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2006年10月31日

手軽なインターネット呪い代行サービスをご利用ください

テーマ:ホラ

今は、えっ!こんなものが?と思うようなものでも何でもインターネットで申し込みができる時代だが、実は私達もそんな中の一つ「インターネットお呪いサービス」を利用したことがある。憎悪の相手は前の会社の専務「G」である。G専務は会社に不都合な監査結果を捏造し、責任をある部署に押し付けた挙句その部署を子会社に社員ごと分割譲渡してしまったのだが、すべては自己保身のためだったのだ。
 
その部署にいた社員こそいい迷惑で、突然の子会社への転籍にみんな憤慨したものの、社員個人が会社組織と喧嘩して勝てるわけはない。そこで悪党のG専務になにか一矢を、と思い冗談半分で有志を募って呪いサービスを申し込んだのだった。

もっともインターネットとは言っても呪いは本格的(?)で、「相手に大きなダメージを負わせるほど依頼主への反作用も大きいので注意しましょう」というような説明書きもあったくらいだ。早い話が、相手の死を望んだら自分も廃人になるくらいの覚悟が要りますよ、というものだ。
なるほどこれは怖い。

もちろん私たちは誰も相手を呪い殺すほどの覚悟も真剣さもなかったし、そもそも憂さ晴らしの半分冗談なのだから、G専務に少々困った目にあわせてやれという程度の安い呪いを申し込み、代金3万円ほどを振り込んだのだ。

ところが、申し込み受付のお知らせが来た翌日、G専務は心臓麻痺をおこしポックリ死んでしまったのだった。特に心臓に疾患があったわけでなし、前日までいたって健康で、今回の死は本当に唐突で意外なものだったらしい。

今度は私たちも困惑した。「ちょっと呪い効きすぎ」「過剰サービスだよな」「殺してくれとまでは頼んでない」「反作用ってのは本当に来るのかな?!」

「いまから申し込みのキャンセルってワケには、、、いかないのかなあ・・」
「ちょっとお呪い会社に問い合わせてみようか・・・」

A君は食欲が半減し、C君は便通が滞り、S君は毎晩枕元に妙な影が見えると言い出した。W君は毎夜飲んでは暴れ、かくいう私もなんとなく酒がうまくない。

こんなことが続いたある日、当のインターネットお呪い会社から問い合わせの回答が届いた。
「呪いを実行する前にGが氏お亡くなりになりましたので、料金はかかりません。いただいた代金は返金または他のサービスへの振り替えも可能ですが、いかがですか?」
というもので、同社の手がけるサービスラインナップのカタログが添付されていた。つまり呪いはなかったのだ。みんなほっとしたことは言うまでもない。

こんな思いはこりごりだ、呪いから解き放たれたような気分とはこういうものなのだろう。そこで私たちは相談した結果、代金をインターネット墓参り代行サービスに振り替え、差額は香典に宛ててもらうことにした。

・・・後日厄落としと称して一同集まる機会があったのだが、ほっとしながらも誰もあまりしゃべらず黙々と飲んだ。 ちょうど届いたG氏の香典返しを前に、口にこそしなかったが、呪いなんてことはするもんじゃないな、との思いはきっと皆同じだったのだろう。。





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2006年10月30日

雨上がりの朝の宝石を拾う

テーマ:ブログ


傘も役に立たない秋の嵐は終夜吹き荒れて、

私も帰り道たいして歩いたわけでもないのにさんざんに濡れてしまった。

秋の晩の雨風とは厄介なものだ。冷たい雨風が躯にまとわりつき不快なばかりか
暗い夜道とあいまって人を不機嫌にさせる。
なんてついてないんだ、こんな時期にひどい目にあったと、悪態つかずにはおられなかった。

翌朝、一転して晴れ上がった道を歩くと、

色づき始めた街路樹の葉がアスファルトの歩道一面に散らばっていた。
本格的な落ち葉の季節にはまだ早いので控えめながら、絶妙の分量だ。

落ち葉2006
ありふれたいつもの歩道も洗い上げられてもう少し飾り立ててみたくなったのだろうか。
前の晩歩行者をずぶぬれのひどい目に遭わせた天気の埋め合わせのつもりなのだろうか。
それにしてもわざわざ歩みを止めてただの路面のデザインに見入るのは

何と無駄な役にも立たない無駄なことであるのか。
それでもただひとり眺める、思いもかけないきらきらした眺めを何と言い表せばいいのだろう。

「俺様の宝石さ」



落ち葉200610


思わず口を突いて出たのは夭折した天才レーサー浮谷東次郎の言葉だ。
(「俺様の宝石さ」浮谷東次郎 / 筑摩書房 東次郎の単身アメリカ滞在日記)

とても東次郎のように自己の可能性を追って世の中に体当たりしていくパワーは
ないが、社会的なリズムや価値観の縛りから離れたところに自分だけの宝石が
見つかるのは誰だって同じことだ。

俺様の宝石さ


「誰か他人の宝石にあらず、マドンナの宝石にあらず、俺様の宝石さ」

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2006年10月28日

私の好きな小倉百人一首

テーマ:本読み

私は小倉百人一首が嫌いである。子供のころ無理やり覚えさせられそうになったが、何言っているのか意味はわからなかったし、大人に聞いてもやっぱりワカラナイし、テレビや漫画や面白いものがたくさんあるのになんでこんな面白くないものをやらねばならないのか理解できなかった。つまり極めて無垢で「健全な」子供だった。


一生懸命覚えようなどという子供もまれにいたが、きまって大人に媚びる嫌なヤツでその不健全性に例外はなかった。 そして大人になって歌の意味が分かるようになると、やはり健全な子供に教えるべきものではないということがよく分かった。

百人一首とは下品な大人の遊びだったのである。


たとえば有名な第一首、


秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ  / 天智天皇 


「かりほのいお」とは農作業のために田んぼ脇に立てられた仮設小屋だが、天皇ともあろう人がいったいそんなところで何をしていたのか。 秋の景色を眺めに郊外に遊行に出たというのはいい。だが衣手が濡れるとはなんだろうか。 まさかそんな掘っ立て小屋で野宿のようなことをするわけもない。 ポイントは苫が荒いというところであるがなるほど、掘っ立て小屋の壁に当たる部分の草が粗く編まれているから、という言い訳ですべてが見渡せる。


つまりこの歌の意味はこうだ。


(訳)
稲刈りも終わった田んぼへ、歌のネタになる秋の風情はないかと遊びにきてみたところで尿意をもよおしたのだが、田舎の田んぼに厠などあるわけがない。 とはいえ、やんごとなき身分の朕があけっぴろげに御開チンするわけにもいかず、田んぼ脇の掘っ立て小屋に入ったのだが、壁が草で荒く編んであるだけなので外から丸見えだ。 だがここは背に腹は代えられず衣で隠しつつ用を足したのだけれど、おかげで袖がびしょびしょに濡れてしまったことだよ。


**


こんなのはまだまだあるが、この下品のオンパレードには恐れ入る。 いくらでも挙げられるのだが、弱小ブログとはいえ公共メディアなので、大下品はまたの機会に扱うとして、下品の中程度、定食なら松竹梅とあるうちの「竹」程度の下品歌をもう一つ挙げてみよう。


君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ  / 光孝天皇


一見これのどこが下品かと思えるような歌だが、山登りやハイキングに親しむ人なら分かるだろう。 公衆衛生施設のない野山でやむなく用を足すことを「キジ撃ちにいってくる」、とか「お花摘みにいってくる」というような表現をすることがあるが、当時も同じことを春の野においては婉曲に「若菜を摘む」と言ったのである。 ちなみにこの場合は大用のこと(野糞)である。


だから現代語訳はこうだ。


(訳)
春の野遊びの最中に糞がしたくなったのだが、供が携行したおまりとり器はあいにく君が大糞こいたため一杯になってしまったから、私は藪に分け入って若菜を摘んでくるとしよう。
(注:おまりとり器とは糞便回収容器のこと)


なお、「衣手に雪はふりつつ」については諸説あって専門家の中でも解釈が分かれているが、
早春の寒さの中で尻を出すわびしさを表現したものという説と、紙がなかったので袖で始末をしたということを雪がついたと婉曲にみやびな表現をしたという説が有力である。


いやはや、こんな下品な歌を集めて小倉百人一首を編んだ藤原定家の才能には恐れ入る。時代を超えて下品な人種に支持されるのもうなずけるというものだ。


小倉百一匹ワンコ

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2006年10月20日

秋風に吹かれて気分は旅がらす

テーマ:ブログ
秋の色

明日からしばらく旅に出ます。


北から下がってくる仲秋と晩秋の境目を見に出かけるのですが、

雨雲の端に立って雨と晴れのの切れ目を見るように

二つの季節を同時に見渡せたらいいとも思っております。


ここよりも深く染まった秋色はどんないろなのか、

秋色の風に吹かれて酌む酒はどうなのか、

今からわくわくしておりますが、

決して酒が目的の旅ではありません。(たぶん)


このためしばらく応答が遅れますが、どうかご容赦を。

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2006年10月18日

水戸老公の難儀を御見舞ひ申上げ候

テーマ:ブログ


会社の上司N氏が入院して痔の手術を行うというので、A君と私で
お見舞いを贈ったものかどうしようかという話になった。

「R氏、痔だってよ。痛いらしいな、血も出るのかな」


「うむ、脱肛ってくらいだから血も出れば肛門も出る、まさに『血出痔』ってところか


「チデジ? 地デジかあ、そう言うとなんだか先端モードの病気だな」


「でも、ちでじテレビじゃお見舞いには予算オーバーだよな」

2011年には現行のテレビはアナログから地上デジタル放送に一本化されるというが
穴ログがみんなチデジになるのだから、まさにこれが痛みを伴う改革ってことか。

「そういえばN氏、日記書いてたよな。表紙に名入れサービス付きの日記帳なんかどうだろう」


「手術の様子も書くのかな」


「なら、N氏の敬愛する永井荷風の『断腸亭日乗』にちなんで、
痔を切ったR氏の日記はさしずめ『断肛亭日乗』ってとこか」


「いいね、それサイコー!」

「わはは、それはやばいよー」

ちなみに永井荷風の日記『断腸亭日乗』の断腸とは庭に植えられていた断腸花、
即ち「シュウカイドウ」のことらしいから、悲憤(断腸の念)とは関係ないし、
もちろん断肛とも脱腸とも関係ない

そうこうするうちに、昼休みも終わって結局まとまらなかったお見舞いの件は
たまたま近くにいたF嬢に一任することになったのだった。

こんな連中の尻拭いをさせられるF嬢も災難だが、
それもこれも私らが大日本下品党の党員という脳性の病のせいである。とほほ。

(なお、F嬢も大日本下品党の強力な活動員なので彼女に心配は無用である)




【私の告白】痔瘻(じろう)に悩む男性が辛さを語る
 現代人も同様に多数の痔を患う者が多い。取材班は関係者をたどり、この病魔と闘い、手術の末、痔瘻とイボ痔を治した元患者にインタビューを行った.......... ≪続きを読む≫




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2006年10月17日

ネット虜囚に唾をかけろ

テーマ:ホラ


R氏の毎日は忙しい。
R氏は常に世の中の動きをウォッチし、様々な人と意見交換するばかりか、
R氏の発言や行動はいつも注目の的なのだ。
朝食もそこそこに到着したメッセージに目を通し、昼は各界の識者と懇談、
夜は美女とグルメの”情報”がR氏を待っている。
 
情報? そう、それはただの情報
R氏の意識の表面をなぞってはすべり落ちていくただの情報である。
 
R氏は一日の大半をパソコンとインターネットに向って過ごす。
R氏がふとわれに返って目にするのはほこりの積み上がった部屋と
毎度食事の粗雑なファーストフードのカラの山・・・。
仕事は行き詰まったままだし、家のことは何も手がつかず放置されたままだ。
いまや数少ない友人にもめったに会うことはない。

ネット上のR氏は気の利いたダンディーな振る舞いと、まめな応対で人気があるが、
どれもそれは「ネット上の情報」であり、パソコンに向かってR氏はたわいもないことを書き、
たまに来るコメントを待ち、来れば慌てて意識の表層で反応するだけのこと。
やっていることは日がな一日フケを払って、蚊に刺されては皮をぼりぼりと掻くことと大差はない。

ひょっとしたら自発的なネットの囚人・・・R氏自身、そう考えることもある。

だが、ネット上にいて情報への反応を繰り返す限り、現実の退屈も
努力の必要な煩わしいこともとりあえず忘れることができる気がする。


「気がするだけ」なのはR氏だってわかってはいるのだけれど、

「現実生活を細らせてまで、いったい何をするのか?、ほどほどにしろ」、との問いに

R氏は、現実世界に何の満足と希望があるのか?」と怒って逆に問い返したため、

いまや忠告してくれる人もいなくなってしまった。


昔から現実世界を拒絶する人種は、「革命家」「詩人」と相場は決まっていたのものだが、

いまや、「ネット虜囚」もその人種に加えねばならないかもしれない。


いつまでも満たされない思いのうずきをかかえつつ
R氏はズルズルとパソコンに向っている。






---------------------------------


先日ミクシー上場の折、
終日パソコンを眺めて暮らす主婦や、ブログのネタのために行動する勤め人が
ニュースで流れていた。
驚いたというより、やっぱり、という感慨。



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2006年10月15日

祝祭のハンドメイド

テーマ:物欲の果て

ホリデー、伝統的な祝祭日のいくつかは、昔からの祭礼が質的要素を薄めた「経済的なイベント」の日、あるいは単に「休日」としてある。


わたしたちが意義を良く理解していない祝日は多く、春分の日秋分の日の意義を正確に説明できるものはまれだし、正月は年賀状と初売りの期間であり、ローマの冬至祭りだったクリスマスの第一意義はプレゼントを買ってケーキを食う日としてある。


でも、人間が自然の周期と恵みの中で生まれては死んでいくという

人生の基本構造は太古から現代において変わらない。


天然資源の枯渇がより切迫した問題となって突きつけられ

環境問題が声高に叫ばれる現代においてこそ、

この自然と人間の基本構造が意味を増すとしたら、
季節の節目節目に太陽や大地に感謝の念を表してみることはまた意味のあることだろう。


とはいっても現在はすぐに企業の経済的動機が先行して意義を見えなくしてしまうから
(つまりモノの売り買いが第一意義になってしまうから)
お祝いの表現の仕方も自己流に考えてみる、個人の理解力と発想力に委ねられているともいえる。

企業の誘導に乗らず、感謝の方法は自分で考えよ、ということなのだろうか。



ちょうど今時分は、あちこちの店先にハローウィーンの商品が並んでいる。


本来は死者の日万世節の前夜祭、いわば西洋お盆であるが、宗教的・伝統的背景
のない日本では良くわからないかぼちゃディスプレイの日としてだけある。
もちろん、企業先導で何かを売らんかな以上のものは何もない。


        ジャック・オー・ランタン


アメリカではジャック・オー・ランタンのかぼちゃも、ヨーロッパではカブだったそうだで
ところ変わればやり方も当然変わる。


なんとなく、近所に成った生ったカラスウリの実に落書きしてみた。



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2006年10月14日

臓器ドナーになってください

テーマ:ホラ


実は去年の誕生日に街頭で臓器ドナー登録をした。
自分の臓器が役に立つ、単純にいいことをしたと思って

私はちょっと社会に貢献したような気分だった。


その後、「ドナー登録された皆さんへご優待」とかいうツアーだのスリルと冒険だの
イベント案内が何通か来たが、臓器コーディネート会社もいろいろ気を使ってくれる

ものだと感心していた。


ところがある日コーディネーターと称する営業がやってきて言った。

なにやらイラついているようだった。

「当社のイベント企画には何かご不満がおありでしょうか?あまり参加されていない
ようですが。」

「いやー、御社の企画は、アドベンチャーやらスリルやら、結構活動的なものが多くて、
インドア派の私にはなじめないものがあって・・」

「はあ、そうなんですか・・・では、これなんかどうでしょうね」
営業がパンフを差し出した。
 「美女と深夜の魅惑のドライブ」
 「スリル満点のアドベンチャー企画!」
 「二人きりで小さな旅に行きましょう」

私がどれも行くつもりはないと言うと、しまいに営業担当の男は
吐き捨てるように言った。

「あんたねー、臓器ドナー登録しておいてねー、まさか老衰で死ぬつもりじゃないよね。ドナー登録したってことは、私は寿命をまっとうしません、ってことだろうに。ええ?
登録カード作って世の中にいいことした気分になって、いい気になるんじゃないよー!
ドナーはさっさと臓器差し出してこそドナーなんだよ! うらあ!!


年寄りの使い古した臓器なんか誰もいらないんだから、
若くてイキのいい臓器を提供してくんなきゃ、こちとら商売上がったりなんだよ!
早くドナー登録者が本物の提供者にならないかって、よだれたらした患者たちがヒクヒク動く新鮮な臓器を待ってるんだよ!!
それをあんたは、ドナー会員の気分だけ楽しんで、うちの企画が気に食わないたあどういう了見だ!ああ!?」


営業の剣幕にびびった私は、美女と深夜のドライブに

行く約束をさせられたが、一体このあと私はどうなるのだろう・・・。




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2006年10月11日

どんぐりの森で迷子ごっこ

テーマ:散歩

どんぐり

公園や町内の道には、拾え切れないほどのピカピカのどんぐりが転がっているのにたいして見向きもされず、いつの間にか蹴散らされてどこかへいってしまうのは不思議でもあり、またもったいないような気もする。

だが自分のことを振り返ってみても、子供のころからどんぐりなんてつまらない無価値なものという認識が刷り込まれているようだから、どんぐりに何の感動を持たなくともそれは仕方のないことなのだろう。

もっとも、古くからどんぐりは救荒食でもあって、飢饉に備えて蓄えられたこともあったし、先の戦時下においては食料物資窮乏を救う民生対策の一環としてあちこちの街路樹にシイの木が植えられたらしい。

つまり食糧事情の改善がどんぐりの地位を低下させ、飽食の時代が止めを刺したというところだろうか。
だとしたら将来、やっと拾ったどんぐりで露命をつなぐようなことが起きないように願いたいものだ。

だからというわけではないが、去年、某ブログで見かけた記事を元にあく抜きの必要のないというマテバシイの実を拾ってきてフライパンで炒って食ってみた。個体によってはあくが強いものもあったものの、素朴な味わいで充分に食用になるものだった。
もっとも、今年もまた食ってみたいと思うほどのものでもないのだけれど。

 *
* *

誰も見向きもしないピカピカのどんぐり、何か良い使い道はないものかと考えながら
木立の小道を歩いていると、いつの間にかポケットがどんぐりで一杯になっていた。

気がつくと見上げる空の上の方はすでに群青に染まって、
かろうじて木の間から地面に届く最後の残照が帰り道を

途切れ途切れに朱に染めているのだった。

 早く帰ろう、帰らなければ。

 これそこの方、お待ちなさい。森から持ち出せるどんぐりの数は決まっていて、
 その数を超えると森から出ることはできません。

 おおそうか、では余分などんぐりは森に返すとしよう。
 ・・・まあここは森ってほどじゃないけどね。いつか森になるかな。

 なればいいのに・・・。

そこで道々、ポケットのどんぐりを地面にあいたセミの穴に転がし入れながら帰って来たのだが
来年の春にはどんぐりが芽を出して、いずれ木立が森になる様子を想像してみた。


つまらないただのどんぐりではあるけれど、

中にはきっと未来の森がぎゅっと詰まっているのだ。





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2006年10月09日

秋色の服を着て出かけた日

テーマ:二月堂便り



秋を楽しむのは紅葉狩りや秋の山に出かけるばかりではない。
晴れた空気を通して木々や町の景色が見て歩きたいとふと思い、
今日は車を置いて徒歩とバスで出かけることにした。

連れ立ってぶらぶら歩く道々には勢いの止まった草がたたずみ、
木の実や濃い色の花がこぼれだして
遠くの眺めもどこか淡くかすんでいたが、
そのどれもが秋の色をしている。
 
  秋の空気の通して眺める色って好きだな。
  これ、とっておけないかな。

  どんぐりや木の葉ならともかく、この空気を透過する光だからね。
  いっしょにびん詰めにしておければいいのにね。

  へー、さっそく写真とレンズの話すると思ったのに、意外なこと言うんだ。

  そうさ、僕はね、それを頭の中にとっておくんだ。頭の中の引き出しに。

  それは、スナフキンの受け売りだから認めません。ぜひびん詰めにして
  私に持ってきて。

  うん、景色を収めるガラスのびんはね、10月31日に秋と冬の境目が訪れる
  北の岩屋にしかないんだ。ちょっとひとりで旅にでてもいいでしょうか。

  認めます。

  旅には大量の酒と本が必要です。

  認めません。

  ・・・・・

とりとめもない話をしながら歩く見慣れたレンガの歩道の色も
秋の日の中では特別な色に見える。町も公園もすべてが秋の色だ。

やがてたどり着いたバス停の前には、
ハナミズキの木が大きく枝を広げて、赤錆色に変わった葉に日の光を浴びて立っていた。

木の前のバス停に立ち、色づいた木の葉に照る秋の微光を受けて
ほのかに染まった互いの顔を見つめ合うと、
私たちもまた秋の風景の一部となった。


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