「二つの藩 掛川と横須賀」特別展に子どもと一緒に行ってきました。

目的は郷里雑記の河東・高橋・新野の記述を確認することだったのですが、何と「大坂と食べる魚も変わらず見るべきものもない」(新野の古文書での記述を除く)としか書いてありませんでした。ううむ。まあそうなんだけど。

(大坂は横須賀近辺の地名)

これなら「遠江国風土記」の方が詳しい、と思いつつ先を見ていくと、何やら武具が。



こっこれは高天神兼明 作の鎗!!さすが地元!!

「遠江国風土記」に「高天神を名乗る人がいた」と出ている刀工の作でした。



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嶺田井伊氏・日向ヶ谷井伊氏は、熊野神社の記録に出てくるのですが、その井伊千代寿は「新野に熊野神社を建てようとしていた」(大石氏「井伊氏500年サバイバル」そうです。

一方で現在の高橋付近が「新野」の一部であった可能性については既に書いた通りで、松下平八の話や正林寺への寄進状にも新野と出ている点からも裏付けられます。


ということで、井伊千代寿の建てた熊野神社の写真をご覧下さい。








神社から現在の新野方向です。山向こうです。


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大河ドラマでは徳川への人質として「常慶の実家に」嫁に行くことになりましたが、三河に連れて行くならともかく、まだ裏切る前の今川家臣に嫁入りして人質とは、意外でした。

ドラマはさておき、なぜ直政の母が清景の後妻になったのかは、良くわかりません。清景の家の家伝や今村家伝記では直親の家臣であったので、その縁とのことになりますが、これには連昌の子、常慶の兄弟との家系図からは、清景の出身は鴨江寺等浜松南区近辺以外あり得ないように思います。

一方で徳川侵攻後に召し抱えられていること、家の跡取りを心配していた(直政が養子になったのもそのため)ことを考えると、井伊谷以外のどこかに一定の勢力を維持していたはずです。(嶽南記だと西ヶ崎、武徳集成だと西塚) 家系図の元綱に関する記載に、蔵人入道の家に帰った旨の記載があることから、連昌の家は元綱が継いで(常慶は僧なので)清景は別の家を持っていたと推察されます。

以上の話やこれまでこのブログで触れた情報からストーリーをでっち上げてみると次のような感じでしょうか。


1. 松下清景は、浜松の鴨江寺・二諦坊・妙香城寺付近の土豪であった松下連昌の長男として生まれた。(保綱家系図、元綱家伝、鴨江寺鰐口)

2. 新野親矩が井伊谷に屋敷を構えた時、新野付近から松下与右衛門貞綱がついて行って都田に屋敷を構えた。(今村家伝記)

3.井伊直平は井伊家から人質として引馬城に出されており、与右衛門は直平と井伊谷の連絡役を勤めていた。屋敷も両方にあった(根拠なし)。

4.与右衛門と浜松の松下ー族は遠縁だったので、清景は実家(連昌の家)から出て与右衛門と共に活動した(根拠なし)

5.飯尾豊前守が討たれた後、清景は与右衛門から離れ、飯尾豊前守の旧領地の一部を支配し、豊前守を名乗る。今川氏には名乗りが認められているが、朝廷から認められたものではないので、時々「不然」とちょっと変えてみたりした(豊前、不然を名乗ったのは家系図から)。

6.清景は徳川侵攻前に調略を受けて徳川方に寝返った。

7.松下家と井伊家(日向ヶ谷井伊氏 or 嶺田井伊氏)が縁戚であった(家系図に「当家に井伊を名乗る者あり」とある)ため、井伊直政の母の再婚先となった(根拠なし)。この時点では元綱が後継候補であった。

8. 直政は放浪の果に松下家入りし、元綱の義兄弟となった(家系図)。元綱が清景の家ではなく連昌の家を継ぐことになると、直政が清景の後継者になった(家系図)。


ドラマだと清景を家臣として出していないので、人質にしていると思いますが、どこをどう繋いでも苦しいので割り切っているように思います。ストーリー上最大の弱点が虎松の存在を家康が知っていることなので、今後そこも手当していくことと思います。

なお、他の文書では、清景と今村藤七郎が掛川城に潜入して直政を奪還しているものから、直政の母が亡くなる時に、「実は井伊家の忘れがたみ。お家再興を」と言い残したりしているものもありさまざまです。
ドラマではすっかり徳川方の常慶の実家ですが、清景・常慶の兄弟である清綱は、永禄11年の11月の「岡崎の戦い」で、今川氏真から感状をもらった旨家系図にあります。

この時期氏真は掛川城にいて徳川と交戦中なので、清綱はこの時点で今川方だったようです。之綱は徳川方で、清景も之綱と同じ時期に徳川についたとされていますが。