昨日の記事を書き終えて
 
夜寝る前にこの記事を読みました。
 
 

 

happyちゃんのブログはライン@で更新情報がくるので、そのときに読むのですが
 
あれ?何日も来てないなぁと思って見に行ったら、この記事が更新されてありました。
 
読んで、わけもなく悲しくなり
 
happyちゃんはエネルギーの大きな人だから、その悲しみのエネルギーに当たったんだと気付きました。
 
 
彼女はとても発信するときの自分の状態を大切にされていて
 
いい気分でないときには更新しないようにしているとか。
 
でも、この記事にはとても大きな悲しみのエネルギーがあったように思います。
 
どんなに宇宙の真理を実践されている人でも、

人間らしいところがそのままでとっても大好きです。

 

そしてきっとこれからのことも

 
姿で魅せてくれるのだと。
 
 
 
わたしも先月、次男のことが起こったときには
 
ある人の胸を借りて、ワンワン泣かせてもらいました。
 
 
 
悲しいままで寝たくないなぁと思って
 
横に寝ているソラの匂いを嗅ぎながら寝ました。
 
 
会ったこともないhappyちゃんのことだけど
 
なぜか夢で答え(わたしなりの)を教えてもらいました。
 
 
そしてそれは
 
わたしへのメッセージでした。
 
 
昨日わたしが書いた記事。 「他人は好き嫌いを知るための鏡」
 
 
こう書きました。
 
✩ ✩ ✩
 

例えば、わたしなら

 

・毎日幸せを感じながら生きたい

・夫や子どもたちと笑い合って生きたい

・安心感やくつろぎが欲しい

 

それくらいにまで、シンプルになりました。

 

✩ ✩ ✩

 

 

削ぎ落として削ぎ落としてシンプルになったと自分で書いたこの文章。

 

違ったんです。

 

 

究極のシンプルとは

 

すべてなくても、幸せである

 

という状態。

 

 

夫と子どもと、と書きました

 

わたしは彼らを魂のとてもとてもつながりの深い兄弟みたいに感じています。

 

 

家族以外に大好きな人はいっぱいいるけれども

 

彼らと過ごした時間の濃さ、分かち合ったものの多さは

 

やっぱり別物なんです。

 

だから、家族以外の人たちがいなくなっても

 

家族だけがいたら、幸せで生きられる

 

そう思っているんですね。

 

 

けど、

 
究極のシンプル化は
 
その最後の最後まで大切な
 
家族を無くしても
 
そしていわゆる今持ってるいる全てのしあわせを無くしても
 
「自分である」
 
ということなんじゃないか?っていうメッセージだったんです。
 
 
これ、気づいたの、夢から覚めた午前3時。(よく、こんなことあるんです^^)
 
 
そっかそっか。
 
だって、実は今、わたし、小さな予感に毎日胸を痛めている。
 
 
それは次男が家を出ていくだろうこと。
 
※まだ決定はしてませんが、心には決めている気がする。そしてそれが彼のためにいいことだと、わかる。
 
 
中学校を卒業して
 
生きることを決めた彼は
 
夢に向かって進み始めました。
 
 
けど、その彼の夢のために
 
もう親として、なにもしてやれないことが、すごーく明らかなんです。
 
 
先日も、わたし的に
 
これ見たら、すっごく次男の夢のヒントになるだろうな~と思う動画を見つけて
 
「見てみて~」と声をかけました。
 
わたしの傍でじっと20分間、その動画を見ていました。
 
見終わった感想が、「こういうことは前に考えたことあるし、、、うん、、、」
 
 
なんともいえない感じでした。
 
 
言葉の裏には明らかに
 
「おかあ、ありがたいねんけど、違うねん。そういうんじゃなくて。」
 
的な
 
気を使ってくれながら、もう、しなくていいよ、と釘をさされた的な。
 
 
 
わたしの子育てにおいて
 
15歳を超えたのは二人ですが
 
この年齢になった子は
 
もう完全に自立をしてしまっています。
 
 
わたしが長男にそれを感じたのは
 
彼が中2のときだったかな?
 
大喧嘩になって、取っ組み合いをしたときに
 
彼が私に対して、手加減をしていることに気づいたとき。
 
 
すごーく悲しかったことを覚えています。
 
 
今の一般家庭では
 
15歳といえば、まだまだ家にいて
 
生活のほとんどを親に頼っているから、気づきにくいかもしれないけど
 
でも、自分の当時を思い出しても
 
高校生くらいになったら
 
もう親と気持ちを分かち合えない感じを持っていた気がします。
 
 
幼児や
 
小学生や
 
中学生の前半のときのように
 
彼らのありのままを、そのまんまのエネルギーでぶつけてきてくれるのではなく
 
この頃になると
 
ひとつ、ステップを置いて、ぶつけてくるようになるんです。
 
 
気を使う
 
って言葉がぴったりな。
 
 
 
そしてそれは、すごーーくさみしいです。
 
 
子どもは親を助けるために来るという。
 
その魂が決めて来た期間を終えるのが、

ちょうどこの時期なんですね。
 
 
 
たくさん助けられました。
 
お世話をしているようで、いつもいつも助けられていました。
 
 
 
最後も助けたようで
 
やっぱり助けられていた。
 
 
だから子供の方は
 
出て行くとき
 
笑って出ていくのだろう。
 
 
 
わたしもそうだったんです。
 
わたしが家を出たのは、結婚のときだったのですが
 
自分の荷物を引っ越すとき
 
なぜ母が泣いていたのか
 
当時、ぜんぜんわからなかったんです。
 
 
こんなにおめでたいことなのに
 
永遠の別れでもないのに
 
母はなんでボロボロと泣いているのだろう?と
 
思ったことを覚えています。
 
 
今なら、わかります。
 
 
 
一緒に過ごす中で
 
どれほどもらっていたのか
 
別れを予感する今
 
おもくそ感じるのだ。
 
 
いや、分かっている。
 
 
ただの状態の変化であって
 
これは別れではない。
 
喜ばしいことなんだって。
 
 
けど
 
喜ばしいことと
 
寂しさは
 
どうしてこうも同時に来るのだろう。
 
 
この二極の世界を
 
少し恨みたくなる。
 
 
変わらないものなんてないってことは
 
別れはズンズン来るということ。
 
 
まさかのhappyちゃんのブログから
 
彼女の悲しみが
 
わたしの中に生まれ始めていた
 
悲しみの種を発芽させてくれました。




 
 
次男のこと
 
生まれて来てくれてからの15年が走馬灯のように思い出されて
 
こんなにキラキラしたものがそばにありながら
 
その眩しさに目を背けてしまった時期や
 
別れを前にしてその輝きを最大に感じている今を思って
 
たくさんたくさん涙が出ました。



本当にありがとうと

思って。




育てさせてもらえるということは


愛を注がせてもらえるということは


こんなにもたくさん

受け取ることなんだって。


 
 
 
いつも一緒にいるのだけが幸せの唯一のかたちではなく
 
自立したもの同士の繋がり方が
 
ある。
 
 
それは
 
確かにわたしは体験済みでして
 
長男と離れているからこそ生まれる
 
深い繋がりがある
 

 

 
究極のシンプル化とは
 
ある
 
 
ない
 
の両極に開いている状態なのだと思う。
 
 
 
そういえば、先日、ふいに50万円の借金の存在がわかったときに
 
夫とめちゃくちゃ凹み
 
話し合って
 
「もしかして最悪この家を手放さないといけなくなったら、売ったらええやん」
 
って言われたんです。
 
 
そのとき、めちゃくちゃ抵抗を感じたのですが
 
そうだな~
 
と、思えました。
 
 
なくなっては困るものが多いほど
 
とても不自由で
 
苦しみを産む原因になる。
 
 

だから、夫すら
 
なくても大丈夫である
 
自分というのが
 
本当のシンプル化。
 
 
つまり
 
わたしである
 
ってことなんだろう。
 
 
 
 
 
 

 

 

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