きっとあなたの頭脳は働きすぎだ | 酒とホラの日々。

きっとあなたの頭脳は働きすぎだ


久々に自分のブログを開いてみましたら、なにやら元旦の日付でエラソーなことが

UPしてあって、書いていることはだいたいまっとうなことながら、「おいおい、ここってホラのブログじゃなかったのかよ」と自己突っ込みを入れるところから本当の今年のブログ初めとなりました。

 


それにしてもまあ、今日一日をあたかも最後の日であるかのように生きるというのは確かでも、人間というのは一歩づつしか進めないようにできていますから、意気込みで前のめりになって転ばないように注意深く進みたいところです。まして道は段差もあれば障害物もあり登り下りの坂道もあるわけですから。。。


 

 


などとタワゴトを言いつつ、今週はボケておりました。重度の正月ぼけです。
数日の休暇明けのことなのに、少々難しい本や前向きなことを書いてある本を読むのがおっくうになりましたし、ひらめきや物事を関連づける働きが鈍ったような感覚に襲われました。
  
意欲と知識の統合こそが人間の人間らしい活動を支えているとすれば、これは退化の兆候にほかならないのかもしれません。そしてこの意欲と知識のコラボレーションは日常の習慣によってしか維持できないということなのでしょう。

そんなわけで私も現代人としての体勢プチ立て直しに取り組んだこの一週間でもありましたでしょうか。

 

 

勉強だの能力の再開発だのというと、こんな休みボケ回復とは関係なくとも、今時はどんな職業でも自己研鑽と勉強の継続とが求められるせいか、電車の中吊り広告や書店の店頭などは自己啓発や勉強方法、能力の向上をうたう本の花盛りで少々うっとうしいところです。
 
こういう勉強ノウハウ本には周期的な流行の繰り返しがあるらしく、いつか見たネタが化粧直ししてまた並ぶことも珍しくありません。人間は忘れっぽくて何度でもだまされることの例証か・・などという軽口は置いておいて、今週よく見かけたのは「あんたの脳はそのごく一部しか働いていないから、眠っている部分の脳を利用すればあなたはまだまだ高い能力を発揮して幸福になることができる」、というたぐいのものでした。
 
普段は脳の一部しか仕事をしていないと言うのはどうやらある程度正しいことのようですが、使っていない部分を働かせればそれで高い能力につながるというのは本当でしょうか
 
だいたい自分のことを考えてみればわかることですが、人間は本当に有意義なことや有益なことに頭を使っていることなんて、頭の働き自体にしても時間の長さにしても、いくらもあるものではありません。一日働いていても、本当にクリエイティブなことに生産的に取り組んでいる場面がずっと続くなんてことはありません。集中して考えたり勉強したりしているときでさえ、なにか頭の中をほかの考えが流れていくことなどよく経験する事と思います。
 
こんな私の眠っている脳が働きだして活動が10倍になったところで、無益なことを今までの10倍垂れ流すことになるだけなのではありますまいか。たとえばいままで一日に一度おやじギャグを披露してひんしゅくを買っていたものが、一日に十っぺんもつまらないダジャレをとばして特大ひんしゅくをかうただの迷惑人間となってしまうだけなのではありますまいか。

 

だいたい脳の活動の量的な増大が、アウトプットの質的な向上につながることの保証なんてどこにもないのではありませんか?

 

 

それに最も重要な疑念は、人間の不幸は人間が作るが、その多くは人間の脳が作り出す妄想によるものであり、人間は自分で勝手に今ここにありもしない過去のこと未来のことをあれこれ悩んで自縄自縛に陥り自ら不幸を拡大再生産しがちなところに、脳味噌が単に活動を拡大したところで人が幸福になれるという保証はなにもないのではないか、ということです。
 
またこうした人間の脳の作る困苦については、作家のカート・ヴォネガット氏などは人間の不幸は大きな脳味噌を持ったことだとして、人類がカワウソやラッコのような動物に退化していく小説を書いていました。(ガラパゴスの箱船)
 
これはグロテスクな未来絵ですが、実際なけなしのエネルギーを食い潰し、廃棄物を溢れさせ、企業の都合で同胞の人間までも排除して人類自らの生存基盤をどんどん貧弱にしてもまだ、わずかな方針の転換すらできない私たちには、

むしろ大脳の働きを極小化させて虫や獣のように生きるのが将来も持続可能な生存基盤として必要なことなのかもしれませんね。。。


 

・・・と言うような妄想を生むほど、今年は厳しい事ばかり予想される年ですが、

皆様どうかご自分の幸福への道は牛のごとくしっかりと着実に踏みしめて歩まれますように。

ゆっくり行きましょう。