2015年07月11日

静謐にして厳粛な充実した孤独

テーマ:二月堂便り
団地
休みの日にはヒトケのないところに出かけていくことがよくある。
一時誰もいない海岸、森の中、休日や早朝のビル街や工場地帯は
束の間の現代の遺跡、パートタイム廃墟だ。

廃れて閉鎖されたショッピングセンターや
取り壊しが決まって住民の退去した団地などは
廃墟というよりも、現代文明の抜け殻か
あるいは私たちの社会を構成していた仲間の亡骸のようでもある。
 
そんなヒトケのない何ともうら寂しい場所を、
実は私は好む。

人のいることを前提とした場所に人がまったくいない
ある意味異常な光景かもしれないが、こんな場所に
思わずほっとして和んでしまう私である。
 
人の多過ぎる東京で働き暮らしているせいもあるかもしれないが
それが原因の多くではないだろう。
たとえ地方都市や田舎で暮らしていても
私は同じことをしているのではないか。
 
厄介な他人を避けて暮らすと言うのが私の後半生の
テーマでもあるけれど、決して人が嫌いなわけではない。
ヒトケのないところで人間の痕跡や活動の気配を感じ
そこに和みや落ち着き、安心を見いだしているような
ところがある。
 
人と距離を置いて人間の営みを考えてみる。
まるで幽霊か神様のようなものだが、
人間を入れる社会の容れ物だけがあって、
でも大勢の他人という雑音のないところで
たったひとりで社会の中の自分を考えるともなく
ただ思いの赴くまま感じてみる。

こんな時間は何かに反応したり言い訳をしたり
テレビやネットの情報に流されたりする時間とは
対極にあって、世の中でただひとりあることの
この上ない充実を感じる時である。




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2009年11月10日

立冬

テーマ:二月堂便り

酒とホラの日々。-冬の木


早朝、冷え込んだ空気を切り裂くようにして走る電車に乗って
川を渡るときにふと窓から見える天地の色がまったく
変わってしまっていることに気がついた。
 
渋色になってきたと思った木の葉はすでに地面に落ちて
空には線状に群れを成す鳥の群れが移動していた。
鏡のような川は、まだ明けやらず晴れとも曇りとも
つかない空を水面に映しこんで、ひたすら静かだった。
 
いつの間に秋はこんなにも過ぎてしまったのか?、
誰にというわけでもなく、思わず私はと問わずにはおられなかった。
日々仕事は忙しく、行き帰りの電車も情報収集と勉強に追われる毎日で、
顔を伏せて本を読んでいる間に窓の景色ばかりか
季節までも移り過ぎ、時はすでに立冬に至っていたのだ。
 
草もなくあらわになった地面には冷たい露が降りていたが、
一枚の薄衣をまとうように霜で被われるのももう間もなくのことだろう。 
 


私たちは時代のうねりと世の中に流されては、ただ日々溺れまいともがくだけの
卑小な存在ではあるが、人工的な管理の優先する都市部にあってさえも
自然の大きな営みの中で生かされるとともに、まずは自分自身がその大きな
自然の一部で在ることは時々折に触れては思い出してみたい。



葉は褪せて地に還り、空に群鳥あり。
樹も土も被くものなく、水面も静に天を映す。
借問す、何時の間にか秋は過ぎしかと。時正に立冬に至れり。
露は凄として、朝には霜一枚の薄衣を纏わん。







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2009年09月06日

秋を刻む音

テーマ:二月堂便り


酒とホラの日々。-窓の雨

9月とはいえまだ日中は蝉も鳴けば、日射しもきつい。
一日一日の昨日との差はほんのわずかなようだが
それでもこのところ風景も音も匂いも、
五感に触れるものすべてが刻々と変化してきたような気がするのは
やはり秋への歩みが確実に進行していると言うことなのだろう。

 

虫の声は言うに及ばず、昨日までと同じはずの風に揺られる梢も草も
どこか乾いた葉ずれの音を立てているようだし、
夏枯れの葉の混じった土も昨日とは違う芳香を放つ。
 
そこに雨などが混じると、変化はいっそう顕著となり、
雨が上がるたびに私たちは一段と進んだ景色に出会うこととなる。

 

昨夕も風呂に入っていたところ急に虫たちの合唱が低くなったと思ったら、
いつのまにか雨が降ってきていた。
雨などというものは夏だろうと秋だろうと、
雨粒が土やら草やら虫や人家などの上にただ落ちてくるだけのことなのに、
秋雨の音は明らかに夏とは違う。
 
不意打ちの雨に、私は思わず風呂場の外の様子に聞き入ったが、
窓から入り込む音色は季節をしだいに秋の深いところへと導いていくように、
静かに淡々と窓からしみ入って私を包んだのだった。
 


   秋雨に耳そばだてる湯船かな

 


 

 

 

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2009年07月26日

夏、朝の庭

テーマ:二月堂便り


酒とホラの日々。-夏の朝

夏の空気は過去の記憶につながっている。


特にまだ動くもののない澄んだ夏の朝の空気は、
ラジオ体操に出かける前の夏休みの記憶につながっている。



今時分は盛夏を彩る花がにぎやかな分、庭の掃除も大変で、
朝早くに落ちた花を掃き集めるのだが、
早起きの苦手な私も夏の朝は不思議と苦にならない。



遠い記憶を辿るように空の青みを見上げると
やがて、空気がさかんに振動を始める。
 
  花を掃く 頭上に降るや 蝉しぐれ


今日も暑くなりそうな
この夏の一日の始まり。








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2009年04月20日

一刻値千金の春の宵に回想する

テーマ:二月堂便り


晴れた日でも春の夕時というものは、どこかなまめかしさをたたえた、かすんだ空気が中空を満たしている。
私はそんな春の空に、何をするでもなくぼんやりと視線と想念を漂わせていることがある。

ただ、言うまでもなく春は動と変化の季節だ。
受験・進学・会社の異動。冬の間から準備を進めてきたものが春の訪れとともに一気に次のステージへと移り身の回りに変化をもたらす。卒業して、入学して、引っ越して、目の回るような変化の毎日がようやく新しい生活の風景に溶け込んで来る時期が今頃だ。
季節とともに動き始めた身の回りのことが、春の進展とともにようやく落ち着きを見せ始めたころは春もだいぶ深くまで進んで桜の主役の時期から新緑とサツキの季節へと移ってきている。
 
そんなすっかり暮れ時も伸びた一日の終りに一息ついてあたりを眺めると、どこか潤んだ暖かさをたたえた春の空気にほっとするとともに、これまで幾年も積み重ねてきた春の夕べが重なって見えることがあるかもしれない。
 
何年であっても過ぎてしまえばあっという間のことだが、私たちが年月の重なりをわざわざ振り返ってみるということも稀だ。
ところが、気ぜわしい動きからつかの間解き放たれて、ほっと眺める春の夕べの空気には、去年の春、おととしの春、五年前十年前の春の記憶が重なっていることがあるものだ。


こちらからはこんなによく見えるのに、十年前の春の夕に、遠い将来のことなど想像もできず、ただ毎日を過ごすのに懸命だった自分の姿が見えたりもする。
 
いつのまにか年月を重ねて今日こんなところまで来てしまったという感慨を覚えるのは、張り詰めた毎日の一段落したこの時期に、春の夕時のやさしい空気があることときっと無縁ではない。 

    遅き日の 積もりて遠き むかしかな。 (蕪村)
 





 

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2008年12月02日

冬の日なたの大きな木

テーマ:二月堂便り


大きな木

君は大きな木を見るのが好きだ。木には特に冬に会いにいくのががいい。木は春から秋は芽を吹き茂らせた葉で風と話し鳥や虫の相手をして忙しいのだが、冬はどっしりと構えて動かずもっぱら大きく広げた枝で空と向き合っているだけだ。だからいつ大きな木に会いに行っても君だけの相手をしてくれる冬が一番好きなのだ。

葉のない枝のつくる影と静かな幹がたくさんの話を君に聞かせてくれる。






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2008年09月08日

九月の遠雷

テーマ:二月堂便り

雷雲

残暑続く日々、蒸し暑さの只中にあって、夕時の風呂は
だるく粘りを生じたような身体をさっぱりと引き締めなおし、
それこそまさに生き返る心地がする。
 
先日も湯あがりのほてった体に涼を求め、掃きだしの窓のそばに足を投げ出して
暗くなった空を眺めていると、どこかまだ遠い雷が、

時折雲間に紫の閃光を走らせていた。


じわり近づく気配をみせる雷鳴が空気を震わせるようになると、
反対に虫の声は遠のき、暮れ時の梢の上を飛び回っていた蝙蝠は

あわてて帰っていくのだったが、
私は稲妻が全天を光らせる度にモノトーンに沈んでいた世界に
一瞬色が戻るのが面白くて、雷雲とその下の景色をずっと眺めていた。
 
やがてボツボツと大粒の雨が降り出して、ようやく窓を閉めたのだけれど
結局、雷はそれ以上近づいてくることはなく、
間欠的に稲光を発しながらそのまま遠ざかって、
夕立の雷雨は尻すぼみに終わってしまった。
 
「・・終わっちまった。」
これはちょっと拍子抜けだったが、
終わってしまうのは夕立だけではなく、
夕立を伴った夏もまたこうして去って行ってしまうことを思い、
私はまだしばらく 窓辺で遠い雷を見送ったのだった。




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2008年08月16日

坂の上のいわし雲

テーマ:二月堂便り

イワシ雲

今期初めてのことだろうか、昨日の朝、坂を上る道の向こうにいわし雲を見た。
さらに同じ空にはほうきで掃いたような絹雲もあって、どうやら空の上では地上より一足早く秋の気配が着実に進行しているいるということらしい。
 
毎日毎晩のまとわりつくような暑さは相変わらずではあるけれど、季節は突然変わるわけではなくまさに、「夏の中に秋の通う」ことを実感する朝だ。
しかしながら、時に怨嗟の対象となるほどの盛んな炎暑の中にあっても、たとえかすかでも秋の気配を感じることには一抹の寂しさにも似た感慨を抱かずにはおられない。
 
いつか消えるせみの声、色あせていく夏草の葉、次第に伸びていく夕暮れの影、終わってしまう夏休み・・・
あんなに大きく強く圧倒的だった夏も、いつのまにか日差しの力は衰えて、熱い風も吹き寄せることはなくなり、ある日気がつくと澄んだ秋色の景色のなかに立っていることになるのだろう。
 
きっと人もまた同じで、目の前の仕事や義務を必死にかき分けては世の中の流れにおぼれまいと日々無我夢中で過ごすうちに、いつの間にか人生の景色もまた変わってしまっていることに私もいずれ気づく時がくるのだろうか。過去に流れ去ってしまった様々な出来事と、人生の秋の末を過ごすわが身を見て、何がしかの感慨ににひたることがくるのだろうか…。
 
もし日本人の基底に共通して流れる人生観めいたものがあるとしたらそれはきっと無常観であると思う。私たちは事物の永続性を信じず、盛衰を繰り返す世の中の流れの、ことに滅びの予兆のうちに美しさを感じ、はかなさのうちにもののあわれを見出す感受性をどこかにもっているようだ。
 
いま夏は静かにそのピークを降りてわが身のはかなさを思い起こさせそっと無常観で包み込む秋がもうすぐそこにやってきている。


 


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2008年05月11日

雨粒の向こうの景色を眺めに出かける

テーマ:二月堂便り

散歩が物思いに身をゆだね自己の内面と出会う機会なのだとしたら、雨の日にこそが本当に散歩らしい散歩ができるのかもしれない。

雨は自分と外の世界との緩やかなベールとなり、外界からの干渉がやわらいで、あるものすべてが内向きになるようだからだ。そう思って眺める雨の向こうの景色は確かにまるで別の世界で進行する出来事のようにも見えてくる。

  

このところ雨の日が多く、好むと好まざるとに関わらず傘をさして歩くことが多いのだが、今日も水の粒が空中をふわふわと舞っているような雨の中を散歩に出かけた。行き交う人も車も少なく、住宅地や畑地、寺社や公園の新緑をまとった木立から木立をつたって歩くのは、手軽でささやかな森林浴でもある。目と鼻で吸い込む緑の空気は気分を軽く前向きなものに変えてくれる力があるようだ。

  

ただ、降り出した雨はいつか上がり、しばし夢うつつの境を遊歩した時もいつかは終わって現実に引き戻されるように、散歩が終わる前に雨が上がってしまったときの直後の空気が私は苦手だ。これは雨が乾くようにひりひりとした現実に戻るのをせかされるような気分になるためかもしれない。

  

実は今日も散歩の途中でいつの間にか雨は上がってしまい、しぶしぶ雨傘をたたんで帰ってきたのだが、途中またパラパラと降りかかるものがあった。見回すとそれは雨の後に吹き出した風に乗って舞うアカシアの花が道を明るく染めていたのだった。


花降る道


今日は苦手とする散歩の途中に雨の止む事態に遭遇はしたのだけれど、こんな花降る道を歩く雨のお話のエピローグがあるのなら雨上がりの道もまた、悪くはない。


 

 

 

 

  

 



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2008年04月15日

花のあとの風

テーマ:二月堂便り



花の後


ソメイヨシノやサトザクラを中心とする花見の季節は終息して、
すっかり賑やかさの去った木立は柔毛のような新芽が日に日に濃さを増している。
 
花後の清々とした緑の好きな私だが、

本来の静けさを取り戻した樹下を訪れてみると、
散り落ちた花びらは誰にも省みられることなく踏まれ蹴られて、
しだいに地面とおなじ色に同化しつつあった。

こうしてまた新しい季節が巡って来て、また季節の移ろいを嘆じて、
また来年を待ち焦がれて、仕事に追われ生活の組み立てを考えるなかで
気がつくときっとまた同じことを繰り返していることになるのだろう。
こんな私たちは、何かになるために、どこかに至るために、

毎日を通過していく過程であると勘違いしていることがあるのかもしれない。
 
よい学校へ進むため、よい仕事にありつくため、よりよい地位を得るため、
出世・昇格・昇給・出世・栄達・・・どこか絶対安心安全確実な立場にたどりつくため、
私たちは今を次のステップのための踏み台にして、

今を我慢してやり過ごし続けては、
過ぎ去った記憶に執着しまたあてのない未来を夢想している。

だが花の前、花の盛り、花の後、

どれも通過すべき過程でもなければただの後始末の場面でもない。
人もまた眼前の一歩、一手、一息ひといきごとが

まさに遂行されるべき今であり、唯一捉え得る生のリアルだ。

つまり「よい人生」とは何かに至り完成された状態のことではなく、
日々絶えず解決されるべき課題であるのだろう。



明るい日を浴びた公園に立つと、私は花の散りばめられた地面の上を
風に乗って吹き寄せてきた草の匂いに包まれた。

そこで丁寧に一息一息を呼吸すると、私の中にもまさに今が満ちてきたのだった。

  

 

 

 

 

 

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