2001年夫婦世界旅行のつづきです。ラオスのルアン・パバーンで、メコン川のボートをタクシー代わり(?)に、川向こうの村々を訪れました。



part70.ケーブ(洞窟)観光……勝手に周って?ツアー!



  今日はボートに乗って、近くのケーブ観光に行ってみることにした。ボート屋は“人相のいい” のから、 “悪どそう” なのまで、川岸にたくさん控えている。予め下見して、人のよさそうなボート屋に目星をつけておいた。しかし、その「人のよさそうな」おじさんが、今日に限っていない。代わりに、青黒い顔をした、感じの悪い若造がうろついておるではないか。(我思う、邪悪な心をもっている奴は、顔が青黒い!) しかたない。今一度ボート屋探しだ。



  川岸に屯しているボート屋は、たいてい顔が青黒い。剣呑、剣呑。しばらく歩いていくと、誰もいないと思っていた川岸の木陰から、ふらりとおじさんが一人立ち現われた。木から分身したような、いきなりの登場。ちょっとびっくりしたが、そのおじさんがフランス語を使うので、再び驚いた。ラオスではフランス語の文字はよく目にするが、ラオス人がフランス語を話すのは聞いたことがなかったのだ。 すかさずこちらもフランス語で応じると、今度は向こうが「フランス語を話す日本人に初めて会った!」と驚いてみせる。(そんなわけあるはずないでしょうがっ!)



  おじさんはツアー料金を一人6ドル(約600円)と提示してきた。他のボート屋に比べれば安い。他はたいてい二人で15ドル(約1500円)だ。「ウィスキーを作っている村」と、「紙を作っている村」と、パック・ウー・ケーヴを訪れる約束で、二人で12ドル(約1200円)。いきなり木陰から現れた怪しい奴だが、フランス語会話の練習ができるし、顔も青黒くない。人相もなかなかよろしい。即、交渉成立。



  メコン川岸の泥土を穿って作ったらしい「階段」らしきものを降りて行き、全長4、5mほどの小さな細長いボートに乗りこむ。ボートには、おじさんの息子だという15、6歳くらいの青年と幼い弟とが既に乗っていた。父親が客を捕まえてきて嬉しいのか、我々を見て、にっこり笑う。子供がいると、つい気が緩む。にっこり笑い返し、観光ボートに何のために子供まで乗っているのか深く考えないまま、総勢5人を乗せて、ボートはメコンを遡っていった。



  聞くとそのおじさんは、学校でフランス語の教師をやっていたそうだが、教師は収入が悪いので、ボート屋になったのだという。……なるほど、確かに教壇に立ったら、いい授業をしそうな顔である。こうした知識階級の人々が、みずからその職を捨てざるを得ないような、そんなこったから、ラオスは駄目なんだっ! 尤も、侵略者の言語、フランス語を教えるという需要が減ってきているのかもしれない。しかし、教師を大切にしない国は危ない。教育を大切にしない国に未来はないぞ! 瞬間義憤に駆られたが、おじさんには何も言わないでおいた。(私の拙いフランス語ではそこまで表現できないのであった。……それに、おじさんの話が真実だとは限らないものね。) 



  メコンの川岸には小さな村が点在していた。人々は小さなボートを使って、村から村へとメコンを渡るようだ。「この先にある小さな村が、僕の住んでいる村だよ。」メコンの流れに身を任せ、20分も走った頃、おじさんは自分の村について語り出した。「静かで、いい所だ。僕はルアン・パバーンで生まれたんだが、僕の奥さんは、これから行く村で生まれ育った。」「そう、僕は今、奥さんの故郷に住んでいるんだ。」「僕の奥さんは今日、家で留守番をしているんだ。これをもって帰ってやらなくちゃ。」とニョクマム(ナンプラー?)の瓶を自慢げに掲げてみせる。嬉しそうだ。きっと奥さん、料理が上手いのだろう。「おい、ニョクマム、手に入れてきたぞ。」「ああ、嬉しい。今日は腕を振るうわ。ありがとう、あなた。」なんて会話がなされるのだろうね。小さなボートでメコンを行き来して営まれる静かな生活。お土産のニョクマムを片手に夫婦の語らい。……ううむ。メコンの生活……。



  しみじみ思いを馳せていると、やがておじさんは、「僕の住んでいる村」という川岸にボートを付けるや、「後は息子が案内する。息子は英語もフランス語も話せるから、ノー・プロブレムだ。特に英語は僕より上手いよ。ではよい一日を。」と言って、おじさんの好物の小ぶりのビニール袋に入ったラオ・コーヒーと、妻へのお土産ニョクマム一瓶ぶら下げて、すたこらさっさとボートを降りてしまった。呆気(あっけ)。逃げる気かいっ? 「ちょっと、あんたぁ。あんたが連れて行ってくれるんじゃないのかいっ?」と叫びたくもあったが、行く先については話が着いているのだから、まぁ、いいか。岸に降り立ってにこにこしているおじさんに仕方なく、苦笑いのまま手を振って分かれ、息子の操舵でボートはさらにメコンを上っていった。



  俄に湧き上がった我々の不安を乗せて、ボートはまず「ウィスキー村」に着いた。兄ちゃんと弟で、ボートを川岸ギリギリまで近づけて、細い板を渡す。波に合わせてキュップキュップ揺れるその板を、息を詰めて慎重に渡り、岸に辿り着いて振り返ると、息子たちが後についてきていないではないか。息子たちの役目はそこまでだった。「さぁ、勝手に行ってこい。」とばかりに、ボートの上でにっこり笑っている。「君が案内してくれるんじゃないのかいっ!」と叫んでも、にっこり笑って「そうだ。ここがウィスキー村だよ。」……またも、呆気(あっけ)。英語もフランス語も話すという息子は、文句を言われる段になると、ラオ語しかわからなくなるらしい。どの道、英語でもフランス語でも細かい説明部分などは聞き取れないし、まぁ、いいか。適当に自分たちだけで散策してこようと、水を含んだ泥土に足を取られながら岸を上る。



  村には何か発酵している匂いと、ひどくすえた臭いと、肥え溜めの臭いが三位一体となって充満していた。観光客相手の土産物屋やジュース売り場があり、村人たちは観光客に慣れているようだったが、かと言って、しつこく売りつけて来たりはしなかった。とにかく村道に沿って歩いてみる。人家がポツポツ建っており、皆、高床方式だ。床の下のスペースでは、女の人が機織りをしたり、糸を紡いでいる。うっそうとした樹々の中、悪臭に満ちた狭いスペースが彼らの世界なのだ。



  ウィスキーはどこでどう作るのか、結局はっきりしたことは分からなかった。それらしい「工場」も見当たらない。途中道端で、大きなドラム缶を一つ発見。むっつりした顔の男が一人、忙しげにドラム缶を見ていた。どうやらそのドラム缶が「工場」らしい。ドラム缶の下には薪がくべられ、めらめらと火を吹いている。男はそのドラム缶の中に、メコン川の水らしい茶色い水を、バケツで次から次へと注ぎ入れ、沸かしていた。そしてその沸いたお湯らしいメコン色の液体を、バケツで掬っては地面に捨てていく。折角沸かしたものをなぜ捨てるのか分からないが、そのドラム缶の辺りへ来ると酒の匂いが一層プンプンするのであった。何かウィスキー作りの一環の作業だと思われた。その村で作られるのは、「ラオ・ラオ」というウィスキーらしいが、いまだ飲んだことはない。売店にはウィスキーらしい瓶が泥をこびりつかせたまま数本並んでいたが、試飲も出来なかった。村をざっと一回りして、ただ「ウィスキーの香り」らしい臭いを確認して帰ってきた村巡りだった。



  次はパック・ウー・ケーブに着いた。パック・ウーとはウー川の河口という意味だそうだ。メコン川の中に聳え立つ巨大な岩山の麓に、岩が裂けたように穴がぱっくりとあいて、見るものを威圧している。岩の急な階段を20分ほど上っていくと、岩山の中腹に半洞窟が現れた。中の岩棚の至る所に、おびただしい数の仏像が置かれている。手のひらにすっぽり隠れてしまいそうな小さなものから、2、3mはあろうかという大きなものまで、大きさも形も様々だ。仏像と言っても、一体誰が作ったのか、どれもひどい出来だ。表情がまずよろしくない。おそらく、仏師ではなく、素人の普通の人々が、木や石を拾ってきて、己が手で作ったのではないだろうか。無様なまでの仏像には、一体一体、きっと仏像を彫り上げた人々の思いが込められているのであろう。取りあえず、合掌。



  その半洞窟からさらに岩山を登りつめると、岩山の頂上にもう一つ洞窟があった。入り口は鉄の門で守られており、警備員も待機している。ものものしいことこの上ない。(しかしその警備員と思われる男は、入り口で懐中電灯を貸し出していたので、警備員というより、商売人だったのかもしれない。) 入り口を跨ぐと、洞窟の奥は真っ暗暗の暗。闇が口を開けて人間を飲み込もうと構えているようで、思わず懐中電灯を借りたくなる。我々は持参していた蝋燭に火を灯し、進んでみた。しかし、闇が深いと、蝋燭のか細い火などほとんど役に立たないのだった。ほとんど何も見えない。鼻こするように近づくと、やっとそこに仏像がぼんやりと見えてくる。洞窟の中はただもう、沢山の大小の仏像が所狭しと置かれているらしかった。漆黒の闇の中にじっと佇む仏像群。これらの仏像たちは闇に葬られたのか、闇に守られているのか……。



  次はケーブの川向うにある小さな村にボートは着いた。しかし、最初に約束していた「紙を作っている村」ではなかった。では、何を作っている村なのかと尋ねると、「何も作っていない。」と少年はあっさり答える。我々は何度も「紙を作っている村」に行きたいと言っているのに、なんで「何も作っていない村」になってしまうのか、理解不能。さすがラオス人だ。闇に圧迫されて疲れていたので、とにかくその手近な、小さな、「何も作っていない村」に降りてみた。ここも観光客が来るらしく、「ウィスキー村」と同様、土産物(織物と銀細工など)とジュースを売っていたが、あとは本当に何もない村である。高床式の他に、普通の家屋もあったが、どの家も小屋のようにささやかなものであった。しかし、今度の村は臭くなかった。下水処理がしっかりしているのだろう。所々柵で囲った家庭菜園のような畑がある。自給自足の生活らしい。



  村の散策というよりは、トレッキングに近いその村道の途中、小さな男の子が、大きな水牛とその子牛を連れて行くのに出合った。でかいっ。一暴れされたら、人間など一たまりもなさそうな巨大な水牛だ。だが、少年はそれが常なのか、かなり乱暴に水牛を枝端で叩いて進ませる。まるでご主人様のように、牛を従えているのであった。ううむ。さすがラオスっ子だ。



  「ウィスキー村」同様、「何も作っていない村」にも寺があった。小さな村なのに寺はかなり大きい。寺ばかり大きな国はろくなもんではない。しかし、如何せん、そこで暮らす人々にとっては、寺は色々な意味で拠り所であるらしい。村人たちが十数人、かいがいしく何やら境内を行き来していた。「何にもない」が、目の前に見える限りの小さな世界ではあるが、大人も子供も生活そのものが大仕事である世界、そんな村であった。



  “木陰からふらり” おじさんの出現から始まったケーブ観光は、途中から急遽「勝手に周ってツアー」となり、おじさんの言葉通り、ノープロブレムで終了。無事ルアン・パバーンの川岸に我々を送り降ろすと、息子たちは、彼らの村へと帰っていったのだった。ううむ。さすが、ラオス人だ。(もう何が「さすが」なんだか、よくわからなくなってきてしまった。)

           つづく

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2001年夫婦世界旅行のつづきです。ラオス北部の山の中、ルアン・パバーンという川に挟まれた街をプラプラしてます。



part69.マーケットと坊主 



 朝は毎日一人で散歩に出かけた。朝の空気は山の中独特の清々しさに満ちている。山から湧き出したばかりの空気をゆっくり吸いながら、マーケットまでのんびり歩いていたら、坊主(敬称略)が一人私を追い越して行った。一見ゆったりとした歩調に見えるのだが、かなりのスピードだ。普通坊主は2人組みになって歩いている場合が多い。(日本の刑事のようだ。一人で外出させると、禁を冒して「いけないもの」でも買っちゃうのか?) 



 早朝一人、マーケットへ足早に向かう坊主が買うものは一体何やらん? バリカンか? うっかり壊してしまった和尚様の宝物か? 実はこっそり食べる大好物のプリンだったりして? 興味津々。私もつい早足になって跡を着けてみた。坊主は勝手知ったる場所なのだろう、迷いもなく、スイッとマーケットに入ると、上の階段から半地下状態の一階に降りていき、奥へ奥へと一目散に進んでゆく。



 朝も7時半を過ぎているのに、マーケットは意外にもまだ半分以上の店が準備中であった。坊主はマーケットの奥の金物屋の前で漸く止まった。「やっぱりバリカンか?」と思いつつ、私は2、3軒手前の乾物屋の辺りを物色しているフリをして、坊主を見張った。(気分はまるで張り込みデカである。) 坊主は金物屋の店先に並んだ少し重そうな小箱を手に取り、店の人とやり取りしている。やがてその小箱の中からティスプーンが取り出された。どうやらスプーンを数本買ったようだった。



 なんだ、意外とつまらない買い物だ。スプーンなどそうそう壊れるものでもなし、なぜにスプーン? という疑問が残った。そして、彼がこのまままっすぐ寺に帰るのか、さらに買い物するつもりか気にはなったが、あまり跡を着けるのも失礼かと、私はもと来た道を戻り始めた。するとスプーンを買い終わった坊主に追いつかれ、追い越された。ううむ。早い。早いぞ。そんなに急いでどこに行く? スプーンをもって……。 



 ともあれ、坊主が去り、私は一人ゆっくりマーケットの中を散策。20cm以上はあろうかと思われる巨大な鼠が足元に死んでいたので、なんとなく、興ざめて、ホテルへと帰ったのであった。(すでに20~30cmレベルのネズミの死骸などではびくともしなくなった私であった。ふっ。)



余談1:

 余談だが、このとき習得した“坊主歩法”を、私は今でも時々実践している。大またに一歩踏み出した時点で、既に次の一歩を踏み出すくらいのスピードで、闊歩カッポ歩くのだ。しかし腰から上はほとんど動かさず、平静を保って、すっすっすぃーっと流れる感じで歩くのだ。するとなんだか、風に乗って歩いているような感じがしてくる。腕は振らない。托鉢の鉢でもささげ持っている気分で固定するのだ。この “坊主歩き” をしていると、なかなか超越した気分になれる。



余談2:

 これまた余談だが、ルアン・パバーンでは、街の人々が早朝道に出て、お坊様を待っていると話に聞いた(「ラオス大好き!」美人による情報)。お布施をするためだそうだ。それはそれは、朝のすがすがしい空気にも似た敬虔なシーンであるね、とその場面を拝見することを楽しみにしていたのだが、とうとう拝見できなかった。私の起き出す時間が遅かったのかもしれない。私は早くても6時半とか7時頃散歩に出ていたので、その頃には朝市も一通りピークを過ぎて、一仕事終わったような雰囲気が路地路地に漂っているばかりであった。



 お坊様と人々との美しいやり取りを目にすることもなく、朝の街をぷらぷらし、川沿いの喫茶店のテラスで1人、どろどろのコーヒーを飲みながら、コップの底に何やらぷらぷらしているなぁ?と見ると、3cmほどの蜘蛛の糸がコーヒーカップの底から伸びていて、その糸の先に蓑虫のような、厚みのある枯葉のようなゴミがついていて、それが私がコーヒーを飲むたびにぷーらぷら揺れるのであった。ルアン・パバーン。ぷーらぷらするのにもってこいだ!

           つづく

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2001年夫婦世界旅行のつづきです。ラオスのルアン・パバーンから次なる街、フエ・サイへ「スピードボート」で移動することに決めたからには、もういつでも出発できます。後は2~3日、のんびりルアン・パバーンを味わいます。腹をくくって(首を洗って?)……。



part68. ルアン・パバーン散策



 ルアン・パバーンという街は半島のように細長く北に突き出た形をしていて、西はメコン川、東はカーン川に囲まれている。まず、メコン川とカーン川の合流地点である街の北の突端を目指して歩いてみた。



 メコン川の流れは驚くほど早い。小さなボートは見る見るうちに下流へと流されていく。サイゴンで見たメコンは利根川ほどに広く(もっと広いかも? 私の目には300mはありそうに見えた)、ゆったりと流れる静かな川であったが、ここルアン・パバーンのメコンは川幅も大分狭まって、波だって走っていく。合流地点では、穏やかなカーン川が猛々しいメコンに吸い込まれるように合流していた。



 どちらの川でも、そこかしこで、人々がささやかな仕掛け網を張ったり、長い竹竿を川に突き立てて漁をしている。どうやってあんなところに辿り着いたのかと首をひねってしまうほど、川の中ほどにある、なんの足がかりもない巨大な岩の突端で、漁をしている人もいる。



 川は護岸工事など一切なされておらず、柔らかい草々が川の縁を取り囲んで、実に美しい。川が実に気持ちよさそうに流れて行く。コンクリートのない川の風景はかくも美しい。ひとたび川が氾濫したときは、こんな呑気なことは言っていられないのだろう。膨れ上がった川は樹々や草を根こそぎえぐり取り、飲み込みながら荒れ狂うのだろう。しかし、今はただひたすら柔らかい緑に縁取られたあるがままの美しさである。



 ルアン・パバーンは寺町である、と言っていいだろう。街の規模の割に寺が多い。他に目ぼしい建物もないので、余計寺が目立つ。しかしまぁ、どれもこれといって見学したいほどの寺ではなかった。



 ホテルの近くの寺によく雨宿りならぬ“陽宿り”に寄った寺は、よくみると、ガイドブック『ロンリー・プラネット』の表紙を飾っている寺だった。



 表紙の写真では黄金に輝く渋い寺だ。今にもその手に小さな金の鐘を鳴らし、口に低くお経を唱えながら、お坊様が列をなして出てきそうだ。川の流れのように、静かに、しかし滔滔と信仰というものが息づいているような寺に見えて、その写真を一目見た時から、その寺に心惹かれていたのだ。



 我々は正にその寺の境内に何度となく入って、その庇の下で一休みしながら、とんと気づかないでいたのだったよ。何回目かにふと柱の配置の具合や、屋根の具合が何か見覚えあるなぁ、と気になった時、手にしていたガイドブックの表紙の写真とダブったのである。ありゃりゃ、ここはこの写真の寺ではないの? と急いで庇から出て、寺の全体を改めて見上げてみると、確かに写真の通り黄金の寺なのであった。



 だが、何かが違う。威厳が、雰囲気が、輝きが、違うのである。実際目の前に鎮座まします寺は、入り口の階段も、昔は白い大理石だったのかもしれないが、今は人々の足の裏の汗や垢が染み付きくすんで、べとついている。出入りしているお坊様の立ち居振る舞いもどこか雑然としていて風情がない。『ロンリー・プラネット』の表紙を飾った写真家の腕に完敗、乾杯、といったところだ。



 小舟でメコン川を渡って行ける近くの村には、少しばかりの観光のポイントがあるようだが、街そのものは、特に物珍しい風物もなく、ただただ欠伸しているような静かな寺町なのであった。その静かさがバックパッカー達には人気なのかもしれない。



 ルアン・パバーンで「沈没」するという話をよく聞く。居心地がよくて旅人が居ついてしまうのだそうだ。何をするでもなく、終日「まったり」とするそうだ。「ルアン・パバーンで沈没」――ちょっと経験してみたい……と思った我々だが、写真と現実の格差に愕然としたためか、現実には我々は「ルアン・パバーン」という名前に「沈没」しただけだった。幸か不幸か。

つづく

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2001年夫婦世界旅行のつづきです。次なる国、タイへ渡るために、ラオスのルアン・パバーンという街から、さらにメコン川を北上してフエ・サイという街に移動したいのですが……。



part67. メコンを上る船はどこだ?



 次なる目的地は、タイとの国境の町フエ・サイ(フエー・サイ)。ルアン・パバーンからメコン川を北へ遡ってフエ・サイまで行けば、そこから川を渡ってタイに入国できる。さて、そこまで、どうやって移動するか、検討開始。



 どうやらバスはないらしい。ボートでメコンを遡るしかないようだ。しかし、ガイドブックを幾ら読んでも、フエ・サイ行きのボートについて、詳しいことはわからない。わかったことは、スロー・ボートとスピード・ボートの2種類があるということ。スロー・ボートは早くても1泊2日のボートの旅で、途中パック・ベンという街(村?)か、あるいは地名も分からぬとある村に泊まるようだ。下手をすれば3泊4泊する破目になると言う。その場合、村の長老だか、世話係だかに心付けを握らせなければならないらしい。山岳民族の家のような、高床式住居に泊まれ、相当野趣に富んだ一晩を体験できるチャンスかもしれないが、宿泊代、食事代等も込みで、一体いくら払えばよいのか、検討もつかない。スピード・ボートはそれに比べてずっと早い。しかし、それでもフエ・サイまでは6~7時間かかる。朝早く出発するらしいが、乗客が定員の6人になるまで出発しないと言う。一人で最低5人分の料金を払えば、定員にならなくてもボートを出してはくれるらしい。(目茶苦茶高そう。)如何せん、どうもはっきりしたことは分からない。



 はっきりしているのは、スピード・ボートの運転はかなり乱暴で、時速80キロでメコンをつっ走り、1992年にボートが岩に激突して、タイ人の観光客が死んでいると言うこと。その事故以来、ヘルメットとライフジャケットの着用が義務付けられたこと。乱暴な運転ゆえ、客の荷物がメコン川に落ちてしまうこともあるということ。……ろくな話がない。『ロンリープラネット』(ガイドブック)の説明は、「スピードボーとに乗るか乗らないか、それを選ぶのはあなただ。」と締めくくられていた。「死んだって知らないよ。覚悟で乗ってね。グッドラック!」ってことだ。思わずびびる。結局、スローボートだろうがスピードボートだろうが、どの道、運が悪けりゃ命がなさそうだ。しかし、ルアン・パバーンまで来て、今更ヴィエン・チャンに引き返すのも芸がない。なんとかボートでメコンを遡って行きたいものだ。



 スピード・ボートの乗り場は街からかなり離れた所にあるので、ツクツクで行かねばならない。スローボート乗り場は街のメインストリートに沿って流れるメコン川沿いにあるらしい。とりあえずスローボートについて調べてみようと、メコン川沿いのボート乗り場をチェックして歩く。川岸の所々に、コンクリートで作られた階段が川へと下りているので、ボート乗り場と分かる。しかし、話を聞いてみると、向こう岸に渡るだけの “渡し舟” の乗り場だったり、観光スポットを巡る “ツアーボート” の乗り場だったり。どのボート乗り場も、ただボート乗り場だとわかるだけで、フエ・サイ行きのスロー・ボート乗り場との見分けが付かないのだ。



 取りあえず、南の端から、それぞれのボート乗り場を手当たり次第にチェックしていく。「フエ・サイ行きのスロー・ボートですか?」と聞くと、「そりゃ、もっと北の乗り場だよ。」と言う。最初の2~3個所は、どこもケーブや、向こう岸の寺を巡るツアーボートの乗り場だった。



 (余談だが、この “向こう岸” のどこかに、とある有名白人の墓があるらしかった。こんな有名人がこんな山奥の草葉の陰に眠っているのか? とびっくり。折角なので墓参りに訪れたかったが、夫はあまり興味をもたなかったので、結局そこへは行かなかった。びっくりした割に、今となっては誰だったか、その名を忘れてしまった。知りたい人は2000年版『ロンリープラネット・ラオス』ルアン・パバーンの項を探されたし。)



 そろそろかな、と思われた4箇所目のボート乗り場の男に聞くと、「もっともっと北だ。」と言う。これまでの情報を集結させると、我々の目指すボート乗り場は最北の乗り場らしい。「北だ。」「北だ。」「もっと北だ。」と言われ続けて、最北のボート乗り場に辿り着いた。さぁ、ここだろう、と尋ねてみると、「フエ・サイ行きのスローボート? そりゃ、もっと南だよぉ。」と言うではないか。皆が皆、もっと北だ、もっと南だと指差すんだもん。もぉっ! 一体どこにフエ・サイ行きのスロー・ボート乗り場があるのぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ? と頭を抱えてのけぞったが、……とうとうわからず日が暮れた。不思議の国、ラオスである。



 (後で結局北と南の中間辺り、寺院の裏にある乗り場らしいことが分かった。スロー・ボートは早朝発で、それ以後は乗り場を締め切って受け付けないらしい。我々がチェックして歩いている頃は、すでに一日一便のボートが出てしまった後だったわけだ。そう言えば、鎖で締め切られた乗り場が一つあった。辺りに数人の男達が屯していたが、ほとんどの現地人が観光客と見ると声を掛けてくる中で、彼らは我々に何も声を掛けてこなかった。廃止された乗り場のようにも見えて、それで敢えてこちらからチェックしなかった乗り場だった。しかし、と私は思う。もしその、まさに “フエ・サイ行きスローボート乗り場” で、「ここはフエ・サイ行きボート乗り場ですか?」と聞いていたら、彼らは何と答えたであろうか。「もっと北だ。」と言ったのではないか。多分……いや、絶対。)



 メインストリート沿いにツアー会社も見つけたが、開店休業なのか、ドアには鍵が掛けられ、いつ何時訪れても誰もいない。ガラス戸越しに壁に貼られているそれらしい時刻表を探すが、ラオ文字で記入されており、トンと分からない。ラオの数字はアラビア数字によく似ていているが、全く意味が違ったりするので、我々には判読不可能なのであった。



 スロー・ボートはつかみ所がないので、結局、スピード・ボート乗り場まで直接ぶっつけ本番で行ってみよう、という結論に達したのだった。

             つづく

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2001年夫婦世界旅行のつづきです。ラオスのルアン・パバーンは山の空気のおいしい街。食欲も増します……?



part66. ルアン・パバーンの食事情



 ホテルのレストランの朝食は、硬く痩せ細ったバゲットパンが半分。3日前に焼いたのか? と思われる。ガシガシのパサパサだ。そしてフライド・エッグに瓜のようなキュウリ(?)のスライス一枚と小さなプチトマト1/2が添えてある。オレンジ色の甘ったるいジュース。何度も溶けては固められたであろう、相当に酸化しているバターと紅色の甘いゲル状のもの(いわゆるイチゴジャム?)。そして“でろんでろん”のラオ・コーヒー。ラオ・コーヒーはルアン・パバーンではどこでもそうなのだが、非っ常ーにまずい。コッテリし過ぎて、香りもなく、ココアだかコーヒーだか、生ぬるい泥の砂糖水だか分からない代物なのだ。バナナとパパイヤのフルーツサラダなんて洒落たものが付く時もある。一見なかなか豪勢に見える。が、ちょっと目を離すと、オレンジジュースには蟻が2、3匹浮かぶ。皿の縁に蟻やら小虫が何匹も蠢くのであった。



 総じてラオスの食事は不味い。だが、味より何より、ルアン・パバーンでの食事は、まず蝿と蟻と蜘蛛とその他もろもろの小虫との戦いであった。



 とある夕べ、街中の小さなフォー屋に入ってみた。通りに面して並んでいる安食堂然としたテーブルに着く。店の中には白熱電球が裸のまま3つ4つぶら下がっており、客の目をくらまさんとばかりにギンギンに白熱光を発している。電球は目に痛いほど眩しいのに、店は暗い、そんな店だ。暗いテーブルはずいぶんと薄汚れている。手を乗せる気にもならない。手は膝に置いて、お行儀よくフォーを待つ。やがて店の奥からフォーの丼が運ばれてきた。香ばしい大蒜の香りが食欲を俄にそそる。とん、と丼がテーブルに置かれた瞬間、テーブルの上の“汚れ”がそわそわ、しゃわしゃわ、ひゅんひゅん、波立った。何事? と暗いテーブルの上に目を凝らすと、なんとなんとなんと、テーブル中、今生まれたばかりのような蜘蛛の子供達が何百匹(?)と飛び交っているではないか。小さな蟻供が数千疋と飛び交っているではないか! いやいや、蜘蛛や蟻に羽があるわけではない。テーブルの表面を這う蜘蛛や蟻の上に、さらに蜘蛛や蟻が折り重なるように這い回っているのであった。つまり蜘蛛や蟻がテーブルの上で何層にもなって暴れまわっているので、飛んでいるように見えたのだった。どっしぇーっっ! 



 何度も思うが、ラオス人よ、なぜ、テーブルを拭かない? ……どっしぇーっっ! と叫びつつも、我々は出てきたフォーを食べた。幸い虫供は丼の中まで飛び込んでこなかったのだ。「汚れ」が「生きていた」というビックリのフォー屋だったが、これが意外とウマかったのは不思議だ。ラオスはやはり不思議の国である。



 またある朝などは、やはりホテルの朝食で、いつもの不味いバゲットにバターを塗っていた時のこと。バゲットを半分ほど平らげて、残りのバゲットに今一度バターを塗ろうと、バターへらでバターを掬った時だ。バターの中に、すっかりバターと化した蟻を発見。溶けて柔らかくなったバターの中に入り込んだ所で、タイミング悪くそのまま冷蔵庫に入れられて、バターと一緒に冷やし固められてしまったらしい。ああ、蟻入りバター。バター蟻。……ラオスはあまりにもラオスである。

             つづく

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