2014年07月19日(土)

きっと、次も・・・この風景を見に行く、、、喜連川の街を散歩する☆.。.:*・

テーマ:■都市地域の「構造」を確認する

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下図「C」―「D」地点にて本ブログ管理者2013.12.31撮影
喜連川MAP2
喜連川町(きつれがわまち)

かつて栃木県中東部に位置していた面積75.47km²塩谷郡)。

奥州街道の宿場町であり、

江戸時代には古河公方足利氏)の末裔が治める喜連川藩が置かれていた。

2005(平成17)年3月28日氏家町と新設合併してさくら市となる。

(合併直前の推計人口11,056人/2005年3月1日)
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(地図中「A」地点にて本ブログ管理者2013.12.31撮影)
この、道路の微妙な“ズレ”が、城下町である証拠!

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(地図中「B」地点にて本ブログ管理者2013.12.31撮影)
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前庭のある町家・商家が主要街道沿いに建ち並ぶ・・・

(地図中「E」地点にて本ブログ管理者2013.12.31撮影)

■前庭のある町家1(本ブログ内関連記事参照)

■前庭のある町家2(本ブログ内関連記事参照)
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喜連川・・・っていうと、この風景(笑)

他人が作ったブログや個人HPでも、よく出てくる写真です♪

過剰演出(?)の復元「大手門」は、

旧・喜連川町役場(現・さくら市役所喜連川庁舎)入口にあります。

地図中「F」地点にて2013.12.31本ブログ管理者撮影
喜連川MAP1

喜連川藩(きつれがわはん)

関ヶ原の戦いの後に下野国塩谷郡喜連川(現在の栃木県さくら市喜連川)に立藩された藩で、藩庁は喜連川陣屋。

藩主は足利国朝(正室は古河公方・足利氏姫)を藩祖とする喜連川氏。

喜連川氏は足利尊氏の次男・足利基氏の後裔であり、名族足利氏のなかで唯一明治維新まで大名格で存続した家である。

足利頼氏(よりうじ)は関ヶ原の戦い1600年)に出陣しなかったが、戦後に徳川家康に戦勝を祝う使者を派遣したことから1602年(慶長7年)に1000石の加増を受けた。

それでも総石高4500石程度に過ぎず、本来ならば大名ではなく藩と呼ぶことはできないが、江戸幕府を開き源氏長者となった家康は、かつての将軍家でありかつ源氏長者でもあった足利氏の格式を重んじ、高い尊称である御所号を許して厚遇した。

また四品格となり、代々の鎌倉公方が叙任された左兵衛督左馬頭を称したが、これは幕府からの受けた武家官位ではなく自称であった。

にも関わらず、幕府などもこの自称を認めていた。

また足利の名字を名乗らず喜連川を称した。

以後の将軍も代々喜連川家を重んじ、享保年間には諸侯扱いとなり(「格式」だけは10万石クラスの)藩庁が喜連川陣屋(実態は、たったの5000石)にもかかわらず、国主並家格となった。

しかし石高が大幅に加増されることはなく、喜連川家は江戸期を通じて表高・実高が1万石に満たなかった唯一の諸侯とされている。

1815年(文化12年)に先代藩主であった喜連川恵氏が家臣に充てた書状の中で、喜連川家(喜連川藩)に認められた特例として「国勝手」(参勤交代義務の免除及び妻子の在国許可)「諸役御免」(幕府からの諸役賦課の免除)「無高にて五千石」(表高は無高(ゼロ)で、実高は5千石)を挙げている。

ただし、参勤交代については毎年12月に自主的に参府していた。

また、諸役の負担は表高から計算されるため、表高が無高な喜連川藩は当然、軍役など諸役負担の義務を有さなかった

ちなみに 喜連川氏春(4代藩主)の頃までは伺候席前田家越前松平家などと同じ大廊下であった(後に柳之間となる)。

こうした高い格式を持つ一方で、式日の正装は通常の四品の大名の直垂ではなく、喜連川氏だけ六位以下の平士が着用する素襖であった。

また、喜連川藩が1万石を満たしていないことから、喜連川家は諸侯(大名)の概念に当てはまらないとして高家や交代寄合とみなす説もあるが、高家のような具体的職掌や朝廷との交渉上必要とした武家官位を持たず、交代寄合のような参勤交代や軍役負担義務も有しないなど、高家や交代寄合の概念からも外れている。

すなわち、喜連川家が江戸幕府から受けてきた待遇は「大名(諸侯)」・「旗本」・「交代寄合」のいずれにも当てはまらない「特殊な立場」であった。

正保4年(1647)~慶安元年(1648)派閥争い(鎌倉公方「足利氏」以来の家臣団…かつての小弓公方方・古河公方方の対立)から藩主喜連川尊信が幽閉される"喜連川騒動"が起こったが改易にはならず12代に渡り喜連川氏が藩主を勤め明治維新を迎えている。

その後、

明治元年(1868)に藩主聡氏は足利姓に復してその後子爵に列せられた。

(*小弓=現在の千葉市「おゆみ野」地区、古河=現在の茨城県古河市)
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喜連川藩の藩庁「喜連川陣屋」=現・さくら市役所喜連川庁舎は、

140~150cm程度の高さ(目測)の石垣の上に、

さらに20cm程度の土盛りをした上に築かれている。

(地図中「F」地点付近にて本ブログ管理者2013.12.31撮影)

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これも、他所のHP・ブログ等で有名な場所の写真(笑)

(地図中「H」地点にて本ブログ管理者2013.12.31撮影)


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やっぱり、喜連川といえば、この「御用堀」のある風景♪

きっと、次も・・・来たくなる喜連川の景色。。。

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(地図中「H」―「」地点にて本ブログ管理者2013.12.31撮影)
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このあたりが

武家地(板塀&手入れされた庭木植栽・広い敷地)と、

商人地(蔵・町家・商家建築・密集市街地)

境界線かな?

地図中「」地点にて本ブログ管理者2013.12.31撮影
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本町交差点に現存する「喜連川町道路元標」

(地図中「G」地点にて本ブログ管理者2013.12.31撮影)

喜連川藩は1789年(寛政元年)には500石の加増を受けたものの、10万石の格式を保つ出費は莫大であり、藩財政は厳しかった。

特に荒川・内川の氾濫と天保の大飢饉は藩財政をますます窮乏させた。

9代目藩主喜連川煕氏(ひろうじ)1839年(天保10年)から藩政改革に乗り出し、義援米のための倉の設置、厳格な検地の実行、新田開発、藩内の士風刷新などの政策を実行しようとした。

しかし家中での上士と下士の対立(上述)と、財政基盤の弱さが政策の実行を阻害し、ほとんど成果が上がらなかった。

唯一の救いは、喜連川が奥州街道沿いの宿場町であったことで、奥州の大名、わけても仙台藩の参勤交代時には喜連川の宿場は潤った

仙台藩が費用節約のために喜連川を通り過ぎたくても、宿場前にはいつも喜連川藩主(御所様)が待っていたという。

一度、仙台藩が喜連川を迂回して参勤交代した時には、御所様は義務もないのに江戸城参勤に赴き、伊達侯に嫌味を言ったと伝えられる。
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そして城下町(陣屋町?)を抜けて江戸(東京)方面へ向かう、、、

ちなみに、喜連川藩は上述のように参勤交代の義務を免除されていたため、幕府から江戸屋敷を与えられなかったが、年始の参府時などの利便性から元禄年間に自前で上野・不忍池の近くの下谷池之端に江戸屋敷を購入した。

但し、他の藩と違って藩主の妻子を住まわせる必要などもなく、また規模の小さな藩であったため、江戸屋敷に詰めた藩士は三名程度であったのだそうだ

(地図中「J」地点にて本ブログ管理者2013.12.31撮影)

なお、現在の「J」地点(現・国道293号「弥五郎坂」)は明治以降に開かれた新道で、旧・奥州街道の「(旧)弥五郎坂」は、地図中「K」地点に存在する。


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2 ■こんにちは

はじめまして、本業じゃないけど都市と交通を研究&提言▼CAMMIYA|Ameba (アメーバ)さん。
ブログ拝見しました☆また遊びに来ます!!

1 ■どうも(o´∀`o)

記事、拝見いたしました~
書き方が上手なので勉強させてもらってます☆。.+
http://ameblo.jp/cygoipoebl ←私のブログです。よかったら遊びにきてくださいね♪

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