2001年夫婦世界旅行のつづきです。まーだまだサイゴンで悪戦苦闘の日々です。



part13. やっぱり、社会主義共和国!(2001年4月某日)

in saigon




 今日はヴェトナム滞在許可期間について、“イミグレーションの人が犯したミス”を訂正するべく、まず日本総領事館へ赴いた。

税関やイミグレーションでは、パスポートに押される出入国スタンプや係員によって記入される数字には、重々注意しなくてはならない。すぐその場で、内容が正確かどうか、しっかり確認しなければならない。出入国した日付けなどを間違えられたら、大問題になるのだ。



 で、よくよく注意していたつもりだったのだが、ヴェトナムに入国したときはやはり興奮していたのだろう。確認が甘かった。ヴェトナム入国のスタンプが押されたのを見て、つい単純に喜んでしまった。おお、ヴェトナムのスタンプは長方形だ。青い線だ。味気ないスタンプだね。おお、「VIETNAM・IMMIGTATION」と刻されておる、確かにヴェトナムだぞよ。おお、長方形のど真ん中に、今日の日付が出ておるぞ。合ってる、合ってる。確かに今日の日付だ。「20 APR. 2001」。日、月、年の順で書かれておるのだな。「APR」はAPRIL(4月)の略だね。ふむふむ。長方形の枠の下の方にはヴェトナム語で小さく何か書かれているよ。インクもかすんで読みにくいね。どうせヴェトナム語は読めないから、まぁいいや。サインのようなものが手書きで加えられているね。ほほほほぅ。変わったサインだね。いや、よきかなよきかな、などと悦に入っていた。あほである。



 とんでもないことに気が付いたのは、ヴェトナムに入国して実に3日目の晩であった。パスポートを今一度しげしげと眺めていたとき、とんでもないことに気が付いてしまった。ヴェトナムの入国スタンプの下の方に書かれてあるヴェトナム語のすぐ下に「Permitted to remain until……」とある。こりゃ、英語だ。ヴェトナム語と英語が併記してあったのだ。でもって、その意味は「滞在が許されるのは……」だ。その「……」の部分に書かれてあるのは、係員のサインではなかった。数字だったのだ。よくよく見ると「20’06’01」と読めるではないか。つまり、「ヴェトナム滞在は2001年6月20日まで許される」というわけだ。我々はヴェトナムビザを2ヶ月分取ってきていた。だから、2ヶ月滞在できるはずである。入国日からちょうど2か月分、確かに滞在が認められている。よしよし。しかし、夫の方はというと、これがまぁ、「20’05’01」と書かれているではないか。つまり、彼は5月20日までの1ヶ月しか滞在を許されていないのだ。さては、あの係員、オオボケこいたなっ。これは断固抗議しなければ!訂正してもらわねば! しかし、どこで訂正してもらえばよいのだろう?……ということで、まず、日本総領事館に行ってみることにしたのである。



 歩いてもさほど遠くないグエン・フエ通りにそれはあった。我々がのんびりと朝食を済ませて、ゆったりと出かけると、たいてい目的地は昼休みに当たる。例によって日本総領事館も昼休み中。「時間まで待て!」とガードマンが入り口に立ちはだかって言う。後25分もある。暑い中、日陰を求めて辺りを見回す。と、グエン・フエ通りの中央分離帯に、屋根付きバス停が設けられいるではないか。アスファルトの反射熱が熱そうだが、車の排気ガスも臭そうだが、とにかく日陰なら恩の字だ。早速その屋根付きバス停のベンチに座って待つことにした。



 5、6個並んだベンチに先客の男が一人。あらら、その男はズボンを半ば降ろしてパンツを出して股間をいじっているではないか。こんな大通りのど真ん中で、まさか? と思い、もう一度よく見ると、やはり大きくはだけたズボンから薄汚れてゴムの伸びたパンツが見えており、男はしきりに股間に手をやり、挙動不審。やがてお尻まで出してボリボリ掻きだした。およよ。 (このとき、妻はいち早く男の異常さに気づき、夫に申告したのであったが、夫は「へぇぇ? あなたの見間違いでしょ。そんなことないよぉ。」と妻の言葉を信用せず、日陰にご満悦。男が尻をおもむろに掻き出すと、ようやく男の異常さに気づいてくれた。「ねぇ。ちょっと、あの男、変だよ。」 ひそっとささやいてきた。だからぁ! さっきから言ってるでしょっ! 漸く納得した夫とともに、今更ながら、おもむろに、その「下半身ボリボリ男」の元から逃げ出したのであった。……ふぅぅぅ。変だって言ったのに! さっきからっ!



 折角の日陰だったが、しかたなく移動したものの、もう辺りに日陰はない。領事館の入り口横の比較的きれいな石の上に座って、じりじり日に焼かれ、だらだら汗を流していたら、ガードマンが哀れに思ったのか、沽券に関わると思ったのか、「受付時間はまだだが。」と言いながら、領事館の中に招き入れてくれた。このガードマン、端正な顔立ちに、きっちり伸びた背筋。かなりきれいな発音で日本語を少々話す。ヴェトナム人の中ではエリートの部類なのだろう。先ほどの「下半身ボリボリ男」とは雲泥の人生である。



  とにかく、ありがたくお言葉に甘えて、ひんやりと冷えたささやかなロビーで、棚に並べられた日本の新聞など見ながら待っていると、時間通りに受付が開いた。ヴェトナムのイミグレーションの人が入国時に、間違って2ヶ月ある夫の滞在許可の日程を1ヵ月だけになるように記入してしまった旨を伝えると、係の女の人は「ううん。よくわからないけれど、それは間違いとばかりは言えないかもしれませんよ。」と自信なさげにのたまう。ビザの期間とパーミッション(滞在許可)はもともと違うもので、パスポートに記入された以上、向こうの人が夫に1ヵ月の滞在しか許していないのかも知れない、とふざけたことをおっしゃる。妻の方は2ヶ月、ビザ通りに記入されているのにおかしいではないか、と詰め寄ると、絹のように柔らかな声で、「そうですねぇ。でも、ここ(日本総領事館)ではこの件に関して何もできないんですよ。その国その国のやり方があって、それは私達にはよくわからないんですよねぇ。ええ。」と言って、ヴェトナムの出入国管理局へ行くように勧める。外地にあっても、役人は善良な民(?)をたらい回しをするのであった。ヴェトナムの出入国管理局? 何じゃ、それは? どこにあるのだ? 地図を見ると、ファン・グー・ラオ通りからさほど遠くもない。仕方ない。歩いて行ってみることにした。



 出入国管理局ではかなりの人が待っていた。2、30分ほど待たされて、漸く窓口の人に掛け合うと、「ヴェトナムは滞在を1ヵ月しか許していない。それは法律で決まっているのだ。ふんっ。」と突っぱねるばかり。妻の方は2ヶ月も許されているではないか! と、こちらも反論すると、「それを出したのはイミグレーションなのだから、空港のエアポート・ポリスへ行け。ふんっ。」と言い捨てて、係りのおやじは奥の別室へ引っ込んでしまった。その後も2、3度しつこく抗議しに窓口へ行き、他の係の人に掛け合ってみたが、結局最初の係のおやじが1番偉い人らしく、皆そのおやじにお伺いをたてるだけなので、結果は同じ。横柄な向こうの態度に怒り心頭の夫は、最後に今一度窓口に行き、係の人に(そのとき、あの嫌な偉そうなおやじ係官は奥に引っ込んでしまって、出て来もしなかったのだが、)日本の政府に訴えてやる! てな捨て台詞を投げつけて、とっとと出入国管理局を後にしたのであった。向こうが勝手に間違えておいて、勝手に法律を振りかざして、挙句の果てはタライ回し。理不尽な国だ。エアポート・ポリスまで行けって? 空港まで片道$5(約625円)はかかるのだ。それに、空港へ行っても埒の開く見こみもない。「日本総領事館へ行けっ。」と言われかねない。もしかしたら、素直に滞在延長許可を申請した方が、空港を無駄に往復するより安上がりかもしれない。ヴェトナムの暑さと理不尽さに疲労困憊。ままよ、そのうち何かいい解決案が見つかるだろうと、そのままホテルに帰ったのであった。ヴェトナムの役人のふんぞり返りブリは、いやはや、「旧社会主義(?)」を実感させてくれたのであった。



 (我々はビザを2ヶ月分取れば、ヴェトナムに2ヶ月滞在できるものだと思っていた。しかし、どうも違うらしいことが後でわかった。ビザが2ヶ月有効ということは、その2ヶ月の間に1ヵ月分の滞在許可を取ることができるということらしい。ビザと滞在許可は別物! らしいのだ。つまり、滞在許可をビザと同じに2ヶ月もらえた妻の方が超ラッキーで、ミスを犯したのは妻の方の係官だったらしい。)



 さてさて、どうしたものだろうか。頭を抱えて、ホテルに帰ってくると、ホテルの受付の人々が、今日はいやに愛想がいい。……胡散臭い。もう、誰を見てもヴェトナム人は胡散臭く、理不尽に思えてきてしまう。



  何の解決案も見つからないまま、夜、うとうとしていた時、いきなり部屋中の電気が消えた。あのホテルマンの愛想笑いが脳裏を横切る。ホテルマンの手引きで、悪漢が電気のブレーカーをわざと落として侵入してくるのか?それともこれが噂のヴェトナム名物の停電か? 手探り手探り真っ暗闇の中を進み、電気のスイッチを確認。どうひねっても明かりはつかない。停電だ。廊下側の窓から外の様子を窺うと、廊下に出て騒いでいる日本語が聞こえてきた。日本人の女の子達が同じ階に泊まっていたようだ。「停電だね。」「停電だぁ。」と早くも懐かしく感じられる日本語が耳をくすぐる。向いに見えるビル郡も全て真っ暗。街灯や走る車のライトばかりが煌々と光っていた。あのうるさい街が少し静かになったようだった。



 どのくらい経ったか、恐らくものの2、3分だったろう。明かりは復旧した。もちろん、停電に関して、ホテル側からのお詫びも説明も注意も何にもない。真夜中、ひょいと目を覚ました夫がシャワーを浴びていたら、また停電。これまたすぐに復旧したが、時には何時間も停電したままの時があると言う。電気は作られて、運ばれてくるものだと改めて感じることができたのであった。やはり、恐るべし、ヴェトナム。

 

 話はちょっと飛ぶが、社会主義・共産主義(その違いがよくわからないのだが)と言えば、高級ホテル、ヴィエンチャンホテルのカフェもなかなか「社会主義共和国」していた。(ヴィエンチャンホテルといってもサイゴンにあったホテル。ラオスの首都ヴィエンチャンと何か関係があるのや否や?)



  サイゴンを発つ日、出発までの時間をやり過ごすのに、欠かせないのがトイレ。トイレの壁一枚隔ててすぐ向こうがカフェの席などになっておらずっ(トイレの横でコーヒーを飲まなくてはならないようなカフェは結構あったのだ)、ドアにもきちんと鍵が掛かりっ、足元の床も水浸しでなくっ、手杓子で水を流す必要もないっトイレ。 つまり、落ち着いて入れる清潔な水洗トイレが望ましい。で、トイレ第一主義の我々は、高級ホテルのカフェに腰を据えたわけだ。



 しかし、高級ホテルだからといって、世界に通用するサービスが期待できるわけではなかった。ノンシュガーのアイスレモンティを注文してるのに、甘ったるーいオレンジジュースをもってくる。(「オーダー? 何だったけ。忘れちゃったわぁ。なんかぁ、暑いんだからぁ、冷たいもの出しときゃいいわよぉぉ。あ、そこのオレンジジュースでいいわさ。にゃらにゃにゃーいぃ。何だって、出せば文句言わず飲むわよぉ。」とか何とか言ってたんだ、きっと。)  がらがらの店内は客より従業員の数の方が多い。彼らは客そっちのけで屯(たむろ)しておしゃべりばかりしている。食事にやってきた一団には、狭苦しいテーブルを使わせて、自分達は広々した所でのんきにおしゃべりを続ける。「サービス業」という概念は、まだヴェトナムで通用しないのであった。

 

            つづく

           

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もう去年のことになってしまいましたが、去年の夏の恐ろしい・・・いやいや、すさまじい、もとい、素敵な一日の思い出を論文仕立てにしてみましたです。





「アローハ老婆」の舞台鑑賞学に関する一考察                    

 この夏は記録的な猛暑が続いた。猛暑、猛暑、猛暑のとある日、母から一本の電話を受けた。「あのね、フラダンスの発表会があるのよ。……あんた、見に来る?お友達も一緒に踊るのよ。」……このくそ暑いのに、何やってんだ?何言ってんだ?なんだか、やけにうきうきした声ではないか。母は二、三年前からフラダンスを習っていた。毎年一回、発表会の度にアロハを新調しては、意気揚々と踊っているようだった。元気でいいね、と微笑ましく思っていたが、さぁ、見に来いと言われると、ちょっと待ってくれ、とたじろいてしまう。母は当年とって七七。お友達はなんと80歳だと言う。70代、80代のオババ達のフラダンス?ぞっとしない。思わず息を呑んで黙り込んだものの、「お姉ちゃんは去年来たのよ(私には親孝行な姉がおる)。」「花を持ってくるならお友達の分もね。」というリクエストまで出たら、行かないわけにいかないやね。今年は私の番?これも親孝行と諦めて、結局、カンカン照りのある日、二人分の花束を抱え、私は磯子公会堂まで出かけていったのだった。



 サバト(脚注参照)もかくやと思われる踊りなのだろうと覚悟して行ったのだが、これがなんと、本当に面白かったのだ、……とっても! へたな寄席に行くより、よっぽど笑える。ただ、彼らにとってはあくまでも真面目な「発表会」なので、笑っちゃいけないのが難点だ。苦しかった。実に、苦しかった。堪(こら)えても堪えても、腹の奥から湧き上がる笑いが、鼻の穴から耳の穴から、今にも噴き出してしまいそうで、笑いの責め苦の連続だったのだ。

 

 それは横浜地区に分散しているフラダンスグループが一堂に会する発表会であった。20代30代らしい若い人が三、四人いるグループもあったけれど、たいていは「オバタリアン」、「ババタリアン」、「片足 in the 棺桶」集団のフラダンス。日系二世ハワイアンらしき先生も二、三人いる。この人達はさすがに上手い。ああ、フラダンスを踊っているね、とわかるのだが、肝心の生徒さんたちの踊りはというと、とてもフラダンスとは思えない代物。しかし、すばらしく面白いのだ! ひょっとして、プロのお笑い芸人が混じっているのか?と本気で疑ってしまったほど、痛快な踊りっぷりなのだ。(因みに、後で確認したところ、お笑い芸人はいなかった。マジで生徒さんが踊っていたのだった。)



 曲は、有名なアロハ音楽はもちろんだが、巷のヒットソング「なだそうそう」をアレンジしたものもあり、観る人にも楽しんでもらおうと工夫されていることは察せられた。歌詞に合わせて、わかりやすく振り付けがなされている。フラダンスは、体全体で歌詞を表現していく踊りのようだ。だから〝踊る寸劇〟のようでもある。



 中でも凄まじかったのは、エルビス・プレスリーの「ブルーハワイ」。「かーむ うぃずみー(Come with me)♪」と曲に合わせて、オババが肉削げ落ちた枯れ木のような腕をくねらせ、おいで、おいでと手招きをする。顔には薄ら笑いが張り付いておる。おいおい、三途の川の向こう岸から誘っているのかい?と思わずびびるやら、おかしいやら。



 たいていの人は緊張のあまり顔がひきつって、おっかなーい顔して、踊る。顔が怒っているのに、手の動きはやたら柔らかかったりして、腰もくねくねさせるもんだから、ほんっとーに怖い! 



 〝貝殻を拾って無邪気に喜んでいる乙女の踊り〟などは……ああっ、筆舌に尽くしがたい! 波音の入ったロマンティックな曲に乗って、足元から何か(多分、「貝」)を摘み上げる仕草。人差し指を一本突き立ててすーっと横に動かす仕草 (多分「一番星、見つけたっ♪」という意味?)。そんな一連の仕草が「嫁をいびる姑」踊りに見えるのだ。「あーら、ヨシコ(仮名)さん、こんなに散らかして。あーら、ヨシコさん、障子の桟にこんなに埃がっ。」なんて仕草にぴったり重なってしまうのだ。そう思って見ると、それはそれは、みごとな踊りっぷり。打ち寄せる波の音まで、嫁姑バトルの効果音と化していく。



 こうなると次の振りが見逃せなくなってくるではないか。一瞬も舞台から目がそらせなくなる。そんなこんなで、踊りを見ていると、後から後から失笑もののコメントが頭の中で浮かんできて、踊り手たちが誰一人思いもしていないであろう、全く別の物語が勝手に堪能できてしまうのであった。踊り手である生徒さんたちは皆大真面目だから、なおさらおかしい。しかし、だからこそ、笑うに笑えず、(皆さん、一生懸命真剣に踊っているんだから……)と自分を戒めてみるものの、とにかく、あまりに滑稽で愉快で……。苦しかったぁ。



 一グループおおよそ五分ほどのステージが、次々と繰り広げられていく。そのたび、あああっ、次はどんな面白い踊りを見せてくれるのかしらっと、わくわくドキドキものだ。



 母などは、一体その体の中には何バレルの石油が入るの?ってくらいの樽体型で、歩くより転がした方が早いような体だから、明かりの落ちている舞台に登場してくるや、シルエットで一発、彼女だとわかった。その歩く姿も〝ずんずんムォッモォッ〟……大魔神の登場かと思うほどの重々しさなのだ。哀しいかな、彼女の足には足首がない。〝フクラハギの下がそのまま踵〟のような足なのだ。だから爪先をついっと動かしてみせる軽やかな動きができないんだね。もう、モアイだ。イースター島のモアイ像が動き出したっ!モアイが踊っているぞ!ってな踊りなのだ。イースター島の島民でなくたって、ちょっと怖いくらいのその姿。そのモアイ像か、ハワイ島の溶岩石かという母の丁度後ろで(母は前列で踊っていた……客を威圧しようという「先生」の戦略と見た!)、80歳のか細いお友達おばあちゃんが踊っている。やせ細ったおばあちゃんの姿は、かろうじて上下するその腕が、母なる岩陰の後ろからフラフラパタパタ動いているのが見えるばかり。これではまるでモアイの千手観音状態。そして、ひとたび母がひらりと腕を伸ばせば、おおおっ、雲竜型ですか?って感じ。そう。もうまるで土俵入りだ。磯子公会堂は一挙に両国ムードへと突入していくのであった。



 おまけに、舞台に登場してきた時は、皆「気をつけ」の姿勢でまっすぐ立っているのだけど、曲が始まるや、いきなり腰を落として、フラダンス独特の中腰状態で踊り始める。下手な人はこれがすごく極端で不自然。そのおばあちゃんも、曲が始まるや、がくーっと腰がくだけてくずおれたように見えたのだった。全身の骨がポキパキポキプキ、ペキッ……と粉々に折れて床に落ちていく音が聞こえるようだった。お年がお年だし、ああぁつ!おばぁちゃん、どうしましたっ?!と思わず身を乗り出しておばあちゃんの安否を探るのだが、巨大な樽(母)が邪魔しておばあちゃんの安否がわからない。はらはらしているとモアイ像(母)の後ろにほそーい腕が、ひらーーっ、ふらーっと動いているのが見えて、ああ、踊っているらしい、何もなかったのか、ただ中腰になっただけだったのね、とわかるのだった。おどかすなよ、おばあちゃん、って感じで、これまたおかしくてたまらないのであった。



 炎天下、霊安室のように冷え切った小ホールで、日焼けもしていない青白い肌で踊るフラダンス。(この夏は死者さえ出る殺人的猛暑だったから、ご高齢の皆さん、外出はそうそうできなかったろう。彼らに小麦色の肌を求める方が間違っているのだ。日焼けサロンに行こうとして、火葬場に行ってしまいかねない方々だ。)しかし、ハワイで仕入れた何万円もする新品のアロハを着込んで(……ど派手なパジャマにしか見えないのだが)、舞台映えするように、念入りにお白粉を塗りたくり、(真っ白い顔をして……漆喰(しっくい)だ、それじゃ)、当節流行(はやり)のグロスで唇に艶を出し(真っ赤な唇がてらてら光って、……喀血してないよね?)、なんとも、彼らのフラダンスに対する情熱が伺われるではないか。自分の人生を精一杯楽しんで生きようという女たちの姿勢が、長年の間に身に刻みつけてしまった強張ったやるせなさが、じわっと察せられる踊りっぷりだ。



 眩しい陽射し、コバルトブルーの海、ヤシの葉陰を渡る優しい潮風、太陽が匂い立つような小麦色の肌、甘い花の香り、アッローハァ!……そうした南の島の歓喜からは遠い、あまりに遠いものではあったのだが、しかし、干上がった流木のようなアロハ姿にも、樽のようなアロハ姿にも、「ギャッ、アロハ着て、皆の前でフラダンス、踊っちゃうわー。がふっ、ぐふふ、どへへへへ、ばぁほほほほほほぉーっ(笑い声)。」という、〝嬉し恥ずかし女心〟が溢れていた。その瑞々しい心があるからこそ、「アロハ老婆」たちのフラダンスは、観る者をして抱腹絶倒、もとい「女として生きる」ということへの深い感銘を与えるのであろう。「楽しむ心」の偉大さを見せつけるのであろう。……傑作であった(感涙(T_T))。

 

 蓋し、形而下における或る上質な行為(鑑賞)は、その対象(脚注2)が刺激として感覚中枢へ到達する過程において、精緻なイマジネーションと実在との融合を触発し、結果、いわゆる形而上学的無限虚構空間へと対象を進化させるのであった。                                



                        

脚注1:サバト……(sabbath)魔女の大集会の意。ユダヤ教のサバース(安息日)に由来する言葉。キリスト教徒によってユダヤ差別語として使用されているうに、魔女の集会という意味に変貌したらしい。



脚注2:対象……ここでは「樽」およびその仲間たち。



                  

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2001年夫婦世界旅行のつづきです。まだサイゴン(ホーチミン)にいます。ヴェトナムの母なる河メコンのデルタ地域に点在する村々を訪れてみました。



part12. メコン!



 「メコンデルタ1日ツアー」に参加。日本人旅行者の間ではちょっと評判の悪いシン・カフェという旅行代理店のツアーに申し込んだ。何と言ってもUS$7(約875円)は安い。他のツアーと比較してもツアー内容も変わりない。内容のない稚拙な文章を書く日本人旅行者の情報よりも自分達の直感を信じた。……正解だった。7ドルのツアーで十分デルタを堪能できた!



 もちろん安い分、食事は全くお粗末でまずかったが、カフェの前からメコンまでバスで送迎してくれるし、ボートツアーで色々なデルタの小島に寄って、途中、「パッションフルーツの出るティータイム」もあるのだった。舟のボロさはむしろ味があった。それでも現地の人が使っている舟より、よほどいい舟だったように思う。



 メコンデルタまでの車中、本来ならば、緑の田園風景がアヒルの群れと共に車窓に広がるはずなのに、どこも干からび、爆撃にでもあったかと思うほど、凸凹の大地であった。一見荒地のような大地だが、よく見ると、区画整理されているらしい跡がある。雨季になれば雨がこうした大地を一斉に潤し、一面空を写す水田に変わるのであろう。



 メコンは香るような乳茶褐色の大きな大きな河である。ボートでメコンに繰り出す。前も後ろも、一面河と空だけになる。スコールをたっぷり含んだ巨大な雨雲と、湧き立ち輝く積乱雲が混在する空。空を映して波立つメコン。空とメコンに椰子の濃い緑が一線を画して果てしなく続いている。



 全身わななきながら進むモーターボート。船底の木板が、もはや朽ち果てて見える手漕ぎボート。メコンの川幅に合わせて、ボートを何種類か乗り換え、メコンの支流に分け入って行く。川幅2mほどの狭い支流では、所々椰子の葉が枯れ倒れて行く手を塞いでいる。それを船上のみんなで、持ち上げ、潜(くぐ)り、進んで行く。椰子の林の奥には時折人家が見え隠れする。



 メコンに深く深く分け入るほどに、メコンは甘いような茶味を帯びる。かなり立派なフェリーから、いつ沈んでもおかしくないようなボロボロの木舟、すでに沈み始めているような小舟まで、大小様々な舟が行き来する。川岸は3、4mほどもある大きな椰子科の樹々が取り囲み、椰子の葉の向こうは一面の空。葉影の奥には、廃墟のような掘っ建て小屋が点在するが、よく見ていると、こんなぬかるむジャングルにどうやって建てたのかと不思議になるくらい立派な家も1つ2つ見えた。



 デルタの村の人々は日中日陰に座り込むか、木陰にハンモックで昼寝をするかしていた。村々は静まり返っている。デルタ流域の土地は染まるような赤土で、からからに乾いている。しかしそこの植物達は実に青々とその葉を茂らせ、木陰を作るのが自分の使命と心得ているかのように、その枝を低く、横へ横へと伸ばし、襲いかかるように降り注ぐ陽射しから、大地のものを守っていた。メコンがすべての源なのだ。メコンはヴェトナムの命の源なのだとわかる。



 ツアーでは、水上魚市場を通りすがりに眺めたり (今日の商売はもう終わったらしく、ただ水上魚市場なる場所をガイドさんが指し示してくれただけだった)、「椰子の実教団の島」なる、椰子を使ってあらゆる物を作っている小島や、ココナッツのキャンディを作っている島、蜜蜂を育てて、蜂蜜を作っている島などを一つ一つ上陸して見学した。そうした島の見学はどれも似たような物ばかりで少々退屈ではあったが、細いメコンの支流を、倒れ被さってくる椰子の葉を潜り潜りして進むクルーズはメコンならではの醍醐味であった。現地の人はヴェトナム語しか話さないので、色々話が出来ないのが残念だったが。



 ツアー客はほとんどが欧米人で、アジア系の人間は我々だけ……と思ったら、珍しく他に3名アジア系の初老の男女が参加していた。ツアーで立ち寄った小島でティータイムとなった時、同じテーブルになったので声を掛けてみると、サイゴン陥落の際、ヴェトナムから欧米に逃げた兄弟だという。「兄はアメリカへ、弟と私はフランスへ逃げたんですよ。」とその女性は癖のある英語で話してくれた。家族一緒に逃げることができず、みんなばらばらになったのだという。「このすぐ近くの島が故郷なのです。でも、もう何も残っていないでしょう。帰れないのです。とてもいい所なんです。すぐこの近くの島で、私たちは生まれたのです。でも、あの時、ご存知でしょ、あの時。一家して、海外へ逃げたのです。ええ、1975年のことです。それからずっと、今まで私はフランスで暮らしました。兄はずっとアメリカで。」 「ずっとフランスで暮らしました。だから、英語もフランス語もできますよ。」と得意げに笑っていた。フランス語も流暢なものである。



 出されたお茶セットの飲み方が分からずにいると、勝手知ったるといった感じで、こまごまとした手順を我々に教えてくれた。彼らにしてみれば、飲み慣れた、懐かしい懐かしいお茶と作法なのだ。サイゴン陥落の折、ヴェトナムを脱出して海外へ逃れ、そこで成功した人々は、羨望と嫉妬と侮蔑を込めて、「越僑」と呼ばれるらしい。だいたいサイゴンから国外へ脱出できたということ事態が、まず金持ちである証拠である。そして、フランスやアメリカに渡って、生き延び、今再びヴェトナムに観光客として来られるということは、やはり国外脱出して成功した組だということだろう。国外に脱出できず死んでいったであろう故郷の近隣の人々、貧しさの中で地を這うようにして今も暮らしている人々、そんな人々の住まう故郷に、今更彼らは足を踏み入れることができないのかもしれない。それでも、懐かしくて、メコンデルタツアーなる観光客相手のツアーに参加して、故郷のすぐ近くまできたのだろう。彼ら3人が成功組みとはいっても、消して裕福で楽な生活を送ってきたのではないことは、彼らの顔や手の甲に刻まれた深い皺にも窺われた。ヴェトナムへの旅費だって大変な出費であろう。このメコンデルタツアーは、今後兄弟が3人そろって、もっとも故郷に近づけた最後の時になるのであろう。故郷のお茶は彼らの喉を潤したのだろうか、それとも喉もとまで出掛かっていた何かを飲み下させたのだろうか。



 やがてお茶も飲み干した頃、「お客様に、この地方の子守唄をお聞かせします。」といって、ほっそりした若い女性歌手が現れ、ボロボロのギターひとつを伴奏に、歌いだした。「ンニャニャーイ ラーラタゥッ ニャーィィィ……」としか私には聞こえないが、とにかく哀調を帯びた優しい歌だった。ふと見ると、アジア系3兄弟が目を潤ませて鼻をすすっている。女性はもう涙を堪え切れず、ハンカチで目を覆っている。「ああ、故郷を捨てるということは、こういうことなのか……。」と胸を打たれる。彼女は歌が終わるや、「Vis! Vis!(フランス語で「アンコール」の意。)」と、もう涙も拭かず手拍子を始めた。兄と弟は耳に残っている歌声を今一度胸の中で聴き直してでもいるように、じっと俯いている。他の欧米人観光客は、大して興味もないらしく、心ばかりの拍手をしてすぐに自分達の会話を始める。歌手は越僑3人の様子を知ってか知らずか、アンコールに応えることはなく、姿を消した。故郷のお茶を飲み、故郷の子守唄を聴いて、ほんのすぐ近くにまで来ているのに、故郷には帰れない。国を捨てるということはかくも切ないものなのだった。メコンの流れは昔と変わらないのであろうに。

             つづく

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2001年中高年夫婦世界旅行の続き。ヴェトナムから陸路ラオスへ抜けるラオ・バオ越えです。3部に渡る長いバスの旅でした。



part52.その1 何をかいわんや、ラオ・バオ越え!



 いよいよヴェトナムからラオスへ移動する。「恐怖のラオ・バオ越え」と呼ばれる、およそ20時間のバスの旅である。バスで、フエからドン・ハーまで行き、そこでヴェトナム側の国境の町ラオ・バオ行きのバスに乗り換える。ラオ・バオに着いたらヴェトナム出国手続きをし、次はラオス側の国境の街クロサでラオス入国の手続きをする。クロサからは、サヴァナケット目指して、ボロボロの国営(?)バスにギシギシに詰め込まれ、延々未舗装の悪路が続く。一度体験したら二度と再び辿りたくないという噂のルートである。



 ツアー会社に頼んだバスチケットは、不明瞭な点が多々あった。フエからドン・ハーまではシンカフェ(ヴェトナムの旅行代理店)のエアコン付きツアーバスで行くことはわかった。しかし、ドン・ハーでどんなバスに乗り換えるのか、何度確認しても要領を得ない。(これは、実際にいつ何がどうなるかわからないので答えようがなかったためか、あるいは、はっきり答えてツアー客が引いてしまうことを避けるためかの、どちらかであったろう。) 「ラオ・バオ行きのバスは必ず来るから大丈夫。問題ない。」の一点張りだ。ヴェトナムのイミグレーションとラオスのイミグレーションまではかなりの距離があり、バイクタクシーにでも乗らなければ、ラオスのクロサで待っているはずのサヴァナケット行きのバスに乗り遅れることもあるという。しかも、ラオスのイミグレーションでは、手続きに2、3時間かかることもあるという。 ツアー会社の人は、「大丈夫。バスは待っている。問題ない。」と言うだけで、無事にバスに乗れる何の保証もない。

 

 しかし、行ってみるしかない。ヴェトナムからラオスへの国境越えには幾つかのルートがあるが、その中で最も過酷だと評される「ラオ・バオ越え」をわざわざ選んだのは、何よりもサヴァナケット(サヴァナケット)という地名に惹かれたからだった。サヴァナケット。なんて魅惑的な地名だろう。マルグリット・デュラスの、仏領インドシナを舞台にした『ラフォールの副領事』には、ラオスの地名がたくさん出てくる。その中で心が鷲掴みにされた地名、サヴァナケット、トンレサップ、バタンバン……・。ああ、魂まで焼き尽くす非情な太陽。岩のような飢えと渇き。その中でこそ初めて手に出来る一掬(いっきく)の水というものが、そこにはある。人間の狂気が蒸気となって逆巻く大地。棕櫚の林を渡る風が子守唄となって、爛(ただ)れる者達を眠らせる地。あらゆるものが大河の一滴となって流れゆく命の原画。そんな風景がそこにはある!……ような気がしてくる。まずはヴェトナムから一番近い所にあるサヴァナケットへ! サヴァナケットへ行くためならば、「恐怖のラオ・バオ越え」も、耐えてみせよう。行くっきゃない。(もちろん、私は本当の飢餓も渇きも体験したことがないし、求めてなどもいない。ごめんである。ただ、幻想として、無性にそうしたものに惹かれるだけなのだが。)



 5月25日(金曜 殺人的晴天)の夕方6時、ハノイ行き大型エアコン付きツアーバスは時間通りフエを出発した。「我々はハノイではなく、サヴァナケットに行くのだ。ドン・ハーで乗り換えるのだよ。わかってくれてる?」と、係りの人にしつこく念を押す。そのたびに、「分かってる。分かってる。サヴァナケットだよね。問題ない。」と請け合ってくれる。順調な滑り出しではあった。みるみる夜の帳が降ろされ、フエの街は闇の中に輝き出した。川の付近は一瞬闇に染まるが、暗闇の中に水面が暗い反射をみせて、川だと分かる。闇の中で黒く光る川を越え、我々が去っていく時も、街はいつもと変わらぬ営みを続けている。小さな丼に山ほど飯を盛り、ぶっかけ飯を食べている者。だらしなく椅子に腰かけて、客を待つ食堂の女達。客を待つでもなく道端で屯しているシクロ運転手達。暗がりで小さな椅子に腰かけて、ビールを飲みながらトランプに興じる男達。絵札に興じる女達。人の足元ばかり伺っている靴磨きの少年。どこへ向かうのか、ひたすらバイクで走って行く男達、女達。ヴェトナムの人々、ヴェトナムの生活がフエの陰影に浮かび上がる。カフェの明かりを見ていると、今すぐそこに入っていって、ミルクコーヒーを頼みたくなる。フライドライスを頼みたくなる。未練がましい私を乗せて、バスはひた走る。いくつもの橋を渡り、いくつもの川を越えて、やがて田園地帯に入り、明かりが極端に少なくなる。家々の明かりがポツンポツンと闇に溶け入りそうに灯っている。しばらく行くと、また家々の明かりが増え、別の街に入ってきたことが分かる。カフェや道端で憩う人々が現れたかと思うと、ふたたび田園の暗闇に変わる。そしてまた街を通り過ぎる。突然家々の灯が蝋燭に変わる。停電だ。影絵の街がしばし続く。と、突然また電気が燈され、街は賑やかさを取り戻すのだった。そしてまた、闇に光る田園……。クレッシェンドとデクレッシェンドを繰り返す光りのノクターンだ。バスの窓から次々と流れ去っていく、そうした夜のヴェトナム風景を眺めながら、私は不思議な慈愛に満ちた心持ちを感じていた。無性にヴェトナムというものが愛しく感じられていた。あれほど汚くて五月蝿かった街々。うんざりするほどいい加減で、呆れ果てた人々。そうしたヴェトナムを、いつも呪うが如き心持ちで街から街を移動していたのに、いよいよ出国するとなったその途上で、なぜかくも優しい心持ちになれるのか、我ながら不思議であった。私は紛れもなく陶然として、去りゆくヴェトナムを惜しんでいたのであった。



 2、3時間も走ると、かなり大きな街に着いた。ドン・ハーである。北のハノイと南のホーチミンを結ぶ中点に位置し、ラオスへの分岐点でもあるヴェトナムの要衝の一つだ。バスはとあるカフェレストランの前で止まった。有無を言わさず、その薄暗いカフェで休まされる。国境の町ラオ・バオ行きのバスをここで待つらしい。休憩中ハノイへ向かうという日本人のおじさんと少し話をした。彼は焼け焦げたような茶褐色の肌をして、痩せた頬が笑うと引きつるように突っ張るので、ツアースタッフが彼に日本語で話しかけるまで、彼が日本人だとは気が付かなかった。若くもない男で一人旅をしている人は珍しい。色々話を聞いてみた。彼は、1年間のオープンジョーチケット(最初に入国する地と、最終出国する地が決められていて、その間は自由に移動できるというチケット)で世界中一人で旅しているようだった。まず中近東を巡ってきて、ヨーロッパに行く前に、先にアジアに寄ってみようと思いつき、カンボジア、タイ、そしてヴェトナムと周ってきたところだと言う。相当旅慣れていて、インドは既に3週したことがあるという、筋金入りのつわものであった。一見、実に穏やかな顔立ちで、飄々としているが、こちらが色々情報を聞き出そうとすると、「人の情報は信じない方がいいよ。僕も人の言うことは信じないね。あなたたちの言うことも信じないからね。」と突き放すようにおっしゃる。それ以上何も聞き出せなくなってしまった。人を撥ね付ける物言いが少々強面ではあったが、おじさんの言うことは実に正論なのだ。我々も何度そう思ったかしれない。しかし、「念のため、情報は多い方がいい」と、ついつい人と情報交換をせずにはおれないものだ。おじさんは“人の情報”で、どんな目にあったのかしら、と気になったりする。



 バスはいつ来るのか、我々はいつラオ・バオに向けて出発できるのか、今一度ツアースタッフに聞いてみる。すると、今度はさらりと「あと20分だ。大丈夫。問題ない。」と返ってきた。ほほう、順調ではないか。気をよくして待つこと20分。確かにきっちり20分後にバスは出発した。しかし、出発したのは、今まで乗ってきたハノイ行きのツアーバスだった。おいおい。我々はスタッフ君がいつ出発するのかを聞いたわけではないぞ。ツアーバスは、スタッフ君や「不信」おじさん達をぞろぞろ乗せて、ハノイへ向けて出発していった。



 残されたのは、我々2人と白人5人組のみ。ラオ・バオ行きのバスがいつ着くのか、どんなバスなのか、何もはっきりしたことはわからないままだ。ひたすらラオ・バオ行きのバスが現れるのを祈るしかない。もう一組の白人達は皆スコットランド人で、我々と同じサヴァナケットを目指しているとわかり、同行者があることに幾分安心して、バスを待った。我々はうんともすんとも言わない闇を見つめては、バスのヘッドライトがいつその闇を切り裂いて現れるかとじりじり待っていたが、スコットランド人達はカフェの奥のテーブルに陣取って、トランプに興じ始めた。(欧米人は何かというとトランプを始める。トランプは彼らの旅の必需品のようだ。) 叫んだり、笑ったり、頭を抱えたり、大騒ぎである。人数が多いせいか、若いせいか、母語(英語)で何でも通じるせいか、人間が出来ているのか、肉を食べているせいか、狩猟民族の末裔だからか、とにかく余裕である。1時間半ほど待った頃であろうか、いつの間に現われたのか、中年のヴェトナム男が、店の奥でスコットランド人達に何やら告げている。我々には一瞥もくれず、何も言わず、そのまま我々を素通りして外へ出て、スコットランド人のうちの一人をバイクの後ろに乗せて、行ってしまった。残りのスコットランド人達がトランプを慌しく仕舞って、荷物を抱え始めた。何が起こったのかまだ知りようもない我々に、彼らのうちの一人が説明しに来てくれた。「事故が起こって、ラオ・バオ行きのバスが、今日はもう来ないらしい。」というではないか。詳細は不明だが、とにかく予定のバスはもう来ない。「ボス」が今夜の宿を世話してくれる。今我々の代表者がホテルを見に行っている。もちろん宿代は払う必要はない。明日の朝5時にホテルに迎えが来て、ラオ・バオ行きのバスに乗れる、ということだった。やられた!そんなことになるんじゃないかと心配していたことでも、実際起きると、やはり驚き呆れるものだ。しかし、「来ない」ものは仕方がない。とにかくホテルの下見を終えて帰ってきた人の話を聞いて、泊まれそうなら皆で行くのだし、そうするしかない、と腹を括った。しかし、“代表”の人はなかなか帰ってこない。30分も経った頃、ようやく帰ってきた。すると、間髪を入れず、今度は夫にバイクの後ろに乗れと、「ボス」が急かす。“代表”が見てオーケーを出したなら、とにかくそのホテルに行くだけだと思っていたが、とにかく部屋を見ろというので、夫は「ボス」のバイクに乗って、下見に行ってしまった。スコットランド人の一団はあっという間に鞄を抱えて店を出て行ってしまう。出かけに、深夜のカフェに一人残る私の肩を叩いて、「ホテルはすぐ近くにあって、ここから歩いて行ける。まっすぐの道だし、あなたの彼が今見に行っているから、彼があなたをホテルへ迷わず連れて行けるはずだ。ホテルはなかなかよいところだ。エアコンも付いている。料金を払う必要はない。我々は一足先に行っている。」というようなことを、ハシュハシュ、子音の摩擦音激しく早口でまくしたてて、去っていってしまった。下見にいった人がバイクで出かけて30分も帰ってこなかったのに、ホテルがすぐ近くにあるとはどういうことなのか、腑に落ちないことではあったが、急いでいる彼らを私の下手な英語で引きとめるのも気が引け、笑顔でシー・ユーと彼らを見送ると、カフェには私一人になった。

 カフェの店員さえどこかに消えた。数本の蛍光灯ばかりが恍々と灯り、さして広くもないカフェがいきなりガランと広く感じられる。各テーブルに残された汚れた食器が、いままで客達がいて賑わっていたことを辛うじて証(あかし)している。外は時折、爆音を立てながら大型トラックや大型バスが通り過ぎて行くばかり。車が途切れるとシンと闇が広がる。薄汚れたカフェの中で、私とヤモリと蛍光灯だけが息をしているような心細さが募る。夫は意外にも5分もしないうちに帰って来た。ホテルを決めてきたという。荷物を背負い、少々歩くと、カフェからすぐ近くにそのホテルはあった。一見すると極普通の安ホテルである。しかし、そのホテルがひどかった。「恐怖のドン・ハーホテル」と呼ばれている。……かどうかは知らないが、まさしく恐怖の一夜を過ごす破目となったのだった。



 ホテルに着くなり、地下の部屋に通された。夫自身が部屋をチェックしたはずなのに、地下だったかどうかも把握していなかったらしい。エアコンも付いていない。夫はエアコンの有無も確認し忘れていたのだ。つまり、地下の、窓もない、エアコンもない、掃きダメのような汚い狭い部屋であった。シャワー室にはシャワーヘッドにさえ蜘蛛の巣が掛かっている。小虫が飛び交い、床は荷物など直に置けないほど汚い。洗面所には誰かが使った歯ブラシがそのまま残っている。ベットカバーを少し捲ってみると、髪やら細かい屑やらがシーツに一杯張り付いている。とてもシーツの上で寝る気がしない。ドアにはチェーンもない。ドアに嵌め込まれた透明なガラスには目隠しの色紙が張られているが、その隅の部分がはがれ、外から中の様子は丸見えだ。石鹸もない。バスタオルも薄汚れて湿ったものが1枚しかない。取りあえず、灰皿と石鹸をもらいにフロントまで行くものの、ホテルの人は英語を全く解さず、身振り手振りで説明しても、何をどう受け止めるのか、埒が開かない。漸く小さな石鹸を一つもらってきたが、箱を開けると、中からは毛のこびり付いて乾いた石鹸が出てきた。どぅぁぁぁぁぁっ。誰かが使ったものを乾かして、箱に入れているのだ。こんなホテルに泊まりたくなーい。とは言うものの、夫が部屋を見て決めている以上、今さら部屋に文句をつけるわけにも行かず、時間も深夜2時を回っている。とにかく少しでも寝るように努めた。カバンはベッドの隅に乗せて、ドアには部屋に置いてあった帽子掛けのようなものを立て掛け、ドアのガラスの隙間には持参のガムテープを張りつけて塞ぎ、ベットカバーの上に服のまま横になり、極力身体を動かさないようにして、ベットに硬くなっていた。と、突然、バタタタタッバァタタタタタタタッと何かを激しく打ち叩くような物音がする。びっくりして見ると、体長7cmはあろうかという大きな蛾が(私には、体調1mの蛾に思えたが)、粉を撒き散らして暴れているではないか。でぇぇぇぇぇぇ。壁の隙間から入りこんできたのであろう。しかし、たかが蛾である。気にしない。気にしない。無理やり目を閉じ、再び仮死状態で横になった。数時間まんじりともせず過ぎて、もう起きてしまおうと、少し足もとの布団を動かした時である。布団の中から、灰色のぬるりとしたものが、ぴょんと飛び出してきた。蛙だ。灰色のぬるりとした蛙であった。体調3cmほどのたかが蛙である。しかし、蛙であるっ!蛙は蛙である!! ベッドの中から蛙がぴょん。なんでっ?なんでベッドの布団の中から蛙が出てくるのぉっ!?うぉぉぉぉぉぉぉっ。私は蛙と一晩一緒に同じベッドで寝ていたのか?でぇぇぇぇぇぇっ。地獄のようなホテルである。こちらの落ち度ではない予想外の宿泊なのだから、無料なのは当然なのだが、無料であると言うことが、夫には「あまり注文を付けては気の毒だ。」という仏心が先に立って、ろくに部屋を吟味せずOKしてしまったらしい。そのことに夫は反省しきり。スコットランド人の下見に行った人が30分も帰って来ず、いい部屋を確保したらしいことから考えると、スコットランド人はひどい部屋しか見せなかった「ボス」としつこく交渉して、いい部屋をゲットしたのであろう。「“ただ”だから、あまりこちらの我がままを言っては悪いな。」などという遠慮深い感覚は彼らにはない。そして今回は、まさにそれが正解だったのだが……。謙虚すぎるぞ、夫!



 向かえが朝の5時だとか5時半だとか言っていて、結局どちらだか分からなかったので、取りあえず早めに待機することにした。あんなおぞましい部屋から一刻も早く逃れたくて、4時ぐらいには部屋を出て、ロビーに上がっていった。しかし、まだ誰も起きて来ず、ロビーは真っ暗である。電気のスイッチも分からず、仕方なく真っ暗なロビーで硬い椅子に腰かけて待っていたら、若い男の子が現われた。いかにも眠そうに目を擦り、フラフラとロビーに入ってきて、何やらヴェトナム語で呟いている。朝早く悪いけれど、電気を付けてくれと頼むと、「ノ。(No)」と無碍(むげ)に断られた。耳を疑う。客が電気をつけろといっているのに、なぜ拒むのだろうか。外の家を見ると、電気のついている所もあるのだから、停電ではないはずだ。彼はだるそうに目を相変わらず擦りながら、それでも玄関のガラス戸を一枚開けてくれた。取りあえず外に出て、新鮮な空気を吸いながら、夜が明けるのをひたすら待った。5時半になる頃、ギャブッ、ギャバッ、パッポンペッポン、ダロロロロ……素っ頓狂な凄まじい音を立てて、ホテルの前にとんでもないポンコツバスが止まった。止まろうとしなくたって止まってしまいそうなオンボロだ。まさか……と思っていると、バスから若い男の子が降りてきて、我々に乗れという。我々が何者か確かめることもない。このバスはサヴァナケット行きかと聞いても、英語はとんと分からぬらしく、困った顔をするだけで、「乗れ。問題ない。」(これだけは英語で言えるのだった)を繰り返す。運転手の方に掛け合うと、彼の方は何を聞いても「イエス、イエス。」と言うばかり。「サヴァナケット行きだ。乗れ。」としか教えてくれない。「他の西欧人達はどうしたんだ。いないのか。」と聞いても「イエス。」 時間は約束の5時半を過ぎている。もしかしたら、スコットランド人達は我々と違うもっといいホテルに連れて行かれていて、出発もカフェで言っていた通り5時で、とっくの昔に結構なバスで出発してしまったのではないか。我々はというと、ひどいホテルに連れていかれ、5時半のオンボロバスに乗せられることになったのではないか……という疑念が、俄に背筋に走る。そんなこと、平気でやりかねない。とにかく納得の行かないうちは下手にバスに乗りこむまい、と猶も運転手相手に説明を求めていると、昨夜のスコットランド人達が眠たげに同じホテルからうぞうぞと出てきた。漸く、皆このホテルに泊まっていたことがわかった。青黒いほどにげっそりした彼らの顔には、寝不足のせいとばかりは言えない、悲壮なまでの疲労感が漂っていたのを、私は見逃さなかった。ああ、彼らも恐らく蛙とご対面したのかもしれない。挨拶もどんよりと、とにかく7人がバスに乗り込んだのであった。



 バスは運転手の言う通り、サヴァナケット行きだった。窓ガラスもない、20人も乗れば一杯になる小さなバスである。身を屈めてバスに乗りこむと、他にも地元の客が乗ってきて、更に身を縮めなければならなかった。しかし、運転手も助手らしい若者も実に楽しそうにしているので、さっきの不安は嘘のように吹き消され、今はあまりに小さいローカルバスを楽しむ心持になっていた。バスは所々で止まり、その都度、荷物を沢山抱えた地元の人々を詰め込んでいく。地元の人も慣れたもので、人を押しのけ押しのけ、自分のスペースを作って座りこむ。バスといっても、テント張りの劇場の座席のような、細い板がバスに横に5枚ほど渡してあるだけの座席である。狭い足元には誰かの荷物が敷き詰めるように置いてあって、その荷物の上に足を乗せざるを得ない。バスのドアは開け放しのまま走り続ける。バス後方に多少大型荷物用のスペースがあるが、そこも荷物と人が折り重なり、一杯になった。途中軽い食事を売っている屋台の傍を通りかかると、寸時バスは止まり、バスの中から人々はサンドイッチだの、スープ蕎麦だの、ぶっ掛け飯だのを一斉に注文し、受け取るや、座るのもままならぬ満員御礼のバスの中でぱくつき始める。バスは日本海の荒波もかくやと思われるほど揺れるのに、たっぷり注がれたスープをよく溢(こぼ)しもせずに食べられるものだ。勢いよく立ち上がる湯気までホカホカうまそうな丼だが、一気にはぐはぐ食べていく。熱くないのだろうか。時には20cmは席から跳ね上がってしまうくらいバスは揺れるのに、舌を噛まないのだろうか。不思議である。我々の驚きの眼差しなどものともせず、彼らはあっという間に朝食を平らげ、ゴミは勢いよくバスの外へと投げ捨てるのであった。私は丁度窓際に座っていたので、空の丼やらスプーンやらが私の目の前を掠めていった。窓から物を投げないでくださいっ。て言うか、窓に向かって物を投げないでください、だ。朝早くから通りの角々では、小さな屋台の朝食屋が店を開いて、例によって小さな椅子とテーブルを並べている。結構な客の入りで、街角はささやかな朝食時の活気に満ちていた。バスが止まるたびに、これでもか、これでもか、と客が乗りこんでくる。



 途中、後ろのスペースで、荷物の山に寄りかかるようにしてずっと立っていたオバサンが、突然大声で怒鳴り始めた。運転手や助手を怒鳴りつけ、バスを止めさせ、一人バスを降りると、皆が好奇の目で見守る中、さっと自分の上着を捲(めく)って一糸纏(まと)わぬ背中を見せて、何やら訴えていた。背中の一部が赤くなっているようだった。乗り合わせた他の女が、やおらスコットランド人の女の子が持っていたミネラルウォーターのボトルを奪い取り、その水をオバサンの背中にかけてやっていた。女の子は、「あの、それ、私の水なんだけど……。」といったゼスチャーをして見せたが、彼女の訴えに拘泥する者など誰もいない。おばさんは怒り止まないまま、再びバスに乗りこみ、しばらくしてとある町で降りるまで、気違いのように大声で何やら運転手に文句をつけ続けた。運転が乱暴だから、体が痛くなったとか何とか怒っていたのかもしれないが、狂犬のようで、少々怖かったことである。他の乗客もヴェトナム人といえども、さすがにこの“背中が痛い!オバサン”には辟易していたのが、なんともおかしい。“背中痛い!オバサン“がバスを降りて去っていった時、バス中で、ほっと安堵のため息が聞こえるようだった。



 やがて、バスが国境に近づいたのは、両替商の女が乗りこんできたことで分かった。若いがしつこくて五月蝿い。両替商はみんな同じようなショルダーバッグを持っている。こうした両替人は闇両替商なので、一切相手にせずにおく。するとたまたま空いた私の横にピッタリと座りこんだ。この彼女の手が実にいかがわしいのだ。片時もじっとしていないのだ。バスの揺れがひどいので、大抵の人は必死で席の前後の鉄棒を握り締めているのだが、彼女はほとんど鉄棒など握らない。常にその手を泳がせている。自分の”両替鞄“を撫で回していたりするかと思うと、私側の自分の脇腹を撫で続けたりする。隙があったら私の鞄から何か盗るつもりなのかもしれない。いかにもそんな挙動なのだ。ええい、何をしようとしているのだ、何をっ?じっとしていなさいっ。ジェットコースターのようなバスの乗り心地や、乗客の呑気でたくましい様子を楽しむどころではなくなった。国境も近い。気を引き締めた。バスが止まった。乗客全員が降りるので、ヴェトナム側の国境、ラオ・バオだとわかった。       

       part52のその2に つづく

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2001年 中高年夫婦世界旅行(part52のその3)





 バスは30分ほど走っていきなり止まった。早速故障らしい。修理が始まる。ガチン、ガチン。バスのどこを叩いているのか、鉄を叩く音がひとしきり響く。30分後、バスは見事に復活。再び快調に走り始めた。このサヴァナケット行きのバスはしょっちゅう故障して、その度に修理に2、3時間止まると聞いていたので、意外と早い復旧に安堵する。しかし、胸を撫で下ろすのはまだまだまだまだ早かった。15分ほど走ったところで、今度はドゥバァーンッ! 激しい破裂音とともにタイヤが弾け、続いてタイヤの芯が道に擦れる音がガラン、ガツン、ガランと響き、ガッコンバッコン、ひとかたならぬ上下運動にバスの中は騒然となる。道を抉(えぐ)るようにして漸くバスが止まると、またもや修理が始まる。屋根に積み込んであった大きなタイヤを一本降ろし、付け換える。タイヤ交換さえすればまたすぐ走れるだろうと、胸を撫で下ろし、待つ。



 ところが、今度は30分たっても一向復旧しない。バスが止まると風が入ってこなくなるので、車内は耐えられない蒸し暑さだ。異臭はいやましに鼻を刺す。耐えきれず、外に出てみて驚いた。不思議の国、童話の村に降り立った、と思った。そこは山岳民族の村であるらしく、絵に書いたような緑深い山あいであった。でこぼこの一本道が赤茶けた帯のように、深い緑の中に浮かび上がり伸びている。周りは煙るような緑である。空気まで緑色に染まって見える。そのあまりに濃い緑の中にひっそりと溶け込むように、点々と高床式住居が佇んでいる。竹を薄くしごき、伸ばして編んだような筵(むしろ)の壁。藁(わら)かあるいはバナナの葉なのか、とにかく柔らそうな植物で葺(ふ)かれた屋根。ボロボロの梯子(はしご)が地上2mはあろう高床に掛けられている。上り下りが大変そうだ。煤ボケた家屋を取り巻くバナナの樹、椰子の樹、数々の丈高い樹々。緑、緑、緑の露に村全体が濡れているように見える。ふと気が付くと、少し小高くなった土手に、部族の子供達が5、6人一列に並んでこちらを見下ろしていた。黙ってじっと我々バスの一団を偵察している。手には色とりどりの雨傘が握られている。さきほどスコールがあったが、そのせいでこの村が緑に濡れて見えるのだ、と合点がいったことであった。(もちろん、緑に「蒸れて」もいたのは言うまでもない。) 雨が上がってもいまだに傘をさしている者、傘を畳んで武器のように構えているもの、皆それぞれのポーズを取っている。目が合って笑いかけてみても、誰一人笑い返しもしない。ただひたすら我々一行の様子を、何時間でも同じ土手の上からじーっと眺めているのであった。



 そんな不敵な子供達の姿を見ていて、ヴェトナムのとある少数民族の話を思い出した。その少数民族の村では、子供が生まれてもすぐには名前を付けないという。その子が健康な子でこれから充分生き抜く力を持っていると見なされた時、初めて名前が付けられるというのだ。過酷な生活の中から生まれた習慣であろう。今、土手の上に居並ぶ子供達も、そんな風に選ばれた子供達なのかもしれない。



 バスの修理は実に1時間過ぎても終わらない。タイヤ一つ交換するのに何を手間取っているのかと、じれて修理人の様子を見にいくと、修理人のお兄さんはバスの底にもぐりこんで、大きな泥の水たまりにズボンごと座り込み、でこぼこ道の石に手の甲を擦られながらスパナをチマチマ回している。一生懸命やっていたのだ。しかしあまりに非効率的。きちんとジャッキで車体を十分な高さまで上げなければしようがないだろうに。ジャッキはというと、木製の杵(きね)のようなものが一つあるばかり。これでは、ネジなどまともに閉められるわけもない。仕舞いにはスパナを放り出して、ナットを手で閉め出した。この調子では、このままここで立ち往生して夜が明けてしまうかもしれない。誰もがそう考え始めた頃、乗客が一人二人と減っていった。空気まで違って感じる山の中の一本道なのに、時々車の往来がある。どの車も気の毒そうに、あるいは冷やかすように我々のバスの横を通り過ぎて行く。そのうち、バスの現地人乗客の何人かが、しびれを切らせて、通りかかった車をヒッチハイクして去って行ったのだ。しかし我々はそうは行かない。ラオス語も話せない。右も左も分からないのである。とにかくバスが直るのを待つしかなかった。私がじりじりと苛立っていると、カラン、カラン……と鈴の音も優しげに牛の群れが通る。メェメェメヘヘヘヘェーッと山羊達が列をなして通り過ぎる。黒豚も呑気に草を食みに出てきた。夫と私以外は、皆さん、いたって平静。それぞれ昼寝をしたり、ゆで卵をひたすら剥いたり、おしゃべりしたりして、うだるようなバスの中でも我が家にいるようなリラックスした表情で、午後の一時を楽しんでいた。スコットランド人達も得意のトランプなど始めて、余裕である。考えてみれば、こんな夢の中の絵のような風景をゆっくり見られるのも、バスの故障のおかげである。バスはいつかは出るだろう。今この一時を十分に楽しもう、と気分を持ち直しかけるが、再び降り出した雨を避けてバスに入ると、いかんせん、蒸し暑い、臭い、狭い、暑い、暑い、暑いっ!(私はプチ閉所恐怖症なのであった。)



 息も苦しくなってくる。もう耐えられないーっ!とブチ切れそうになった時、漸くバスは直った。3時間に及ぶ大修理であった。ブルルルンッとエンジンがかかる。ああ、救われた。神に感謝してしまう。(本当は修理スタッフに感謝すべきではあるが、彼らは彼らで3時間ぶっ通しで修理していたわけではない。暢気にゆっくり休憩など取りながらの修理ではあった。)



 もう止まらないでくれ!という祈りも空しく、15分も走らないうちにガクン!と、またバスは止まった。またも修理だ。こうなると、修理が終わって走り始めても、またいつ故障するのではないかと気が気ではなくなってくる。バスはこちらの不安など知ったこっちゃないと言わんばかりに、またもや、悪路を全力疾走、ガシン、ゴシン、岩や石を跳ね飛ばし、飛び上がり、ガクン、ガックン波打ちながら走っていく。しかし、なんとかパンクもせず、順調にかなり走った。



 フエを発ってから2日目の、26日の丸1日が、ラオスのデコボコ道の途上で暮れていった。早朝5時半から走り始めて、深夜11時も過ぎた頃、舗装された部分のある道路が増えてきた。かなりスムーズに走れる。アスファルトで舗装された道路とは、かくも快適なものなのか、と近代道路の霊力に平伏(ひれふ)す思いになる。このままスムーズに行けば、深夜12時か1時にはサヴァナケットに着けるだろう。と、思っていた矢先、バスの運転手は舗装道路の部分を走っている間だけでも時間を稼ごうと思ったのか、気違いのようにバスを飛ばし始めた。そんなにスピードを上げたら、また故障の原因になるではないか。ウトウトしかけた眠気も吹き飛ぶほどのスピードである。おいおい、スピードをもっと落とした方がいいぞ。ひやひや身を硬くして運転手の正気を伺った。もう目が血走っている。



 と、案の定、ドグワッ!ドゥン!カッシャーン!パリン!ゴロッゴロッゴロッ……。鈍い衝撃。何だ?何が起こったのだ?屋根から荷物が落ちて、フロントガラスが割れたのか?騒然となる我々を後目(しりめ)に、運転手はスピードを緩めることなく走り続ける。さすがに他の乗客達も心配顔。バススタッフらしい男が何やら鋭く叫んで運転手を制した。と、激しいブレーキ音を立てて、擦れるように漸くバスが止まる。今度は牛を轢いたらしい。道に3匹牛がいて、そのうちの子牛を二頭跳ね飛ばし、その衝撃でヘッドライトが割れ、ライトがつかなくなってしまっていた。ゴロンゴロン転がっていったのは轢き殺された子牛だったのだ。ヘッドライトがなければ、道は真っ暗。一寸先も見えない。とりあえず道端にバスを寄せて修理しようというのであろう、バスは静かに静かに忍び足で、暗黒の闇の中を進み始めた。おいおい、いくらゆっくり進んだって、闇の中を下手に進んだら……!バスが路肩を踏みはずし、ゆっくりと右に傾き、一回転、二回転。ズゥム……。 鈍い音を立ててバスが止まる。荷物は散乱し椅子から放り出された人、人、人で車内は上を下への大騒ぎ……なんてことになったら、どう対処したら一番いいだろうなんてことを想像しているうちに、バスは無事路肩に止まり、修理が始まった。車内のエンジンボックスのようなものを開けて、何やらエンジンを吹かしている。エンジンも壊れたのか?絶望的な不安に駆られながら、見守る。他の乗客は我関せず。バスの床に横になって深い眠りについている者、狭い椅子の上で足をよそのシートに引っ掛けて寝ている者、皆、白河夜船で静かなものだ。さすがにスコットランド人達は我々と同じく辟易し始めたようだが、それでも懐中電灯を手荷物の中から取り出して、修理に協力したりしている。軽そうな鞄に見えるのに、トランプやら懐中電灯やら、色々持っているニクイ奴である。修理工は、どうやらバスのバッテリーを細工して、ヘッドライトに明かりを作ったようであった。心もとないか細い明かりが、それでもほんの1、2m先ぐらいの道は照らす。やれやれ、これでソロリソロリと走ってくれれば、という祈りは通用しなかった。弱視状態のバスはそれでも思いっきり力強く走り始めた。おいおい、大丈夫かい、と思う間もなく、俄(にわ)かヘッドライトはフゥと消えた。まるで風に吹き消された蝋燭のように。おいおい、またか?と思っていると、チョイチョイッと手直ししてまたライトがつき、バスは走り始める。と思っていると、またライトが消えた。「こりゃあかん。」とラオス人でも思うのか、しばしバスを止めて、バスの外で首脳陣が雁首揃えて臨時会議を始めた。どうするつもりだろうと見守っていると、後方からやってきた通りすがりのトラックの後に続いて、そのトラックのバックライトを頼りにバスは走り始めた。トラックが安全運転をしているので、必然、バスもトラック同様の安全速度だ。よしよし、始めからこのぐらいのスピードで走っていればよかったのだ、と安心したのも束の間。バスはとある休憩所で止まってしまった。トラックは走り去ってしまった。折角見つけた水先案内人をなぜそのまま行かせてしまうのか。がっかりしている私の心など知るよしもなく、運転手達は深夜のお食事タイム。乗客達は、食事する者、眠る続ける者、様々だが、誰一人微塵も動じていない。運転手がやがて楊枝を加えてシーハーシーハー言いながら食堂から出てきた。走り始めてすぐ、またもや、か細いライトが消えた。またもや首脳陣会議。そして今度は誰かがバスの屋根に上って、そこで懐中電灯を燈しつづける作戦に出たようだ。(実際確かめに見には降りなかったので、屋根の懐中電灯男をこの目で見たわけではないのだが。)



 今度のライトは我々の席からもそれと分かるほど灯っていた。お陰でバスはまたもや疾走する。もうどうとでも走ってくれ、と投げやりな気持ちで揺られていると、いつの間にかウトウト眠ってしまった。眠っていたことに驚いて目を覚ます。バスは順調に疾走を続けていた。やがて街らしい建物が建ち並んだ区域に入った。とうとうサヴァナケットであった。バスは街の中心から少し離れたバスターミナルで漸く止まった。朝4時半。25日の夕方6時に出発して、27日の朝4時半到着。実に34・5時間の長く過酷なバスの旅であった。(誰だ?「20時間も掛かる」なんて言ったのは。)



 そして、やはりなんとも楽しい興奮に満ちた旅であったことか。身体中ギシギシ音を立てているように痛いし、睡眠不足で頭も重い。しかし、気分は爽快。過酷な旅に耐えたいう達成感。このルートでこそ味わえた数々の体験、発見の妙味。身体中赤泥まみれ、汗まみれなのだが、腹の底から笑いたいような爽快感に満ちたサヴァナケットの第一歩であった。(その後、ラオス側の道、つまりクロサからサヴァナケットまでの道の、ほぼほとんどにアスファルト舗装が施されて、移動時間が大幅に短縮されるようになったと、聞いている。)



追記:クロサのホテルを出てからサヴァナケットまで道中、トイレ休憩は2、3度あったが、トイレなどない。スコットランド人の女性達は完璧にどこかに身を隠せる場所がある時だけ、用を足していたようだ。私はというと、とうとう1回も行かなかった。34・5時間、よく尿意を催さなかったものだと我ながら感心する。おそらく体中から汗で排泄していたのだろう。となると、おしっこも汗も同じものじゃないか。人前で用を足すということを恥ずかしく感じてしまう私は未熟であるよ。とは思うものの、やはり、あのしゃがんだカッコウはなんとも無防備であることよ。おまけにトイレットペーパーを使う人の排泄の後は、使用後のトイレットペーパーが美しい原に醜く残っていて、とても汚らしい。野小便、野糞をするなら紙を使うな!と、私は思うのであった。それもできない私は、体中から汗として排泄するしかないのであった。とほほ。

 これでラオ・バオ越えは無事終了。   旅は つづく

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