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2010-02-07 01:03:30

山内容堂(豊信)

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 公武合体や大政奉還を先導した土佐藩藩主『山内容堂(豊信)』は、ペリー来航を機に頭角を現し、積極的な藩改革を行ったことから「幕末の四賢候の一人」と呼ばれました。
 嘉永元年(1848年)に、十三代・十四代藩主が相次いで急死したため、分家で当時22歳であった『山内豊信』が十五代藩主に選ばれることとなりました。(ちなみに、初代藩主は何年か前の「NHK大河ドラマ」【巧名が辻】の主人公『山内一豊』です。)
 『山内豊信』は『吉田東洋』などを参政に登用し、海防強化・流通統制・洋式軍備採用など藩改革を進めていきました。
 安政六年(1859年)、『山内豊信』は将軍世継問題で揉め、【安政の大獄】で隠居謹慎を命じられました。その間、腹心の『吉田東洋』が暗殺されてしまいます。
 謹慎処分が解かれて後、『山内豊信』は名を『山内容堂』と改め、『武市半平太』らの【土佐勤皇党】の弾圧に乗り出しました。その後、『吉田東洋』門下の『後藤象二郎』を抜擢し、再び藩改革を推進していきました。
 【薩長同盟】が成立し、倒幕に向けて日本が動いている中、『山内容堂』は依然「幕府」を擁護し続けました。
 『山内容堂』は、『坂本龍馬』や『後藤象二郎』らに提示された【大政奉還建白論】を利用し、「幕府」の延命を図りますが、明治維新へと向かっていく時代の流れは変えられませんでした。
 『山内容堂』は、自らを「鯨海酔候」称したように、酒と詩と女をこよなく愛し、晩年は妾を十数人も囲み、作詞と飲酒に明け暮れ、豪胆で酒池肉林な日々を送ったと云われています!?
 明治五年(1872年)、積年の深酒が祟ってか?…脳溢血で倒れ、波乱な生涯に幕を閉じました。
 
 
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2010-02-05 02:51:16

岡田以蔵

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 土佐藩下士の家に生まれた『岡田以蔵』は、貧困で道場には通えませんでした。そこで『岡田以蔵』は独学で剣術修行に励んでいたところを『武市半平太』に認められ、門弟として迎え入れられました。
 兄貴分であり、自分を認めてくれた『武市半平太』を『岡田以蔵』はずっと慕っていくこととなり、いかなるときにも『武市半平太』に付き従ったと伝えられています。
 文久元年(1861年)『岡田以蔵』は、『武市半平太』が結成した【土佐勤皇党】に加盟します。そして『武市半平太』のもと、苦悩しながらも「天誅」と称し、尊皇攘夷の邪魔となる者達を次々と暗殺していき、「人斬り以蔵」と呼ばれ恐れられるようになっていきました。
 あるとき『岡田以蔵』は警吏に捕らえられ、厳しい拷問を受けることとなりました。
 これを知った『武市半平太』は、他の志士に害が及ぶことを恐れ、『岡田以蔵』の毒殺を謀ります。しかし、『岡田以蔵』は死なず、逆に師『武市半平太』の裏切りを知った『岡田以蔵』は、全てを自白することとなってしまいました。
 これにより『武市半平太』は切腹。そして『岡田以蔵』は斬首の刑に処せられることとなってしまいました。
 ただ純粋に人を信じ、裏切られてしまった(幕末四大人斬りの一角!?)…「人斬り以蔵」の最期でした。
2010-02-04 12:47:14

武市半平太

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 『武市半平太(瑞山)』は聡明な美丈夫と名高く、人柄も良く、幼少より文武両道の才を見せていたと云われています。
 家柄は「白札」という「上士」と「下士」の間に当たる特殊な身分でした。
 国学や西洋砲術、書、絵画と幅広い分野の手習いを受け、武の道では二十歳で免許皆伝、城下に剣術道場を開くほどの腕前でした。
 安政三年(1850年)に藩命で江戸に遊学し、幕末三剣客と名高い『桃井春蔵』のもとで修行し、翌年には塾頭を務めています。
 『武市半平太』は尊皇攘夷派の志士で、土佐による一藩勤皇を夢見ていました。
 文久元年(1861年)、『武市半平太』は二百人近い同士を集め、【土佐勤皇党】を立ち上げました。この【土佐勤皇党】には、『坂本龍馬』も参加しています。
 文久二年(1862年)、藩政の腹心で公武合体派の『吉田東洋』が暗殺されるという事件が起きました。
 この『吉田東洋』暗殺事件を機に『武市半平太』は、藩政に関わる役職に尊皇攘夷派の志士を送り込む工作をし、藩政を尊皇攘夷路線に鞍替えさせました。それと同時に朝廷での工作も行い、尊皇攘夷派の中心人物として活動を広めていきました。
 『武市半平太』はその後も『岡田以蔵』を使い、「天誅」と称した邪魔者の排除を行い、強硬な手段をとり続けていきました。
 こうした『武市半平太』の暴走を、土佐藩主の『山内豊信(容堂)』は快くは思わず、ついには藩政の改革に乗り出し、【土佐勤皇党】を弾圧していきました。
 【土佐勤皇党】の弾圧により、『武市半平太』は投獄されます。
 投獄生活が一年を過ぎた頃、土佐を脱藩した『岡田以蔵』が京都で捕縛され、土佐に護送されてきました。『岡田以蔵』は全てを暴露し、『武市半平太』は切腹することとなりました。
 以下が慶応元年(1865年)、『武市半平太』が親族に切腹を命じられた後に送った手紙の一文です。
 
 「国の為め、君の為めに命を捨てる事は、武士の真の道」
 
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