かしたお湯をそのまま中の浴槽に引き入れる竹筒が通っていたらしい。“給湯式浴槽”だったわけだ。(=◇=;)


しかも、
湯船の脇には、炭釜を入れる“保温槽”があり、
浴槽の湯をそこに循環させて、浴槽の湯が冷めないよう、“保温機能”を果たしていたという。(=◇=;)


壁の格子模様の一箇所に赤トンボ(?)が張り付いてる。ラブラブ
逗留する大名の長旅の疲れを癒やすためか」……とのこと。


こうした遊び心で、
入浴中でもなかなか気の抜けない大名さまの緊張をほぐそうとしたのかもしれない。音譜





なんやかや、防衛にもヒーリングにも、色々工夫された浴槽ではあったのだが、
この浴槽、お湯を抜く穴がない!Σ(=°ω°=;ノ)ノ

ガイドさんに質問してみたら、
“排水機能はない”とのこと。
使い終わった湯船のお湯は、あとで掬って捨てたのだろうとのこと。ガーン


“給湯式、保温式”はよいが、
排水の際の苦労はなかなか大変だったろうね。汗


排水穴がある現代のお風呂だって、お掃除は結構面倒なのに、
排水穴のない湯舟のお掃除はさぞ大変だったろう。(((゜д゜;)))
そもそも、お風呂にお湯を溜めるだけでも、
井戸から水を汲んで、お湯を沸かして、湯船に溜める……
重労働だ。ドクロ
入浴って、贅沢なことだったんだろうな。

今でも、お風呂に入った後、「お風呂、頂きました」と挨拶するけれど、
入浴が「ご馳走ラブラブ!」だった名残なんだろうなぁ。

              つづく

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繋がる嬉しさ (林英哲&アッピア街道の松)




全く別個別個に出会っていたモノ達が、
偶然につながった時って、
実に嬉しい。ヾ(@^▽^@)ノ


もう、先々週の日曜日(7月20日)のことだけど。
日曜日の午前9時、
大抵は
TV番組「題名のない音楽界」を見る。


で、
その日も、だらだらとTVを見ていたら、


なんとっ、Σ(=°ω°=;ノ)ノ


ものを知らない私が先日遅ればせに知ったばかりの

林英哲氏が太鼓を叩くじゃないか!о(ж>▽<)y ☆

(昔、鬼太鼓座オンデコザにいらしたお方→「鼓童『神秘』に舌を巻く


林英哲氏
(ネットより拝借:林英哲氏)


ひかも、

演じられるその曲は、

これも、2012年のイタリア旅行の旅日記をまとめている最中に、
思いがけないコメントを頂いて、
そこから調べ直して、改めて知った
アッピア街道の松(「ローマの松」)」!
(→「イタリア三都巡り21 コロッセオでマツ」)

アッピア街道
(ネットより拝借:アッピア街道)



人に誘われて出かけたから、林英哲氏の存在も知ったし、
(誘われなかったら、太鼓を1人では聴きにいかなかったろう。)


ブログをやっていたから、
「アッピア街道の松」なんて曲も知ったのだった。



あの林英哲氏だー! と思うと、聴き方にも力が入った。ラブラブ
You Tubeで予め「アッピア街道の松」を聴いて知っていたから、
太鼓入りの演奏を、より味わえた。チョキ



素晴らしい叩きっぷりであった。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
かっこいー!ラブラブ!
以前You Tubeで聞いた「アッピア街道の松」は、
さほど感動はしなかったのだが、
林英哲氏の和太鼓の加わった「アッピア街道の松」は
感動的だった。アップ


アッピア街道って、
ローマから南東にまっすぐ伸びている“街道の女王”と呼ばれているらしい街道。


ペトロは迫害が激しいローマを逃げ出してアッピア街道を歩いていると、
反対側から来たイエスに出会った。
「主よ、どこへ行かれるのですか?」と聞くと、
「もう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えた。
彼はそれを聞いて恥じ、死を覚悟してローマへ戻った。


(「キリスト」より)

という物語がある街道だ。



逃げ出してきたペトロが、再び死を覚悟して、
死をものともせずローマへと進む足音が聞こえてくるような気がしたよ。ラブラブ
それも、悲愴ではなく、
威風堂々と、
布教の喜びに満ちた足どりの。キラキラ


試練に堂々と立ち向かっていく高揚感に満ちた曲に
私には聞こえた。アップ

佐渡さんの指揮もすばらしかったのだけど、
やはり林英哲氏の和太鼓が
素晴らしかったなぁ~。( ´艸`)

やっと「アッピア街道の松」を本当に味わえたような気がした。ドキドキ





なんかね、素敵な“邂逅”を目の当たりにしたような
日曜の朝でした。


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2014年4月京都の春 2婆の旅

2014年、4月に、2婆(姉・私)で、京都に花見旅行に行ったときの覚書です。




23 神泉苑(シンセンエン)の恵方社の罠




神泉苑は、
日本で唯一の恵方社(エホウシャ)」をも有していた!∑ヾ( ̄0 ̄;ノ




善女龍王の拝殿のすぐそばに、
井戸の出来損ないのようなお社がっ。(((゜д゜;)))

恵方社


恵方社(エホウシャ)」なるお社だった。Σ(・ω・ノ)ノ!




この円い台の上にちょこんと乗った古ぼけたお社(祠?)に、
歳徳神(トシトクジン)なる神様が祭られているらしい。Σ(・ω・ノ)ノ!


平成26年の恵方(いい方角)は、寅卯(東北東)の方角です。
その方角に向かって礼拝し、幸福を授かってください
。」音譜

って。(=◇=;)



確かにお社は東北東を向いていた。右上矢印
ふむ。今年の恵方は確かに「東北東」だったよね。
と思い出し、拝礼。(。-人-。)


おおおおっと?えっ
「拝礼」となると、
ついお社に向かってしてまうじゃないか。あせる


東北東を向いているお社に向かって拝礼した私は、
「恵方」とは間逆の西南西に向かって拝礼してしまった。あせる
ダメジャン。(><;)


お社にお尻向けて、恵方に拝礼するなんて、なかなかできないっしょ。パンチ!
ついお社に向かって手を合わせるでしょーがっ。あせる
こ、、、これは、恵方社に潜む罠ではあるまいかっ。(゜д゜;)
(お社と並ぶようにして、恵方を向けばよいことなのだが、そのときは、そんなこと、思い浮かばなかった。汗

恵方社って、実は我々に恵方を向かせないための罠ではないのか?(´_`。)
(……な訳あるまいが。)


それにしても、神泉苑で、なぜに「恵方」なのだろうか?はてなマーク



「恵方」というと、関東では、ここ10年くらい前から「恵方巻き」ブームが起こり、
“福を招くために(?)”、
“2月の節分に「恵方」を向きながら恵方巻きを食べる”音譜
という習慣が俄かに定着してきた。


“恵方を向いて恵方巻きを食べる”って、なんだかイベントとして楽しいので、
ついついやってしまう。( ´艸`)

“願い事をしながら食べ、食べている間は口を利いてはいけない”禁止
というのも、ゲーム感覚で楽しい。( ´艸`)


しかし、
改めて考えるに、
恵方=いい方角」って、何だ?はてなマーク







……ってんで、例の如く、後日調べる。ガーン



「恵方」とは……

その年の歳徳神(としとくじん) のいる方角で、
その年の干支によって決められます。
めでたく良い方向とされ、
陰陽道(おんみょうどう・おんようどう・いんようどう)での考え方です
。」
(「みんなの知識 ちょっと便利帳」より)



神道でも、仏教でもなく、「陰陽道」!∑ヾ( ̄0 ̄;ノ





陰陽道とは、

太古に発生した中国の民間信仰で、
天の動きと人の世の動きには関係があるという思想(天人相関)に立ち、
万事に吉凶を天文の変化から予知し、
これによってどう対処してゆくかを決めるものです

(「陰陽道について」より)


キトラ遺跡にもその影響は見られるらしいから、
古墳時代から日本に輸入されていたらしい陰陽道。(=◇=;)
平安時代には、かなり定着していたことだろう。
(平安時代には有名な陰陽師、安倍晴明だって輩出されているのだから、ね。('-^*)/)



で、
歳徳神(トシトクジン)とは、


陰陽家(おんようけ・いんようか)で年の初めに祭る神で、
その年の福徳を司るとされます。
歳徳神のいる方向を恵方(えほう)、または明(あき)の方(かた) と言い、
全てにおいて吉とされます。
」(「みんなの知識 ちょっと便利帳」より)

歳徳神1

面長、ロンゲの女性のようだ?(-^□^-)
前髪を下ろしている神様って、珍しいよね?
ぼさぼさロンゲが、ちょっと私に似ているわ。γ(▽´ )ツヾ( `▽)ゞ


歳徳神2

長髪をアップにしている姿も描かれていた。
でも、前髪はあるよね。おかっぱ






ウィキペディアには、さらに、由来が記されており、サーチ

歳徳神の由来には諸説あり、
『簠簋』
(ホキナイデン←安倍晴明が編纂したと伝わる“占いの専門書”らしい。)では、
牛頭天王
(ゴズテンノウ)の后・八将神(ハッショウジン←方位の吉凶を司る陰陽道の8大神の総称らしい。)の母の頗梨采女(はりさいじょ)であるとしているが、
これはでたらめであるとの批判もある。

また、牛頭天王が須佐之男尊と習合したことから、
その妃の櫛稲田姫とも同一視される。


わかりにくいので、整理すると、あせる(デタラメかもしれないが)



歳徳神=頗梨采女(はりさいじょ)=牛頭天王の后
=八将神(八王子神)の母



ということは、

八坂神社で祀られているのは、牛頭天王【夫】、男の子
神泉苑の恵方社で祀られているのは、妻の歳徳神(頗梨采女)。【妻】女の子

ううむ。祇園祭り(御霊会)で、八坂神社と神泉苑は
結ばれるべくして結ばれていたのか?赤い糸




おまけに、

歳徳神=「八大竜王の1柱で、娑竭羅龍王(しゃかつらりゅうおう)の娘」

とな!


つまり、

歳徳神は、

8人(神?)の子の母親で、
祇園精舎の守り神とも言われちゃってる牛頭天王の妻で、
沙竭羅竜王(しゃかつらりゅうおう)の娘


ん? ……「娑竭羅龍王(しゃかつらりゅうおう)」むっ
どこかで見覚えが……?DASH!


……って、探したら、

去年、浅草寺で、高村光雲の彫刻で、見ていたー!Σ(=°ω°=;ノ)ノ
(「どそくはどうでせう?」)

さからりゅうおう

(浅草寺では、「沙竭羅竜王(さからりゅうおう)」読んでいたのだ。あせる)
仏教の8大龍王のひとつとされてる。(=◇=;)


仏教界の龍王の娘が、陰陽道の神様となってるってことか?はてなマーク




それに、
神泉苑で祀られている「善女龍王」は、まさしくこの「8大龍王」の1つだったはず。
(「神泉苑の雨乞いバトル」)


歳徳神にとって「善女龍王」は“お父さんのお仲間”じゃないか!ヽ(*・ω・)人(・ω・*)ノ
なんか、繋がってるなー。ラブラブ

それにしても、歳徳神の父、沙竭羅龍王は、
東寺の空海が雨乞いをしたときに、西寺の守敏によって封じ込められてしまっていた、ちょっと情けない(?)龍王だったのね~。f^_^;



とにかく


陰陽道の正月の神、恵方を司る神、歳徳神。
又の名を、頗梨采女(はりさいじょ)。

その夫は、
神仏習合の神、牛頭天王。

歳徳神(頗梨采女)の父は、
仏教界の龍王のひとつ、娑竭羅龍王(しゃかつらりゅうおう)。



……ううう。今回も、ここらが限界。ギブアップ。ヽ((◎д◎ ))ゝ
訳わからん。あせる

牛頭天王
(ネットより拝借:牛頭天王)





ネットで動画を見つけたので、貼り付けておこう。
恵方の改め式



毎年大晦日の晩に、神泉苑では、恵方社(祠?)の向きを
「新年の恵方」へと変えるらしい。リサイクル
つまり、円い台の上で、360度回るお社なのであるね。(。-人-。)





神道、仏教、道教、儒教などの中にじんわりとうまく浸透したらしい陰陽道。チョキ

21世紀の今も、我々は、それが「陰陽道」から来ていることと意識しないままにも、
恵方を信じ(たい気持ちになり)、ラブラブ
恵方に向かって、いいことがありますようにと祈願し、(。-人-。)
日照れば雨乞いを龍王に願い、(。-人-。)
何か不吉なことがあれば、誰のせいだ?と誰かを悪者にせずにはいない。ガーン


陰陽道だろうが、仏教だろうが、神道だろうが、道教だろうが、儒教だろうが、キリスト教だろうが、拝火教だろうが、イスラム教だろうが、
ブードゥー教だろうが、etc……

日本人は、いいトコ取りが得意で、
結局寛容であるというか、
ぶっちゃけ、いい加減というか、
祈れればなんでいい……ちゅーか、
縋れるものは藁でもいい……ちゅーか、
楽しければなんでもアリ……ちゅーか、

人間の(特に日本人の?)信仰性というか、何かを信じ縋る体質というのは、
何千年たっても変っていないものかもしれない……?
いまだに「占い」は毎日のように、どこかしらで報じられているしね。

          つづく

*途中「龍」と「竜」と、漢字の使用がごっちゃになっちゃった。どんまい。^^;
2014年4月京都の春 2婆の旅

2014年、4月に、2婆(姉・私)で、京都に花見旅行に行ったときの覚書です。

22 神泉苑(シンセンエン)は「祇園祭り」発祥の地?!




神泉苑の説明板の中には、
ここが「祇園祭発祥の地」であるとの説明もあった。Σ(・ω・ノ)ノ!


「祇園祭」って、八坂神社あたりのお祭りかと思っていたので、
これまた「え?????」と驚かされる神泉苑なのであった。叫び



詳しい説明は施されていなかったので、
これまた、後日調べる。あせる


京都三大祭の一つ「祗園祭」は、当初は「祗園御霊会」と呼ばれていた。

863年(貞観5年)に疫病が流行した際、神泉苑では「御霊会」が行われるが、
その後も疫病の流行が続いたことから、
869年(貞観11年)、当時の国の数「66」の矛を立てて、
八坂神社から神泉苑へと行列したことが「祗園祭」の始まりだという。

(以上、「鎌倉手帳 京都神泉苑」より引用。)


出た!「御霊会(ゴリョウエ)」!о(ж>▽<)y ☆


以前一人歩きしたとき、偶々辿り着いた
御霊神社
(「7 御霊神社(ゴリョウジンジャ)追記2 さらわの神に祟りなし」)が思い出される。


794年、平安京遷都の際、色々な不吉な事故やら疫病やらが起こり、メラメラ爆弾ドクロ
身に覚えのある(?)桓武天皇は、
冤罪で不慮の死を遂げた人々の祟りだと恐れ、(((゜д゜;)))
彼らを神として祀るために「御霊神社」を創らせ、
彼らの鎮魂を願ったのだった。(。-人-。)


「御霊会」とは、
思いがけない死を迎えた者の御霊(ごりょう)による祟りを防ぐための、
鎮魂のための儀礼
」。


つまり、
御霊会は、
もともと、御霊神社に祀られている人々(神々)の鎮魂を願う儀式だったわけだ。(-_☆)


それなのに、神泉苑と御霊神社ではなく、
なぜ神泉苑と八坂神社とが結ばれるのだろうか?はてなマーク

調べるほどに、謎が増える……。ヽ(;´Д`)ノあせる




まず、
御霊信仰(ゴリョウシンコウ)」について見てみると、

人々を脅かすような天災や疫病の発生を、
怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の『怨霊』のしわざと見なして
畏怖し、これを鎮めて『御霊』とすることにより祟りを免れ、
平穏と繁栄を実現しようとする日本の信仰のことである
。」(byウィキ)


桓武天皇が御霊神社を創らせた効果か、
天災に見舞われたり、疫病が流行ったりするたびに、
「怨霊のせいだ~!鎮まりまたへ~!あせる」などと仰々しくアピールしていたら、
平安の頃の人々は、
「今度の大災害は怨霊のせいらしいぞ、怖いね~。あせる
「今度の疫病は怨霊のせいらしいぞ、くわばらくわばら。あせる
などと、怨霊を恐れる意識になっていって、
なにか悪いことが起こったら、
政治が悪いからだ!とならず、
「怨霊のせいだ!」と
人々の間には、「御霊信仰」が定着していったわけだね。| 壁 |д・)

為政者にとっては、都合のよい“ムーブ”だよね。
人々の不安を利用した「〇〇信仰」って、
体のいい国民意識コントロールの一策だね。(*´Д`)=з



でも、記録に残っている最古の御霊会は、
863年(貞観5年)5月20日」。
御霊神社が建ってから、70年ほど経っている。時計


もしかして、それまでは、
御霊神社で、関係者(朝廷レベルのごく限られた人々)のみで行なわれていた儀式だったけれど、
信仰として定着させるためにも、
一般の人々にもお披露目して、アピールした方がいいんじゃない?
って話になって、
それなら、
825年、“守敏vs空海の雨乞いバトル”でもパワースポットとしてさらに人々の耳目を集めた
神泉苑での御霊会はいかが?
……と、なったのではないかしら?(-_☆)



神泉苑で開催された、“記録上日本最古の御霊会”はどんなものだったのかというと、

御霊会の初見は清和天皇の時代,863年(貞観5)5月20日に
平安京(京都)の神泉苑で執行されたもので,
そのとき御霊神とされたのは
崇道(すどう)天皇(早良(さわら)親王),伊予親王(桓武天皇皇子),藤原夫人(伊予親王母),橘逸勢(たちばなのはやなり),文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)らであったが,
やがてこれに藤原広嗣が加えられるなどして
〈六所御霊(ろくしよごりよう)〉と総称された。

京都の梢園祭(ぎおんまつり)もその本質はあくまでも御霊信仰にあり,本来の名称は〈梢園御霊会〉(略して梢園会)であって,
八坂神社(梢園社)の社伝では
869年(貞観11)に天下に悪疫が流行したので
人々は祭神の牛頭天王(ごずてんのう)のたたりとみてこれを恐れ,
同年6月7日,全国の国数に応じた66本の鉾を立てて神祭を修め,
同月14日には神輿を神泉苑に入れて御霊会を営んだのが起りであるという。

(by「横井清」さんのサイト



神泉苑での初「御霊会」の6年後に、
八坂神社から神泉苑まで66本の矛を立てて神泉苑まで行列するという御霊会を催している!えっ

もうこの頃には、神泉苑と八坂神社とは、「御霊会」で繋がっていたようだ。ヽ(*・ω・)人(・ω・*)ノ




しかも、祇園の八坂神社の「本殿の下には
『龍穴』と呼ばれる井戸があって、
神泉苑と通じているのだという
」!Σ(=°ω°=;ノ)ノ

(by「鎌倉手帳」)
(by「八坂神社本殿下の龍穴(井戸)瀬織津姫」)



本殿の下に井戸があるなんて!?叫び
(井戸として使えないじゃん?あせる

しかも、その井戸(龍穴)が神泉苑に繋がっているなんて?あせる
本当なら、な~んてミステリアスなんでしょ!叫び


神泉苑と八坂神社……ただならぬ“繋がり”がありそう。

それにしても、神泉苑と八坂神社の間を
“鉾もって行列する”ということが、“お祓い”になるのかしら?はてなマーク
とも思うが、

「行列する」ことも、当時は特に、
ひとつの大きなパフォーマンスなんだろうね。
(こうした“行列効果”は「大名行列」にも受け継がれていくんだろうね。)



さて、
なぜに「八坂神社」か?…… と見ると、サーチ

八坂神社は、「祇園信仰」の中心的神社だったようで。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ


御霊信仰に関連するものとして、疫神信仰がある。
これは、いわゆる疫病神の疱瘡神やかぜの神を祭ることによって、
これを防ぐもので御霊信仰に類似するものがある。
有名で全国的なものとしては、牛頭天王(ゴズテンノウ)を祀る祇園信仰がある。
牛頭天王は、疫病や災いをもたらすものとして、京都の八坂神社に祀られ、祇園信仰がおこった
。」


……「八坂神社」は祇園にある神社で、別名「祇園さん」。
だから、八坂神社への信仰は「祇園信仰」となるのね。(=◇=;)




御霊信仰とは別に、
同類の“八坂の祇園信仰”が存在していたとは!(=◇=;)


全国で八坂神社、祇園神社、八雲神社を称する神社には、
かつて牛頭天王が祀られた例が多い
(それらは大抵、「○○天王」という別称をもつことが多い)。
ただし、明治の宗教政策により、現在は素盞嗚尊を祭神としている場合がある。
現在の祇園祭もこの牛頭天王に対する信仰から起こったものである
。」
(by「ウィキペディア」)


おいおい。「牛頭天王(ゴズテンノウ)」って、なんじゃらほい?あせる

ここで、さらに脱線して、チェック。あせる


「牛頭天王」とは、

1mほどの牛の頭をもち、1mほどの赤い角を持つ、コワモテの
異国由来の疫病神」であるようだ?Σ(=°ω°=;ノ)ノ

疫病が流行ると、牛頭天王の祟りじゃー!と人々は恐れたらしい。(((゜д゜;)))

牛頭天王1

牛の顔をしているのではなく、
牛の首を頭の上に乗せている神様だったのかな?おうし座

デズニーランド調のアメリカンな牛頭天王像もあった。( ´艸`)

牛頭天王2

こうなると、「牛頭」も「バッファローヘッド」とか呼びたくなるね。(-^□^-)



なぜに、八坂神社がこの「牛頭天王」を祀っているのか……はてなマーク
は、「蘇民将来」の話まで出てきてしまうので、あせる
もうとめどないから、ギブアップ。ヽ(;´ω`)ノ
またの機会にとって置こう。あせる



と、とにかく、天災や疫病に対する不安や恐怖は、
人々の間に「御霊信仰」とも「祇園信仰」とも呼ばれる
“悪いことは祟りのせい”信仰となって浸透していた……ってことかな?(^_^;)



御霊神社……(天皇系=為政者側の神道)
天災、疫病、もろもろの悪いこと=非業の死を遂げた人々の祟りじゃ→彼らを祀ろう=怨霊信仰=御霊信仰





天災(当時は特に「日照り」、「疫病」が深刻な天災だったとすると)対策=祈祷=
=雨乞いパワーのあるスポット(=神泉苑)がぴったり♪
=神泉苑が御霊会を行なうのにぴったり♪



こうして、神泉苑が御霊会の場としての地位を確立していく一方、
平安京以前から創建されていたという八坂神社では、




八坂神社(別名「祇園さん」)……(民間信仰)
疫病の流行=牛頭天王の祟りじゃ→牛頭天王を祀ろう=祇園信仰(疫病信仰)

と、いうことだよね。あせる


それらが、869年、とうとう手を組んで、ヽ(*・ω・)人(・ω・*)ノ
初回祇園祭ともいえる御霊会開催となった
……ということかな。



祇園祭りがそもそも御霊会だった・・・・・と考えると、
神泉苑は、まさに「祇園祭り発祥の地」と言えるのかもしれないね。(^_^;)









地下では水繋がり、地上では御霊会繋がりの
神泉苑と八幡神社。ヽ(*・ω・)人(・ω・*)ノ



官民手を組んだ(?)御霊会で、
ますます祟りへの畏敬の念が高まったかというと、
どうやらそうは行かなかったようで、えっ


ウィキペディアによると、
御霊会の際、

『金光明経』・『般若心経』と言った仏教経典の読経とともに、歌舞音曲や民衆参加の踊りなども行われた。
これはこの行事が神道的な祟の除去を目的とした
」(中略)
……とある。∑(-x-;)


最初は「祟りじゃ、祟りじゃ」として恐れ敬っていたけれど、
それだとますます神社への信仰が強まるので、
仏教を広めようとしている人々は、
「神道的な祟りの除去」を図って、
人々の心を神社から離そうとした……ということかしら?| 壁 |д・)


でもって、

楽しげな音楽と踊りも加えて、音譜ゲ
ますます人心を掴もうと図り、ドキドキ
それは、まんまと八坂神社-神泉苑間の霊験あらたかな御霊会さえ
華やかで楽しい「祇園祭り」にと変化させていった

……ってことかな?| 壁 |д・)





祇園祭りといえば、「山鉾(やまほこ)巡行」。

2014年の今年は特に、
幕末の焼失以来150年ぶりに「大船(オオフネ)鉾」が復活を遂げた!クラッカー
と、話題になっていた。

祇園祭り大船鉾
(ネットより拝借画像 「大船鉾」)

見事な、伝統的且つ芸術的な山鉾の行列は
今も昔も京の都を彩る美しい催しごとだったろう。キラキラ



疫病が置きやすい5月~8月にかけて催されるこうした祭りは、
ただ祟りを恐れ、神仏に祈るだけではなく、
人々の気持ちを華やかにし、元気にしてキラキラアップ
疫病にかからない“免疫力”を高める効果もあったのではないかしら。(-_☆)

病に罹ったとしても、まずは気持ちが病に負けてはだめだよね。あせる
体の細胞は気持ちによって、思いも拠らないパワーを発揮するものだものね。
気合だぁ! って、本当だぁ!って思う今日このごろです。

  
追記:

初の祇園祭り(八坂神社から神泉苑までの行列)が行なわれた869年(貞観11年)って、
あの「貞観の大津波」が起こった年だっ! ( ゚-゚)( ゚ロ゚)(( ロ゚)゚((( ロ)~゚ ゚
今気づいた。(=◇=;)

869年、京都だって揺れたのではなかろうか。
元来地震が少ないといわれている平安京の人々はびっくりしたろうね。
東北地方に大津波は来るは、((((((ノ゚⊿゚)ノ
都で疫病は流行るは、天災の多い年だったのだね。((((((ノ゚⊿゚)ノ

        つづく