時を得て存する生も死も経歴する尽十方界の一色である
もやまでは行かないが、体を取り巻く大気中に浮かぶ水の粒が見えるかと思うほど
たっぷりと湿気をはらんだ空気、6月なかば。
毎年繰り返す梅雨のただ中の光景。
こんな空気も天候も決して私は嫌いではない。
突き抜ける青空はなくとも、軽やかな風はなくとも、
たっぷりの水と気温を得た植物が旺盛な生育を見せ、
葉の上に下に、短い活動期を得た小動物たちが
生の営みを繰り広げるこの時期は
あふれ出る生命が地上を埋め尽くしているかのようだ。
ただ、人は時に盛んな生命の活動に目を奪われがちではあるけれど、
溢れる生命は溢れる死と同じところにある。
豪奢な花を咲かせる八重咲きの槿の花は一日で地に落ちて、
ちまちヌルヌルとした死骸に変わっては這い回るだんご虫たちの栄養と化す。
忙しくうごきまわる虫たちの踏む土は同じ虫たちの糞と死骸からなる。
旺盛な生命の洪水に見えた梅雨時の光景は生と死のモザイクだ。
こんな眺めを日常の肌身で知る私たちにとって生と死は対立して分け隔てられるものではないのは当然のことのように思えてくる。
形を変え循環する生命と、いつか繰り返される光景。
これを眺める私も同じわたしではないのだろうが、
その時々に得た感慨もまた同じように生と死の循環のうちにあって
巡り巡る世界全体のうちの一時の形態でもあるのだろう。
私の意識は全体世界の運動が生じた一時の歪みのようなものかも知れないが、
そんな私の意識は全体世界と境目無くつながって一部であるならば、
同時にその時世界の全部でもある。
湿ったの空気の中を泳いでは 意識が全世界と境目をなくして融けていく
梅雨時の散歩の快楽である。