2006年夏、カンボジアのシェムリアップ日記の続きです。
(ちなみに、2006年カンボジア旅行記は、サイドバーの「テーマ」欄中、「カンボジア旅行記①~24 」にあります。)
やっと最終回。


カンボジア(シェムリアップ)旅行記25 アキー・ラーの言葉


最後に、アキー・ラーの言葉を伝えて、この旅行記を終わろう。



アキラの言葉は、「カンボジア(シェムリアップ)旅行記⑲」で既に
「My Story」(日本語版)を引用して紹介したが、メモ
日本語版には訳されていなかったことを少々補足しておこうと思う。(重複もある。)
(訳には自信がないので、念のため、原文を挙げておきまふ。あせる



くどいようだが、


You can help me by informing people in your country about the problems we face in Cambodia

and hopefully, we will eventually get enough support to assist us to speed up making this country safe for its people
.


我々がカンボジアで直面している問題を、あなたの国の人々に伝えてください。
そうすることで、
我々はこの国を早く安全なものにするための援助支援を、いつかは得ることができるでしょう。きっと。






って、アキー・ラー氏が訴えているように、
まず、伝えることが大切と思うから。ラブラブ
私に出来ることって、これくらいだから。(。-人-。)








「My Life Now」と題された最終章で、
現在(地雷博物館を創設以後)の様子が綴られている。メモ


After so many years of bad times, my life is now good.と。
長い悲惨な時代を経て、今、私の人生は上々です。)

アキー・ラーは結婚して、2人の息子さんに恵まれたクラッカー
2003年に生まれた最初の息子さんの名前は、
クメール語で「永遠」を意味するAmatak。男の子
次男君はMine。男の子
(Mine……ウーム、これは何と訳すべきか……?「地雷」では、まさかないだろう?「宝庫」とか?「鉱脈」とかか? 英語ではなく、クメール語で何かいい意味があるのかな? 不明なり。(→o←)ゞ)


そして、
若い地雷被害者や、孤児、その他、面倒を見てくれるように親から頼まれた子供などを引き受けて、一緒に暮らしている。グー


そして、貧しい地域に学校を建てて子供たちを学校に通わせるよう努めている。



比較的安全になってきたと思われるシェムリアップでさえ、いまだに地雷は埋まっている。
まだ多くの人々が地雷の被害者となっている。
まだまだその危険は多い。爆弾




We must all do what we can to educate our children
and make Cambodia a safe country again
so that all children like my son Amatak (and his little brother Mine)
can really live “Forever”.

子供たちに教育を与えるために、
我々にできることは、全てしなければならない。
そして、
カンボジアを再び安全な国にしなければならない。
我が息子Akatakとその弟Mineの名のごとく、
子供たちが本当に“永遠”に平和に暮らせるように
。)







アキー・ラーはその後も多くの人々の助けを得て、
NGOライセンスも取得。クラッカー
より活動しやすくなったようだ。チョキ

Roy(NGOライセンスを得るのに助けてくれた人) also helped me
to see that it is better to make friends with my enemies
rather than fighting them.

Royはまた、私に敵と戦うよりむしろ友達になる方がよいのだと分からせてくれた。)


理屈では分かっても、なかなか割り切って、敵対心を捨て友達になることって
難しいことだと思う。叫び
そして、アキー・ラーは本当に実践できているんだと思う。グー

彼がそんな風に思えるようになるには、
やはり第三者の「助け」があったからこそだろう。パー



敵と戦うより、友達になる――これができれば、地雷なんていらないんだ。グー
いつか地雷だってなくなるだろう。グー



たくさんの困難を抱え込みながら、
着実にgood lifeを歩み続けているアキー・ラー。
彼の歩いた後に地雷はなくなる。
彼の一歩一歩が安全で平和な道を伸ばしていく。虹
彼の思いと行動がどんどん広がっていけば……。キラキラ



感謝の言葉をたくさん述べた後、彼は次の言葉で締めくくっている。

I want to make my country safe for my people.”
私は私の人々のために、私の国を安全なものにしたいんだ。)


            


後記:

前回は重たくやりきれないポル・ポトの話。ガックリ
誰も読まないだろうなと思ったら、
最後まで読んでコメントまで入れてくださった方が1人2人ではなかった。Σ(・ω・ノ)ノ!
感謝感激です。(ノ◇≦。)
ありがとうございました。キスマーク
やっぱり、コメントを頂けると超嬉しい!爆о(ж>▽<)y ☆

クドクドダラダラにめげず、
最後までお付き合いくださって、ありがとうございました。
      ドキドキ
             2006年夏のカンボジア旅行記   終
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2006年夏、カンボジアのシェムリアップ日記の続きです。
(ちなみに、2006年カンボジア旅行記は、サイドバーの「テーマ」欄中、「カンボジア旅行記①~232006http://ameblo.jp/chantichanti1114552coco/theme-10003880620.html」にあります。)



カンボジア(シェムリアップ)旅行記24 ガイドさんの危惧


南西にタイランド湾(シャム湾)が開けている他は、波
ベトナム、ラオス、タイに囲まれて、
さらに、
フランス、アメリカ、中国などに翻弄されてきたカンボジア。台風


中でも、
ベトナムに対して敵対心を感じているカンボジア人が多いらしいと聞くが、(=◇=;)
我々がお世話になったガイドさんの場合は、
内戦が終わった後のカンボジアに対するタイの態度に怒っていることが多かった。( ̄□ ̄;)



「タイ人の王様がカンボジアに来ると、後で仏像などがなくなるよ。パンチ!
まずタイの王様が来て、仏像をチェックする。
その後で、王様がチェックした仏像を、盗人がやってきて盗む。パンチ!
と、憮然と訴える。


……そんなこと、言っちゃっていいのだろうか?
明確な証拠があるのだろうか?
内心少しハラハラしながら、興味深く聞いた。
いかにもありそうだ。
あるいは、当局の人たちは皆暗黙に了解していて、
実は「盗まれた」ことにして極秘裏にカンボジアからタイにプレゼントしていたりして?
怒っているのは国民ばかり……だったりして?
などと私の妄想は膨らむのであった。


事の真相はわからないが、
少なくとも、
カンボジアの大切な仏像がタイに不法に流出している……と思い、憤慨しているカンボジア人がいるのは事実だ。





ガイドさんは言う。
「タイ語もラオス語もミャンマー(ビルマ)語も、
クメールの偉いお坊様が、クメール語から作ってあげたんだよ。チョキ」(ドヤ顔)


もともと一番偉いのはカンボジアだった……という意識がガイドさんにはあるようだった。
どっちが先かとか、どっちが偉いとか、
そういうことを比べることから、反感やら妬みやらが生まれてきてしまうのではないかしら。
比較したとしても、
お互いの功績を認め合い、賞賛し合い、
そして独り占めしないよう利益も不幸も分かち合うように生きられたらいいのに……。(°Д°;≡°Д°;)



それに、
ガイドさんは“カンボジアの遺産をタイが壊し盗んでいった”ことに特に憤慨していたが、
それをしたのはタイに限らないのでは?
なぜ彼の怒りがタイに集中していたのか、
聞いてこなかったのが悔やまれる。汗



しかし、ガイドさんはタイにばかり怒っていたわけでもなかった。

いくつもの重機に土が掘り起こされ、開発中と見える大地が続くと、
「畑にはココナツ、カシューナツ、マンゴーいっぱいあったんです。
でも、11月のエキシビションのため、フランス人に1㎡1,000ドルで首相が売ったよ。フランス人、アパート建てた。畑なくなった。王様、怒った。…………。」パンチ!
(その黙り込むように話を切る説明の仕方、ちょっと怖いぞ。)ガーン


いったいいつの話のことなのか、確認しそびれたのでわからないが、
カンボジアの土地がむやみに売り買いされると、
人々の生活形態は変わらざるを得ないだろうね。

実り多い大切な土地を、アパートに変えてしまう。
フランス人はそれで儲けるのだろう。
その畑で働いていた人々はどうなったのだろう。
そのアパートに住む人々はどんな仕事に従事するのだろう?
畑が消え、アパートなどが増え、
もしかしたらそれで都会としてますます発展していくのかもしれないが、
その土地の売買にもなにやら裏がありそうだ。


“古きよきカンボジア”を自分たちの利益のためだけに勝手に消していくものたち全般に、
ガイドさんの怒りは向いているようだ。爆弾






ガイドさんは色々説明してくれた。


7月~9月、雨季の頃、夕方5時頃から1時間くらい、
ドンドンドン、ドドドドド……ドン!太鼓
お坊様が太鼓をたたいて皆を集め、お経をあげるそうだ。坊さん


「田舎のお坊さんは真面目ね。お経あげる。(。-人-。)
でも、都会のお坊さんは、5時になると、お経をあげずに、日本語、英語を勉強しに行くよ。
カンボジア人、都会の坊さん、嫌いね。パンチ!
習慣を守ることが大事。
毎日お経を唱える(なむあみだぶつ)ことが大切。」


「都会のお坊さんはTVがあったり、バイクを持ったりして、勉強したがらない。
ので、(お坊さんの試験?には)賄賂をあげて受かるよ。真面目な坊さん、今はいなくなってる。パンチ!


「田舎の方は石油ランプや蝋燭。中には線香1本の灯りでお経を読む人もいる。
灯りの灯る時間が限られるから、線香の灯っている間しか勉強できない。
だから、1回で見て覚える。だから、田舎のお坊さんは、頭いいね。チョキ


ガイドさんは真面目な田舎のお坊様を尊敬してやまないようだ。
都会に出て、身を持ち崩すお坊様もいるのだろう。ヽ(;´ω`)ノ




「ポルポトの影響で、宗教はバラバラになってしまった。
カンボジアの人、何になりたいか、
女性は医者ね、
男性は坊主か兵士(2~3年の訓練があるようだ。年寄りまで兵士希望者がいるらしい。)」


宗教の崩壊?
都会と田舎の格差。
第一産業の軽視。
むやみな開発。
発展、都会という名のもとに享受できてしまう快楽、快適がもたらす怠惰。
従来の生活の否定。従来の価値観の否定。道徳観のぶれ。

どこ国にも見られる発展途上の問題を
ガイドさんはひしひしと感じていたのかもしれない。




「タイが皆、持ってったよっ……!パンチ!」が合言葉のような、怒れるガイドさん。哀しむガイドさん。
実に己の主義主張がはっきりとしている人で、
その分、相当な偏見がある可能性もあるが、
一カンボジア人の青年の思いを、
片鱗でも垣間見させてもらえて、
とてもためになったし、とても楽しかった。ヾ(@^(∞)^@)ノ
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香典代わりのエール


大学の時の同級生、Aちゃんの旦那様が亡くなった
……と、最近知った。えっ


今年の正月、年賀状をいつも通りやりとりしたのだけど、
その一月の末に、亡くなられたらしい。
全然気付かなかった。
旦那様も同じ大学の同級生。(年齢は2つほど上)。
若い死である。しょぼん


「訃報欄」で彼の名前を見つけた友達が、あちこち連絡して
情報を確認してくれた。
同姓同名の訃報であることを祈ったが、
やはりAちゃんの旦那様の訃報だった。



安曇野で挙げられた2人の結婚式以来、Aちゃんには会っていない。
安曇野から東京に出てくることも難しければ、
こちらが安曇野まで出かける機会もなかった。



安曇野の山々に守られた美しい風景がそのまま広がっているような笑顔のAちゃん。
一緒に午後の授業をさぼって深大寺植物園を散策し、
お腹いっぱいだったのに、「やはり蕎麦を食べねば!」と、
ひとりだけさらに蕎麦を食べ、
「ううむ~っ、駄目だっ。納得できないっ!グー」と、
もう1杯食べ直そうとした、蕎麦にうるさいAちゃん。





大学から徒歩5分。
路地の奥の一軒家の離れに下宿していたAちゃんに、
ノートを届けに行ったあの日は
あいにく雪の日で。

区画整理された路地は真白に染まってどこも同じ路地に見え、
何度か訪れたことがあるその路地を、
方向音痴の私はどうしても見つけられず、
1時間、雪の中をさまよった。

やっと辿り着いて「Aちゃ~んっ!」と感無量で涙目になっていた私を、
「ごめんね、ごめんね~」と介抱してくれて、(Aちゃんが悪いのじゃないのに)
近所の飲み屋に連れて行ってくれて、
ドライマティーニを1杯おごってくれたAちゃん。
(Aちゃんは普段そんな店に入らないのに。)





我々飲兵衛不良学生が酔っ払って帰れなくなると
よく
下宿に泊めてくれた。

考えたら、Aちゃんはあんまり飲まないのに、
飲兵衛の我々は随分Aちゃんにお世話になったなぁ。






なんと言葉をかけてよいものやら……。
心を込めて言葉を選ぶものの、
結局、ありきたりの言葉となったカードを添えて、
有志で毛糸の上着を贈った。
Aちゃんのようにほっこりあったかい毛糸の
Aちゃんのようにほんわり優しいポンチョコート。

香典よりも、気を使わせず、
これからの季節、北風に負けないように……。




子供が3人もいるから、凹んでいられないわっ
と、眉を寄せながら笑っていそうな気がするけれど。


Aちゃん、
いまさらに駆けつけるのも妙だし、
事細かに連絡しあったりもしないけれど、
S.O.S.が発せられたら、いつだって飛んでいくよ。
安曇野でも、どこでも。
いつだって力になるよ。




「未亡人」……“いまだ亡くならない人”ではなくて、
これからは、旦那様の分まで生きていく人なのだからね。
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2006年夏、カンボジアのシェムリアップ日記の続きです。
(ちなみに、2006年カンボジア旅行記は、サイドバーの「テーマ」欄中、「カンボジア旅行記①~⑮2006http://ameblo.jp/chantichanti1114552coco/theme-10003880620.html」にあります。)

キリング・フィールドの辺りから、どんなにさっくりまとめようとしても、まとめられない。もう1週間経ってしまった。
複雑極まりないカンボジア王国の歴史には歯が立たない。ギブアップ。
中途半端だが、気になったことだけ書きとめて、終わりにしようと思う。あせる



カンボジア(シェムリアップ)旅行記23 ほとほとポル・ポト





かつてキリングフィールドで処刑された人々の、
砂色に染まったような骸骨たち。ドクロ

彼らはなぜ
教師だからといって、
音楽家だからといって、
僧侶だからといって、
文字が読めるからといって、
大量に殺されねばならなかったのか?・°・(ノД`)・°・



クメール・ルージュ(正式名称:カンボジア共産党)は、何を求めていたんだ?はてなマーク
ポル・ポトって、いったいどうしてあんなイカレタ殺戮独裁者になったのだろう?はてなマーク


と、改めて気になって、ほんのちょっと調べていたら、
ポル・ポトではないけれど、
ゲロゲロ~? と、驚きの事実を見つけちった。Σ(~∀~||;)

タイ・カンボジア国境紛争の闇


現カンボジア王国の首相フン・セン氏はかつて、クメール・ルージュだったんじゃん!Σ(・ω・;|||
1975年大虐殺時代に23歳だった。年齢から言って、中堅どころって感じだったんじゃないか?
1977年にはポルポト派に嫌気がさし、離脱してベトナムへ亡命しているが……。
汗


当時、ポルポト派(クメール・ルージュ)に入らなければ殺されたのだろうから、
彼がポルポト派であったことは、仕方のないことであっただろう。
しかし、かつて無実の民を残虐に殺戮しまくった一味であった者が、
その国の首相になるとは……。
(=◇=;)

いぁ、その悲惨さを知っているからこそ、
二度と同じ悲惨を繰り返さないという安心があるとも言えるだろうか……。汗







さて、
肝心のクメール・ルージュが大量虐殺へと暴走した中心人物、ポル・ポトだが、
これも、ちょっと調べたら、これまた驚かされた。ヽ((◎д◎ ))ゝ




参照:ウィキペディア「ポル・ポト」



「ポル・ポト」って、本名ではなかった!∑ヾ( ̄0 ̄;ノ


そして、
文献によって多少違いがあるようだが、
彼の人生は、“教養を身につけられない”環境ではなかった。
親族の女性が王様の側室となったため、王族との親族関係さえあったようだ。Σ(・ω・ノ)ノ!



1925年または1928年生まれの彼は、 ――“昭和”ノ人ナノネ。
少年時、寺院で見習いとして暮らす。
その後、2年ほど「僧侶」になったという話もある。)



8歳で、カトリックの私立エリート校に入学。6年間過ごす。

――当時、「カトリックの私立エリート校」に入学できるなんて、かなり特権かコネがなければできないことだろう。
しかし、寺院で仏教の教えのもと学んでいただろう彼が、いきなりカトリック系?
これは彼自身が望んだことだったのだろうか。はてなマーク



14歳の時にプノンペンの高校の入学試験に失敗したため、
コンポンチャムのクメール人市場の中にあった高校に入学。6年間過ごす。


――この時、彼は「挫折」を感じたろうか?はてなマーク



1948年(20歳くらい)始めにプノンペンへ戻り、郊外にあるル技術学校で寮生活をしながら木工を学ぶ。



1年後に奨学金を得て、パリへ留学。2年間の技術コースを受ける。

――パリに留学していた!?Σ(・ω・ノ)ノ!
充分エリート路線ではないか。
充分インテリ路線ではないか。



ところが、


試験に3年連続失敗し奨学金を打ち切られたため、1953年(25歳くらい)1月、カンボジアに帰国。

――奨学金もらっていて、これはマズイだろう。ガーン
これって、彼にとっての第2の挫折だろうか?はてなマーク 
コネを使ってパリに留学したはいいが、彼はあまりお利口さんではなく、パリの学校についていけなかったということだろうか……。
それとも、フランス共産党の活動などに夢中になっての試験失敗だったとしたら、何の問題も感じていなかったかも?



チャムロン・ヴィチェア(Chamroeun Vichea)私立高校で歴史の教師として働き始める。一方、民主党で活動を行っていた。「このころ、独立闘争に加わる。」

――大虐殺時代、教師などの知識層の人々が狙われということだが、当の本人が教師を勤めていたことがあるとは、びっくり!Σ(~∀~||;)



「(「民主党」で、)その後約1年間生産部隊に配属され、食事の雑用や、耕作用の有機肥料の運搬などに従事していた。しかし、パリ帰りのインテリでありながら政治教育、イデオロギー教育を受けられず、幹部やリーダーとして昇進できなかったことに深い恨みを抱いたようである。」

――なぜ“政治教育、イデオロギー教育を受けられず、幹部に昇進できなかった”のだろうか。落第生といえども、“おフランス帰り”であるのに……? はてなマーク
他の人々からは「性格に問題ある」とか「やっぱりお馬鹿」とか、思われていたのだろうか……。汗





ポル・ポトについて、細かい疑問がぽこぽこっと湧いて来る。
細かい点を突いていくと切がないので、あせる
抜粋していく。(ウィキペディアより引用。読みやすいように、勝手に行換えしました。)





ポル・ポトが知識階級を虐殺したワケは……サーチ

「ポルポトは自身が国家より奨学金を得て留学したのに係わらず反体制的運動に参加した経験から、対自的に目覚め政治体制の矛盾を見抜きうるインテリ階級を極度に恐れ、弾圧した。」


「医者や教師を含む知識階級は見つかれば『再教育』という名目で呼び出され殺害された。始めは医師や教師、技術者を優遇するという触れ込みで自己申告させ、どこかへ連れ去った。やがて連れ去られた者が全く帰ってこないことが知れるようになり教育を受けた者は事情を理解し無学文盲を装って難を逃れようとしたが、眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者など、少しでも学識がありそうな者はなど片っ端から収容所に送られ殺害された。この結果知識層は壊滅し、カンボジアの社会基盤は大打撃を受けた。」
眼鏡君血


なんたるビビリ魔!Σ(~∀~||;)
ポル・ポトの知識人大量虐殺は、
“知識階級に己の矛盾を見抜かれることを恐れてのこと”となっ!(((゜д゜;)))

そんなん、いくら殺したって、フランスには留学の記録だって残っているだろうし、
簡単にバレルやん?
仲間だって知ってるやろ?
親族は王族なのに、どうしたんや?




「ポル・ポト政権は、『腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない』と唱えて、政治的反対者を弾圧した。

通貨は廃止され私財は没収され、教育は公立学校で終了した。

更に国民は『旧人民』と『新人民』に区分され、
長期間クメール・ルージュの構成員だった「旧人民」は共同体で配給を受け自ら食料を栽培できたが、
プノンペン陥落後に都市から強制移住された新参者の「新人民」はたえず反革命の嫌疑がかけられ粛清の対象とされた。」

「彼ら(新人民)の監視に当てられたのは「旧人民」であり、
密偵という集団はポル・ポトから『敵を探せ』と命じられていた。」



国民同士を分けて、「敵」として見張らせる……。∑(゚Д゚)
なんてこと、しはるの、ポル・ポトはん?(ノ_-。)
「通貨廃止」って、勝手に何してんの? もう経済もワヤクチャやん。ヽ((◎д◎ ))ゝ





「カンボジアでは伝統的に上座仏教が信仰されてきたが、仏教もまた弾圧の対象とされ、多くの僧侶が強制的に還俗させられ、寺院が破壊された。ポル・ポト政権下において、仏教は壊滅的な打撃を受けた。」


ポル・ポトは幼くして寺院で過ごしたのに、(“2年ほど僧侶になっていた”という話もあるのに)どうして?はてなマーク

仏教を信じる人々がいては、彼の思うような共産主義を広められないと思ったから?

あるいは、
“寺院時代”、少年の頃に、僧侶を憎んで止まなくなる何かが彼に起こったのか?
だから、カソリック系の学校に進学を望んだのか?




「対外的には、ソ連やベトナムと断交する一方で中華人民共和国と北朝鮮との関係を強化し、ポル・ポト自身も積極的に外訪した。また、ポル・ポトが『完全な兵士』として賞賛した地雷は、地方に広く埋設された。」

同じ「赤」でも、なぜ〈ソ連・ベトナム〉vs〈中国・北朝鮮〉なのだろう?はてなマーク

そんでもって、
ポル・ポトさんよ。「地雷」は「完全な兵士」などではなく、
カンボジアの足を吹っ飛ばす、もとい、足を引っ張る、「迷惑な殺傷具」であるぞ。パンチ!




「カンボジア人の間では、隣の大国であるベトナムに対する反感が強い。それはイデオロギーに関係なく、ロン・ノル政権とクメール・ルージュはともに国内のベトナム人を虐殺・迫害した。

シハヌーク時代に50万人いたベトナム人のうち、1970年まで虐殺と迫害を逃れるためにベトナムに帰還したのは20万人以上にのぼる。

権力を掌握したポル・ポトたちは、ナショナリズムの姿勢を強め、東部国境でベトナムへの越境攻撃を繰り返し、現地住民を虐殺した。

彼はクメール・ルージュのラジオの放送で『ベトナムを排除するのに洗練された武器は必要ない。歴史ある民族の各人が、その手で一人につき10人のベトナム人を殺せば足りる』と放送した。これがベトナムの侵攻を招く要因になる。」



己の国や国民を誇る気持ちがあれば、他国にも同じ敬意を払えばいいじゃないか。
なぜ、出来ない?(´□`。)
国粋主義=人種差別……ここにはエゴしかないではないか。
彼は知識人同様、ベトナム人も恐れていたということだろうか……。




「1977年、ベトナム軍がカンボジアに侵攻、また親ベトナム軍が1979年1月7日、プノンペン入りを果たした。この時彼らは廃墟からカンボジア人が受けた虐殺を示す、頭蓋骨の山を見つけたという。クメール・ルージュ軍は敗走し、ポル・ポトはタイの国境付近のジャングルへ逃れた。1月にベトナムは、粛清を避けてベトナムへ逃れた元クメール・ルージュ構成員から成るヘン・サムリン政権(カンボジア人民共和国)を成立させた。このことは東部カンボジアでのクメール・ルージュ構成員の広範囲な離脱につながった。離脱者の大部分は、ベトナム側が宣伝した『離脱しなければポル・ポト政権下での残虐行為が告発される』ことへの恐れによって動機づけられた。ポル・ポトは国の西部の小地域を保持し、以後も武装闘争を続けることになる。」


「以前にポル・ポトを支援した中華人民共和国は『懲罰行為』としてベトナムに侵攻し中越戦争が起こった。」


……って、もう、みんな、何のために闘ってるんだ?はてなマーク
ただもう、侵略したくて仕様がなかったんじゃないか?
覇権を手にしたくて仕方なかっただけじゃないのか?
どこにもイデオロギーなんてものは、なくないか?






はぁ~、
以上に抜粋した他にも、アメリカももちろん絡んできて、
色々な国々の、色々な人々の思惑が絡み、
カンボジアという国の複雑な苦難の歴史を追いながら整理していくのは
私には至難の業。Y(>_<、)Y





独裁者ポル・ポトは、
己の中に矛盾を抱えていて、
それを見破られることを恐れていたんだ。爆弾

これって、他の独裁者や過激な共産党員とかに共通していないか?
日本だって、赤軍派しかり。

「人民」のことを考えていい国にしようとしてみせて、
実は自分の特権・地位のことしか考えていないんでないか?




結局、ポル・ポトは破れ、死体はタイヤのゴムと一緒に燃やされたらしいけれど、メラメラ


彼を狂わせたものはいったい何だったのか……? 


わからん。





列強各国の獰猛な利権争いも、一因だったろう。
人々の由無い感情を煽って利用して、
己の感情はコントロールできなかった人間なんだろう。
農家の倅が、どうしてこうも殺戮を愛する人間になれたのか……。
汗


そこにはまだ明かされていない、
もしかしたら実に些細な“掛け違い”が
あったのかもしれない。










さらに文献を読んで彼のことを知りたいとも思わない(そんな時間もないが)。Y(>_<、)Y


ポル・ポトの残した「地雷」はいまだにカンボジア各地に何百万と埋まっている。
百歩譲って、カンボジアを守るために地雷を埋めたのだとしても、
ポル・ポトさんよ、
あなたの残した地雷は、今もどこかでカンボジアの明日を作り上げる子供たちの肉体を吹き飛ばしている。

アキー・ラー氏たちは必死でそれを取り除いている。
今も、これからも。











己を直視できないほどの何か痛ましい“地雷”を抱えて生きた男(カモシレナイ)、ポル・ポト。爆弾





そんな男とクメール・ルージュと、その他諸々権力を狙う輩どもと、
列強各国のいざこざに巻き込まれたカンボジア。


19世紀中ごろから、フランスによって、「インドシナ」と括り称され、
1887年、とうとうフランス領インドシナに編入されてしまい、
1940年以降、日本軍の進駐を認めざるを得なくなり、
且つ、タイとフランス領インドシナ間で、カンボジア、ラオスの領土をめぐり国境紛争が勃発して、結局、カンボジアの一部がタイに割譲され、
1945年、カンボジアの独立を宣言するものの、
日本軍が連合国に降伏するや、再びフランスの保護下に戻され、独立は消滅。
それでも、シアヌーク王は独立運動を続け、
1953年、「警察権・軍事権を回復し、完全独立を果たした」。




日本軍まで、カンボジアで何してたんだ……?(-"-;A





何も知らないうちは、ポル・ポト、とんでもない野蛮な奴だとおぞましかった。

が、

カンボジアの歴史を大雑把にでも知ると、
人種を誇る気持ちと差別する気持ちとの激しい交錯、
“文明”という武器の格差の前に虐げられた国、
その中にあって、己が国を侵略から守ろうとする人々、
一方的な「正義」や「基準」を振りかざされ、
そんなもろもろがぐちゃぐちゃになって……


結局、
ポル・ポトが大虐殺の中心人物だったとしても、
彼よりも、
国と国が領土を奪い合う醜さと埒の明かなさが諸悪の根源に思われ、
暗澹とした気持ちになるばかりである。ドクロ
人間を狂わせるのは人間の欲望なのだ。



人間、欲望は尽きない。
欲望がなければ生きていけないだろう。
ただ、何を欲望するかが問題なんだ。



地雷はまだまだ埋まっている……。爆弾





参考:ベル

ポル・ポトの大虐殺について、
分かり易いサイトをmaguroさんが紹介してくれたました。
読みやすく、虐殺内容(証言)が具体的。ヽ(;´Д`)ノ

ポルポトの大虐殺~総人口の1/3を殺し尽くした戦後最大級の虐殺~
台風はレベル分けした警報を


今年の台風は、12号といい15号といい、
被害甚大であった。ドクロ


15号上陸(9月21日夕刻)の際は、
首都圏の電車はあらかた止まり、
帰宅難民が街に溢れた。


午後4時で仕事を切り上げるなど、
いつもより早めに帰宅するように促した企業もあったようだが、
それでは時既に遅し!


どうしてもっと早く切り上げることができないのか……と私は思う。
(人命に関わるお仕事をしている人などは別として。)


電車が動くまで、飲み屋で飲んだり、カラオケ屋で過ごすという人々は、まだいい。
が、
家に子供が待っているとか、
託児所に子供を預けている人などは、
非常に困ったことだろう。あせる


とっとと香港を見習えばいいのに……と私は思う。



もう30年ほど前の話なので、今もそうなのかわからないが、老人
昔、香港では、
悪天候のレベルが☆印で、始終TVの画面の端に流れ、
ひどい風雨になると最高の☆4つが示された。
(私の記憶が正しければ……。汗


そうなると、
企業はすぐにその日の営業を停止。
社員は急いで速攻帰宅!ということなる。
お出かけしていた人々も
用事を途中で切り上げ、急遽帰宅。ダッシュ
……ということだった。


交通機関が麻痺するし、
看板や植木鉢やらが落ちてきて毎年何人かは路上を歩いていて死亡している……叫び
なんて状態でもあったから、
強風によってあらゆるものが凶器になりかねないしね。
人民の安全を第一に考えた、面白い、いいシステムだなぁと思った。(o^-')b
香港って、そんなに雨がひどいのか、
そんなに交通危機関が脆いのか……と驚きもしたが。(=◇=;)


日本の気象庁が出す波浪注意報だとか大雨警報だとかは、
ならば、どうすればいいのか”ということが伝わりにくい。
ただ「注意してください。」でまとめられて終わりである。
これでは逃げ遅れるでしょう。┐( ̄ヘ ̄)┌


香港のように、始終TVの画面に予報を流し続け、
(あるいはラジオでも、ネットでも、携帯でもよいけれど)
天候のひどさをレベル分けを周知徹底させて、
☆印幾つついたら、即帰宅即避難、などと分かるように決めておけば

いいんでないかい?


竜巻などは、いつどこで起こるのか、予想は難しそうだが、
台風なら大体予想はつくだろう。
(ってか、今回だって、もっと色々なことが前もってわかっていたんじゃないのだろうか?)
香港でできていたことが日本でできないこともなかろう?




昔友達が多摩川のそばに住んでいて、
大雨が降ると一晩中でも警報が鳴り響いたらしい。
しかし、「警報が鳴ったら」どうしたらよいのか、
彼女は特に知らなかった。
遠くで、あぁ、鳴ってるなぁと思いつつ、
避難もせず、
一晩中彼氏とイチャイチャしていたらしい。ラブラブ(;^_^A
で、結局、川も氾濫せず、警報が鳴っても別にどうってことないじゃん?ってことになる。


これじゃ、まずいだろ。

「警報」というものをもっと具体的にレベル分けして、
どう対処するべきか、
住民票を写すときにでも、しっかり伝えるようにしたらどうね?
「住民の権利と義務」とかなんとかそんな冊子でも作って。にひひ


気象庁と市町村が一緒になってしっかり取り組むべきことではないの?
なぜまだろくにきちんと決まっていないの???
一応配布されているハザードマップなんて見ても、
ピンとこないのは、私だけ?あせる



避難してくるはずの人数と、避難所の収容人数が全然合っていないとか、NG
避難勧告発令しても、ほとんどの人が避難しないとか、NG
避難所が住宅と同じ高さの低地にあるとか、NG
見てくれだけのハザードマップをただ配って仕事したつもりになっているとか……。NG
避難所にはならないだろう?と思われるような狭いスペースに「広域避難所」と堂々と看板を立てただけとか、NG
そんなことより、
実質的に、現実に効果がある、
実際に人命を救うべき対策を作るべきじゃね?




ついでに
傘使用危険(あるいは禁止)警報」も発令してほしいな。

台風の風は
傘など骨ごと壊し、バラバラにしてしまう。
人が傘を手に持っていられないほどだ。
飛んでいってしまった傘を拾いに行く人はほとんどいまい。


人の手から離された、骨のいびつに剝き出た傘は凶器である。
どうか、「風速○○km/秒以上なら傘を持つのは返って危険である」とか
基準を作って頂きたい。
これって誰に頼めばいいの? 気象庁……?(°Д°;≡°Д°;)