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2009年06月28日

怪奇心霊スポット「おいてけ森」

テーマ:CO2

近所に知る人ぞ知る怪奇スポットがある。近隣では有名だ。

理不尽なことだがこの私も噂の妖怪に遭遇したことがある。
 
そこは公園の裏手の緑地帯と金網のフェンスに挟まれた比較的広い通り抜け通路なのだが、場所柄、人も車もあまり通らない。うらぶれた寂しい緑道である。

ある時、自転車に乗って出かけていた私は、先を急ぐあまりついうっかり普段は通らないこの通路を通ってしまったのだが、通路の中程に差し掛かった頃、異変は起きた。
  
なんと片側の貧弱な緑の間あいだから老婆の顔がいくつも現れ、金網をつかんで一斉に叫び声をあげていたのである。

 
「おにいいさああん、おにいいさあ~あん、お願いだよう、おお~う、おおうう~」
 

通りすがりの人間の服も魂も引き毟ろうとするかのように、しわだらけの黒い手を金網のあいだから差し伸べててんでに絶叫する様子はまるで奪衣婆の集団であろうか。

 

驚いた私は金網からできるだけ遠いところを必死で目をそむけ自転車のペダルをこいでその場を離脱したのだったが、思うように足に力が入らず、こいでもこいでもなかなか速力を上げることができなかったのは、よほどたちの悪い妖気にとらわれかけていたのだろう。


「あああ、なんだよううう、後生だようう~、おおううう・・・」

 
後方では身の毛のよだつうめき声が恨めしげに続いていたが、きっとあの貧相な緑木の向こうは賽の河原が広がっているのに違いない。
  
近所には同様の経験をした人はとても多い。信じようと信じまいと、魑魅魍魎、妖怪変化は厳然と存在することを認めざるを得ないことはあるものだ。
 

 
ところで話は変わるが先日ある時、町内会のお年寄りのグループにテニスに誘われた。主なメンバーは私の母親のような層なのだが、地域活性化のため積極的に町内行事には参加することにはしたのだが、一つだけ気になることがあった。 
それは公園のテニスコートの裏手があの妖怪スポットだったことである。
   
それでも当日は何事もなく和やかにテニスが始まり、私も妖怪のことはテニスに熱中する中で次第に忘れていった。お化け騒動などみじんもなく当日は楽しいことだけであった。
こうして、私の怪奇体験も現実的な体験と考えの中に紛れて消えていったのは何よりだったといえるだろう。 

   
ただ、一つだけ気になったのは打球が大きくコートをはずれ周囲の植木とフェンスも越えて道路に飛び出してしまったときのことだ。

 
立場上私が「拾ってきましょう」とは言ったものの、フェンスの向こうに回るのは大変な迂回をしなければならない。そこで私は人が通りかかるのを見かけて、植え込みの緑のあいだから手と顔を出し金網フェンスをつかんで声をかけたのだが、誰も見向きもしてくれなかったのである。

 

「おお~い、兄さ~ん、たのむよう、玉拾ってくれよう~、おお~い、おお~い」
 

私は声を限りに懇願したのだが、みんな顔を背けて足早に通り過ぎてしまうのだった。現代はなんとも薄情な世の中になったものである。。。

 

 

 

 

 

 

 

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2009年06月27日

週末の修行者

テーマ:ブログ

このところ断食の行をしている。


と言うと何事かと思われるかもしれないが、何のことはないただ週末に一食抜くだけのことで、金曜日の晩の週末「ぷち断食」である。


別に修行というほどのものでも全くなく、まして信心に目覚めたわけでも何かへの抗議でもない。実のところ年に一度の成人病検診が近いためなのである。 

ついでに誤解の無いように付け加えるならば、私は別に持病を抱えているわけでもないし、太ってもいない(痩せてもいないが)。
  
成人病検診なのだからありのままの普通の姿で望めばいいなどというのは、成人病検診に対する姿勢として真面目ではないと言わねばならない。

 

そんなことを言う人は成人病検診で病気や不調などが発見されてうれしいとでもいうのだろうか。現実逃避願望があるような人ならいざ知らず、普通人にとっては困惑である。まして、至った病気は難治性のものかもしれないし、手遅れであるかもしれない。

 

不意の病気宣告で日常が分断されてしまうというのは誰にとっても愉快なものではない。
  
もちろん普段から節制を心がけ、体調の微妙な変動に留意し、健康のためなら死んでもいいと思うのは大げさだが、健康維持開発推進の優等生であるなら心配はないことだろうが、たいてい私のような凡人という者は試験が間近に迫ってからあわてて勉強を始めるように、健康診断が近づいてきて自分の体調全般に気をもみ始めるのである。 
 
その意味で、定期的な健康診断は不勉強な者に勉強のきっかけを与えるが如く、不摂生な者に節制の機会を提供しているとも言えるわけだから、それだけでも有意義なことだとも言える。
 
もちろん、それでもなお健康診断間近に普段通りの鯨飲馬食を繰り返す者もいるが、それただ自分に対する想像をする力が欠如しているか、現実を直視したくない小心者である。要するによほどの天才かただの劣等生の一種でであるかもしれないが、ソレはここでは追求しない。
  
こと私の場合は常時一般人より余計に飲み食いする傾向にあり、過食大酒がきっと良くないだろうと思ってはいるから、食事の節制を考え始めるのが健康診断が視野の向こうにちらちらし始める時、というワケなのである。

  
そこで去年までは検診の二ヶ月前くらいから食ったものをすべて記録し、体重や体脂肪のグラフをつけ、徹底的に(そういう性格なので)自己管理を試みてそこそこの体調管理を考えてみるきっかけにはなっていた。
 
が、今年はここ三年では最も忙しく、しかも年のせいかマンネリのせいか、また試合前のボクサーみたいな管理を繰り返すのがどうにもおっくうで、ぐずぐずしている間に検診が二ヶ月以内に迫ってきてしまった。そもそも人間というものは飽きっぽいものだし、つねに楽な方策を求めたがるものだ。
  
そこで横着な私が思い付いたのが週末ぷち断食というわけで、これなら、休みの前に一食抜くだけで、私にはちょっと新鮮で、しかも継続的な努力は必要としない。度を超した大食漢の私であるが、日に3度週に7日飯を食うとして、週一食抜くと言うことは週に21分の1つまり約4.8%程度の食事の節制になるのではなかろうか、と思った(というよりそう思いたい)わけである。 
 
本当かどうか知らないが、人間の体は数週間で大方の細胞が入れ替わると言うから、週に一度数週間、週末ぷち断食を繰り返せば、4.8%のシェイプアップになるのではないか(注:そう簡単には問屋がおろさない事ぐらい私だって知っている)、という期待をもって週末ぷち断食に取り組んでいるのである。 
 
でもまあ、何度か週末ぷち断食を繰り返した感想を言っておくと、これはイイ。酷使しがちな内臓諸器官に安息日を与えて体がリセットされるような感じというか、土曜の午前にはすっきりと身が軽いような感覚を覚えるのである。 
 
週末ぷち断食の医学健康的な効果は、良いのか悪いのかも含めて私は知らないが、実際に感じる一週間の疲れを一新し爽快な休日が迎えられるということだけでも、今の私には新鮮でプラスの効果をもたらしているとは言える。
まだしばらく、飽きるまでは繰り返して見ることだろう。。。

 

 

 

 

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2009年06月24日

部長、ワイシャツからチクビが透けてます

テーマ:本読み

このところ、安い値頃ファッションの支持が広がって来ているが、何着ても着こなせる若い者はともかく、中身がボロくなって安易にただの安物は着れなくなってしまった大人のファッションはどうするか、という話で盛り上がった。

 

ほんと、どうするのだ?


というわけで以下は、自分記事の無断盗用である。盗用だが著者はこの私であるし、お釈迦様だってキリストだって説教のたび同じ事を繰り返し言っていたに違いないことを考えれば私が同じ事を書くことぐらいどうと言うことはないのだから、気にしないでいで読んでいただきたい。


読んだのはこれ、


酒とホラの日々。-buchorun

『部長、ワイシャツからランニングが透けてます』  ドン小西 / 角川新書
 

日本の大人(おじさん層)に向けた、ファッション評論本である。
 
日本のおじさん(じいさん)ファッションというと、平日は型にはまったスーツ姿と、休日は背広・ジャージ・つっかけサンダルのような、とことんイケていないスタイルが主力のような気がするが、この本ではとりあえず、そこまでの底辺層はあまり相手にしていないらしい。
  
近年はビジネスカジュアルだのクールビズだの、世の中の変化と業界の思惑に翻弄される日本のサラリーマンに対するファッションの要求の難易度は高く、何が正解かと迷う人も多いのだろう。

そんなこと自分で考えろといっては身も蓋もないのだが、たいてい誰かに何か方向を示してほしいと思っているから、ここにファッション評論家の飯の種もある。そしてこの本の柱もおじさんファッションの分類と、おじさんへのファッション指南である。
 
本書では現代のおじさんファッションを類型化し、オバマ大統領麻生首相に代表されるおじさんファッションの先端トレンド(?)との比較もして考えましょうという設定は、とりあえず具体的で分かりやすい。 

 

ただし、これはあくまでファッションを作り出して流行らせてナンボの業界人の目線である。本人の中身が身なりに表れるだの、自分を主張する戦略としてファッションに気を遣えだのというのは、まったく目新しい話ではないし、結局話は「今のトレンドを追いかけないとあなたは時代の変化についていけない人と見られますよ」、というような安い脅しめいたオチでは、納得する内容に乏しい。
 
たとえば、今のトレンドは細身の服がスタイリッシュだと著者もこれを推奨しているようだが、現実によく見かける流行の若者向けのようなスーツを着ているおじさんが、窮屈な上着では出っ腹を隠せず、細いズボンには腿の肉の削げ落ちた脚を強調されているのを見ると、似合わないどころかもはや物悲しいものを感じる
ここら辺がいったい誰のためのファッション考察なのかと、ステレオタイプの評論を感じ、とてもまじめに読む気が失せるところではある。
  
全体として本書はファッションの典型の分類も話もありきたりで目新しいところも示唆するところも乏しいが、一昔前に流行った「チョイわるおやじ」を真に受けた連中を、「チョイ馬鹿」にしているのなどは面白いし、「一時のギャグ」として読むのならそこそこ楽しめる。

  

・・・で、大人のファッション指南は? 

誰か参考になる本を知ってたら、迷っている人に教えてあげてほしい。。。

 

 

 



 

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2009年06月21日

夏至の雨

テーマ:散歩


酒とホラの日々。-窓の雨


夏至の日の午後、低くたれ込めた雲から落ちる雨は強弱を繰り返して地面も、地面から伸びる樹や建物も、シャワーで叩き流すようにして洗われていた。

  
雲越しの弱光のせいかグレートーンの基調が強調された町中の風景には、くるくると行き交うカラフルな雨傘やファッションがいっそう際だち、人波を眺めて飽きることがなかった。

 

色鮮やかなラバーブーツを履いた女性が目立つのは今年の流行なのだろう。ブーツでなくともラバー製の雨の日用のパンプスも少しずつ増えているようだ。 雨の日もオシャレに外出を楽しむ姿は当人ならずとも見る物の心を弾ませるものがある。

 

しばらく大通りに沿って行き交う人の足取りを眺めていると、急に強まった風が雨をあおり大粒の水滴が車の窓越しの視界を妨げた。そこでふと車の中に目を戻すと、乾いた静かな車内でずっと待機していた運転手と視線が合った。

 

「出しますか?」
「ああ、ここはもういい、行ってくれ。」
 
静かに動き出した車は雨水をかき分けるように通りを離れ、次は河川沿いの緑道を移動していった。やがて適当なところで車を止めてもらい、ひとけのない河川敷を見渡すと、私は車窓から雨に煙る緑が、川面に映り込んでは水かさを増したうねりと共に流れ去っていくのを飽きずに眺めていた。
  
江戸時代には花見や月見と同様、雨見という楽しみがあったようだ。
天気予報も雨雲レーダーもない時代だが、どうもこれはいい雨が降りそうだとなると、風流好みが屋形船を仕立てて川や掘り割りを巡っては雨にむせぶ町並みや樹木の見せる情緒を楽しんでいたのである。

 
江戸は縦横に水路の切られた水の都だったが、今では埋め立てられ混雑が優雅な移動を許さない。そこで一計を案じた私は車を手配して雨見に好適なスポットを巡っていたのである。黒塗りの大きな車であるのは静かで雨の日に目立たないためだった。
  
河原でしばらくすると水面にできる波紋が小さくなっってきた。
雨音に変わって鳥のさえずりがしてきたことにに気がつき空を見ると、確かに雨脚が弱り雲が薄く空が明るくなってきていた。もうすぐ夕方にはほとんど小やみになることだろう。
 
「どうしますか?」
「ああ、今日はもうこれまでにしよう。ご苦労さんだったね。」
  
雨見を切り上げた私は、車を行きつけのバーにつけてもらい、そこで夏至の日の東京情緒を締めくくることとしたのだった。
  

 


  
(お詫び) 記事の雨見は本当ですが、実際の私は夏至の日、パソコンの向こうの雨と緑を眺めていただけです。ハイヤーもバーも、こんな雨見がしてみたいものだなあ、という空想でございます。

ホント、いい酒と風情のわかる仲間がいればもう言うことはありません。。。

  

 

 

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2009年06月20日

一律に大いなる死をもよおす

テーマ:CO2

先日臓器移植改正法案の件で記事を書いたら、真に受けてヒステリックな非難がましいメッセージを送ってきたヤツがいた。(表に出ているコメントじゃありません)
  
たとえ非難めいた内容であろうとそんなこと、ブログをやっていればこれまでも何度もあったことなので、大日本下品党の私としては、フムまたかという程度のことである。それよりも読んだ人が真に受けてマジな反応がくるなんて、ブロガーとしてはしてやったりというか書いた甲斐があったというもの、快哉を叫びたいところだ。
 
でもね、今回の粗製記事はホラレベルがたいしたものではなかったと思うのだがね、メッセージをくれたキミ、この程度もホラとして受け取れないようじゃ、君はもう脳死してるよ。
 

 
さてこれからが今日の記事。

 
ついでだから前回記事のネタについて付け加えるなら、そもそも脳死が一律に人の死とされることに違和感を持つ人は多いだろうということである。

  
拒否できるとはいえ脳死判定患者の肉親は、臓器提供に協力しないと、あなたは人でなしと非難されますよ、というような風潮になるのは怖い。
目の前でまだ息している肉親がいて、脳死と臓器提供にに同意できないからといって、誰が彼らを非難できようか。   
 
一律に死とはいったいなんなのか?。国や時代、社会都合によって違ってくるような程度のものを人間一律の死としてしまって良いのか。少なくとも強制はされるべきではないだろう。脳死を人の死とは考えないという態度もまったくおかしくはないし、社会で認められ尊重されるべきものである。
    
現に、私も出張でよく行く東南アジアのデルコメア共和国では死の判定は日本や欧米諸国とは明らかに異なる基準に基づき、それが社会的な合意として通用している。
 
デルコメア共和国ではかつては心臓の停止をもって人の死とする考え方が一般的だったが、革命による共和制移行後の今では簡単に言うと、

『人は口から肛門をつなぐくだ状生物であり、取り込んだものより栄養を吸収し残余を円滑に出すことで生命を維持しているのだから、恒にこの一連の運動が出来なくなった者は人類生命体とは認めがたい・・』という理由で、
「腸死判定」が、つまり早い話が15日以上の『便秘をもって一律の人の死とする』という社会合意が形成されているのである。
   
医師の診断によって15日以上ウンコが出なかった人間は、死んだものとして本人や家族の同意なしに「ハウス」と呼ばれる施設に送られる。「ハウス」では状態と必要に応じ腸以外の各臓器が分別されて移植にまわされる。心臓や肝臓はもちろん、脳髄も移植の対象だ。腸は死んだが脳は死んでないのだから当たり前のことである。

   

かえって、脳こそはほかの人工臓器の代替の効かない貴重な部品であるので、脳の一部が病気・損傷によって損なわれた生理機能が移植により回復するのは何事にも変えがたい。彼らにしてみれば日本の脳死判定なんてなんと野蛮で不合理な法制度なのかと驚くべきことのようだ。
   
かの国では脳髄の移植を受けた患者が、便秘の幽霊の幻覚に悩まされるという話や、下痢止め薬大量投与殺人事件が起きるとか、日本人の旅行客が旅行中に便秘してはらわたをさばかれてしまったというような問題もあるようだが、人の死の管理が行き届いているという点からすれば瑣末なことだ。
  
なにより腸死判定による臓器移植法で大量に移植臓器の供給が増えたというのがこの国の自慢である。
 
日本も腸死のような最先端の考え方にはなかなか至らないだろうが、法による脳死が一律ではなくて、多様な死生観を認め合うだけの寛容さをもった社会でいたいものだ。。。

 

 

 

 

 

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2009年06月18日

臓器移植法案の衆院通過に祝賀を贈る :P)

テーマ:CO2

あのときは飲みすぎた・・・。飲みすぎはいつものことではあるのだが、あのときはちょっと度が過ぎた。
 
さんざん大酒をかっ食らい、仕上げに何杯目かのブランデーを飲み干したあと、しだいにあたりの景色が次第に遠くなる気がして、ついには私はカウンターの下に崩れるようにうずくまってしまったのだ。周りのみんなが、私の名前を呼ぶのが分かったが、それも次第に遠くなった。


前にも飲みすぎで体がいうことをきかなくなって友達に担いで帰ってもらったことがあるが、この日も私は体がいうことをきかないだけで薄ぼんやりながらあたりの様子は分かっていたのだ。
しかし、
呼びかけに反応しない私は救急車に乗せられどこかの病院に運ばれてしまった。
 
私は病院のベッドに寝かされ一旦様々な医療装置がつながれたことや、せわしなく何人もの医者が出入りしていた事は分かっていた。
 
やがて周囲に人が増えたのは、私の家族もやってきたらしい。
医者らしき人物が話をしていた。
 
「息子さんは脳死状態になりました。」


・・・ええっ、俺はただ飲みすぎただけだよ、せいぜい急性アル中だろ!?・・


「臓器はまだいくらか活動していますが、現在は脳死は即座に人の死となります」
 
・・・おいおい、俺死んでないってば・・・
 
「息子さんは生前臓器移植に同意しない旨の意思表示をしておりません。
つきましては、息子さんの臓器はご家族の同意さえあれば、第三者に提供が可能となります。

 
急なことでまだご家族はお気持ちの整理がつかないことでしょうが、もし臓器が提供され、第三者の体の中で生き続けるとすれば、息子さんの生命はご家族と一緒にこの世界で今後も行き続けるともいえます。

 
臓器は新鮮なうちが・・、いやいや、早い段階での提供をいただけるほど息子さんの臓器がすなわち息子さんの命が今後も生き続ける可能性が高まります。

 
移植を待つ患者さんのためにも、ここは今すぐご決断をお願いできませんでしょうか」


・・・ちょっとまてよ、俺まだ生きてるってば。・・・


ここから別の男が話を引き継いだ。


「旦那さん、このたびはどうもご愁傷様です。私、臓器移植コーディネーターの中山と申します。

 
ま、ここは魚心あれば水心というヤツでしてね、今か今かと死人認定が出るのを待っている患者の方に、ピチピチと活きのいい臓器の提供を仲介していると、ま、そんなわけなんですがね、どうでしょう、息子さんはなかなか上玉の死体とお見受けしやした。

 
6時間以内なら腎臓ひとつ100万円、肝臓300百万、心臓500万、目ん玉200万、
睾丸片っぽ50万てなところが相場なんですが、ちょうど今、役立たずになった金持ちのエロジジイが若い睾丸と腎臓が欲しいなんて言い出して移植を待っているところなもんですから、ちょっと色をつけさせていただくということで、ひとつご提供に同意いただけませんでしょうかね。

 
決して悪いようにはいたしません。
いやホント、鉄は熱いうちに打て、臓器はまだ動いているうちに早めの脳死判定でとっちまえって言ってね、早けりゃ早いほど良い値がつくんですよ。。。」

 

・・・ああっだめだよう、あのギャンブル中毒の親にそんなこと言ったら、俺の臓器根こそぎ売り飛ばされちまうよう・・

 

しかし、体の言うことの聞かない私は異議申し立てするすべもなく手術室に運ばれていった。もはや万事休すか?と思ったところ、睾丸をひとつ切り取られたところであまりの痛さに酔いが覚めて体が言うことをきき出した。

 

暴れる私に医師も驚いていたが、医師らは私の手当をする前に、仲間内で言い争いをしていた。
「せっかく早めにに脳死判定したのに、何で麻酔打つなり、とどめを刺すなりしておかなかったのだ!バカ!」
「だって脳死で死んだことにしたんだから、麻酔なんか打つわけないし、
トドメなんか刺したら鮮度が下がるだろう、このタコ!」 


・・・
 
それはともかく呆れたのは、事情はどうあれ一旦摘出された臓器は本人のものではなくて、医師の裁量下にあると云うことであった。そのため片っぽ取られた睾丸は契約と金の授受に伴い、金持ちのエロジジイに移植されてしまい、

この結果、その時以来、私は片ちんで生きていくことになったのである。。。
 


 


             脳死は死? 早めに死んでと 臓器盗り
                   売買市場は 有望分野











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2009年06月17日

曇り時々晴れ、ところによってはイタリア人

テーマ:ブログ

イタリア人の知り合いがいて時々行動を共にするが、人生を楽しむにおいてイタリア人は良く心得ているらしい。

たとえばどんなに忙しくても、たいていは午後7時前にはすでにニコニコして乾杯している。


人が人としての営みを送る上でもっとも貴重な人生資源は時間である。もちろんお金も大事だが、お金は出たり入ったりを繰り返す、というより出入りをすることで初めてお金はその機能を実現する。ところが時間は出て行く一方、流れ去っていく一方である。しかも自分の持ち時間もいつ尽きるのかすら定かではない。

 

持ち時間が尽きるのは30年後かもしれないし、明日かもしれない。それは若い人でも健康で頑強な人でも同じ事である。

イタリア人は自分の自由になる時間が今目の前のテーブルにのっているだけと言うことをよく知っている。だから自分の時間と言うものをとて大事にする。

  

私たちは仕事に過剰に人生資源を奪われてはならない。

 

それよりなによりイタリア人の行動で特徴的なのは、感情豊かに人間的に暮らそうってことらしい。

初対面の人との食事でも、とにかくよくしゃべり、つまらない日常のことでも独自のレトリックでいっぱしの物語風に仕立て上げてしまうし、目の前のテーブルの時間を最大限に楽しむすべにみんな長けている。


彼らといると、とにかく私たちも仕事のロジックばかりに引きずられて自分のハートやエモーションを窮屈にしてはならん、と言う気にさせられる。

 

みなさんも情感たっぷりにくらしてますか?

 

  

 

 

 

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2009年06月16日

聖老人の行伝

テーマ:CO2

私たちは駅前のベンチ付近に座り込んでのみ騒ぐフーテン老人の群れを離れて、駅前のビルの地下にあるこぎれいなレストランに入ったが、中ではすでに座って一杯やっていた弁護士のB氏がここだここだと手を振るのが見えた。
 
この日は気楽な仲間内でのたまの食事会であったのだが、A君はまだ老後のことを考えているのか、先ほどの老後は場末の聖人になる案を引きずっているのか、浮かぬ顔である。
  
私も多少の責任を感じないわけでもないので、それとなく話を振った。
「まあ、なんだ、若いカップルなんかは別にして、電車の中でも道を歩いていても
大人はみんな余裕のなさそうな暗い顔した人間が多いよな。
今の仕事も含めて毎日の生活に閉塞感が漂っているというか、いっぱいいっぱいというか。」

 

A君も仕方なく相づちを打った。
「おかしな話だよな。物質的には豊かでもみんな持って行き場のない悩みを抱えて生きているなんて」

 

「仕事で多少失敗しても、家族にできの悪いのがいたところで、たいていは命までとられるわけでない。それでもみんな悩みを抱え込んで、病気になってしまう人間のなんと多いことか」

 

「蘇東坡や陶淵明なんかがどんな不遇にあっても自然のなかの人生を謳歌して
いるのはうらやましい。やろうと思ってもできないきわめて例外的なケースだから、
みんな憧れるのかもしれないが」
        (注:蘇東坡は宋代の詩人、陶淵明は西晋の詩人)

 

するとB氏はこれを明確に否定してきた。
B氏は弁護士という職業柄、様々な種類・階層の人間と関わりがある。だいたい同質のサラリーマンを相手にしている会社員とはちょっと違う観点があるようだ。

「そんなことはない、だれだってどんな不遇にあっても明朗闊達に生きることはできるさ。誰でもだ。」

 

「それはおまえが、社会的には成功したエスタブリッシュメントゆえの余裕の発言じゃないのか」 
A君は突っかかって、多少の議論になったが、なかなか双方とも話に納得を得るまでにはいかなかった。
駅前の聖老人達の話も出たが、はたして人はどんな境遇でも朗らかに尊厳を持って自己肯定して生きることができるのか。

 

話がかみ合わぬまま、なんとなく消化不良で食事会はお開きとなったのだが、駅へと向かう途中、聖老人の一人と思われるような風体の年寄りが近づいてきた。

彼はB氏と顔見知りのようだった。B氏は弁護士だからなにか法的な事案に絡んで関わりがあったのだろう。B氏に分け隔てのない面倒見の良さがあるのもまた確かだ。

 

彼は聖人にふさわしく、何日も着続けた垢じみたシャツとズボンその持ち物から、
屑や廃品を拾い集めて暮らしているように見受けられた。

 
彼はつかつかと近づくと高そうなスーツを着たおじさんであるB氏に彼我の風体も境遇の差も気に留める風なく快活に話しかけた。


「おう、先生、元気かい? 通風の具合はどうだね。」

 
眼には生気を宿し屈託なく振る舞う彼は、確かに聖老人に違いなかった。

 

 

 

 



 

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2009年06月15日

聖老人の教え

テーマ:CO2

老人になると人は何もわからない子供に返ると言うけれど、そうではなくて、
より神様に近い子供に育つと言うことなんですよ。。。

と、言うようなことをゲーテがファウストの冒頭の方でいってたような気がするが、

一方で夏目漱石などは吾輩は猫であるのなかで、狡猾になるのも卑劣になるのも皆知ることの結果であって、事を知るのは年を取ることの罪であり、老人にろくな者がいないことの理である、と言うようなことを述べていた。

 

実際見方によってどちらも真実であるけれど(ボケ老人になるか偏屈老人になるかという事かもしれないが)、どういう年寄りになるのかはある程度何年も前の生活習慣として人は選択可能なのかもしれない。

 

実はA君が最近体調を崩し、将来のことを考えることがあったらしく、「将来年取ったらオレは何をして暮らそうか」、などと真剣に悩んでいた。

 
まあ、若いうちから将来のことを考えておくのはいいことなのだろう。
会社のロジックですべての生活が左右され、定年と同時に役立たずの非社会適合者、やたら威張り散らすわりには何もできない世間の厄介老人になるという例もあることだし、まあ若いうちから社会的・会社的でない本来の自分を取り戻す準備はしておくのに越したことはないだろう。


「どうするよ?」

A君は真剣であるが、私もまたとくに明確な将来ビジョンはないものの、根が楽天家で、きっと面白いことになるかも、と根拠のない自信があるので、A君の真剣な悩みも面白い見物である、悪いけど。


そこでたまたま目についたのが駅前のベンチにたむろして、ワンカップ酒片手に
明るいうちからくだを巻く老人の集団である。


それは半分都市ジプシーのような住所も定かでないような老人達が酔っぱらって
口から泡を飛ばし、雑巾を引き裂くような声で互いにののしり合いながら昼間の
酒盛りをやっているのだった。


そこで私はA君に言った。

「ほれ、ああいうのがいいんじゃないか?老後の計画としては。
明るいうちから飲んだくれて、なにやっても大概のことは、

『嗚呼、あの連中じゃなあ』、とみんな見て見ぬふりをしてくれるし、

いったい人はいかに生きるかなんてロクでもない悩みにもきっと無縁で、明日の酒をどう手にいれようかと考えているうちに道ばたで行き倒れてつまらない俗世におさらばできるなんて、ある意味達観や悟りの上を行く覚者、聖人の域にあるのかもしれない。」

  

A君は真面目でないと思ったのか私をじろりとにらみつけたが、かまわずに私は続けた。

「だって考えても見ろよ、あの世には財産も持って行けない。あくせく働いた結果立派な葬式を出して大きなお墓を建てていったい何になる?

 

年取ってからだな、学問にせよ芸事にせよ、極めるには何をやるにももう体力も気力もない、アタマもぼうっとしている、食ってもたくさん食べれないから面白くない、その上長年働いた老人を見る目は、世間も家族も厄介者のお迎え待ちだときた。

 

そんなおまえがいかに生きるか悩みを抱えて残り少ない老いぼれ人生を過ごすくらいなら、すべてのしがらみや悩みを超越して目の前の酒と陶仙峡に遊んで暮らすっていうのは賢い選択でないとどうして言える?

 

そう思えば、彼らは野鳥のように天真爛漫で率直な生をおくってると言えるじゃあないか」

 

そのうちに赤ら顔の小汚い聖老人達は、酒のつまみの配分を巡って「天真爛漫」なケンカを始めたが、A君は呆れたように半分口を開けて、聖老人の群れを眺めていた。

 

さてA君にはいいアドバイスになったのだろうかな?
(まあ、現実的にはン十年後の老後の生活を考えるより、目先の生活習慣病やタバコの悪習をなんとかすべきだろう。。。)

   

 

  

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2009年06月14日

雨空の下では

テーマ:散歩

酒とホラの日々。-蓮の池


このところ降るのか降らないのかはっきりしない天気の日が多い。
心身の不調は天気のせいなのか、心身が不調だから天気までうっとうしく感じるのか
その後先は分からないがけれど、梅雨時が巡ってくるのは避けられない。
晴れの日ばかりは続かない。人生もまた同じことだ。
 
もちろん雨が降れば人は晴れを心待ちにするが、一方で雨の効用を疑う人はいないだろう。
なにより日本の雨というのは美しいものだ。

実際、停滞する低気圧はうまく行かない日常ともあいまって鬱屈した気分をもたらしたりもすれば、洗濯物が乾かないとか、出掛けに傘を持とうか気にしなければならないとか不都合があるのも確かだけれど、傘を差して出かけてみると、思うにまかせないわが身と日常の鬱々とした気分も、清冽な雨と一緒に流れていくような気分になる。
ぬれた緑に咲きかけた花、池の上の雨雲に映える葉などを眺めて歩くのは楽しいものだ。

この時期の雨は緑や花の成長を促して、天地の間には生気が満ちる。
 
もちろん雨上がりの風景はまたいっそう美しいのだが、そんな雨後に美しさをもたらすのは、雨時の妖精がひっそりと頑張っているからだ。

晴れない雨はないし、雨中の妖精の頑張りとその働きぶりは誰もがみな知っている。
 
降った日には雨降りの妖精に思いをはせてみるといい、雨時に耐えて働くのは妖精だけでもない。 あなたの雨上がりもきっと美しいに違いない。

   

 

 



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