古地図でお散歩♪…1/5万・昭和28年「栗駒山」、30年「若柳」、45年「水沢」編*過去記事更新
1/5万「若柳」・・・昭和30年と、現在(グーグルマップ)との比較
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若柳(わかやなぎ/宮城県栗原市若柳)
慶長3(1598)年に「元町(現・宮城県栗原市若柳川北元町)」が成立した場所は、迫川の流れが直角に曲がった古い渕の場所。
後の延宝3(1675)年、この古い渕は埋め立てられて1702年に「片町(現・宮城県栗原市若柳川北片町)」が町割られ、現在の市街地構造に近い形になる。
「片町」という地名は現在でもバス停名称に残っている。
また、現在の「栗原市若柳総合文化センター(旧若柳町総合文化センター/宮城県栗原市若柳川北古川83)」や「ウジエスーパー若柳店(宮城県栗原市若柳川北古川128-7)」付近、すなわち「片町」という地名のすぐ南側に隣接して取り巻くように「古川」という地名が残っていることから、
「埋め立てられた古い渕」とはこの辺の場所を指し、
江戸時代以前の迫川は昭和30年の旧版地形図上に示した
「→」
のような形で現在よりも北側に回り込んで流れていて、
街発展の礎を築いた最初の「元町」は、
この川の流れを利用して
仙台藩最大の港であった石巻へ送り出す舟運によって成立?したものと思われる。
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その間、慶長7(1602)年には宿札(やどふだ=宿駅の出入口や本陣・脇本陣の玄関先に立て宿泊する大名や公人の名を掲載した札)札を石越西門(JR東北本線「石越」駅前/現・宮城県登米市石越町南郷西門沖)から移して宿場機能を担う。
さらに慶安2(1649)年「新町(現・宮城県栗原市若柳川北新町)」成立。
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で、時代が前後した説明になってしまったが、
前述のとおり延宝3(1675)年、この古い渕は埋め立てられて1702年に「片町(現・宮城県栗原市若柳川北片町)」が町割られ、仙台藩財政を支える拠点の街の1つとして発展し、現在に至る。
(参考文献/渡辺信夫「みちのく街道史」河出書房新社1990年)
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若柳駅跡
若柳駅(わかやなぎえき)は、宮城県栗原市若柳字川北塚ノ根にあった
くりはら田園鉄道くりはら田園鉄道線の駅(石越駅起点3.1km地点)。
2007年、路線の廃止に伴い廃駅となった。くりはら田園鉄道の本社と車両基地があり、同鉄道の拠点となっていた。
現在は、くりはら田園鉄道の車両を保存する鉄道公園として機能している。
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1/5万「若柳」・・・昭和30年
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築館(つきだて/宮城県栗原市築館)宿
町割りの初期は
現在の国道4号に相当する奥州街道の道筋が確定する元和9(1623)年以前で、
真坂(現・宮城県栗原市一迫真坂)~築館~若柳を結ぶ「仙北通り(若柳街道/現在の国道398号)」に沿った「西町」「中町」「東町」の“横軸”に展開する市街地構造?。
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奥州街道(「築館市街地」地図中│線表示)
「仙台・松前道」とも呼ばれ、仙台藩における還道であり
幕府では勘定奉行の管轄下であったが、街道の整備は各藩が担当した。
仙台藩領では伊達政宗時代の「城下町・仙台」建設の一環として整備。
但し、
藩政初期(1623年まで)は、仙台以北のルートが後期と異なり、
「出羽街道(現在の国道457号・・・吉岡「地図中K」~中新田「同N」~岩出山「G」~真坂「C」~岩ケ崎「F」~一ノ関「J」)」を通る道筋で、
後期における現在の宮城県の骨格を成す最重要路線である国道4号に相当する道筋(吉岡「K」~三本木「M」~古川「H」~築館「D」~金成「L」~一ノ関「J」)は未だ確定していなかったようだ。
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仙北通り(「築館市街地」地図中―線表示)
花山温湯(寒湯番所)「A」~川口「B」~真坂「C」~築館「D」~若柳「E」
(現在の国道398に相当する道=仙台藩と秋田藩を結ぶ交易ルート)
この道筋は正保期(1644-47年)までには主要「脇街道」としての位置づけが定まっているとされているが、ルート上にある真坂の宿は、道筋確定以前(1591年)に設置されている。
これは中世期から開かれていた「松山道(上街道)」によって成立した街なのだ。
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松山道(上街道)
岩ケ崎「F」~真坂「C」~岩出山「G」~古川「H」~松山「I」
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真坂(上)と、川口(下)・・・宮城県栗原市一迫
「松山道」に沿って“縦軸”市街地構造が特徴の真坂宿設置は1591年。
「仙北通り」に沿って“横軸”市街地構造が特徴の川口宿設置は1604年。
脇街道としての「仙北通り」が江戸時代に確定する以前から、
仙台ー秋田領内における交易が中世戦国時代の頃からある程度存在?
(グーグルマップに本ブログ管理者が加筆編集)
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栗原市(くりはらし)
宮城県の北西部に所在する市。
2005年(平成17年)に栗原郡全町村が合併して発足。
2015年2月1日推計人口70,379人、市域面積804.97km² 。
(人口密度87.4人/km²)
市役所所在地/宮城県栗原市築館薬師一丁目7番1号
1/5万「栗駒山」・・・昭和28年と、現在(グーグルマップ)との比較
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国道398号(こくどう398ごう)は、
宮城県石巻市から秋田県由利本荘市に至る一般国道(距離:273.5km)指定区間:なし
起点:宮城県石巻市(門脇元浦屋敷(通称・大街道新橋)=国道45号交点)
終点:秋田県由利本荘市
(本荘大橋南詰交差点=国道7号交点、国道105号起点、国道107号、国道108号終点)
宮城県栗原市花山温湯(=本記事にて取り上げた地点・上掲地図参照)
- 秋田県湯沢市皆瀬大湯は、冬季閉鎖される。。。
【沿革】
1982(昭和57)年4月1日 - 一般国道398号(秋田県湯沢市 - 宮城県石巻市)
旧宮城県道・石巻女川線、女川志津川線、湯沢築館志津川線が国道に昇格
1993(平成5)年4月1日 - 一般国道398号
(宮城県石巻市 - 秋田県本荘市(現:由利本荘市))
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温湯温泉(ぬるゆおんせん)は、
宮城県栗原市(旧国陸奥国、明治以降は陸前国)にある温泉(ナトリウム-塩化物泉)。
日本秘湯を守る会に加盟している一軒宿佐藤旅館が存在。
明治時代~昭和初期にかけて建築された、
ノスタルジックな旧館の中庭を旧街道が通っている。
当時としては非常にモダンな建物で、かつて地元の社交場としてにぎわったという。
栗原市営の公共温泉宿泊施設「温湯山荘」もある。
開湯は平安時代の末期とされている。
古くは「寒湯」と書き、江戸時代には「仙台藩仙北御境目寒湯御番所」が置かれていた。
明治時代に栗駒山の火山活動の活発化により湯温が上昇し、
それに伴って温泉名も「温湯」と改められたのだそうだ。。。
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昭和28年の地形図作成時点では、この温泉場が道路(車道)端点であり、
これより先(秋田方面)へは、徒歩で山登りして峠越えする必要があったと思われる。
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かつては、街道を遮るような形で門を構えていた・・・・
(仙台藩寒湯番所跡)
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「境目他領出入の禁止令」と、「温湯(寒湯)番所」
仙台藩では藩初依頼しばしば「境目他領出入の禁止令」を出しているが、
寛文2(1662)年と、同9(1669)年に一層強化された。
但し、他藩との全ての交易を禁止するというのではなく、一定の手続きを経て許可を受けた物資の交易については認められていたようだ。
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また、仙台藩と秋田藩の間では
(藩政初期の頃は)人返し協定が結ばれていなかったため、仙台藩では、
仙台藩から秋田藩への欠落(逃亡)を厳罰に処したが、
逆(秋田藩→仙台藩への逃亡欠落)は黙認していたのだそうだ。
その為、寒湯番所では
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「史跡・仙台藩花山村寒湯番所跡」
栗原市花山字本沢北ノ前77(温湯温泉の手前にあり市営温湯山荘の隣)
開館時間:09:00~16:30 入館料:200円
休館日:期間中無休(12~3月末は休館)
国指定史跡指定(昭和38年)、県の重要文化財指定(昭和31年)
ちなみに、表門の間口は2.96mなんだそうです…
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江戸時代、栗駒山の鞍部を通り秋田県雄勝に通じる街道の関所の跡。
番所の起源は永禄9年(1566)といわれているが、
慶長13年(1608)この地が仙台領になってから、
木戸門・役宅などが建てられて御境目番所となる。
現在も門や役宅が残っており国の史跡に指定されている。
(公式パンフレットより図面引用/本ブログ管理者加筆修正)
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1/5万「若柳」・・・昭和30年と、現在(グーグルマップ・空中写真)との比較
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ミヤコーバス佐沼営業所(ミヤコーバスさぬまえいぎょうしょ)は、
宮城県登米市迫町佐沼中江2丁目3-4にある
ミヤコーバス(名鉄傘下・宮城交通の子会社)の営業所。
統合前は宮交登米バスの本社営業所であり、旧仙北鉄道佐沼駅跡地 にある。
なお、
1978年(昭和53年)6月12日の宮城県沖地震により、旧佐沼駅舎は倒壊してしまった。
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仙北鉄道(せんぽくてつどう)は、
かつて宮城県栗原郡瀬峰町(現・栗原市)の瀬峰駅と
同県登米郡登米町(現・登米市)の登米駅、
瀬峰駅と栗原郡築館町(現・栗原市)の築館駅を結んでいた、
2つの路線からなる軌間762 mm、最高速度45 km/hの軽便鉄道
(1968(昭和43)年に全線廃止)。
栗原郡の中心である築館町および登米郡の中心である佐沼町(現・登米市)と
近郊都邑を、東北本線と連絡して米などの農産物輸送および旅客輸送を図る目的で、
1921(大正10)年に開業。
戦時中には、宮城県東北部における交通統合の主体となる。
これにより広大な営業エリアのバス事業者となった。
後に、塩釜交通、古川交通、仙台鉄道の3社を系列に収めている。
3社は合併し宮城バス(初代)となった。
鉄道末期の1964(昭和39)年には、その宮城バス(初代)を吸収合併し、
宮城バス(2代)に改名(本社を瀬峰町から仙台市に移転)。
瀬峰町には鉄道管理所が設置されて、
鉄道線名については「宮城バス仙北鉄道線」と称した。
この名称から仙北鉄道が宮城バスに吸収されたように見えるが、誤りである。
当時の仙北鉄道は宮城県最大のバス路線網を持つ会社に発展していたものの、
鉄道の経営状態はピークを過ぎていたため、
将来バス専業会社に移行することを見越しての合併であった。
鉄道線廃止時点でも、その採算自体はまだ危機的状況にまでは至っていなかった。
将来の設備更新費用等を勘案すればバス化する方が輸送力増強・合理化の面から得策
とした、長期的経営判断によるものであったらしい。。。
廃止後、路盤の多くが宮城バスの専用道路となったが、
維持費用の負担が重荷となり現在はすべて自治体に移管(一般道路化)されている。
(一部は、県道1号線の「支線」として指定されている)
代替バス路線は1970(昭和45)年に宮城交通登米線となり、
国鉄民営化の数年後まで連絡運輸を行っていた。
1995(平成7)年には分離子会社の宮交登米バスとなったが、
新田・佐沼 - 仙台の高速バス(特急仙台 - 佐沼線)開業による利用率減少で
2005(平成17)年10月1日廃止、登米市民バス(ミヤコーバス受託)に引き継がれた。
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石森(漫画家石ノ森章太郎の出身地)駅跡は、
現在では(グーグルマップで見る限りでは)市の学校給食センターになっているようだ。。。
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1/5万「水沢」・・・昭和45年と、現在(グーグルマップ)との比較
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水沢バイパス(みずさわバイパス)は、
岩手県奥州市を通る国道4号のバイパス道路。
奥州市(当時は水沢市)中心部における渋滞緩和と直角コーナー解消の目的で
1970(昭和45)年9月に整備された。
しかし全区間片側1車線であり、沿道の都市化進展と交通量の急増によって
当線の渋滞は慢性化。2代目として当線の東側に水沢東バイパスが整備されている。
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水沢東バイパス(みずさわひがしバイパス)は、
国道4号のバイパス道路。
奥州市内を通る国道4号は交通混雑緩和のため水沢バイパスが整備されてきたが、
この道路は片側1車線で規格が古い。
そして近年は
付近に郊外型大型店が進出し沿道も都市化が進んだため渋滞が慢性化し、
急増する交通量に対応しきれなくなっていた。
そこでこれらの問題を解決する手段として現道の東側に新たにバイパスを整備。
立体交差を多くして交通渋滞緩和を図っている。
2005(平成17)年12月12日に北半分が暫定2車線で開通し国道397号と接続された。
県道251号及び国道397号との交点以外は立体交差が基本であり、
金ヶ崎バイパスと一体化する形で建設。
13.0m(車道3.5m×暫定2車線、路肩1.5m×片側、歩道3.0m×片側))
25.0m(車道3.5m×4車線、路肩1.5m×両側、歩道3.0m×両側)
構造規格:第3種第1級(設計速度:80km/h)
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奥州市(おうしゅうし)は、
東北地方の中部、岩手県の南西部に位置する市。盛岡市に次ぐ県内第二の都市。
2011年1月1日現在の推計人口124,929人(人口密度126人/km²)
2006年(平成18年)2月20日 - 水沢市・江刺市、胆沢郡前沢町・胆沢町・衣川村が合併し、
奥州市が誕生。
これらの2市2町1村は、2000年国勢調査に基く水沢都市圏(都市雇用圏 - 10%通勤圏)
を構成する地方公共団体であった。
市役所所在地:岩手県奥州市水沢区大手町一丁目1番地(旧・水沢市役所)
旧奥州街道および東北本線は、
扇端沿いで河岸段丘上の水沢区の中心地域を南北に通っているが、
段丘崖下の段丘面を通る国道4号沿いには新しい市街地が形成され、
大規模なロードサイド店舗の進出が見られる。
東北新幹線・水沢江刺駅は、その対岸(北上川東岸)に位置している。
交通の利便性の良さを背景に、県内でも屈指の商業集積が進み、
工業団地等が整備され、伝統産業や基幹産業の事業展開が図られている。