映画の感想です。

 

Twitterで呟いてたのだけど、

長くなりそうだったのでこちらに。

 

何年か前に話題になっていたので気にはなっていたのだけど。

 

有名なので知ってる方も多いと思う。

キーワードは「聾唖」と「いじめ」かな。

 

恋愛要素もあるのだけど変に冷静に見ちゃって、

一体いつどのタイミングで好きになったのか良くわからなかった。

 

観終わった後の爽快感もない。

そういう趣旨の映画では無いのだと思う。

 

ただ幼少期、映画では小学校が始まりだったけれど、

ことこういった「いじめ」についての話は胸をえぐられる想い。

 

それはニュースも同じ。

ある一定で流れてくる「いじめ」の話題。

 

今はもういい加減大人で、まぁあまり性格は変わってないのかもしれないけれど、子供の頃に「いじめ」と無関係だった人っているんだろうかと甚だ疑問でもある。

 

まるで無関係を装ってる子なんてものは、まさにその典型で、被害者でも加害者でも無い立ち位置さえ守れば自分に非は及ばないと勘違いしてる。

 

 

 

こんな風に書いてると加害者でもあったかのような書きぶりではあるのだけれど、先に書いたように「どちらでもない」と言うつもりはない。

 

どちらかと言えば「どちらでもあった」と言うのが正解で、どっちが先がというものでもなく、一言で言うなれば「加担者」という言葉がしっくりくるのかもしれない。

 

今回この「聲の形」を観て、ものの数分で感じたことは、

 

 

 

 

 

あ、同じだ。

見たことある光景だ。

 

 

 

 

フラッシュバックにも似た印象を受けた。

 

 

でも事実は映画よりももう一段階複雑に仕上がっている。

 

 

いじめられていたのは知的障碍者の子。

いじめっこは他クラスメイト全員と言っても良い。

 

当然、皆が同列にいじめをしているわけではない。

 

2,3人の幅を利かせてる奴らで、自分たちは一番強いと勘違いしている人達。

もっとも「一番面倒くさいやつ」というのが本当の所。

 

その下に同調して笑うやつ、なんとなく小声で相槌を入れるやつ、へらへらしながら「先生が来たよ」と、まるで仲間を演じながら実は助けた気になってる偽善者というか、まぁ仕方がないんだろうね。

 

何にもしないやつよりはマシに思える。

 

ただ、それでは何の解決にもならないし、同罪で変わりはないとも思う。

 

私は元々転校生だったので、あまり派閥だの何だの、関係のない立ち位置にいた。

 

仲良しは居たけど、深い友達だったとは言い切れないし、

現在ではもう赤の他人、名前さえ思い出せない当時の仲良し。

 

これも今思えば、処世術だったんだろうね。

誰かと仲良くすることで転校生というアウェイ感を消していたというか。

 

実はこの時の転校は2度目で、

初めて転校したのは小学2年の頃。

 

転校初日からいきなり「いじめ」を受けたのがトラウマだった。

 

小学2年なんて、今の大人の感性で考えるとまだまだ子供どころか赤ちゃんに毛が生えた程度にしか思わないでしょ?

 

でも子供の頃って、毎分毎時、それは完成された風景であって社会であって現実であって。子供の頃に「これは子供の世界だから~」なんて思うわけもなく、術もなく。

 

それはもうれっきとした序列が確立された大人の社会。

 

転校初日に数人に押さえつけられ、

目に砂を押し込まれた。

 

この辺りは目がどうなるかなんて予想も出来ない悪魔的子供の仕業とも言える。

視力は低下し、特に眼鏡とか必要なかったのに眼鏡が必要になった。

 

当然親には言ってない、多分ここで初めての告白。

 

親には夜布団の中で本の読みすぎだとか、本を近く読みすぎだとか寧ろ怒られて。

学校ではいじめられ、家では怒られ、当時の教員職はガテン系なわけだし。

 

助けて欲しいという人頼みの性格でもないので、一人で溜め込むしかなかった。

 

当然まわりのクラスメイトは見て見ぬふり。

 

ただ学年が上がるとクラス替えもあって、またそこでちょっとした楽器の才能が開花したせいもあって、新しいクラスでは少し人気者になったかな?

 

2年の時のいじめっ子は、次のクラスではいじめられっ子になってたから、

 

 

 

 

 

 

ざまぁ

 

 

 

 

 

 

 

とほくそ笑んでた。

 

 

持論になるけれど「いじめ」は必ず風化する。

恨みの念が強い場合は大人になってからの事件に発展することも少なくないけど。

 

晴らす的なね。

 

でも殆どの場合、そんな事もあったねぇ程度の軽いものと捉えるのが加害者であり、そんな事もあったっけかなぁと矮小化して記憶をすり替えるのが被害者でもある。

 

 

そうして大人になっていく。

 

 

この辺りを忘れてしまった大人に「いじめ問題」に触れてほしくないね。

間違った方向にしか行かない。

 

大人が介入することで解決する確証なんてどこにもないし、大人が介入したせいで自殺に至ってしまったケースだってたくさんあるわけで。

 

 

 

結局は「強くある」しか無いのだと思う。

 

 

 

じゃあ弱い人間はどうすればいいの!

なんて反論はあるよね。

 

だとしても「強くあれ」としか言えない。

 

弱いのなら強くなるしかない。

腕力で勝てないなら頭を使うしかない。度胸を養うしかない。

 

 

折れない心を手に入れるしかない。

 

 

どうやって見つけるかは人によって様々だと思う。

映画や小説、漫画からでもいいよね。

 

身近な大人、親兄弟でもいい。

 

 

折れないと言っても強く戦える心だけではなく、しなやかにかわせる心や、逃げ上手的な精神力などなど色んな「化け方」はある。

 

笑顔で逃げ切る。

これでもいいじゃない。

 

何あの子気持ち悪い。。。

 

そんな声が聞こえても無視して笑ってられる心。

これも正解の一つだと思う。

 

とにかく「聲の形」に登場したクラスメイト達の立ち居振る舞いが、色んな心を思い出させてくれた。

 

長くなったけど、2回目の転校に戻る。

 

 

結論から言うと、私は助けに入った。

それも思いっきり助けた。

 

クラスメイトを全員巻き込む勢いで。

 

 

当時から既に「いじめられっ子を助ける行為はとても危険な行為」という認識が暗黙されていた。そんな中で私の取った行動はとても派手だったかもしれない。

 

トラウマの反動だったかもしれない。

 

 

あ、言い忘れてた。

 

 

私が助けに入るきっかけをくれたのは、同じクラスメイトの子だった。

 

その子が聾唖の子だった。

 

 

聾唖の子が見かねて助けに入った。

でも当然上手くしゃべれない。

 

正直聞き取れない。

でも怒ってるのは分かった。

 

当然茶化される、笑われる、罵られる、矛先が変わる。

 

私はその正義が潰される光景を見ていられなかった。

 

 

 

小学2年の頃に夢見ていた正義の味方。

そんな勇気ある人を敗者にしてなるものか!

 

 

 

もちろん当時自分が取った行いが正しいかどうかは今でも分からない。

 

ただ後悔は無い。

 

 

派手に振舞ったというのは全て書き出すのは難しいので簡単に説明すると、大きな声で相手の言葉が詰まるまで口論を繰り広げた。聾唖の子に聞こえるようにとにかく大きな声で。

 

教室は静まり返って、私vsいじめっ子数人の声だけが響き渡る。

物を投げられたりしたけど、それも言葉でやり返した。

 

とても蔑んだ、人格を否定するような、相手の家族まで落とし込むような、また様々な仮定を問いかけて答えるまで質問を繰り返した。

 

こっちが休んでしまうと相手は攻勢に出るかもしれない、とにかく大声で捲し立て続けることで、クラスメイトに知らしめ、引っ込みが付かなくなった相手が暴力に出る怖さもあったけど、時間になって何も知らず教室に入ってきた先生(大人)にキラーパスして丸投げした。

 

 

私は次からいじめの標的になる。

 

それは覚悟していた。

 

 

だから先制攻撃を仕掛けた。

いじめっ子をいじめたのだ。

 

いじめ環境は任意に作ることが出来る。

それも正義感たっぷりに作ることが出来る。

 

聲の音量は大事。

 

 

「いこういこう!あいつらに関わるといじめられるから近づかないほうがいいよ!」

 

 

逆上されて殴られそうになっても一言添えて逃げればいい。

 

 

「うわ~きた~!きも~い!逃げろ~w」

 

 

とにかく相手の行動を小馬鹿にあしらって、第三者から見て滑稽に映ればいい。

そして「正義チーム」の派閥を拡大していけばいい。

 

これを継続する事でクラスは平和になる。

 

今まで恐れられていたいじめっ子は孤立し、そのいじめっ子達の下っ端?あたりもこちらに引き込んでいく。下っ端も所詮は恐怖政治に負けていただけの可哀そうな子なのだ。

 

派閥だった「正義チーム」を拡大することに意味はない。

最後は私も「良い子」で締めくくらないといけない。

 

派閥の概念はなく単なる「クラスメイト」な雰囲気が漂い、誰かがいじめ風な事を醸し出しても、「えこちゃんに怒られるよ」的な。

 

これはこれで居心地が悪い。

 

次のミッションは「楽しい」って事を伝導する。

普通が楽しいってだけ。

 

派閥云々ではなく、趣味が合えば話も弾むし、合わないなら参加する必要もなく、それは村八分に繋がるものでもないという事を。だから各々が色んな人とくっついたり離れたり。

 

ずっと一緒にいることが「仲間」「友達」ではないってこと。

人脈の幅が広がる楽しみというかね。

 

だからこそ「元いじめっ子」が完全に孤立して口も開かなくなった頃、私からその子に声を掛けた。嫌味は無かったと思うし、自分なりに正義も貫いたとは思ってる。

 

 

「前はすごく怒ってごめんね。あ、そうそう、漫画何が好きなの?そうなんだ!ねーねー!〇〇君あの漫画好きなんだって!私も好きなの面白いよね^^今度たまには一緒に遊ぼうよ!」

 

 

みたいな流れ。

 

まぁ私だけ誰とでも喋る無双状態を作り上げたのだけど、あくまでも「化けてた」だけだから無理感はあったし、そんな私を怖がって距離を置かれているのも感じていたけど、卒業までいじめは途絶え、平和だったと思う。

 

おかげで薄い友達関係(浅く広い)しか作れなかったから、中学の時の友達なんて3人くらいしか残ってないのだけど。まぁ元々転校生でアウェーなわけだから、どうでもいいんだけどね。

 

 

こんな性格だから「聲の形」については微妙な感想しか言えない。

 

 

最後のシーンなんて、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・はぁ?

 

 

 

って感じだったもの。

 

 

絵は可愛いので、観て損は無いと思います。

 

 

 

以上