浜松の武家松下家の中でも、頭陀寺近くに住み、川匂荘を支配したとされる之綱は、豊臣秀吉が若い時に仕えたとされることもあり、最も有名でしょう。この人については、wikipediaの項目も充実しています。頭陀寺炎上の話は入っていませんが、冨永氏の本にはちゃんと出ています。

が、それでもわからないことはたくさんあります。

1.菊川市西方 「松下城」の謎

これは冨永氏の本にありますが、高天神城の北東、家康の包囲網から離れたところにあるこの城は、「松下かへい」の城であったとされています。この地域の周辺には「松下」を名乗る家はないため、集団で移動したのではないかと思われますが謎です。



2.秀吉の部下になった時期

真書太閤記(国会図書館のリンクhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/881329/50)では、頭陀寺炎上後三河鳳来寺に隠居していた松下加兵衛を、豊臣秀吉が徳川方に呼び出すよう依頼し、坂部三十郎が迎えにいくのですが、追い返されたので大久保彦左衛門が迎えにいきます。鳳来寺まで知っているとは驚くべきネタの収集力と感動しますが、之綱の徳川方への士官は遅くとも掛川城攻撃時までにはされているので時期が合いません。

天正15年に官位をもらった時には、豊臣方にいたことは明らかですが、いつ豊臣方に来たかは資料にははっきりと記載されていません。武田勝頼が高天神城を落とした際に秀吉の下に行った、との記述は散見され、山内一豊の長篠の戦いの布陣図に「松下かへい」との記述があることから、天正三年には秀吉の部下となっていたとされています。
しかし、寛政重修諸家図の久世三四郎廣宣の項目には、「天正八年三月十六日 松下加兵衛之綱が(大須賀・久世の戦功を)浜松に報告」した旨の記述があり、こちらが正しければ長篠の戦いの以後徳川方が優勢となった時にまでは徳川方にいたことになります。
一方天正九年の高天神落城時の戦功リストにはのっておらず以後名前が出ることもないので、天正八年以降のどこかだと思います。


上記の松下城にいてその後関西に行ったとみるのが素直な解釈でしょう。

3.柳生家とのつながり
柳生宗矩の奥方は 之綱の娘の一人とされていますが、松下保綱の家系図では別の家からでています。おそらく一旦之綱の養女扱いにしたものと思いますが詳細不明です。