爪と肉の間

テーマ:
爪と肉の間



本日の流血。血


洗い物をして、洗ったスプーンを
水切り籠のスプーンカゴにさくっと差したら、

既に入っていた箸の先に
指の爪の先がざくっと入った。

爪と肉の間がぶちっと切れた。

いっーーーーーーーっ。(T▽T;)


爪をもっと伸ばしておけばよかった……。ガックリ
AD
2014年 京都・奈良プチ旅行&久保本家酒造見学の旅

2月末、奈良の酒蔵を見学するために、ついでに京都、奈良をちょっと散策した時の日記です。
ううう。さっとまとめて終わりたかったのに、応仁の乱でひっかかってしまった……。(@Д@;




6 御霊神社(ゴリョウジンジャ)と応仁の乱 追記1



さて、

御霊神社に掲げられていた説明板だけでは
例によって例の如く、よくわからないので、(°Д°;≡°Д°;)
後日、ググる。サーチ



東西」に分かれて戦った「応仁の乱」って……

東軍=細川氏クマvs西軍=山名氏ブタネコ
だったらしい。




応仁の乱をざっくりまとめたサイトを見つけた。

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、
文明9年(1477年)までの約10年間にわたって継続した内乱。

8代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、
室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、
九州など一部の地方を除く全国に拡大した。

乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、
戦国時代に突入するきっかけとなった。
十数年に亘る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、
ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。


(「暇人速報」より引用)
(((( ;°Д°))))


でも、
そもそも「応仁の乱」(1467~1477年)の発端となったのは、
畠山家の同族間の闘争。(-_☆)



畠山政長マサナガ(室町時代の守護大名)VS畠山義就ヨシナリ(室町時代の守護大名)の戦いの幕が、
御霊神社の境内で切って落とされたときから「応仁の乱」になるわけだが……(・∀・)/

そもそも同族らしいこの2人の関係は……?はてなマーク

(以下、画像はネットより拝借しました。)




話は政長、良就の親の代に遡る。アップ

政長の父畠山持富 モチトミは、
嫡子のない兄(政長の伯父)の畠山持国 モチクニの嗣子に予定されていた
。」

……って。Σ(・ω・ノ)ノ!

“弟が兄の嗣子”って、昔は兄弟でも親子ほど年が離れていたりするし、後継者を必要とする家々では、“アリ”なんでしょうね。あせる



しかし持国は、庶子の義就 ヨシナリを召し出して後を嗣がせようとしたため、畠山家中に内紛が生じた。」(byウィキ)


ここがそもそも大きな間違いだよね!?パンチ!


後を継ぐ子供がいないから、弟よ、僕の後を継いでね♡ 
と約束していたんでしょ?

なのに、
「石清水八幡の社僧」になるはずだった庶子、畠山義就(当時12歳)を呼び寄せ、跡を継がせようとした。

つまり、自分の子じゃあるめぇ!と思っていた子供を
実子として認めて、跡を継がせることにしちゃった。
持国の、いきなりの約束破り。爆弾



「庶子」ってんだから、義就は、正式な婚姻関係にない女性に産ませた子。(ノ_-。)

しかも、
どうやら、義就の母が、恋多き女(遊女?)で、
色々な男性と関係していたようで(?)、
“そんな女の産んだ子供は、誰の子だか、わからんぞ!
DNA鑑定はどうなっとるんじゃ?”ヽ( )`ε´( )ノ

ってな、平成の現代でも随分巷に転がっているようなお話が
室町の頃も問題になっていたようだ。汗


どんな事情があったにせよ、
畠山持国の中に、どんな気持ちの変化があったのかわからないが、
持国さんが、弟持豊との約束を反故にして、
義就に跡を継がせようとしだしちゃったから、こじれた。メラメラ

(持国の画像と義就の画像を比べようと探したが、見つけられなかった。涙)


兄じゃ、義就を実子と認めて跡を継がせることにしたんだ。よかったねー♪
じゃ、僕はもう跡を継がなくていいねー♪

……とは、話は済ませられなかった弟の持豊(政長の父)さん。


兄持国の跡を継げないということは、
「家督を継げない」ということの他に、
“守護大名になりそびれる”ということだったのかな?
“守護大名”の地位って、そんなに人を狂わせるもの?


守護大名」って、どんな地位かと調べたら、サーチ

=「軍事・警察権能だけでなく、刀
経済的権能をも獲得し、お金
一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念
。」(ウィキペディア)


軍事・警察の権能を得たら、怖いものなしだわさ。
おまけに、
年貢の半分を徴収することのできる半済の権利」とか、
土地の権利とか、
そんな美味しい権利一人占めならば、
これはもう、ウハウハな地位ですな。ベル


それを引き継げると思っていたのに、
どっこい、“その話は無し”となったら、
そりゃないぜ、セニョール! ってことになるんだろうね。(`(エ)´)ノ_彡


兄の持国にしても、
自分の跡を継ぐものは、人格資質を見て、
いかに領土を平安に保って民を幸せにしてくれるかで決めよう
……なんてことは考えず、
絶大なウハウハの権利は
自分のきゃわゆい子供に継がせたい……というわけか。ヽ(;´ω`)ノ


さらに、
“守護大名の跡と継ぐ”……ってことは、
家族間血族間の問題だけでなく、
室町幕府の他の権力者たちのさまざまな思惑なども絡んでくるようで。


とにかく、
弟持豊は、兄持国の翻意を受け入れられず、
兄弟の戦いとなる。メラメラ


持国が義就を呼び寄せたのは1448年。
家臣の中でもこの後継問題では意見が分かれ、
「血を血で洗う内紛」状態に突入。メラメラ
持国は、6年後の1454年には隠居し、翌1455年に死去。オバケ


持豊(政長の父)は、兄が後継者変更を言い出した1448年から間もなく
(4年後)1552年に死去。オバケ

しかし、持豊の長男にして、長政の兄、弥三郎がこれを引き継ぎ、
義就と闘争を続ける。メラメラ


兄弟間のモツレが発生してから、
        (弟)持豊vs(兄)持国血

叔父と甥の戦いが始まり、
        (叔父)持豊vs(甥)義就血

兄持国も、弟持豊も程なく死去するのに、

後継争奪戦は、さらに、
子供の代まで引き継がれ、

従兄弟同士の戦いとなり、
       (従兄弟)長政の兄、畠山弥三郎vs(従兄弟)義就血

兄が亡くなれば、弟の政長が兄に代わって従兄弟と戦いを続ける。
       (従兄弟)政長vs(従兄弟)義就血


で、

政長が御霊神社に布陣して、義就が攻撃してきた
その時(1467年)が
世に言う「応仁の乱」の始まり……ってことみたい。 
!(´Д`;)


“戦い”は、そもそも1448年の持国の心変わりから始まっているけれど、
政長の代の御霊神社での戦い(1467年)からを
「応仁の乱」の始まりとするのは、

畠山氏だけでなく、他の大名などを引き込んだ戦い、
つまり、細川氏と山名氏との戦いが大々的に始まったから
……なのかな?ヽ((◎д◎ ))ゝ




父親からは、本当の子ではないんでないの?という疑惑の目で見られていた義就は、
1448年、12歳で跡継ぎとして迎えられて、
すったもんだして、
1455年、3月26日の父(持国)の死去により家督を継承した。」チョキ

義就が家督相続したというのに、
そんななぁ認めん!パンチ!と叔父一家は争いをやめようとはせず、
戦いの連続。メラメラ


政長と戦った1467年“応仁の乱勃発”の時は、義就19歳だ!
青春時代を、ずっと跡取り問題の渦中で過ごしてきたんだ。Σ(=°ω°=;ノ)ノ


“だらしない母親から生まれた、どこの馬の骨ともわからない男の子供”として、
神社に入れられ、そこで社僧となって一生を終わるはずだった人生と、ガッカリ
天下のいち守護大名を父とし、その唯一の実子、後継者としての人生。どや顔

大どんでん返しであるものの、
親族との骨肉の争いの日々の人生って、どうだったのだろう?汗

畠山義就

畠山義就ヨシナリ 「父上の跡継ぎは、この僕さ!」


畠山政長

畠山政長マサナガ 「跡継がせる約束、守れよー。」



で、

「応仁の乱」になったら、
しょっぱなの畠山氏の内紛はどこへやら、Σ(・ω・;|||
応仁の乱は細川氏と山名氏とに代表される
東西に分かれた10~11年の大戦争となっていったようで。(((゜д゜;)))


しかし、
乱に突入した当時の細川氏(細川勝元 カツモト)、山名持豊 モチトヨ(宗全 ソウゼン)らは乱の途中でそれぞれ仲良く病死。オバケオバケ


それぞれの息子の代になって、
京都もボロボロだし、戦い疲れたし、
も~いいんでない?ってな感じであせる
和睦」したらしい。
つまり、引き分け。┐( ̄ヘ ̄)┌
(実質的には、やや細川氏の方が優位であったようだが。)



で、

結局、
畠山家vs畠山家の戦いはどうなったのか?はてなマーク

応仁の乱の勃発の時、御霊神社を「退去」した政長が負けで、
義就が勝ったということなんだろうか?はてなマーク

神社の説明板には「勃発」したことしかかかれていないので、
ググった、ググった。サーチ


長い内輪もめはどうなったかというと、


応仁の乱も終結し、
長政は「河内守護と畠山当主」という地位を勝ち取り、
義就は「河内と大和」を「実効支配したままであった」らしい。(゚_゚i)


応仁の乱終結の1477年からしばしは平安な状態だったらしいが、ハト

5年もすると(1482年)、河内を巡って、政長と義就は戦い続ける。メラメラクドイ!

で、
1483年に義就が、「河内の政長方を討伐して河内支配を確立した」とな。

やれやれ。これで終わった?

……と見てみると、


義就自身が跡取りの件で、
「猶子(=養子)」を跡取りと決めていたのに、
実子が生まれたもんで、跡取りを実子にすることに変更!∑(゚Д゚)
どこかで聞いた話がまた繰り返されるのであった。(^_^;)


ついでながら、義就の実子の名前は、
なんと「修羅」!
義就が、修羅場に召しだされ、修羅として生きてきたからだろうか。!(´Д`;)





応仁の乱だけでも、10年の戦い。
その前後も戦いの連続。奪い合いの連続。陰謀術数の掛け合い。メラメラメラメラメラメラ


10年もかければ、建設的なことも色々できたろうに、
10年かけて京都を破壊し続け、日本を戦国へと導いてしまった
室町時代って、さぞ、ぐっちゃぐちゃな時代だったんだろうね。ドクロ


京都だけでなく、全国総乱状態になったという。
でもって、戦国時代になっちゃったんだ!
色々な問題が絡んでいたとはいえ、
たった2家の権力争いで、日本の首都を壊滅状態にした……叫び

その張本人たちは病死して、その子供たちは「和睦」して、
それで済むのか? それでいいのか?パンチ!



ざっくり振り分ければ、応仁の乱は、
山名家、細川家の2家の戦いとなるようだが、
そもそも山名家を抑えなければ、どうしようもない……という状況で、
細川家が立ち上がったという面もあるようだ?
だとしたら、山名氏の方が相当問題あるね?


最後に、応仁の乱の立役者(?)である、アフォな方々のお顔拝見。

細川勝元
ネットより拝借:細川勝元


山名宗全
ネットより拝借:山名宗全



さらに、

「応仁の乱」の責任は誰がとったのか、誰がとるべきだったのか?はてなマーク
とググっていたら、

応仁の乱の責任者として、古来最も指弾されて居るのは、将軍義政で、秕政(ひせい)と驕奢(きょうしゃ)が、その起因をなしたと云われる。」
参照:「応仁の乱 菊地寛


……って。(=◇=;)



応仁の乱のそもそもの“きっかけ”となった畠山氏でもなく、
山名氏でも、細川氏でもなく、
将軍義政ドクロ


足利義政
(8代将軍 足利義政)


確かに、トップがしっかり日本を統治していれば、
守護大名らが、首都を打ち壊しつつの権力争いなどさせないだろう。
銀閣寺なんて造らせている場合じゃなかったのに……。


トップにトップとしての資質がない駄目トップだと、
社会全体が緩み、既得権益者がさらなる地位の確保を狙い、
権力争いが始まり、
国が乱れる……という最たるお手本のような将軍だったということか。


しかし、現在の日本が全然そうではないと言えるか……?
しかと責任をとらない、責任を追及すらしない状況は
今も綿々と続いている。

      相当うんざり疲れたので、つづくあせる
AD
2014年 京都・奈良プチ旅行&久保本家酒造見学の旅

2月末、奈良の酒蔵を見学するために、ついでに京都、奈良をちょっと散策した時の日記です。




5 応仁の乱“発祥の地”?


最近の(?)瓦屋根は、お洒落なオプション(?)がついていて、
面白いね~。

犬?

菊?



疲れたから、どこかに喫茶店でもなかろうか……と探すが、コーヒー
全然見当たらない。(°Д°;≡°Д°;)
寺通りは、寺と住宅しかないのか?汗



大通りの方へ戻ろうかな~と思っていると、
辻に「御霊神社」なる石柱が現れた。なぜか時計付き。時計

時計付き標識

道標と“町の時計”と両方の役目を果たしているのね。( ´艸`)




「みたまじんじゃ?」と思ったら、
ごりょうじんじゃ」と読むのだったよ。!(´Д`;)

御霊神社(ゴリョウジンジャ)に着いたら、
ここも時計付き石柱が!Σ(・ω・ノ)ノ!時計

御霊神社東門

御霊神社と時計……なにか特別な関係でもあるのかしらん?????はてなマーク




門には「タクシーの休憩、お断りします」と張り紙。
せちがらいのぉ……。ガーン
でも、よほどタクシーに迷惑を被っているのかしら。

御霊神社東門2


応仁の乱の碑は
神社西側の石鳥居の南横に
あります
」と、ご丁寧な張り紙。Σ(=°ω°=;ノ)ノ
こんな風に懇切丁寧に説明されると、方向音痴の私でも見つけられるというものです。(。-人-。)

案内張り紙



今まで京のお寺を参詣する度に、
応仁の乱で焼失し」という説明文をどれだけ見たことだろう。
今回の寺町辺りの寺も、「応仁の乱で焼失」したという寺が多かった。
その「応仁の乱」「発祥の地」があったとは……! 叫び
(考えたら、あるのが当たり前だが、いままで考えてもみなかったよ!あせる



とりあえず、境内に踏み入ってみる。

トウオガタマの木

トウオガタマ 唐招霊

江戸中期に渡来して植えられて木らしいが、
「御霊神社」に「オガタマ 招霊」。
ぴったりである。(-^□^-)

舞殿?
舞殿?


芭蕉の句碑などもあったり。

芭蕉句碑


特別な神社には見えないな~と思っていたら、べーっだ!

御霊神社の狛犬は、ただならぬ狛犬だった!( ゚-゚)( ゚ロ゚)(( ロ゚)゚((( ロ)~゚ ゚

狛犬1


叫ぶ人面狛犬。(((゜д゜;)))

狛犬2

はたまた、般若のような……。(((( ;°Д°))))
怨念がこもったような面構えだ。ドクロ








西門

「西側の門の南横」に、「応仁の乱勃発地」碑があった。(=◇=;)

応仁の乱勃発地の碑


説明板もあった。

応仁の乱の説明板

「応仁の乱勃発の地」……うんうん。「勃発」なら、わかる。
「発祥」というのは、ちと違和感があるわぃ。



なになに?


文正2(1467)年正月18日朝、
この付近、すなわち御霊の森(上御霊神社境内)での合戦から
応仁の乱は始まった
。」スタート


畠山家の家督相続の件で、
畠山政長ハタケヤママサナガ がこの境内に布陣し、
畠山良就ハタケヤマヨシナリが攻撃を仕掛け、
一日で政長が退去。(当てにしていた味方の細川氏が動かなかったから。)(=◇=;)


これって、
畠山家だけの戦いではなく、
政長についた細川氏と、良就についた山名氏との東西に分かれた戦いでもあり、

同年3月には年号が「応仁」に改まり、


で、同年5月には、“足利善政の後継者争い”も絡み、
東西両軍の全面戦争に突入した……と。Σ(~∀~||;)


文明7(1477)年、
京都(特に北半分らしい)が
長年の争いで疲弊しきった頃、メラメラ
11年に及ぶ戦いは、「細川・山名の両氏間に和睦が成立し
ようやく収束した、と。( ̄□ ̄;)!!







「応仁の乱」って、そんな戦いだったの?(((゜д゜;)))
ぶっちゃけ、細川氏と山名氏の権力闘争?(((゜д゜;)))


それで、京の都の半分くらいを焼け野原にしちまったの?あせる
数々の寺も焼失しちまったの?あせる
どーしてそんな武力と暴力で、他の人々まで路頭に迷うような
戦いをするのか。(((( ;°Д°))))
「東西軍」って、どっちがどっち?はてなマーク
11年も闘っている両家がどんな「和睦」をしたというのだろう?はてなマーク
京を焼き払ってしまった責任は誰がとったのだろう?はてなマークパンチ!

「?」は増えるばかりなり。あせる





応仁の乱が始まったとされる御霊神社の境内の
御霊の森

御霊の森


今は整然と木々が植えられているが、キラキラ
昔は「森」というくらいだから、もっとこんもりしていたのだろうか。
山名氏が布陣するくらいだから、もっと開けた境内だったのだろうか?
正月18日なんて、底冷えする京都。
さぞ寒かったろうね。
タクシーの運転手さんが休憩するだけでも嫌がる神社なのに、
山名氏に布陣されちゃって、神社もさぞ迷惑だったことだろうね?




宮司(禰宜?)さんらしき人が、観光客らしき男性と、なにやら話しながら
境内を案内しているようだったので、
耳をダンボにして、さりげなく2人の周りをうろうろついて歩いてみたのだが、オバケ
会話が全然聞き取れず、しょぼん
諦めて御霊神社を後にしたのであった。トボトボ

               つづく
AD

4 信長の墓?

2014年 京都・奈良プチ旅行&久保本家酒造見学の旅

2月末、奈良の酒蔵を見学するために、ついでに京都、奈良をちょっと散策した時の日記です。






4 信長の墓?


仏陀寺、十念寺ときて、
お隣は、阿弥陀寺(アミダジ)。
織田信長の墓があるという。


もう閉門の時間を過ぎていて、本堂などは閉まっていたが、
境内は墓参りはできるように開放されていた。

阿弥陀寺

信長の墓の寺



説明板

説明板によると……


清玉上人」を開創として、以前は別の所にあったこの寺は、
1587年にこの地に移された、とな。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ


清玉上人は、織田家との深い親交があり、(ノ^^)八(^^ )ノ
1582年6月2日の本能寺の変の折、
本能寺に駆けつけて、
織田信長、信忠父子及び家臣百有余命の遺骸を当寺に埋葬した」Σ(・ω・ノ)ノ!

と言われているらしい。

確か、本能寺の変で、織田信長の首は見つかっていない……という話だが、
“信長とわかる体”は残っていた……ということか?はてなマーク





案内板があって、
墓はすぐに見つかった。

信長・信忠の墓

信長の墓。(=◇=;)

脇に添えられた石灯籠よりも小さなお墓が二基並んでいた。
ほえー。信長の遺骸がここに眠っているのであろうか? ホンマカ?

(信長は墓石など建ててもらって、果たして嬉しいのだろうか?……とも思うが、やはり命がけで遺体を救いにきた清玉上人の心は嬉しかったに違いない。)


織田信長信忠討死衆墓所」とある。
信長の墓の脇には、家臣達の墓がズラリ。

森蘭丸たちの墓

森蘭丸たちの墓。(=◇=;)
森蘭丸始め、蘭丸の兄弟たちの墓が並ぶ。ホンマカ?




清玉↓

清玉上人さまのお墓もすぐに見つかった。

清玉上人の墓

清玉上人……どんな方だったんだろうね~?はてなマーク



ってことで、後日調べてみたら、こんなのを見つけた。Σ(・ω・ノ)ノ!

清玉上人の母親が、
清玉上人がお腹の中にいる時に道端で倒れたところを、
信長の兄が助け、
母親は清玉上人をその直後に産み落とし、
しかもすぐに亡くなったので、
清玉上人は織田家の中で育てられ、援助を受け、
阿弥陀寺の住職になったとのこと
。」
(by「歴史ヒストリア 信長と清玉上人」)



そんな深いつながりがあったのかー。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
清玉上人にとって織田家は命の恩人でもあるのだ。ドキドキ
しかも、その後ずっと支えてくれたとなれば、
ひとかたならぬ恩も感じるだろう。ラブラブ
信長が殺されたとなったら、その遺体、いちもにもなく引取りにいくわいなー。ダッシュ
子供の頃から親交深かったのならば、
たとえ首がなくとも、体だけで信長だと、清玉上人にはわかったかもしれないねー。


信長の正真正銘の遺体がここに葬られているかどうかは、まぁ、
定かではないのかもしれないが、
信長やその家臣たちを心込めて弔ったのは、阿弥陀寺の清玉上人である……(。-人-。)
ということに、間違いはないのだろう。









それにしても、
説明板には、
移転前は
八町四方の境内と、塔頭11ヶ寺を構えていた」寺だった、と。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ


現在の阿弥陀寺は、近隣の寺よりは随分広めに見えたけれど、
わざわざ昔の広さを記しているからには、
昔は相当広大な境内を持っていたけれど、
小さな寺としてここに移転させられてきた……ということだね。

(そういえば、十念寺のご住職も、十念寺はもともとはもっと大きな敷地を持つ寺だったと仰っていた……ような気がする。)





寺町通りで見てきた寺寺は……

仏陀寺 「秀吉の……頃、移された
十念寺  1591年、秀吉によって移された
阿弥陀寺が、この地に移されたのは、1587年


本能寺の変は、1582年。
どの寺も、本能寺の変後に、
秀吉によって、
従来の規模を削減させられて、寺町通りに移転されたわけだ?Σ(=°ω°=;ノ)ノ





十念寺のご住職が仰っていた、
“秀吉が今の京都の基礎を作った”のは、いつか?
俄然、気になってきた。



追記:これも、後日調べたら、

秀吉が京の町を新装再建(?)しようとしたのは、
1590年ごろらしい。Σ(~∀~||;)
本能寺の変(1582年)の後だ。



信長の死を受けて、俄然己が台頭し、
京の町を整備しなおすという大任務=大アピールをこなした……
ということか。??(=◇=;)



こんなサイトも見つけた。

寺町通りは京都の歴の中では比較的新しい通り名です。
平安朝の頃は東京極大路という幅員32mもの大路でしたが、
応仁の乱ですっかり変容してしまいました。

天正18年(1590年)に豊臣秀吉が応仁の乱で焼け果てた都を整備するとき、
都に点在していた寺院を一つの地域に集めることを考えつき、
集めた場所が現在の寺町通りです
。」……とな!



やはり、
「寺町通り」は、秀吉が寺を移転させて集めて作った通りだったのだ!
秀吉の意向の「通り」だったのだ!(-_☆)






その時集められた寺院の数は北は鞍馬口通りから南は橋通り(現在の五条通り)に至るまでに、80以上に上りました。」……って。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ

現在はそんなにないよ。
並んでいる寺は5~6個。あせる




応仁の乱ですっかり荒廃し、道路が失われるような状況」だった
京の町は、
秀吉の命で寺院が集められてから、それらを商売相手とした数珠屋・筆屋・奉書屋などの店が軒を連ねるようになり、
繁華な人通りを取り戻す事が出来ました。


秀吉が寺院をこの地に集積したのは、(中略)
説の一つには、
寺院を都の東部に並べることにより、
東国から攻め込められた時に盾代わりにする、というものです
。」……と。



しかし、幕末の戦乱によって御所に近いこともあり、
かなりの寺院が焼失してしまいました。
明治初期に新京極を作るときにも、京都府が寺院の敷地を接収して、縮小したことも、寺院の存在感を少なくした理由になっています。
又明治28年(1895年)以降は路面電車が寺町通りを走っていた事もありました。京都人にとって「寺町」の名称は電気店街の代名詞になっていますが、それでも今でも寺町通りには、電気店の数より寺院の数の方が多いのです
。」(「Kyoto Town Map」)(=◇=;)






つまり、

寺町通り辺りは、

応仁の乱で、道路もないほど荒廃した焼け野原状態だったが、メラメラ
秀吉が、本能寺の変以後、京都の再建に取り掛かり、グー
その際、寺を御所の東側の一画に移転させ、「寺町」としたもの。チョキ


それは、東からの敵を防ぐための役目を担っていたかもしれず、盾2
寺が集中することで、寺相手の商店も出現し始め、SHOP
町は賑わうようになった。アップ



が、
幕末の戦乱で焼失したり、明治政府の政策による敷地の縮小などがあり、メラメラダウン
現在のこじんまりした数軒の寺が並ぶ寺町通りになっている

……ということのようだね。


そうとも知らず、寺がずらりと並んでいるね~♪
と、つらつらと歩いてきた寺町通りであった。f^_^;




しかし、そんなにも寺を移転させた秀吉が、
信長の墓のある寺(阿弥陀寺)をも寺町通りに移転させたのに、
信長の死に場所、すなわち本能寺を、
他の寺同様、寺町通りに移転させなかったのは、なぜかしら?はてなマーク


当時、本能寺は四条の辺りにあったらしいが、
秀吉によって、1591年(本能寺の変1582年の9年後)、
現在の京都市役所前、
つまり、京都の町の真ん中あたりに移転させられたようだ。


秀吉さんに、そこのところの事情を、聞いてみたいものだ。A=´、`=)ゞ


ついでに、信長は、
応仁の乱終結後の荒れ果てた京都の町を、
どうにか作り直そうとしていて、
秀吉はその設計図を引き継いだだけだったりしないのかな?はてなマーク

あるいは、信長は京都にはさほど重きを置いておらず、
他の地を都にしようと考えていたりして……?はてなマーク

妄想は、よく歴史を把握できないまま、ぷくぷく湧き上がるのであった。キラリ*mZzz…(*´?`*)。o○

              つづく

2014年 京都・奈良プチ旅行&久保本家酒造見学の旅

2月末、奈良の酒蔵を見学するために、ついでに京都、奈良をちょっと散策した時の日記です。




3 秀吉さんが作った京都?





寺町通りをさらに北へ行くと、アップ
本満寺、仏陀寺、十念寺、阿弥陀寺、光明寺と、
その名の通り、寺が並んでいた。
阿弥陀寺には「信長の墓」があるって。……ホンマカ?Σ(~∀~||;)


が、時すでに夕方の4時を回った頃で、時計
お寺の門は閉められていた。ガックリ
諦めて、外側に出されている説明板などを漫然と読みながら、
瓦屋根の上に飾られた“飾り瓦”(?)などを楽しみつつ歩く。走る人

仏陀寺

仏陀寺(ブッダジ)


仏陀寺説明板

応仁の乱で焼失したが……
現在の地に移ったのは、秀吉の……頃で……
」 フムフム(=◇=;)
これも、朱雀、村上天皇だの、醍醐天皇だの、天皇絡みのお寺みたい。王冠1



屋根には鬼瓦と狛犬ちゃん。( ´艸`)

瓦飾り






お隣は、
十念寺(ジュウネンジ)。

ジュウネンジ説明板

1591年に秀吉によってこの地に移された…」とな。( ̄_ ̄ i)




紫式部の邸址に建っていた廬山寺もそうだったが、
この寺町通り辺りの寺は、どれも秀吉の頃に移転されたものばかりじゃない?( ̄□ ̄;)


と、首を傾げて説明板に見入っていると、
ご住職(?)が、境内を通りかかり、中から門を開けてくださった。ヾ(@°▽°@)ノ


十念寺

変わった造り

本堂(?)に当たるのか、建物の造りが随分変わっている?



案内しまひょか? と言われれば、つい、お言葉に甘えてしまうのだったが、ラブラブ!
もう寺は閉まっているので、脇の土間(?)から入って、
ざっくりと拝見させて頂いたのみ。あせる



本堂へ至る途中の、まるで住宅の中のような控えの間(?)には、
小さな置物やら書やらが飾られていて、


ご住職がわざわざ足を止めて、坊さん
「これ、かわいいでしょ!にこにこ」 と注視させてくださる小さなウサギやらの人形。ウサギ


確かに可愛い。ラブラブラブリー
可愛いが、これが何なのだろう?はてなマーク
“紫式部が作った”というには、あまりにも新しい小物達。リボンマトリョーシカ
どんな由緒あるものなのか?
と思いきや、



「私の姉が作ったんです~♪にこにこ」……って。
「可愛いでしょ。これも、私の姉が作ったんです~♪にこにこ」……って。ガックリ

いち観光客の私としては、ズベッとひっくり返りたくなるような会話が何度か繰り返されたのであった。f^_^;


器用で、可愛らしい小物を作る優しいお姉さまをお持ちのご住職だということは、重々わかった。あせる

そもそも、お寺というものは、寺やご住職を思う、そうしたちょっとした人々の“気持ち”が集まって成り立っているものかもしれない。ドキドキ


十念寺には、
平安時代のものと言われる阿弥陀」やら、
室町時代の説話絵である仏鬼軍ブッキグン絵巻第一巻」などの重要文化財もあるし、
寺内には足利義教の墓などもある。(と、説明板にはあった。)(=◇=;)


そうしたいわゆる歴史的文化的“お宝”にはお目にかかれなかったが、
お寺を支える人々の“気持ち”を見せていただいた思いなり。(。-人-。)


可愛い一角
(↑ 境内の片隅に置かれた瞑想するお地蔵さん?も、可愛らしかった。
これも、どなたかの寄進によるものだろう。)






帰り際に、大きな京都の古い地図が目に止まった。目
ご住職に尋ねたところ、
それは秀吉の頃の京都の地図だとのこと! ほぉ!Σ(=°ω°=;ノ)ノ
(地図そのものはもちろん、現代刷られたであろうコピーの地図と思われる。)



今の京都の基礎は、秀吉によって作られたものだと仰る。ほぉ!∑(゚Д゚)
秀吉が、京都御所を今のところに持ってきて、
濠でめぐらせ、
御所の周辺に貴族達の家を集めて、御所を固めた……とな。( ̄□ ̄;)!!


寺町通り辺りは
紫式部の頃から、セレブな界隈であったはずだけれど、
秀吉が、さらに公家を集中させたのね。(((゜д゜;)))
寺町も、秀吉が寺を集中させて作ったんだ。(((゜д゜;)))


京都の町って、
平安時代の作りがほぼそのまま基本になっているとばかり思っていた私(どんだけ歴史音痴なんでしょ)は、
びっくり!(/ω\)



むしろ、秀吉なの? (//・_・//)



そういえば、やたら、“秀吉の頃に移転された”という説明が多かった。
そして、「応仁の乱で焼失」という説明も多かった。
平安時代から続いた京の町は、応仁の乱で壊滅的に焼け崩れ、
その後、秀吉が、現在の京都の基礎となるほどに作り直した……
ということなのかしら?(-_☆)


で、

後日ググッたら、

京都(特に北部)は、応仁の乱で壊滅的ダメージを受け、
戦国時代の織田信長、豊臣秀吉が、京都を再建。
江戸時代の京都の基礎を固めた……みたい?サーチΣ(~∀~||;)

そ、そーだったのか!(((゜д゜;)))




追記:  後日調べたら、
十念寺の墓所には、海北友松の子、海北友雪の墓もあった!!!
みーんな、京で生きていたんだなぁ……。(=◇=;)

参照:海北友松→「「栄西と建仁寺展」 2かいほうゆうしょう




               つづく