<近江商人・日吉神人としての史料について>
東京大学史料編纂所で史料を検索していたら、 大日本史料のDBに 近江商人と並んで「松下」が出ていました。

大乗院寺社雑事記や京都御所東山御文庫記録の記載とのことです。年は1415年。

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【綱文和暦】 応永21年3月是月(14140030660) 1条

【綱文】 内膳司雑掌清宣、興福寺の越前三国湊及び同所の廻船、交易船方の諸公事、関役を違乱するを停め、又近江粟津・橋本・五箇荘及び松下以下商人の日吉神人と号して、万雑公事を違乱するを停められんことを請ふ、
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内容は、政府の役人に対して、「近江粟津、橋本、五箇荘及び松下の商人が日吉神人(ひえじにん/ひよしじにん)と称して、他人の仕事を邪魔するのをやめさせてほしい」という内容のようです。

<近江商人の拠点の「松下」が存在したこと>
最初は伊勢山田の松下氏が並んでいるのかと思いましたが、並んでいる近江の地名はいずれも近江商人の拠点として有名で、日吉神人の首謀者たちのようなので、地理的に離れている伊勢が取り上げられている可能性は低そうです。

  1. 近江粟津(滋賀県大津市)、橋本(滋賀県近江八幡市)、五箇荘(東近江市)はそれぞれ近江の地名であることから考えると、松下も近江の地名のように読めます。
  2. 「日吉神人」は、図書館情報によると、延暦寺=比叡山の別当鎮守である近江日吉社に従属した商人たちです。 全国にある山王社・日吉社・日枝社をその分社として張り巡らしたネットワークを持つ比叡山門徒の経済部門のようです。

ということは、現代では影も形もない、「近江商人の松下氏とその拠点」が近江に存在したことになります。

<松下と日吉神人について>
松下+日吉で思い浮かぶのは日吉丸こと豊臣秀吉ですがそれはおいといて、松下氏関係で日吉神社、という話は遠州の松下氏(武家及びそれ以外を含む)ではほとんどきいたことがありません。例外は武家松下氏の祖の松下高長で、この人は比叡山の僧侶が還俗した、と言われているので明らかに比叡山・日吉神人の一員です。

<日吉社と白山神社について>
遠州の松下氏の多くは、高野山/真言宗系の宗派か曹洞宗です。一方、神社については、松下常慶が白山先達であった二諦坊出身であること、頭陀寺も白山先達職であるからもわかるとおり、白山神社がかなりの部分をしめます。従って日吉社の余地は、、、と思って検索したところ、次の論文がありました。

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中世における白山信仰日吉信仰全国伝播の研究

(概要)白山信仰と日吉(山王)信仰が、中世にどのように全国に広まっていったかを、現在の白山神社・日吉神社の分布図を作成し、それを参照しつつ検証した。中世前期までに成立した日吉社領が近江や北陸道を中心に全国に散在してみられ、その付近には現在でも多くの日吉神社が鎮座していることを確認した。白山神人と日吉神人、言い換えれば両信仰が対立することなく、協調して信仰圏の拡大につとめていたことも明らかとなった。

なお、これらの勢力が、衰退した延喜式内社に入り込み、それぞれの地域の拠点としていた事例を多く検出することができた。あわせて、古代中世について、白山信仰に関するこれまでの研究史をまとめた。
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どうやら白山信仰は、日吉神人のネットワークが担いだみこしの一つであったようです。

とすると、遠州の松下氏も日吉神人の一部だった可能性は、無視できないように思います。

他方、(1)近江の「松下」は現在残っていないこと、(2)伊勢氏の被官が日吉神人かというと微妙なこと、(3)蘇民将来も日吉神人とは思えないことから、真相は不明です。

 

ただし、之綱、清景、常慶といった武家松下家は、松下高長の子孫であり、日吉神人のネットワークに参加していた可能性はかなり高いように思います。

 


武家松下氏の家系で謎なのは、

(1) 松下高長が本当に始祖であれば「松下を名乗って松下村に住んだ」と書けば住む話を、なぜ「西條氏から出家した僧だったが城東郡平川で還俗した」ことがわざわざ家系図に書いてあるのか。
(2) 松下高長は清景・之綱に至るまで明らかに遠州在住だが、之綱の家系は三河国碧海郡松下郷と関係がある旨をきっぱり断言できたのか。
(3) 松下高長は、清景・之綱の世代から5代前とされているにもかかわらず、松下をなのる家が多すぎるのではないか。


(1)の記述をみるに、おそらく平川の松下氏から嫁をとった松下高長が、浅羽の松下村に移住したと見てよいでしょう。そして、平川の松下氏、浅羽の松下村、三河国碧海郡松下郷は、もともとどこかの一族が移住してきた同族であった、と見ると(2)(3)が説明できることになります。



さて、国会図書館デジタルコレクションの信陽家系類聚. 下246pに、信州伊那の松下氏の家系図がでています。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780450/72






これによると、源経基の子孫の「松下義長」が伊勢山田郷で松下を名乗ったのが初代で、新田義貞について湊川の戦いで当主が討ち死にしたのをきっかけに信州に子孫が行った、と記載されています。初代の時に「松下郷」と称しているので、血縁にかかわらずここ出身の人がみんな「松下」をなのりえたように思います。


一方、遠州の松下氏に関する最も古い記録は、1465(寛正6)年 12月29日に足利幕府の役人であった伊勢貞親が、遠州の「御被官人、遠州者也」の松下源右衛門尉に宛てた手紙(戦国遺文今川氏編0024)のようです。


伊勢貞親は、伊勢宗瑞(伊勢盛時・北条早雲とも)の親族ですが、伊勢氏というからには、伊勢山田に勢力があったのと思うのが自然です。(伊勢宗瑞は備前ですが) また伊勢貞親は、遠州の横地氏・勝間田氏とも連絡をとっています。


これらのことから、下記のような仮説を立ててみました。

(a)伊勢山田の松下氏が あちこち(三河国碧海郡、遠州国浅羽の松下郷、城飼郡平川(菊川市上・下平川))や城飼郡中(掛川市中)に移り住んでいた。
(b)この中でも平川や中の松下氏は、伊勢氏が横地・勝間田との連携も狙って伊勢山田から送り込んだ人々で、伊勢氏や他の松下郷出身者とも関わりを保っていた。

(c) 浅羽の松下氏(武家松下氏)は駿河今川氏・伊勢宗瑞について斯波氏・大河内攻めに参加し、浜松荘やその周辺に進出した。

(d)三津浜の松下氏は、伊勢宗瑞についていって伊豆に定住した。

(e) 三河国碧海郡の松下家は伊勢山田にルーツをもつ同族なので、家系図を作るにあたり「三河出身」の口裏合わせに協力した。

(f) 松下高長を松下家の祖とするにあたり、(b)への配慮が必要だったので、家系に「この地で還俗」を記載した。また、中の一族についても「中郷衆」としてかかわりを記載した。


上記はあくまで仮説です。鴨神社関係も「近江商人」としてでてくる松下氏も説明できませんが、他は結構いい線なのではないかと思っています。


・・・・近江商人の話を書くのを忘れたので、これは次回に。



戦国時代の松下氏については、大河ドラマとの関係もあり、これまで松下源太郎清景と常慶、之綱、助左衛門を中心とする、武家の松下氏を取り上げてきましたが、今回はその他の松下氏についてです。武家の松下氏は、遠州 浅羽の松下村(または三河の碧海郡松下郷)に住んだ松下高長(西條高長)の子孫とされる一族です。

1.京都 蹴鞠の松下氏
   京都には、今川氏真、織田信長と蹴鞠を行った飛鳥井家と競合して、蹴鞠の家として有名な松下家がありました。賀茂神社の社人であったようです。飛鳥井家との関係は微妙で、戦国時代には飛鳥井家から松下家が弟子を取ることを禁止する請願をしていたりします。一方で、この松下家の家人が「猪熊事件」の告発のきっかけにもなっています。
   武家の松下家との関係は不明です。


2.伊勢の松下氏:蘇民将来を祀る松下社近く
   伊勢二見浦に三重県の近鉄に「松下駅」があり、その近くに蘇民将来を祀る神社である「松下社」があります。
  松下を名乗る一族の中にはこの蘇民将来を祀る家も散見されます。(例えば流山新選組隊長kのこの記事) 


3.三津の松下氏
   静岡県沼津市の南部 三津浜(みとはま)には 伊勢宗瑞(後北条家)についた松下三郎左衛門尉がいたそうです。

4.鹿児島の松下氏
   関東に鉄砲を伝えたのは、種子島にすむ松下氏であった松下五郎三郎氏であっと伝えられています。   現代でも鹿児島県に多く松下姓が分布しています。



これに加えて、「遠州笠原庄平川」周辺の松下氏がいるわけですが、最近 伊勢の松下氏の家系図を書籍に発見しある仮説に達しましたので後日書きます。
   

 

姉川の戦いに駆り出された徳川方のうち、新参あった小笠原長忠率いる高天神衆の活躍は目覚ましかったと伝わっています。その中でも、音に聞こえた剛の者、真柄十郎左衛門直隆に挑んで首を取った匂坂(さきさか/向坂)三兄弟は有名です。

 

「落人の夜話」さんのブログを見たのでこの三兄弟について調べてみました。

 

匂坂氏(向坂/鷺坂とも)は、井伊氏と同様 遠州の国衆で天竜川の東岸・匂坂城に勢力をもっていました(匂坂城について詳しいことは、大澤寺さんが記事にかかれていますのでそちらを御覧ください)。

 

三兄弟は、匂坂式部、六郎五郎吉政と六郎二郎です。 このうち、六郎二郎はこの際に討ち死にしたとされていることが多いようです。

 

 まず、旗本になった六郎五郎吉政の家系図からみていくと、その後はあきらかに旗本として徳川家に使えたことが分かります。

 

 

 

 

 

匂坂式部はこの家系図では亡くなったとされていますが、コトバンクの記事をみると小和田先生が「小笠原長忠が武田に下った際に一緒に武田方に下った」と書いています。どうやら匂坂式部は小笠原長忠の娘を嫁にもらっていたためこういうことになったようです。 コトバンクの記事ではさらに井伊直政の部下になったと書かれているので、武田方が井伊に付けられた中にも混じっているのかもしれません。

 

この他にも遠州には匂坂を名乗る方はかなり残っておりおそらく多くの一族が帰農したのであろうと推測しています。横須賀衆/紀州組にも入っていないかどうか確認したのですが、少なくとも南紀徳川史の名臣伝にはありませんでした。残念。

 

 


新野の松下氏あれこれ

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2017年7月号の広報おまえざきに、新野の松下氏が取りあげられています。

この記事によると中泉(磐田市)の武士だった松下文右衛門尉定伸が新野村に住んで三家の祖になったそうです。

この記事ではこの定伸を平八としていますが、(1)増田実氏の調査では新野には見当たらないとされていること、(2)高橋にそのまま平八を名乗る家があることから、ちょっと無理ではないかと思いますが、隣村ですのでその後に血縁が生じていても不思議ではありません。

残念ながら新野左馬介親矩について井伊谷入りしたと言われている松下氏との関係は薄そうです。

それはきておき、三家のうち医師の松下良伯家については、鈴木東洋先生が調査した内容が冨永氏の「松下加兵衛と豊臣秀吉」に出ており、一度江戸に出た上で新野に戻ったとされています。この広報おまえざきの記事で、血縁によるものであることがわかります。

良伯家は、安政の大地震の記録を残していたり、横須賀や相良の殿様や、彦根の新しい新野家の当主を診療していたりする地元の名家です。写真の「医者墓様」も新野の医者様達の人徳を今に伝えています。





その後高橋に移り、私も小さい頃大変お世話になりました。