ある日シズナはスィヤに頼まれて、イランから送られてきた絨毯や雑貨を成田空港で受け取り、大きく湾曲した高速道路を運転していた。トランクや後部座席に荷物を積んで湾岸の高速道路をスムーズに走った。両側のウィンドウの下方には海が広がり陽に照らされて煌めいている。カセットデッキからはダフとネイとタールのアンサンブルと、結婚を祝う陽気な歌声が聞こえてくる。あまりの心地良さにシズナは口ずさんだ。高速道路はカーブしていて、陽が反射している目映い海と地平線が見下ろせた。ハンドルを切ったその瞬間、湾曲した道路のガードレールが眼下に迫り、激突した。衝撃で上体がバウンドしてハンドルに顔をぶつけたかと思うと、車とともにガードレールを越えて海に向かって落ちていった。
 手足がびくんと動いて目が覚めた。部屋は暗く窓ガラスの向こうに、高層ビル群が黒い街から抜きん出て空高く林立しているのが見えた。
 アドバルーンのマンボウが、高層ビルの谷間をゆっくりと横切って空に上がっていく。マンボウの動きがいつもと違うので、シズナは目をこすって凝視した。胴体とビルとを繋いでいた紐が切れたのだろう。マンボウは風に乗ってビルとビルの間を浮遊し、夜空へ舞い上がっている。視界の奥へ吸い込まれるように小さくなっていく。粒状になったマンボウは時々姿を現しては、闇夜に消えていった。
ぼんやりして窓ガラスを見ていると、携帯の音が鳴った。電話に出たくなかったので放っておいたが鳴り続ける。仕方なく携帯を取ると、スィヤの元気のない声が耳に入ってきた。
「シズナ……」
「何よ。何の用事?」
「……サンキュウ商事がお金を払ってくれないんだ」
「本当かしら。そうやって言い訳して済まそうとしてるんじゃないでしょうね」
 スィヤは黙った。
「早く車のお金を払ってちょうだいよ」
「わ、わかったよ。取り立ててくるから待ってて」
「ええ、ちゃんと二十五万円を払ってよ」
「う、うん……」
 スィヤがずっと黙っているので、シズナは通話を切った。
 暗がりの部屋の中で、彼女はキリムの上に寝転がった。太陽と草木の匂いを感じながら天井を眺める。黒い蛾の形をした染みは依然としてある。眠くなかったが、鱗粉が降ってくるようで目を閉じた。眠れないので、押し入れからウイスキーの瓶を取り出してきて、口をつけて飲んだ。すぐに酔いが回ってきて、朦朧としてきた。手足が痺れてきて、布団の中に倒れ込んだ。眠気の帳が降りてきて、俯せになったまま、ずるずると暗闇に沈み込んでいった。
 首が痛く頬と口元が湿っていた。不快感を憶えて目を開けた。涎を垂らしていたことに気づき、手の甲で口を拭う。置き時計を見ると夜の十二時だった。今頃スィヤはどうしているだろう。モニカといちゃついているのを想像すると腹が立つ。この時、携帯が鳴った。すぐに電話を取ると、スィヤだった。
「シズナ……」
 弱々しい声だったが、周りから緊迫した男たちの騒がしい声が聞こえてきた。
「シズナ、シズナ……」
 スィヤは何度も呼びかける。男たちの怒鳴り声がした。
「こらあ、誰にかけてんだい、おい」
 男たちの騒ぐ声と掠れるような雑音がした。異常な事態であることを察し、起き上がって呼んだ。
「スィヤ、スィヤ」
「シズナ……助けて」
「スィヤ、どうしたの!」
 彼女は完全に目を覚まして叫んだ。
「おら、おら、待てよ!」
 男たちの性急で険しい怒鳴り声がした。急に打ち叩いたかのような大きな雑音が聞こえたかと思うと、通話が切れた。シズナは急いでスィヤの携帯に電話をかけた。――電波の届かないところにいるか電源が入っていません――という女の人工の声がする。何度も彼の電話番号をプッシュしたがつながらなかった。
 彼女は諦めて携帯を充電器に戻し、布団に体を横たえた。目を閉じたが眠れない。寝返りを繰り返した後、仰向けになって目を開く。目の前に黒い巨大な蛾が飛び込んできた。毛布をかぶって丸くなった。手を伸ばして携帯を掴んで取った。毛布の中でまたスィヤに電話をした。やはりつながらなかった。携帯を放って、毛布を被ったままじっとする。眠れなかったが、起き上がると蛾が飛びかかって来そうで怖かった。
 早く太陽が昇ることを願って、目を硬く閉じる。身体が暑くて汗が出てきた。毛布の上に巨大な蛾が止まっているような気がして、身動きせずに汗が噴き出してくるのを我慢した。

 翌朝、窓ガラスを通してじりじりと照りつけてくる陽光で目を覚ました。カーテンを閉め忘れて寝てしまったせいで、部屋の中は太陽光線が散乱していて眩しく、気温が高くなり圧迫感があった。汗をかいていて髪がべとつき、短パンとTシャツは濡れて肌についていた。時計を見ると昼近くになっていた。
 車を弁償してくれるまで<グリスターン>では仕事をしないつもりだ。ゆっくりとシャワーでも浴びようと風呂場に行った。鏡には、寝過ぎなのか涙が出たせいなのか腫れぼったい顔が映っていた。Tシャツを脱いでいる時、部屋の方から携帯の呼び出し音が鳴った。
 もしかしたらスィヤかもしれないと思い、下着姿のまま走って電話に出た。いきなりモニカの声が飛び込んできた。
「シズナ、スィヤどこ?」
「知らないよ」
「スィヤずっといない。かえってこない。どこいった?」
「知らないって言ってるじゃないの。かけてこないで」
 シズナは通話を切った。風呂場へ戻ろうとすると、また携帯が鳴った。今度はスィヤかもしれない。シズナは近づいて携帯を取った。またモニカだった。
「スィヤどこ?」
「知らないってば」 
 シズナは切って風呂場に戻った。下着を脱いでいるとまた携帯が鳴った。無視をしてシャワーの蛇口を捻って身体を洗った。浴室から出て身体を拭き歯を磨いて身支度をした。これから<ペルシャ絨毯・シラーズ>に行きコウカブに事情を話して、残りの給料をもらうつもりだ。また携帯が鳴ったが電源を切ってキリムの手提げバッグに入れた。
 真昼だというのに人通りのない路地を歩いて駐車場に向かった。古アパートを横切り駐車場に入ると、壊れてみすぼらしいシズナの軽自動車があった。だが昨日見た様子とは違っていた。折れて垂れ下がっていた両側のドアミラーに黒いテープが巻き付けてあり、元の格好に戻っていた。
 車体の窪みはそのままだったが、横に走る大きな傷や尖ったもので打ち付けられた多くの点状の傷に、黒い補修液が塗ってある。傷は目立たなくなり、埃や汚れは拭き取られていて磨いてあった。前部を見ると、方向指示器とバンパーは壊れたままだったが、車体の細かい傷は補修されて磨いてあった。サイド部分が切り刻まれていたタイヤは、傷のない中古のタイヤに交換されていた。
 シズナはスィヤに電話をした。電源が切れているか電波の届かないところにいます、という人工の女声がする。昨夜の「シズナ……助けて」という声を思い出す。胸騒ぎを覚えながら携帯をバッグにしまって、表通りに向かった。商店街に出て<ペルシャ絨毯・シラーズ>に行くために地下鉄に乗った。
 <グリスターン>の扉にはCLOSEDの札が掛かっていた。隣りの<ペルシャ絨毯・シラーズ>は営業していて、ショウウィンドウからモジダバの姿が見えた。彼女はガラス扉を押して入っていった。モジダバはレジスターの前の電話で誰かと話をしている。
 シズナは目で挨拶をして、事務室に入った。部屋ではユキコが帳簿を見ながらコンピューターと向き合っていた。すぐにシズナに気づいて安心したようにため息をついた。
「よかったわ。とても忙しかったの。コウカブが警察に呼ばれたのよ」
「どうしたんですか? 一体何があったんですか? 昨夜スィヤから助けを求める電話があったきりつながらなくなりました」
「スィヤが警察に捕まって、入官に収容されたのよ。不法滞在で捕まったの」
「ええっ、スィヤはビザの更新中だって言ってたわ。運転免許証だって持っていたのに」
「有効期限が切れていたんじゃないかしら」
「かしらって……、スィヤの運転免許証やビザを確認してから雇っていたのではなかったのですか」
 ユキコはため息をついて首を振った。
「スィヤは正社員じゃないのよ。だから店の車も使わせなかったの」
「ええっ」
 シズナはあっけにとられた。
「私はスィヤに車を貸していたんですよ。一言注意をしてくださっても良かったんじゃないですか」
 ユキコは目をそらした。
「あなたたち、話し合ってお仕事をしていたんじゃなかったの?」
 シズナは一瞬黙ったが口を開いた。
「車は壊されてしまったんです、スィヤの恋人に。もっとスィヤの身元を確認すれば良かったわ」
 売り場にいたモジダバがやってきて言った。
「スィヤは信用できる善い男だよ。大変なことになったね。これからだっていう時に。スィヤがいなくなると困るよ」
「コウカブ遅いわね」とユキコ。
「これから入官に行ってスィヤと話をしてきます」
別れの挨拶をして部屋を出ていった。レジスターの前にいるモジダバがシズナを見て微笑んで、これスィヤにあげて、と引き出しからペルシャ語の雑誌を取り出して手渡した。
 シズナは雑誌をビニール袋に入れて店から出た。小さな水滴が鼻に落ちた。上を仰ぐと、ビルの隙間から濁ったように黒ずんだ厚い灰色の空が見えた。通りに並ぶ店舗や看板の色が陰っていて生彩がなくなっていた。傘をさして街へ出ていく。雨が降ってきて、通りが水の染みで覆われ、街全体が濡れていった。雨音が激しくなり、水飛沫で煙って見える。靄や雨水でぼやけた視界の中を、急いで走っていった。
 電車を乗り継ぎ入国管理局に向かう。雨の勢いは弱くなっていたが、湿気が身体にまとわりつく。もうすぐスィヤに会える。傘をさして急ぎ足で歩いた。警察の不祥事や入官管理局での暴力事件のニュースが多いのを思い出すと、スィヤは不当な扱いを受けてはいないだろうかと不安になってくる。雨に濡れて鉛の色になったビルが見えてきた。あのビルのどこかに彼が収容されている。スィヤを連れ戻したい。無数のピアノ線のような細い雨が降りしきる中、小走りに向かった。
 広い敷地にそびえ立つ入国管理局の大きなビルの前に来た。受付でスィヤのことを尋ね、急ぎ足でエレベーターに乗った。面会と差し入れの手続きを終えると待合室の椅子に落ちつきなく座った。
 名前を呼ばれて面会室に入る。仕切りのガラスの向こうの部屋にスィヤが座っていた。その隣りに入官職員が座っている。
 彼はシズナの顔を見ると顔全体を綻ばせた。
「雑誌、ありがとう。暇で退屈だったんだ」
「モジダバがくれたのよ」
 ガラスを隔てて二人は見つめ合った。彼の長い睫と目は生き生きとしていて和んでいた。前ボタンを外したシャツにバミューダパンツを穿いている。相変わらず、他のイラン人はしないだろうと思われる格好だった。
「元気そうね」
 シズナは言った。
「元気になったんだよ。来てくれたから」とスィヤは笑った。
「一体、何があったの?」
「サンキュウ商事がお金を支払ってくれないんだ。僕が取り立てに行くと、どうせ不法就労だろうって言われて……口論になったんだ。それで入官に通報されちゃったんだよ」
 シズナは言葉に詰まった。
「不法就労はいかんよ」
 隣りに座っている入官職員が口を挟む。
「不法就労だったなんて私知らなかったわ。ビザを更新中だって言ってたじゃないの」
「ごめん。謝るよ。いろいろ事情があるんだ」
「車を貸さなければ良かったわ。壊されちゃったし、スィヤは捕まっちゃったし」
スィヤは肩を落とした。
「ごめん。必ず弁償するよ。今まで手伝ってくれてありがとう。とても助かったよ。今日も来てくれて嬉しいよ。お金はイランに帰ったら必ず送金するよ。今はお金がぜんぜんないんだ。借金もあるし……。ねえ、シズナ、お願いがあるんだ」
「なに?」
「モニカが僕のトランクを持ってるんだ。その中に少しはお金が入っている。モニカからトランクを持ってきて欲しいんだ」
「あんな奴と関わりたくないよ。モジダバに頼めば?」
「モジにも頼んでみるけど、きっと忙しいから無理だよ。トランクには小銭や着替えの服やお父さんの形見や車の修理の道具が入ってるんだ。時間があったら、モニカからトランクもらってこっちにきて」
 スィヤはモニカの携帯の電話番号を教えた。シズナはのろい動作でバッグからペンと紙を取り出し書き留めた。
「他にお店の人は?」
「コウカブは警察にいるよ。今取り調べ中なんだ」
「そうなの」
 彼女は心細くなった。
「じゃ、また来るね」
 シズナは立ち上がった。終わりですね、と入官職員が立ち上がった。スィヤも立ち上がって言った。
「また来てね」
「モニカとは会わないかもしれない」
「それでも良いよ。また会いに来てよ。待ってるね」
「うん」
 シズナは彼の顔を見つめた。瞳には輝きがなく頬が少し痩けていた。子供のように頼りなく情けない表情をしている。入官職員はスィヤの背中をこづいて押して、部屋から出て行った。

 夕方になって店に戻ると、<ペルシャ絨毯・シラーズ>にも扉にCLOSEDの札が掛かっていた。いつもなら深夜まで営業しているのに。しかし店内は明るく、扉にも鍵が掛かっていなかった。
 事務室に行くと、ユキコとモジダバが座って何かを話していた。シズナの顔を見て、二人は安心したように表情が明るくなった。雨が降っているのにずっと外にいて疲れたでしょう、とユキコが三人分のお茶を入れた。
「コウカブはまだ帰っていないのですか?」
ユキコはうなずいた。
「コウカブは取り調べ中よ。不法滞在者を雇うと私たちまで罰せられてしまうの」
 シズナはため息をついた。
「疲れたので今日はもう帰ります」
「あ、ちょっと待って。シズナさん、まだ今月の給料をもらっていないでしょう。まだ早いけど今渡すわ」
 ユキコは机の引き出しから茶封筒を取り出してシズナに手渡した。シズナは中身を確認した。ユキコはまるでシズナに別れを告げるかのような顔で言った。
「今までありがとうね。よく働いてくれたわね。私たちはここでコウカブを待っているわ」
「明日もまた来ます」
 とシズナは店を後にした。
 自宅に戻り、あり合わせの材料で炒めご飯を作って食べて、入浴をして、いつものようにテレビを見た。相変わらず、政治家の汚職、警部補の覚醒剤取締法違反の偽証罪などのニュースをやっている。
 テレビを切って布団に寝転がっていると、携帯が鳴った。耳に当てるとモニカの声が飛び込んできた。
「スィヤどこ? ずっとかえってこない。どこいった?」
「あんた知らないの?」
「しらない。スィヤ、ずっと、でんわ、しない」
「そう。スィヤは入官に捕まったのよ」
モニカは一瞬黙った。
「スィヤはイランに強制送還されるの」
「うそ! シズナ、うそついている」
「入官に電話して確かめてみれば良いわ」
 モニカは黙ったままだった。シズナはスィヤのトランクのことを尋ねようと思ったが、トランクのためにモニカと会いたくない。躊躇して通話を切った。
 翌朝、マンションの集合郵便箱の中に茶封筒が入っていた。差出人は事故の相手方だった。車の修理の請求書が入っていて弁償してくれというものだった。スィヤから貰った三十万円で足りる金額だった。先方の銀行に振り込んで一件落着した。
 <ペルシャ絨毯・シラーズ>に行くと、CLOSEDの札が掛かっていた。店内も暗く誰もいない。扉に手をかけると鍵が掛かっていた。今日は定休日ではないのにどうしたのだろうか。<グリスターン>も閉まったままで、色鮮やかだったキリムやアクセサリーが暗がりの中に沈み生彩を失っている。ユキコやモジダバはどうしたのだろうか。
 シズナは家に戻ることにした。マンションに着いて階段を上ろうとすると、ふと目に留まるものがあった。アリやホジャやホジャが住んでいた部屋の扉のノブに、電気や水道やガスの新規の申込書などの書類が入ったビニール袋が掛かっている。近寄って見ると、水道のメーターは止まっていて浴室の小さな窓も閉まっていた。廊下の入り口にある集合郵便箱のうち、アリたちのものを覗くと郵便物が溜まっていた。部屋のノブを回すと扉が開いた。
 がらんとして何もなく誰もいなかった。一足の靴もなく、家具もカーテンもない。奥の部屋の窓ガラスからはコンクリートのブロック塀と、廃れた工場の錆びた波状鉄板の屋根が見えた。アリやホジャやホジャはどうしたのだろう。今まで様子を見に行くこともなかったことを後悔した。部屋を出ると、一階の住人である学生風の青年がマンションに入ってきた。シズナは、彼らのことを尋ねた。青年は言った。
「入官に連れていかれましたよ」
 シズナはため息をついて部屋を後にした。背中にひやりとした風が横切る。日差しの強い太陽が照りつけていて眩しい。身体には汗をかいているのに暑さを感じない。ホジャの容態はどうなったのだろう。アリに貸した診察代はどうなるのだろう。
 部屋に戻ると、仕事もしていないのに疲れを感じてキリムの上に横たわった。
 スィヤとももうお別れなのだろうか。不法就労で強制送還されるともう数年は日本には戻れない。今の日本の状況では、数年経っても就労ビザは降りないだろう。スィヤと二度と会えなくなる。
 スィヤのイランの運転免許証を持っていたことを思い出して、キリムの手提げバッグの中から取り出した。スィヤの顔写真が印刷されていて、住所や取得年月日が書いてある。随分前に取得しているので運転歴は長い。知り合った時、亡くなった父親と車に乗って楽しかったと話していたのを思い出した。乗用車を背景に父親と一緒に映っている写真を見せてもらったことも。
 携帯がけたたましく鳴った。耳にあてるとモニカだった。
「シズナ……」
 弱々しい低い声だった。
「何?」
「スィヤ、にゅうかん、いる。もう会えない。かなしい」
 シズナは黙ったが口を開いた。
「ところであんた、スィヤのトランク持ってる?」
「あたし、もってる」
「じゃ、スィヤに届けることできる?」
「あたし、イミグレーション、いけない」
「じゃあトランク返してもらおうかな」
「どうして? あんたスィヤのこいびと?」
「スィヤに頼まれたの」
「スィヤのこいびと、あたし、あんた、どっち? あたしスィヤあいしてる」
 シズナは答えなかった。しばし沈黙が流れたが、シズナは言った。
「あんた本気でスィヤと結婚したいの?」
 モニカは無言になった。シズナは答えを待っていたが、モニカは質問には答えずに言った。
「トランクわたす。こっちきて。はなしある」
 彼女はアパートの場所をシズナに教えた。モニカの口調は穏やかだった。感情的になったら何をしでかすかわからない人間だったが、今は落ち着いていてむしろシズナと真面目に話をしたい様子だった。シズナはモニカのいるアパートに行くことにした。モニカと密室で二人きりになるのには抵抗があったので、近くまで行ったら電話をして呼び出すつもりだった。アパートはオオクボにあると言う。
 モニカと会うのはこれで最後だろうと思いながら、キリムの手提げバッグを持って部屋を出ていった。
 商店街から入り組んだ裏道を入ったところの、地上げをされて廃屋になった木造家屋や韓国食堂やラブホテルがある一帯に、そのアパートはあった。元々は白のペンキで塗られたアパートだったが、ペンキはひび割れ黒ずんでいて鉄部分は錆びていた。二階の窓から、モニカが窓枠に座りシズナに向かって手招いているのが見える。二階ではあったが低くて、こちらからも手が届きそうだった。一階の窓では顔に白いパックをした中年女が、男物の下着やソックスをぶら下げたハンガーをカーテンレールに引っかけている。
 シズナは、赤茶色の錆びが剥き出しになった鉄製の階段を昇って行った。どうぞお入りくださいという意思表示なのか、ドアが大きく開いていた。奥の部屋からモニカが出てきて言った。
「げんき?」
「うん。外で話しましょうよ」
「あたしおこらない。だいじょうぶ。まじめ、はなししたい。もうさいご。こっち」
 モニカは手招く。シズナは、今のモニカは冷静なのだと判断して部屋に入っていった。右にキッチンがあり、左の開いた襖の向こうに部屋があった。モニカの他には誰もいなかった。くたびれた絨毯に、リサイクルショップで買ったような古い型のテレビやカセットデッキが置いてある。カーテンも日焼けしていて染みで汚れていた。
 絨毯の上に座り、モニカが来るのを待った。モニカはコーラを入れた二つのグラスを手に持ってやってきた。モニカは座ってコーラをシズナに勧める。コーラを飲まないでシズナは言った。
「スィヤのトランクは?」
「あとで」
「話って何?」
「シズナ、スィヤとけっこんする?」
「どっちだっていいじゃないの」
「よくない。あたし、スィヤのため、ニホンいる、シズナどっち?」
「あんたがスィヤと結婚したいなら、そうすればいいじゃないの」
「スィヤのきもちわからない。あたし、おなか、あかちゃんいる。スィヤしんぱいしない。おかねくれない」
「スィヤはお金を持っていないのよ」
「うそ、スィヤおかねもち。スィヤいった。イランのいえはじゅうたんおみせ。おかね、いっぱいある」
「彼に面会して話し合えばいいじゃないの。それほど好きなら結婚したら。一緒にイランに帰ればいいじゃないの」
 モニカは黙って目をしばたたいた。コーラを一口飲んでからモニカは言った。
「スィヤ、いつかコロンビアくる。あたし、いつかイランいく」
 モニカの青い瞳が潤んできた。瞬きを繰り返すと、大粒の涙が出てきた。泣きながらしゃっくりをし始めた。彼女はしゃっくりをしながら、カセットデッキにカセットを入れてプレイを押す。
 スィヤが聞いていたのとは違う種類のイランのポップス音楽だった。アコースティックな音と演歌が入り混じっているような音楽だった。ギター、ドラムス、キーボードの質の悪い音と演歌調の男の歌声が流れてくる。哀愁のある男声が失恋の詩を歌う。モニカは声を上げて泣き始めた。泣き止むと、またしゃっくりをし始めた。上目遣いでシズナを見て言う。
「スィヤ、あたしをあいした」
「あ、そう」
「スィヤ、シズナをきらい」
「わかったよ、いい加減にして」
「シズナ、バカ、ほんとうのこと、しらない」
「何? 本当のことって?」
 モニカは自分のジーンズのポケットからカセットテープを取り出して、カセットデッキの中のそれと入れ換えた。
「きいて」
 モニカは自信に溢れた目つきでシズナを見た。プレイを押すと、モニカとスィヤのスペイン語とペルシャ語の入り交じった会話が聞こえてきた。スィヤはしきりに、モニカを愛してるよ、モニカだけなんだよ、と繰り返している。モニカがシズナはどうかと聞くと、シズナは嫌いだと言っている。モニカ、テキエロ、と吸い付く音が聞こえてくる。モニカが、アハーン、と声を上げる。モニカはシズナの顔色を見ていた。シズナは苛立った。
「不愉快な女ね。じゃああんたがトランクを持って行けば」
「あたし、イミグレーションだいきらい。スィヤ、あたしをまもりたい。だからスィヤ、あんたよんだ。トランクたのんだ。スィヤ、いつかコロンビアくる」
 カセットデッキからは、モニカの、アハン、ウフーン、などという声や笑い声が聞こえてくる。スィヤの、モニカだけを愛してる、とスペイン語で繰り返す声とぶちゅっと吸い付く音。
 シズナはカセットテープを乱暴に止めて立ち上がって言った。
「もうあんたらと関わりたくない。帰るよ」
「わかった。あたし、トランクもういらない」
 モニカは襖を開き押し入れからトランクを出した。
「スィヤにわたして。これも」
 彼女はトランクと一枚の写真をシズナに渡した。写真は、スィヤと一緒に写っているものだった。彼はモニカの肩を抱くように腕を回して二人で笑っている。裏にはスペイン語で文字が書いてあった。
 ――スィヤへ。あたしスィヤといっしょにいて楽しかった。あたしたち、いま会えない。コロンビア来て、あたし待ってる。また会う日まで。モニカより――
モニカは涙が溢れ出てきそうな目でシズナを見つめて言った。
「スィヤ、コロンビアくる、いっしょ、くらす」
 モニカは涙を手の甲で拭き、真面目な顔をしてシズナを見つめていた。シズナの内から憤りが一気に上昇してきて爆発した。
「最後に言っとくけどね、スィヤはあんたのせいで入官に捕まったのよ。あんたが私の車を壊さなきゃ、車を弁償しろなんて彼に言わなかったのよ。スィヤはそのお金を作ろうとしてサンキュウ商事に催促して不法就労を通報されてしまったの! あんたの方が不法滞在で捕まって強制送還されるべきよ!」
 モニカは言い返した。
「あんたわるい! あんたわたしのこいびと、とった! あんたスィヤとセックスした! あんた、あたしとやくそくした。スィヤのしごとてつだうだけ。あんたやくそくやぶる。だからクルマこわれた! プゥタ!」
 シズナは一瞬黙ったが、怒りは収まらなかった。
「私がスィヤとセックスしようが、あんたに関係ないじゃないの」
「カンケイ、ない? ちきしょう! バアッカ! バアッカ!」
 モニカが急に突進してきて、爪を立てた両手で交互にシズナの顔を引っ掻いた。
「あぅ!」
 シズナは小さな悲鳴を上げて疼痛の広がる頬を押さえた。
「何すんのよ! 警察に訴えてやる」
 シズナは携帯を取り出した。
「あんたわるい! わたしとスィヤいつもケンカ、あんたのせい!」
 モニカが体当たりしてきて、シズナの髪を引っ張り顔を引っ掻いた。シズナは夢中でモニカを突き飛ばし、靴を手に持って外に逃げた。鉄製の階段を駆け下りて、急いで110番を押した。後ろから金属製の階段を降りる大きな足音が近づいてきたかと思うと、モニカが飛びかかってきた。携帯の取り合いで取っ組み合いになった。太ったモニカの力は強く、シズナの細い腕をひねって挫傷させた。シズナは悲鳴を上げながら転けた。辛うじて地面に落ちた携帯を拾う。
「警察呼んで現行犯で捕まえてやる!」
 シズナはまた110番をプッシュしようとする。モニカは携帯をもぎ取ろうと、シズナの手首を掴み上げた。取り合いになって格闘していると、アパートの一階から扉が開く音がした。白いパックの跡が顔についてる中年女が出てきた。モニカは踵を返し走り始めた。
「待て!」
 シズナは靴をつっかけてモニカを追いかけた。電話に警察署の職員が出ると、シズナは走りながら無我夢中で言った。
「コロンビア人の不法滞在のモニカを捕まえて、車を壊された上に暴力ふるわれて怪我したの」
「コロンビア人のモニカって言われても……、そんな名前の人は沢山いますよ」
 シズナはモニカの後ろ姿を追いながら、今追いかけてるんです、とだいたいの住所を言う。
「ちょっと待ってくださいよ、そちらの住所の管轄の交番に回します」
 モニカはラブホテルや食料品店が並ぶ細い路地を走っていたが、急に姿を消した。
「ちきしょう」
 シズナは息を切らして走ってきて、ラブホテルと食料品店の辺りを見回した。しばらくして警察の職員は言った。
「話し中です」
「もういい!」
 シズナは叫ぶと、ラブホテルと食料品店の間の隙間へと入り込んでいった。沢山の亀裂があるコンクリートの壁と廃材のような板の壁に挟まれた薄暗い通路の向こうに出口の明かりが見えた。
 顔に蜘蛛の巣がかかる。湿った地面にコンドームや残飯が捨ててある。まともに踏まないようにゆっくりと進んだ。腐ったゴミの臭いに耐えきれず鼻をつまんで出口に向かった。路地に出ると、目の前には屋台があり、韓国人の男が鉄板で平たい餅状のものを焼いていた。机に並べてあるプラスティックのパッケージにホトックやトッポギとマジックで書いてあり、コチュジャンの色をした餅や白いお焼きのようなものが入っている。シズナは尋ねた。
「コロンビア人の女、知らない? ブロンドの髪でブルーの瞳」
 韓国人の男は、あっち、と日本語で並びの木造家屋の庭を指で示す。他人の家の庭に入りたくなかったが、モニカを見失ってしまったら永久に損害を受けたままで悔しい。盆栽や小さな木が植えてある狭い敷地を通り抜け金網を飛び越えた。木造家屋ばかりが並ぶ細い路地に出たが、右に消えたのか左に消えたのかがわからない。
 ちきしょう、とシズナは入国管理局の番号を電話案内で聞き電話をした。事情を話して、モニカの携帯の番号とアパートの住所を言う。
「調べてみますが、携帯なんて捨てられたらおしまいだし、そのアパートにも誰が住んでるのか確定できないでしょう、不法滞在の外国人は偽名でアパートを転々としていて、携帯の契約者も本人じゃないんですからね」
 シズナは心身の疲れを感じて通話を切った。ため息をついて額の汗を手の甲で拭うと、こめかみがひりひりした。手には血がついている。熱があるみたいに頭が重い。腕の関節も痛い。路地を歩くと、人々がシズナの顔に振り返った。彼女はブロンドの髪の女がいるかどうか目で探しながら商店街を歩き、地下鉄の駅に辿り着いた。
 化粧室に入り鏡を見ると、自分の無様な顔が映っていた。瞼の上が赤く腫れて、こめかみや頬に爪の引っ掻き傷があった。血が滲んで何本もの赤い線が引いたように見える。真ん中の一番太い傷からは、血が滴っていて皮膚が裂けていた。
 無性に腹が立った。顔に傷跡が残るだろう。治療費などの賠償金を払ってもらいたいが、何万人もの外国人がいる東京で、素性の知れないモニカと呼ばれる人物を見つけ出すのは、不可能に近い。スィヤに聞いてみようと思うが、彼女の素性をどの程度知っているのか疑わしいし、入官職員に監視されている面会室で彼が語れるのは限られた情報だけかもしれない。それでも入官に行って、スィヤにイランの免許証を返しモニカについて問いただしたい。この事件について話しておきたい。
 不快な気持ちで電車に乗った。乗客の人々が不安そうにシズナの顔を眺めていた。

翌朝、病院で手当を受けた後、店に行ってみると、<ペルシャ絨毯・シラーズ>の扉に、事情により誠に勝手ながらしばらく休業いたします、と書かれた紙が貼ってあった。
一体どうしたというのだろう。休業するならアルバイトの自分にも連絡して告げるべきではないか。
入国管理局に行き、受け付けでスィヤのイランの免許証の差し入れと面会の手続きをした。名前を呼ばれて面会室に入りスィヤを待った。扉が開いてスィヤが入ってきた。続いて後から入官職員も入ってくる。スィヤはシズナを見た瞬間、驚いた。
「どうしたの、その顔」
 ガラスの仕切りに近づいてシズナの顔を凝視しながら椅子に座った。シズナの顔半分は絆創膏とガーゼで覆われていた。
「モニカよ」
 スィヤは絶句した。
「あんたのトランクを受け取ろうとしてアパートに行ったらこの様よ」
 二人はガラスの仕切りを介して、向き合っていた。彼は目を伏せた。
「ごめん」
「だから行きたくなかったの。モニカは本名なの? フルネームを教えて。あのアパートにはモニカが住んでるの? もうトランクは知らないわよ」
 シズナはアパートの在処を説明した。スィヤは、モニカは偽名だと言い本名をフルネームで教えた。アパートはモニカの友達が借りているものらしい。シズナは幾分落ちついて言った。
「モニカを好きなんだって? カセット聞いたよ。私を嫌いだとか」
 スィヤは少し髭が生えている顎を掻いた。
「あんなの嘘だよ。信じるなよ」
「ふん」
「ねえ、お店はどうなっているかな」
「ずっと閉まってるよ。<グリスターン>も<ペルシャ絨毯・シラーズ>も。どうしたのかしら」
「コウカブが逮捕されてしまったんだ」
「えっ、どうして」
「ビザの偽造に関わってたんだ」
「まさか。真面目な店長だったわよ」
「俺のせいだよ。俺が日本で絨毯商人をしたいから店で働かせてくれって頼んだのがいけなかったんだ。俺はオーバーステイだったから……」
「そんな……」
「コウカブは真面目で善良な男だったのに……」
 スィヤは歯をくいしばった。シズナは肩を落とした。
 二人が黙っていると、入官職員は「もういいですか」と終わりを促して立ち上がった。
スィヤはのろのろと従って立ち上がった。
「イランの運転免許証持ってきてくれて、ありがとう」
「いいえ、当然のことよ。また来るわ」
 彼はペンで紙切れにペルシャ語で住所を書き始めた。
「イランの住所だよ。イランに帰ったらシズナの車、弁償するから銀行の口座番号を教えて」
 とスィヤは入官職員に紙切れを手渡した。入官職員はその紙切れに書いてある文字を眺めた。
「車が修理してあったわ。スィヤでしょう?」
「ああ、見てくれたんだね。でも十分に修理できなかったんだ。だから弁償するよ。顔の治療のお金も一緒に振り込むよ」
 彼女はスィヤを見つめた。
「後で口座番号を書いた紙を渡すわ。トランクもあったら持ってくるわ」
 シズナも立ち上がった。スィヤは面会室の出口に向かいながら振り返り、シズナの顔をじっと見ていた。
 彼女は、銀行の口座番号を書いた紙を、スィヤに渡してください、と入官職員に手渡した。

 部屋に戻り、Tシャツと短パンに着替えてぼんやりした。体から力が抜けていく感じがした。テレビをつけてニュース番組を見ても、架空の出来事のように思えた。ユキコやモジダバから電話があるかもしれないと思い、電話機に耳をそばだてていた。電話機の呼び出し音が鳴ったので、すぐに受話器を取るとコウスケだった。
「元気? どうしてる?」
「元気じゃないわ。コロンビア人に殴られて顔に怪我したし、お店もしばらく休業で働いていないのよ」
「お前、顔に怪我したって、どんな状態なんだい」
「大丈夫よ。たいした怪我ではないけど、傷跡が残ってしまうわ」
「だから、あまり変な外国人と関わるなよって言ったろ」
「……でもお店の人たちは、夢を持って頑張っていたのよ」
「いくら夢があるって言ってもね、現実は厳しいんだぜ。夢や好きなことで生活したいなんて言っていないで、これを機に現実的になったらどうだい」
「私は始めから現実的だわ」
「そんな生き方じゃ食っていけないぜ。俺はね、塾の講師辞めて田舎に帰ろうかと思ってる」
「あら、どうして?」
「東京で高い家賃払って小説書いててもプロになれるかどうかわかんねえし。プロになっても儲からないし。故郷で家の酒屋の仕事を継ごうかなと思ってるんだ」
「そうなの」
「うん。シズナ、もうイラン人には懲りただろう? まだイラン人の恋人とつき合ってんの?」
「別に、恋人じゃないよ」
「そうか、俺と恋人になって田舎に帰らないか? シズナはお店で働きたいんだろう?」
「ありがとう。でも、お酒には興味がないわ」
「でも食いっぱぐれはないよ。うち大きな店だから」
「でもやりたいことじゃないのよ」
「俺だって酒の商売をやりたいわけじゃないけど、かといって他に興味をそそられる仕事もないしな。金持ちになってうまいもの食ってのんびりしていたいな」
 シズナは黙った。話すことがなくなったので、受話器を置いた。コウスケは老人みたいなことを言う。一緒にいるとつまらない。コウスケの実家で、興味のわかない仕事を仕方なくやっている人生を思い描くだけで意気阻喪してしまう。
 ユキコやモジダバはどうしているだろう。店はずっと休業したままなのだろうか。何かあったら連絡を下さい、というメモをポストに入れておこうと思い立ち、店に向かった。
 <ペルシャ絨毯・シラーズ>の前に数台の警察車両が停めてあった。店内に明かりがついていて、警察官や刑事らしい私服の男たちが荒々しく店内を動き回っていた。床には段ボールの箱が積んであり、険しい表情をした刑事の質問にコウカブが答えているのが見える。手には手錠がかけられていた。レジスターの奥の事務室にも何人もの警察官がいて、ユキコの顔も見える。
「コウカブさん」
 シズナは駆け寄って店内に入った。男たちが一斉に振り向き、一人の警察官が、あなたは誰ですか? と聞いた。アルバイトで働いていたことと名前を告げると、私服の刑事が、話を聞かせてくださいよ、と警察手帳を見せて言う。<ペルシャ絨毯・シラーズ>と関わるようになった経緯や仕事の内容やコウカブやスィヤについて質問してくる。聞かれるままに答えると、刑事はノートに書き留めた。
「コウカブさんが何をしたっていうんですか?」
 シズナが言うと刑事は答えた。
「スィヤのビザ関係の書類を偽造していたのですよ」
「コウカブさんもスィヤも夢と希望を持って真面目に働いていました」
「真面目に働いていても、書類を偽造したら犯罪者ですよ、犯罪者」
「私の車を壊して暴力を振るったモニカの方が犯罪者だわ」
 モニカに殴られて顔に傷を負ったこと、車を壊されたこと、スィヤから聞いたモニカの本名やアパートの住所なども言った。刑事は書き終わって腕を組んだ。
「その女を捕まえるのは難しいですよ」
「ひどい目に合ったんですよ。車もダメになったし。顔に傷跡は残るし。償ってもらいたいわ」
「そのコロンビア人は、どうしてそこまで攻撃したんです?」
「キレやすいのよ」
「ただの嫉妬ですかね? それにしてはひどいなあ。何があったのかわからないけど、もうどこへ行っちゃったか、わからないんでしょう?」
「そこを探して捕まえてもらいたいの。立派な犯罪者じゃないの」
「努力しますよ、でも雲を掴むようなものだから、難しいねえ。万一見つかっても、物損や暴力の犯罪を立証できるかどうか……、不法滞在で強制送還はできるけど」
 刑事は渋った顔をした。事務室から警察官が出てきて刑事に耳打ちをした。
「わかった」
刑事は険しい顔をした。
「ねえ、あなたも後で出頭してくださいよ」とシズナに言って他の警察官と一緒に事務室に入っていった。
 両側から警察官に拘束されているコウカブは情けなそうな顔をしてシズナを見て微笑んでいた。ユキコは事務室の奥で、警察官たちの指図を受けていた。コウカブも奥から呼ばれて、警察官の付き添いと共に事務室に姿を消した。
 シズナは呆然としてその場に佇んでいた。後ろから警察官たちがやってきてシズナの肩にぶつかり事務室に入っていく。書類を詰めたダンボールを抱えて、ちょっとどいて、とシズナの足を踏んで通り過ぎ警察車両の中に積み上げていった。

 スィヤはイランへ強制送還され、コウカブには懲役一年が言い渡された。ユキコとモジダバはビザの偽造に関わっていなかったので罪に問われることはなかったが、舵取りを失ったために店の経営が難しくなり休業したままだった。
 シズナは警察に拘置されているコウカブを訪れた。
「よく来てくれたね」
 コウカブは嬉しそうだったが、皮膚が荒れて目の下に隈ができていた。
「もう日本には住めなくなってしまったよ。バカなことをしてしまった……」
「どうしてビザの偽造なんかしたのですか。真面目な店だと思って働いていたのに」
 コウカブの隣りで監視している警察官が小刻みにうなずいた。
「私もみんな真面目に働いていましたよ。スィヤにビザを与えたいと思っただけですよ。スィヤを十年以上前から知ってたんです。スィヤは高校生の時から日本で絨毯の仕事をしたいって言っていました。スィヤの家族のことも知ってますよ。家は昔から絨毯屋です。スィヤは八年前に日本に来てオーバーステイでしたが、<ペルシャ絨毯・シラーズ>で働きたいといつも言っていたんです。でも今は正規の就業ビザを取るのがとても難しくて……。偽の文書が簡単にできると知って……つい……」
 コウカブはイスラム教の祈りに使う数珠を手に持っていた。
「だからって、法律違反しちゃあいけないだろう」
 と横から警察官が口を挟んだ。
「シズナさんはこれからどうするんですか?」
「まだわかりません」
「店はうまくいってたのに……今となっては銀行の借金ばかりだ」
「サンキュウ商事が絨毯を買い取ったんじゃないのですか?」
「ああ。サンキュウ商事ですか。絨毯を持っていかれてまだお金は未払いなんですよ。スィヤがお金を取り立てようとしたら、逆にオーバーステイで通報されちゃったんですよ。狡い奴らだ」
「そうだったんですか」シズナは俯いた。
「オーバーステイはいけないだろうが」と警察官が言う。
 コウカブは警察官の言葉を遮って、シズナに聞いた。
「スィヤとは結婚するのですか?」
 コウカブは聞いた。
「け、結婚だなんて……まだ考えたことありません」
「結婚したら、スィヤはまた日本に来て仕事ができるかもしれない」
 コウカブの顔は生真面目だった。シズナはどぎまぎして言った。
「今日はこれで失礼します」
 彼女は頭を下げた。コウカブの背が低くて、白髪の多い後ろ姿を見た。小太りで少し背が曲がっている。苦労をしたのだろう。イランで戦争をくぐり抜け、シズナの知らない人生を歩んできた人だった。彼は毎日祈りをしているとモジダバから聞いたことがある。スィヤもイスラム教徒だが、祈りをするところを見たことはない。だが信じるものや希望を持っていただろう。モニカだって何かを信じていたに違いない。コウカブの後ろ姿をずっと見ていた。彼は、スィヤを知っている数少ない人だった。
 待合室で面会を待っているユキコとモジダバに会った。シズナは、「<ペルシャ絨毯・シラーズ>は休業になったままだし一体どうしたのですか」と心配していたことを告げると、彼らは、経営がうまくいかなくなった、サンキュウ商事がお金を支払わないので裁判に訴えると言っていた。
「何かあったら連絡するわ。また手伝ってね」
 とユキコはシズナの手を握った。
「もちろんです」
 シズナはユキコとモジダバの顔を交互に見て、深くうなずいた。短い期間だったが、同じ意志と希望を持って働いた仲間だった。自分にできることがあれば力になりたい。

数週間が経ったがユキコやモジダバから何の連絡もなかった。<ペルシャ絨毯・シラーズ>に電話をしてみたが、その電話番号は今使われていません、と人工の声がする。思いあまって店に行ってみた。<ペルシャ絨毯・シラーズ>があった部屋は内装工事が行われている最中で、入り口に<スターバックス>というコーヒーショップの看板がかかっていた。<グリスターン>の内部はがらんどうで暗かった。窓ガラスに<テナント募集>という貼り紙がしてあった。
 シズナはまた失業した。
 高い鉄筋コンクリートのビルに囲まれ、流行の服を着た人々や外車が行き交い、様々な騒音が入り乱れていた。ショウウインドウに飾られた蛍光色の派手な衣装を着たマネキンが、こちらを見て笑っていた。極彩色の看板や電気がチカチカしている。
 鼓膜と視界に薄い膜がかかったように現実感がなくなった。
 色とりどりの電気の装飾と騒音が渦巻く都会の真ん中で、ぼんやりと立ちつくしていた。

 暗い雑木林の奥で、一匹のミンミンゼミが叫ぶような鳴き声を上げた。シズナは段ボールの中に衣類や雑貨を詰め込んでいた。部屋は空になった本棚や食器棚、テレビラック、エアコンだけになり隅には梱包した段ボールが積んであった。キリムの敷物には薄紙を巻いて長細い箱にしまった。
 開いた窓からは、排気ガスの匂いを含んだ涼しい微風が入ってくる。風は摩天楼の谷間からやってくるのだろうか。遠くの方から、交通の騒音がくぐもって聞こえてくる。安い木材やプラスティックでできた住宅や薄汚れた鉄筋コンクリートの低層ビルが密集する街の向こうに、人工光に溢れる都市の街が見えた。
 薄暮の空高くに超高層ビル群が屹立していて雑多なビルが裾野に広がっている。けばけばしいライトと排気ガスと埃に覆われたコンクリートの廃墟のようだった。空に突出している巨大な電波塔の赤色灯が点滅し、尖塔から長い針のようなアンテナが夜空を貫いている。街に電磁波が及んで、人々の体の細胞に異変をきたしはしないか、と少し不安になった。電磁波や大気汚染に常に晒されていることに違和感を感じて空を見た。沈んだ夕陽の残光が入り交じった暗い空に、小さなガラス片のような星が一つ見えた。暗くなったり光ったりゆらゆらと瞬いている。東京の星は小さい、とスィヤが言っていたのを思い出した。
 シズナ、と玄関の扉を叩く音がした。返事をするとコウスケが入ってきた。
「鍵かかってなかったよ」
「あらそう?」
 段ボールにテープを貼りながらコウスケを見上げた。
「引っ越しするの?」
「うん」
「言えば手伝いに来たのに」
「ありがとう。もうすぐ終わるから大丈夫。家具類はいらないの。持っていってもいいよ」
「俺ももうすぐ引っ越しなんだ。荷物は少ない方が良いからいらないよ」
「郷里に帰るの?」
「そうだよ。家業を継ぐんだ。親も老いてきたし、俺がしっかりしなくっちゃ。シズナは?」
「私も親のもとに帰ろうと思うの。お店がなくなって、もう家賃は払えないわ」
 シズナの銀行の口座には、イランに帰国したスィヤから、車の弁償金に数万円を加算した金額が振り込まれていた。店がつぶれて金がなく借金もあるというのに、力を振り絞って返してくれた金だ。その金が、無職のまま家賃や食事代に消えていくのは嫌だった。
「実家に帰ってどうするんだい?」
「英語やペルシャ語の復習をして、簿記や法律を勉強するつもりよ。いつか中近東の商品を扱う店を持ちたいわ。お金も貯めなくっちゃ」
「ふうん」
「コウスケ、小説は?」
「進まなくてな。もう忘れちゃったよ」
「そう」
彼女は段ボールの荷造りをし始めた。
「もう会えなくなるのは寂しいな」
「そうね」
 シズナはコップを新聞紙で包みながら言った。
「シズナ……」
 コウスケが呟いて、彼女の髪に触れてきた。
「んもう、触らないで。また電話するわ」
 彼は実家の住所と電話番号を書いた紙をシズナの前に置いた。彼女はコウスケを見上げた。
「じゃあな、元気でな」
 コウスケは言った。二人はしばし見つめ合ったが、何事も起こらなかった。彼は部屋を出ていった。
シズナは食べ物を買いに部屋を出た。階段を降りて郵便ポストを覗くと、分厚い国際郵便が入っているのが見えた。エアメイルと記されている封筒には、マジッド・ムーサヴィーという知らない名前と住所と電話番号が書いてある。 部屋に戻って封筒を開けてみると、中には手紙とドル紙幣と本が入っていた。裸電球の明かりの下で手紙を広げると、英語でこう書いてあった。
 ――シズナさん、私はホジャの兄です。ホジャとアリは日本からイランに強制送還されました。日本の政府は難民に冷たいです。今は、ホジャとアリは警察に捕まって収容所にいます。いつ出られるかまだわかりません。シズナさんには大変お世話になりました。シズナさんはホジャの病気のためにアリにお金を貸しました。ありがとうございました。シズナさんは優しい人です。これから少しずつ返します。いつか全部返します。本は気持ちです。ハーフィズの詩です。いつかイランに遊びに来てください――
 豪華な装幀のハーフィズ詩集を開いて見た。英語とペルシャ語で書いてある本だった。
 シズナは目を落として、畳を見つめた。荷造りをやめてじっとしていた。
 畳の上の電話が鳴った。受話器を取ると、海外につながる時のピッという電子音が聞こえた。遠くからスィヤの声がした。
「シズナさん」
「スィヤ?」
 シズナは受話器を両手で持って耳に押しつけた。聞き覚えのある嬉しそうな笑い声が聞こえた。
「元気かい」
「元気よ。でもお店がなくなって仕事がないわ。ユキコやモジダバはどうしているかしら」
「失業しているよ。裁判で金がかかってるんだ」
「スィヤはどうしてるの?」
「家の絨毯の商売を手伝ってるよ」
「へえ、調子どう?」
「あんまり儲からないけど面白いよ。でも本当は日本で働きたいんだ」
「そうね。いつか日本に来れると良いわね。ホジャとアリは大丈夫かしら。イランの収容所にいるんだって」
「まずいね」
「死刑になったりするのかしら」
「わからないよ」
 シズナは黙った。
「ねえ、イランに来てみたら」
「そうね。行ってみたいわ」
「いつ?」
「まだわかんない」
「待ってるよ。家族も友達もシズナに会いたいって」
「家族に会うのはイランでは婚約の意味じゃないの?」
「そうだけど、あんまり気にしなくていいよ。もし嫌だったら親戚の家に泊まれば良いよ」
「ありがとう」
「旅費に困っていたら、僕がお金を貸すよ」
 シズナは笑った。スィヤは尋ねた。
「今は何をしているの?」
「実家に帰って勉強したり仕事してお金を貯めるつもり。いつか中近東の織物や雑貨を扱うお店を持ちたいの」
「僕にできることがあったら言ってね。イランに来る時は教えてね。ビザの手配や現地の案内をするから」
「わかった」
「待ってるよ」
「うん」
 気持ちが落ち着いて、受話器を置いた。荷造りはやめて畳に寝そべった。段ボールの積んである窓際の方を見ると、暗闇の向こうに星空があった。スィヤも同じ夜空を見ているはずだ。
 小さな星が点在するピンクがかった夜空の下に高層ビルが見えた。壁には明るい窓が縦横に並び、あちこちで赤色灯が点滅している。あの高いビルの中で多くの人々が深夜でも働いているのだ。情報に満ち人や物でひしめいていたが、シズナには遠いものに感じられた。
 スィヤの声、布団の中で苦しげにしていたホジャの顔、ホジャに付き添っていたアリの姿、などが間近に感じられる。
 ずっと過去に、いつかイランを訪れたいと思いながらペルシャ語を勉強していたのを思い出した。
 目を閉じると、テヘランの街並みや土でできた鳥葬の塔の写真が載っていたペルシャ語の本が浮かんできた。
 イランに行ってみたい。またスィヤに会えるだろう。彼の家族にも会ってみたい。ホジャやアリとも会ってみたい。急に疲れが取れて頭がすっきりした。
 手足を伸ばして、起き上がる。段ボールの蓋を留めてあったガムテープをカッターで切って開けた。昔に勉強したペルシャ語の本を手に取って頁をめくり始めた。

                     完