流れ雲のブログ

季節は巡り、花が咲き花が舞い、花が散り花が逝く、
きっといつか、風が吹いて、夢を運んでくる予感…
繰り返しと、積み重ねの、過ぎ去る日々に、
小さな夢と、少しの刺激で、
今を楽しく、これからも楽しく…


趣味と、実益の、自己満ブログです。
人生は、振り返ることは出来ても、 後戻りは出来ない…

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船村徹〜すぐれた歌詞の背後には必ず物語が
潜んでいる


1961年の夏、近代生活の必需品という触れ込みで、
旭化成から「サランラップ」が売り出された。
厚さ10ミクロンのラップは空気や水をほとんど
通さないため、冷蔵庫が普及し始めた家庭の
必需品となった。 

アメリカで誕生したラップの急速な普及で、
日本の台所はますますアメリカ化し、呼び名も
キッチンに変わっていく。 

前の年に発売されたインスタントコーヒーに続いて、
粉末インスタントクリーム「クリープ」が森永製菓から
発売になった。 
日本人の生活がアメリカ化の決定打となったのは10月、
それまで米軍用に限られて輸入物しかなかった
コカコーラが、商品として巷に出回るようになったことだ。 

貿易自由化のおかげで原液の輸入が認められたことから、
国内製造が始まって普通の日本人がコカ・コーラを
飲めるようになった。 

その年は音楽シーンでもアメリカ化が進み、
ロカビリーブームの延長で流行していたアメリカン
・ポップスが、ティーンエージャーたちを夢中にさせていた。 

渡辺マリの「東京ドドンパ娘」が春に大ヒットした。 
坂本九の「上を向いて歩こう」が秋にブレイクした。 
大人向けでは夏にクレイジー・キャッツの「スーダラ節」が
出て一世を風靡したし、西田佐知子の「コーヒー・ルンバ」や
越路吹雪の「ラストダンスは私に」もヒットした。 

アメリカナイズされた楽曲が大流行し、誰も彼もが
横文字に惹かれていく時代だった。 
そんな流れに抗うかのように作られたのが浪曲の
第一人者、村田英雄が歌った「王将」である。 
作詞は大ベテランの西條八十、作曲は新進気鋭の
船村徹だった。 

パリへの留学経験があった西條八十は当時69歳、
早稲田大学の教授としてフランス文学を教えていた
詩人だ。その一方では「東京行進曲」「サーカスの唄」
「越後獅子の唄」「芸者ワルツ」など、数多くの
流行歌を書いた稀代のヒットメーカーでもあった。 

しかしコロムビアから「王将」の話を持ち込まれた時、
「えっ?今どきこういうレコードを誰が買うんですかね」」と
驚いたそうだ。 

作曲を頼まれた船村徹は持ち前の反骨精神から、
気持ちが高ぶったと語っている。 
私のほうはへそまがりというか、私独自の理屈で
動いているから、「王将」の企画にはすぐ賛同した。 

たとえば、ここに百円落ちていると、それを十人が
拾えば一人十円にしかならないのである。 
それが音楽業界の流れだった。 
ひとつヒット生まれると、そこに皆が群がっていく。 

だから、皆が東に向かったら、一人ぐらいは
西を向くやつがいたほうがいい。 
その代わり、百円拾えば全額自分一人のものになる。
そういう理屈であった。 

ただし、船村徹はただのへそまがりではなかった。 
東京音楽学校の作曲科にいた頃から、日本人で
ある限りはベートーベン、シューベルト、モーツァルト、
バッハといった大作曲家たちが残し作品を超えるのは
無理だと思っていた。 

そして、自分たちにとってオリジナルとは何なのかを
考えてきたのだ。 
頑固な勝負師を描く「王将」の世界ならば、民謡や
浪花節、都々逸で育ってきた自分にも書けると、
船村徹は自信があった。 

やがて西條八十が書いた歌詞が届いた。 
王将 作詞:西條八十 作曲:船村徹 



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船村徹が「吹けば飛ぶよな演歌の節に/
賭けた命を笑わば笑え」と口にしてみたら、
自然にメロディーが出てきた。 

歌った村田自身もまた、
「吹けば飛ぶよな演歌の道に/
賭けた命を笑わば笑え」という気持ちだった。 
勝負師の物語を背景にした歌が、その枠を超えて
多くの日本人を励ます唄になった。

それは最初の一行に、聴き手が自分を重ね合わせ
られるという、絶妙の「つかみ」があったからだ。 
「王将」は戦後初のミリオンセラーとなった。 
この歌を書いた後、船村徹はしばらく日本を離れて、
ヨーロッパに暮らしている。 

そしてパリに滞在しているとき、渡仏してきた西條八十と
一緒になる機会があった。 
「あの歌のヒットは船村くんのおかげだよ、ありがとう」と
言われた船村徹は、歌のヒットそのものよりも嬉しいと
感じたという。 

西條八十はそのとき、「愚痴も言わずに 女房の小春 
つくる笑顔が いじらしい」という箇所を、数年前に
亡くなってしまった夫人を想い浮かべて書いたと述べた。 

「私の女房の鎮魂歌なんですよ」 すぐれた歌詞の
背後には必ず、作者の生きてきた生活から生まれた
物語が潜んでいる。 ・・・









4911111 


やっぱり私の一番根源的な思いは
「負けてたまるか」ですね。
これは母の教えでもあるんです。

私の母は娘盛りの16歳の時に銭湯で細菌に
感染し、一夜にして目が見えなくなってしまいました。

その後、縁あって父と結婚し、私を産んだのが
昭和5年。ご存じでしょうけれど、その前年の
昭和4年に世界大恐慌がありました

いま100年に1度の大不況といわれていますが、
こんなもんじゃない。
あの時は餓死者が出るほどの困窮の
極みだったのです、

父は小さいながらも事業を営んでいましたが、
父にもしものことがあれば、目の見えない自分と
小さな息子が路頭に迷ってしまう。

あの頃は社会保障なんてない時代でしたから、
物乞いになるか、死ぬかどちらかしかないわけです。

そこで一念発起した母は、女性が仕事を持つことが
考えられない時代に骨瓶(こつがめ)を焼く会社を
設立したんです。

鹿児島の女性でしたし、強い女性だったことは
確かです。また、なんとしても生きていかなければという
気概がそうさせたのでしょう。

その母が私に繰り返し教えたことがありました。
「負けてたまるかと静かに自分に言いなさい」

簡単に言えば克己心ですよね。
人間はどんなに強そうに見える人にも弱い部分がある、
その弱さとはナヨナヨしているということよりも、
怠惰であったり、妥協でしたり、みんな己に対する
甘さを持っているわけです。

だから常に自分白身を叱咤激励し、己に打ち克つ
ことが人生では大切なことだと、そういう実感が
障害とともに生きた母にはあったのでしょう。

この「負けてたまるか」は、監督になって世界一を
目指す私にとって一番大切な言葉であり
教えとなりました。・・・
 




A131111





P R :

270306022 


# 隙間産業(ニッチ市場 )
 

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