2009年01月24日

愛と拷問の映画館

テーマ:インナー・ランド

大人になってからというもの、いつもやたら忙しく、ゆったりと過ごすなどということは、モナコに別荘を建てて毎日王侯貴族とパーティーをして暮らしたい、ということと同じくらいの手の届きそうもない単なる憧れの域に去ってしまったような気がすることがある。

  

それ故に子供の頃を懐かしむこともあるのだが、実際わたしの子供の頃は今の子供達のように塾やクラブに追い立てられるような事はなかったから、様々に自由な想像を働かせるゆとりがあったとことは確かだ。現代の子供やスケジュール中毒症の大人たちのように、自ら密雑なスケジュールの繁忙の中に逃げ込んでは、これが人生の充実だと「錯覚」することに慰めを見いだすような種類の「精神的貧困」に陥ることがなかったのは幸いだ。

  

しかし子供の時分にそんなことを考えるはずもなく、実際は子供の頃は退屈こそが大きな問題だった。
夏休みや冬休みなどには時として巨大な暇をもてあまして圧倒的な無為と向きあうことに多少の苦痛を感じていたのも事実である。

   


 
そんな子供の退屈を思いやったからと言うわけではないだろうが、長期の休みの前には小学校で市中の映画館で上映される教育委員会推薦映画の優待割引件がよく配布されていた。映画をみて暇つぶしをしろというわけでも、映画を見て情操教育の足しにしろという意図も無いわけではなかったろうが、単に地元の商店街と教育委員会のタイアップだったと思うが、いずれ退屈をもてあます小学生としてはいくらかは暇つぶしのネタになったの確かではある。

  

どうせ、映画館としては最新の人気映画は配給を受けるにもコストがかかるから、名画と称したすり切れた古映画のリバイバルでも「教育委員会推奨と銘打って割引券を配る子供だまし」で小銭を稼げれば、スクリーンを遊ばせておくよりはいいという営業的配慮だったのだろう。実際、教育委員会推奨映画は子供にはいつもあごがガクガクするくらいつまらなかったが、それでも長い休みの一日友達と集って映画館に出かけて行くのはちょっとしたスペシャルなありがたいイベントだった。
  
ある冬休み、いつものように映画の割引券が配られたが、なぜかその映画は「007」だった。
「007」が小学生にとって教育的にどのような意義があるのかは疑問だが、小学生だったわたしの第一印象は「うへっ、またハズレだよ」である。いうまでもなく「007」はチャチな発想とご都合主義と色気過剰な女スパイと情けないガジェットの道具をミキサーにかけて出てきたクズ映画シリーズだが、商業的には続いているのだから、子供はだませなくともなぜかだまされて喜ぶ大人は多いらしい。
 
「007」など映画館で見たのは後にも先にもそれ一度きりだが、問題は同時上映の映画である。映画館に行った小学生は驚いた。なんと併映は「エマニエル婦人」であった。いや正確には「続エマニエル婦人」だったかもしれないし「帰ってきたエマニエル婦人」かもしれないし「エマニエル婦人大行進」だったかもしれないが、いずれにせよ一世を風靡した有名なポルノの再上映であったのだ。

   

どうしてそういうことになったのかはわからないが、田舎の映画館が余剰スクリーンに余り物の古映画を突っ込んで時間のつじつまを合わせるのに適当な在庫がたまたま「エマニエル婦人」だったのかもしれないし、映画館では「教育委員会推薦」の意味を「教育委員会の木っ端役人を招待すること」と勘違いしたのかもしれない。
   
男子小学生はこの思いもよらない「幸運」に喜んだが、映画館の切符売り場でとがめられてはすべてが水の泡と思い、喜びを胸の奥深くに押し込みひたすら真面目で純真な小学生が「教育委員会の推薦で」やってきたのだというスタンスを淡々と貫いて入場したのだった。
 
だが、結論をいえば、期待の「エマニエル婦人」は「007」のジェームズ・ボンドと同様にというかそれ以上につまらない「ハズレ」だった。ストーリーの展開は遅く、場面の設定は訳が分からず、思わせぶりな会話が延々続いた挙げ句、やっときた肝心のシーンはハサミが入って画面のどうでもいい部分が切り貼りされていた。
 
この結果小学生らは「007」から続く退屈をもてあまし、終演までの時間を薄暗い館内の狭いイスの上で格闘するかつてない困苦を堪え忍ぶことになったのだった。
確かにみんな外でボーッとしていたり遊んでいるほうがどんなにかまだましだと思ったものだ。

    

「エマニエル婦人」と「007」という教育委員会の選択は、退屈と不自由に思えた子供の時代を抜け出して大人の世界に達しても、そこは子供が思うほどのパラダイスではないことを教えるための教育的配慮だったのだろうか。


  

やがて大人になった私はひとりで無為な時間と向き合うことが何の苦痛でもなくなり、何もない時間に心を自由に遊ばせることこそ何よりの贅沢とも思えるようになった。
一方で現代の多くの人々は単なるヒマをレジャーやゲーム・テレビなど様々な雑物で埋めようとするが、それは雑物に自分の自由を預けて自らわざわざ不自由
になることでもある。


今にして思えば私たちの子供の頃の様々なヒマと闘う経験は、実は何もない時間と空間でいかに自分と向き合うかを学ぶ貴重な体験だったような気がする。
現代の忙しい子供達が何もしない時間の意味を問う体験のないまま大人になるとしたら、なにか大切なものを学ぶ機会を逸しているのかもしれない。







 

 

 

  

AD
いいね!した人  |  コメント(9)  |  リブログ(0)
2009年01月10日

きっとあなたの頭脳は働きすぎだ

テーマ:ブログ


久々に自分のブログを開いてみましたら、なにやら元旦の日付でエラソーなことが

UPしてあって、書いていることはだいたいまっとうなことながら、「おいおい、ここってホラのブログじゃなかったのかよ」と自己突っ込みを入れるところから本当の今年のブログ初めとなりました。

 


それにしてもまあ、今日一日をあたかも最後の日であるかのように生きるというのは確かでも、人間というのは一歩づつしか進めないようにできていますから、意気込みで前のめりになって転ばないように注意深く進みたいところです。まして道は段差もあれば障害物もあり登り下りの坂道もあるわけですから。。。


 

 


などとタワゴトを言いつつ、今週はボケておりました。重度の正月ぼけです。
数日の休暇明けのことなのに、少々難しい本や前向きなことを書いてある本を読むのがおっくうになりましたし、ひらめきや物事を関連づける働きが鈍ったような感覚に襲われました。
  
意欲と知識の統合こそが人間の人間らしい活動を支えているとすれば、これは退化の兆候にほかならないのかもしれません。そしてこの意欲と知識のコラボレーションは日常の習慣によってしか維持できないということなのでしょう。

そんなわけで私も現代人としての体勢プチ立て直しに取り組んだこの一週間でもありましたでしょうか。

 

 

勉強だの能力の再開発だのというと、こんな休みボケ回復とは関係なくとも、今時はどんな職業でも自己研鑽と勉強の継続とが求められるせいか、電車の中吊り広告や書店の店頭などは自己啓発や勉強方法、能力の向上をうたう本の花盛りで少々うっとうしいところです。
 
こういう勉強ノウハウ本には周期的な流行の繰り返しがあるらしく、いつか見たネタが化粧直ししてまた並ぶことも珍しくありません。人間は忘れっぽくて何度でもだまされることの例証か・・などという軽口は置いておいて、今週よく見かけたのは「あんたの脳はそのごく一部しか働いていないから、眠っている部分の脳を利用すればあなたはまだまだ高い能力を発揮して幸福になることができる」、というたぐいのものでした。
 
普段は脳の一部しか仕事をしていないと言うのはどうやらある程度正しいことのようですが、使っていない部分を働かせればそれで高い能力につながるというのは本当でしょうか
 
だいたい自分のことを考えてみればわかることですが、人間は本当に有意義なことや有益なことに頭を使っていることなんて、頭の働き自体にしても時間の長さにしても、いくらもあるものではありません。一日働いていても、本当にクリエイティブなことに生産的に取り組んでいる場面がずっと続くなんてことはありません。集中して考えたり勉強したりしているときでさえ、なにか頭の中をほかの考えが流れていくことなどよく経験する事と思います。
 
こんな私の眠っている脳が働きだして活動が10倍になったところで、無益なことを今までの10倍垂れ流すことになるだけなのではありますまいか。たとえばいままで一日に一度おやじギャグを披露してひんしゅくを買っていたものが、一日に十っぺんもつまらないダジャレをとばして特大ひんしゅくをかうただの迷惑人間となってしまうだけなのではありますまいか。

 

だいたい脳の活動の量的な増大が、アウトプットの質的な向上につながることの保証なんてどこにもないのではありませんか?

 

 

それに最も重要な疑念は、人間の不幸は人間が作るが、その多くは人間の脳が作り出す妄想によるものであり、人間は自分で勝手に今ここにありもしない過去のこと未来のことをあれこれ悩んで自縄自縛に陥り自ら不幸を拡大再生産しがちなところに、脳味噌が単に活動を拡大したところで人が幸福になれるという保証はなにもないのではないか、ということです。
 
またこうした人間の脳の作る困苦については、作家のカート・ヴォネガット氏などは人間の不幸は大きな脳味噌を持ったことだとして、人類がカワウソやラッコのような動物に退化していく小説を書いていました。(ガラパゴスの箱船)
 
これはグロテスクな未来絵ですが、実際なけなしのエネルギーを食い潰し、廃棄物を溢れさせ、企業の都合で同胞の人間までも排除して人類自らの生存基盤をどんどん貧弱にしてもまだ、わずかな方針の転換すらできない私たちには、

むしろ大脳の働きを極小化させて虫や獣のように生きるのが将来も持続可能な生存基盤として必要なことなのかもしれませんね。。。


 

・・・と言うような妄想を生むほど、今年は厳しい事ばかり予想される年ですが、

皆様どうかご自分の幸福への道は牛のごとくしっかりと着実に踏みしめて歩まれますように。

ゆっくり行きましょう。

 

  


  

 

  
 

AD
いいね!した人  |  コメント(4)  |  リブログ(0)
2009年01月01日

日々死に行く皆さんへ

テーマ:ブログ

明けましておめでとうございます


年初ら無粋なタイトルですみません。
 
経済も社会も無軌道ぶりが加速して、

いまさらながら一寸先もわからない世の中を実感する当節ですが、

そんな世に浮かぶ私たちの人生においてただ一つ確実なものがあるとしたら、

それは「私たちは皆、遠からず死ぬ」と言うことだけです。

 
私たちは今この瞬間にも死に向って止まらぬ行進をしていることに
異議を唱える人はいないでしょう。
 
それなのに、今やるべきことを忌避して、何かいいことが来ないかと
思っていたとしたら、それは自分で自分の人生を歩んでいるのではなく、

まるで家畜のようにただあの世へと向う荷車に乗せられて

運ばれて行くだけであるということです。

 

自分の人生は自分で歩くために、ささやかでもいいから

牛歩の歩みでもいいから、確かな自分の意志で

一歩一歩を踏みしめたいものです。
その一歩を踏み出すのは常に今この瞬間をおいてほかにはありません。

 

 本年がどうか皆様が大切な時間を自在に存分に生かすことができる一年と

なりますように。



    「不確かな未来に生きることを夢見るな。 今、直ちに生きよ」

                            ~ローマの賢人の言葉

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 


 

 

AD
いいね!した人  |  コメント(7)  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。