「声と言葉で世界を拓く」〜自分の響きを存分に奏でて生きたい人を応援するコーチ、中村公子の公式ブログ

声と言葉で自分を開く、世界を拓く〜自分の持って生まれた響きで世界と関わりたい人のためのコーチ、中村公子の日々の手帳

 ◆【声と言葉にあなたの意図と思いをちゃんと乗せて届けたい人に届けよう】◆
「声のワークショップ2DAYinふくおか*警固神社」

声はその人の魂を表します。
言葉はその人をまず何より自分自身と、そして世界とつなぐものです。
これらと「自分」との関係性、つまり「あなたの声と言葉はあなたの意図と思いをちゃんと乗せて、届けたい人に届くのか?」というところにわたしたちのこれまでの在り方はすべて現れます。
「あなたの本来の声と言葉を再び手にする」
そのとき、わたしたちは世界がこんなにも生き生きと五感にあふれていること、
そして、その中で「あるがまま」の自分自身がこんなにも、堂々と世界に向かって自分自身の響きでもって、影響を与えられるのだと細胞全部が震えるような喜びの中で知るでしょう。

***こんな方に***
・声が小さい、通らないことを気にしている方 /いつも「え?」と聞き返されるという方
・大勢の人の前で話すことが苦手だと感じていた方 /引っ込み思案を直したいと思っている方
・人前で話した時に「聞かれている」気がしない方
・人前で話す機会が増えている方 、影響力のある存在感ある語りをしたい方
・新しい自分を発見したい、という方/自分の殻を破りたいと思っている方
・頭ばかり使いすぎて使う感覚が偏ってしまっている、という方
自分の思いが真に伝わる「声と言葉」を手に入れる~● 

         「声のワークショップ2day*inふくおか」

          9月5日/6日   福岡市 警固神社にて   詳しくはこちらへ

     






今、最もチケットの取れない落語家、であるらしい
立川談春が対談で



(落語も)旋律として、音色として聞いていて心地いい、というのがいい。
正しさの外にあるものがある。
内容は伝わっていないかもしれないけれど、気持ちよかったよ、
みたいな風にやるのが好き。
音楽的な要素を大切にしたほうがよい。
落語ひとつでチューニングできそうな気がする」

と言ってていました。
正しさより五感。
リズム。
相手が身体で感じる感覚が大切、ということなのでしょう。


数年前でしたか。
由紀さおりのCDが海外で大ヒットしたことがありました。
曲を聴いた外国の人たちの感想がまさに、そうだったように記憶しています。
「意味はわからないけれど、聞いていて美しい。心地よい」。
母音主体の言葉である日本語の面目躍如、とも思いましたが。







話変わって。
「日本語で『体』というのはかつては『死体』のことだった」。
(能楽師 安田登 「日本人の身体」  より)
以下、要約。

 

「(昔は)生きているからだのことは『身』と言った。
身、とは、身と魂、両方の入ったものを指す言葉で、
昔の日本には『からだ』と『魂』を分けて考える風習はなかった。

この身体を『体』として、心(魂)と切り離し、『体を鍛える』というように
一個のモノのように扱う概念が出来たのは明治から」

 


なのだそう。
そういえば
日本の伝統的な武道、芸は、準備運動もなければ発声練習もないですね。
(詳しくはないので違ったらゴメンナサイ
以前やっていた居合はそうでした。それから先日見学した詩吟も)

 
○○のために身体を鍛える、トレーニングする
という「身体を切り離し、コントロールする。(意に添うように作り変える)」
という発想が
本来日本にはなかったのでしょうね。

 






さらに話変わって。
数か月前。
社交ダンスの著名な指導者のレッスンに出る機会を得ました。
先生いはく

「『ここでこう体を使って…』
とみなさん言いますね。指導者も言いますね。
『使う』という言葉で日本人は力をいれます。頑張ります。
日本人にとって『使う』とは『力を入れる』ということです。
でも、ダンスでは
体を使うとは「抜く」ということです」

 
すごいのは
身体を「使って」前へ前へ踏み出そうとしていたワルツの第一歩。
先生のおっしゃる通り、全身の力をストン、と抜いて
そうですね…まるで地球に身体を預けるようにすると
これまでの2倍、いっきに距離がのびたのです。
驚き。




「使う」という言葉に日本人が込めているイメージがある。
そして、
体は自分の外にあって「使う」もの、だと。
「物」だと、わたしたちは無意識に思っている。



身体は言葉のとおりになりますから。
どんどん切り離されていく。
まさに
「『からだ』の『から』は『殻』。
切り離し、覆い、分離されている、ということ」
そんなことを思いました。

 



さて、タイトル
~「伝わる」ためには「正しさ」よりリズム。何より自分と「身体」の一体感~

 
ここでいう「伝わる」とは
「いい話ですね」で、3日したら忘れてしまうような、頭での理解を指すのではなく。
相手の心身にがっちりと入り込み
細胞を揺るがし、相手の心を揺るがし、人生を変えうる…
そういう状態を「伝わる」と表現しています。
わたしたちが相手に「伝えたい」と思う
その理由は究極すべてこれだと思うのです。



そのために知っておくべきこと、それは

何よりまず一番に相手に伝わるのは

「言葉の内容」よりも「言葉の波長」「語り手の作り出す波長」である。

ということです。
「言葉の内容」で嘘はつけても、「波長」は嘘がつけません。
絶対に。
そして、その「伝わる波」「心地よい波」は
心と身体と声と言葉…全部がつながった状態の人からしか
生まれないものである、ということ。



わたしたちは
「身体とのつながり」を取り戻さなくてはなりません。
身体を震わせ、肚から声が出るとはどういうことか?
言葉と自分の感覚がしっかりと結びつくとはどういうことか?

それが本当に自分の身体から出てくるときの感覚を
正直言って、大人になったわたしたちは数十年、ほとんどの人が体験していません。

込み入った修行も特別な体験も必要なく
わたしたちは
今ここにある、人間としてのシンプルな「原初の」機能によって
それを体感し、取り戻すことができるのです。
そしてそれはとりもなおさず自分自身の人生の(どこかに置き忘れた)
大切な部分が戻ってくること、とイコールなのです。

 



※タイトルについて
「伝える」場面において、その情報が「正しい」のは大前提です。
「一言一句正確に…」「準備してきたことを全部話さないと」
といった部分にのみに固執するな、ということです^^。


 ●声と言葉を通して「身体と自分自身」のつながりを取り戻す● 
         「声のワークショップ2day*inふくおか」
          9月5日/6日   福岡市 警固神社にて   詳しくはこちらへ
     

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オリンピックの開会式。
毎回とても楽しみに見る派、です。
お国柄、その国ならではの演出をみるのが楽しみで。

選手入場がはじまり
50番目くらいまでは衣装、それから各国の選手の表情や歩き方に
「わ~」「きゃ~」「あの色がいい」
「この衣装いいね」「このノリはさすがこの国」
などなど盛り上がり。
南米大陸はじめてのオリンピック。
あまり見ることのないブラジルの歴史、文化。
それから各国の工夫を凝らした装いを見るのは楽しくて。

それからしばらく…さすがに少し飽きてきて、「日本選手団まだかな…」
となり、
そして待ちに待った104番目。
「JAPAN!」。



まあ、なんてステキに…カッコ悪いの(笑)。
赤い上着も白のパンツも…なんだか「着られて」いるみたい。
いつもは日本人の中に自分自身が埋没しているので気づきませんが
204ヶ国(でしたっけ?)比べるものがあると、まあ「野暮ったさ」が目立ちます。
卑下でもなんでもなく、素直にふっと浮かんだ感想は


「洋服を着はじめてたかだか150年だもんな…まあ、こんなもんか」


骨盤が直立している日本人。
すり足民族の日本人。
それは湿潤温暖のやわらかい大地を歩くために育まれた歩き方であり
体形である、と読んだことがあります。
硬い石畳を数百年、膝裏をピンと伸ばし、かかとで「カッカッ…」と闊歩してきた
民族とは違う。
なんて…なんて安定のカッコ悪さ。
黒人のようにスイングする骨盤でもない。
日本人は生真面目なのです。骨格からして!



西洋文化の国々の颯爽とした動き。
ステップを踏むような優雅な足運び。
見ているとやはり「洋服を着用してきた歴史の長さ」を感じます。
民族の血にしみ込んだ長い歴史と伝統、という感じでしょうか。
その他、民族衣装をまとった国も多かったですね。
どの国も美しかった。
民族衣装は、その国の人たちを最も美しく、誇り高く見せるもの、
とそんな風にあらためて実感でした。


では日本人は?
今、民族衣装である着物を着たとして、その身のこなし、腰つき…
美しく、堂々と、かっこよく着こなせる人がいったい何人いるでしょう。
きっと今度は「アヒルがよちよちと前傾姿勢で歩いているかのような」
(毎年成人式のときに振袖集団を見て感じる残念なかんじ)
になるのでは、と危惧。

 



日本人よ、どこへ行く。



どちらにも近づけない「中途半端な身体」。
腰と肚の文化を捨て、先祖が培ってきた身体に刻まれた知恵と「あり方」を捨て
今の中途半端な身体を生んだ教育。生活様式。価値観。
身体の状態と精神の状態はイコールですから
そんなところに
日本人がこの戦後70年にわたって今の状況に陥ってしまった
「精神的孤児」の様相を感じるのはわたしだけでしょうか。



でも
全くもって悲観しているわけではなく。
なんとなく感じるのですが
振れた振り子はまた戻る。
戻りながら中庸へと。
「大切なもの」とのつながりを
取り戻そうとしている流れが波となって今ちゃんと来ている、と思えるのです。


 ●声と言葉を通して「身体と自分自身」のつながりを取り戻す● 
         「声のワークショップ2day*inふくおか」
          9月5日/6日   福岡市 警固神社にて   詳しくはこちらへ
     






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これを書いたのは1か月ほど前です。
あっ!と浮かんで走り書きしたままだったのですが。
少し書き足してアップします。


~~~~~~~~~~~~

今日は、
プレゼンセッションをひと月半ご一緒したクライアントさんの本番の日でした。
職場でなさるプレゼンですので
もちろんわたしは結果を見届けることはできないんですが。



「大丈夫!本当に素敵でしたもん、リハーサル。
わたしは心から安心して、そしてワクワクしています」
とメールを一本お送りしたんですが
後から

「ああ、本当に掛けないといけない声はあれじゃなかったなあ」

とふっと思い。
いえ。
「大丈夫、うまくいきますよ、自信をもって!」
という言葉かけも大切なんですが、最近「うまくいく、いかない」という次元が
そんなに大事かな、とも思うのです。
泉のように涌いてきた言葉はこちら。



「(聴衆の特性から)
もしかしたら、目の前の方々の表情は
あまり変わらないかもしれません。
思ったほど、反応が返ってこないかもしれません。
あなたが送った視線は受け止められないかもしれません。
それは、もしかしたら
あなたを少し、動揺させるかもしれません。



でも、
いいのです。それでもいいのです。
今、それが得られなくても
あなたの声、言葉。心を尽くし、言葉を尽くし手渡す情報…それらがゆっくりと相手に届き
やがてしみこみ。
そしてゆっくりと、相手の中で咀嚼され何かが役立つものとして、残る。


人を変えることはできません。
私たちにできるのは
『それ』を信じ
暖かい水を静かに注ぎ続ける。
それが私たちの仕事、私たちの役割なのです。


そのとき
自分からあふれ出るもの
それは自分という小さな自意識をはるかに超えた何か。


そのときもはやわたしたちは
『自分を信じる』必要すらないのです。



ただただ自然に。
例えば木が木であるように。
ただそこにあればいいのですから」



~~~~~~~


時間にして20分間のプレゼンテーション。
そのために
自分の声と向き合い、身体と向き合い、心と向き合ったひと月半。
その姿は美しく、強く、そして見事でした。
(本当に優しい風情の方でしたが)


技術。
伝わる声、言葉。
一対一のコミュニケーションであっても、一対多であっても
それらはとても大切なのですが
究極、それらを通して何を見つけ
どんな場所にたどり着きたいのかといえば
「自分の軸にしっかりとあり、自然にただそこに存在していられる自分」
という状態である、とそんな風に思えてなりません。




 ●~自分の思いが真に伝わる「声と言葉」を手に入れる~● 
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一か月ほど前フェイスブックに
「1970年代の宝塚のベルサイユのばらを見たらそのセリフの格調の高さに驚いた」

というような感想をちょこっと書いたのですが
もうひとつ、感じたことがあります。
それは、一言でいうと「歌舞伎みたい」。
リアルタイムで見ていた小さな頃はそんなこと、思ったこともなかったんですが。


ロココ全盛期。18世紀フランスが舞台。
ドレス、金モール、ブロンド、くるくる巻き毛の「超洋物」の世界であるにも関わらず
とても「歌舞伎っぽい」。
いえいえ、そんなに歌舞伎に詳しいわけではないですが。
間合い、視線の決め方、所作、ポーズの決め方、などなど…。
「はっ」と驚くのに、片足大きく下がって上半身をくっとのけぞらせて大きく目を見開く、
なんて
あれは完全に「見得」だなあと。
そして
小さい頃は「きれいだな」「かっこいいな」とただ見惚れていましたが
この「かっこよさ」が「ベルサイユのばら」という作品のために
それこそ血のにじむ思いで「生み出された」新しい形であったことを知ったのは
つい最近。




以下
NHK出版「プロジェクトX 挑戦者たち~ベルサイユのばら 愛の逆転劇」より。

1960年代~70年代。
宝塚歌劇団「冬の時代」の起死回生の作品として上演が決まった「ベルサイユのばら」。
が、上演が決まった直後から、劇団に大量の手紙が届き始めた。
それは原作マンガの熱狂的なファンたちからのもので

「キャラは八頭身。日本人ではありえない。やめろ」
「生身の人間が演じるとイメージが壊れる」
中にはカミソリ入りの脅迫状もあるほど、猛抗議の手紙が送り続けられた。

当時「ベルサイユのばら」の人気は圧倒的。
宝塚ファンのみならず何百万という原作ファンに注目されている。
イメージ通りの舞台を作らなければ大変なことになる、と戦々恐々とする一同。



練習開始。けれどとまどう生徒たち。
できる限り原作のイメージに忠実に演技しようと思うのだけど原作はマンガ。
「決めの場面」の姿はわかっても、コマとコマをつなぐ「間の動き」がわからない。
結果、どたばたとした所作の連続に。
…今は漫画やアニメが普通にミュージカルになる時代ですから
感覚的に、何の無理も不思議もなく役者さんたちも演じているのでしょうが
(何せ生まれた時から周りにそういう世界があるわけですから)
40年前は本当に、こんなところまですべてが「一から」だったんですね。
大変・・・。
いわば、宝塚のベルばらは「2.5次元ミュージカルの元祖」?


さて、話を戻して
それを救ったのがこの方。

長谷川一夫。
稀代の名優、二枚目スターといわれる方なのは知っていましたが
歌舞伎の女形出身なのだそう。
そして当時、宝塚に演出として招かれていた。


「客の心を動かすには、技がなければダメです」 by長谷川一夫


そして
歌舞伎と銀幕で培った技のすべてを使っての演技指導がはじまります。
このあたり、小さいころに見ていて、とてもかっこよくて美しくて・・・
今でもしっかりと覚えている(真似までできる)
一枚の絵のような美しいあの名場面、この名場面が
歌舞伎の技からきていたものだったなんで!
とおおいに納得するのですが。(詳しく知りたい方は本をご覧ください)


印象に残ったこと思ったことを一つ。
主役、オスカル。原作ではその瞳に星が飛んでいる。少女漫画ですから。
「あの瞳の星を舞台の上で飛ばしなさい」
と言われ、呆然とする榛名さん。(初代オスカル役の方です)
けれど…初日に、彼女はちゃんと舞台上で目に星を飛ばすことに成功するのです。
客席からは「光ってる」「ひゃー」「キャー」の叫び声。



「目線を、二階席の手すりから一階席まで落とせ。そして『い‐二三番』の席を見なさい」


これが、長谷川さんの指示。
ピンスポットが絶妙に目に当たり、乱反射する角度までを計算しつくした演出。
…これは300本以上の映画を通して照明の当たり方を研究し尽くした長谷川さんならではの
技だったそう。



初日、舞台は大成功。
この日を境に脅迫状はピタリ、止まった。




かくて
少女漫画。しかも、18世紀フランスの王宮が舞台。
夢のように華やかできらびやかで豪華なこの世界観を、見事日本人によって
演じきり、「宝塚100年の名作」にまで作り上げた「ベルサイユのばら」。
その根底には
歌舞伎や歌舞伎に端を発した日本の商業演劇の伝統的なテクニックが
大いにあったのでした。
というお話。


今となっては「普通」、で「定番」ですが
そしてその土台となっているのは長谷川一夫の心身にしみ込んだ
ほかならぬ「日本の美意識」であり鉄壁の「型」だった、ということ。
そして
当時「こんなに美しい西洋の世界♪」と思って憧れ、マネしていた世界を通して
結局しっかりと「にっぽんの型」が自分の身に染み込んでいた、
ということに、
不思議ながらもうれしくありがたく、そして妙に
「帳尻のあった」感覚を今、抱いています。




この頃の「ベルサイユのばら」を見ていた方、いらっしゃいましたら…
どのオスカルが好きでした?
そのアンドレが好きでした?






 ●~自分の思いが真に伝わる「声と言葉」を手に入れる~● 
       「声のワークショップ2day*inふくおか」
         9月5日/6日   福岡市 警固神社にて  詳しくはこちらへ!
     

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「本当に伝わる声と言葉を手に入れたい」方のための 「声のワークショップ」。
福岡にて9月5日、6日開催です。
 


「手に入れる」と書きましたが
正確には「思い出す」「取り戻す」といったほうがいいかもしれません。
言い方を変えれば「声と体」「心と言葉」、
分離していたものを つなぎなおして一つに戻す。    


わたしたちは、生まれてから今日にいたるまで 様々なことを体験し、
その中で知らないうちに「ルール」をつくり、
基準を設け 自分をそこに当てはめて生きるようになりました。
わたしたちの体などは「当てはめられた」最たるものです。
もっと細く。もっと軽く。あそこがいけない、ここをもっとこう…。
粘土細工でもあるまいに、わたしたちは体を「モノ」として扱うことに
すっかり慣れてしまっています。
(話は飛びますが、江戸時代は「体(からだ)」というのは「死体」のことを指したそう)
ほかにもきっと、自分の体をわたしたちはたくさんの「縛り」に当てはめてきましたね。  


そんな中で、わたしたちは見事に「分離して」ゆきます。
本来、共鳴体であるこの体が存分に響くことで
なんのつかえもなく出ていた「声」は 体のあちこちで留められ、
体の緊張によって響きを失い。
本来声は全身で出すものですが、 体とのつながりを失ってしまった声はふらふらと宙を漂い、
行きたいところへまっすぐ駆けていくだけのエネルギーはもはやありません。  



そして「言葉」も分離します。
言葉とは、本来自分の中にしっかりと存在する「球根」とつながって
そこから発せられるものです。
球根、というのはたとえば「感覚や感情」。
子どものころは100パーセントの「うれしい!悲しい!」の感覚と
声と言葉は直結していませんでしたか?
でも、私たちは大人になるにしたがって言葉から「それら」を分離することを選びます。
「感情を出してはいけない」「かっこ悪いことだ」「スマートでない」と。
そして、言葉は軽くなり、上滑りします。
世界が「当たり障りのない、どこかの誰かが言った小ぎれいな、気の利いた言葉」を 使う人たちで
あふれている気がするのは気のせいでしょうか。




声はその人の魂を表します。
言葉はその人をまず何より自分自身と、そして世界とつなぐものです。
それらと「あなた」の関係性、つまり
「あなたの声と言葉はあなたの意図と思いをちゃんと乗せて、届けたい人に届くのか?」
その一点には、わたしたちのこれまでの在り方すべてが現れます。  



  「あなたの声と言葉を再び手にする」。
そのとき、わたしたちは世界がこんなにも生き生きと感覚にあふれていること
そして、その中で「あるがまま」の自分自身がこんなにも、
堂々と世界に向かって 自分自身の響きでもって影響を与えられるのだということを
細胞全部が震えるような喜びの中で知ることでしょう。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

●自分の思いが真に伝わる声と言葉を手に入れる
「声のワークショップ2DAY*inふくおか警固神社」

・日時 平成28年9月5日(月)6日(火)
     5日/10時~17時  6日/9時半~17時
・場所 警固神社 (福岡市中央区天神)
・定員 16


詳細はこちらへ!

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プレゼン力アップの個人セッションを
先月終えたクライアントさんからご感想をいただきましたので
紹介します。


――― * ――― * ―――


「声と人間の内面は本当に深くつながっていることを学びました。
セッションを終えた今、改めて、
伝える時、イメージすることの大切さ、意識することの重要性を感じています。
これまで自分を支えてくれている人や経験を感じながら、
ありのままの自分で、根っこをもって伝えることに意味があることを
教えていただきました。

伝えること、そして生きていくことは、
自分らしくいることで可能性も広がることを感じました。
これまでそうすることができない自分に向き合える機会を得られたことは
大きな収穫です。



大きな声を出して可動域を広げておくと、
日常生活の会話が楽になりました。
自然に声が出せるようになったことで、人との会話が以前よりも楽しく、
もっと話したい、やりとりを深めたいという気持ちが生まれました。
プレゼンだけでなく、日常生活の中でも、今回得たものを大切に
人とのかかわりを楽しんでいきたいと感じています。


自分らしく楽にいられることは、人とのつながりを広げられるように感じます。
仕事や家庭の中で、自分らしく何ができるのか、したいのか、
立ち止まる機会を頂きました。
これまでの思考の枠が、とても広がったように思います。
今後行動する際の力になると感じています」



――― * ――― * ―――



ひと月半後に仕事でのプレゼンを控えてのトレーニングとしてセッションを
お受けになりました。
出会ったときはまるで野の花のような風情の方で。
そして、確かに「声が小さくていらっしゃるな」
と思ったのでした。
霧吹きで「ぱしゅ…」と柔らかく吹かれたエネルギーが
ご自身の身体の周囲50センチをふわ~っと漂っている感じ。
ともにいてとても心地いいのですが
でも、そこから先にぐん、と出てくるものがない。


声という体からのアプローチ。
自身のパートとの会話という内面からのアプローチ。
回を重ねる中で
霧吹きがホースへ。
どんどんと花開いて力強く、あふれるような声を出してゆかれる姿。
ご自身の中にすっく、と軸を立ててゆかれるそのお姿は
感動そのものでした。

ああいうとき、ほんとうに
場の粒子がバーッと音を立てて、わたし、その方…
すべてを巻き込んで震えるかのような得も言われぬ空気を感じます。
そして
ああ、あれこそが「伝わる」ということの本質
(仕組み)なのだな、と思うのです。
それはいつも書きますが「言葉の内容や順序」といったレベルのこととは
まったく別物なのです。

いつもですが
そういう姿に立ち会えたとき、本当に幸せだなと思います。
やっていてよかった!と思う瞬間です。
これらクライアントさんの言葉の数々は
貴重な資料であるとともに、わたしにとっても「幸せの記録」です。

さて
あなたの専門性。
あなたの知識・技術。
あなたの思い、愛。
あなただからできる世界への貢献。
それらが「伝わらない」のはもったいない。
あなたがあなたであるということが、世界に伝わらないのはもったいない。
すべての人を見ていつも思うのはその思いです。
もどかしく、その人の胸をたたいて言いたくなります。
「起きろ!世界はあなたがあなたであることを待っているのだ!」と。


「伝えたい」という思いのある方。
でも、ちょっとそれを苦手と感じていらっしゃる方。
どうぞ、セッションを受けてくださいね。

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結構古い記事ですが
子どものころの運動会の歌の「がっかり体験」について書いたことがあります。
少し変えて再掲。


――― * ――― * ―――


小学生のころ、運動会のたびに開会式で全員で歌う歌がありました。
昔のことなので、もちろん題名などは覚えていないのですが
旋律はハッキリ、歌詞はぼんやりと覚えています。


~みそらは高く
 我が意気上がる
 平和日本の友情かたく

 運動場は競いの庭ぞ
 鍛え鍛えし健児の手並み
 たゆまずおそれずわれらの心
 正々堂々~

うろおぼえなんですが。
小2?小3?くらいまで歌っていたような記憶があります。
子ども心に、この歌を歌うと、誇らしいような、背筋がぴん、と
伸びるような心持になったものでした。

特に好きだったのは
「鍛え鍛えし健児の手並み
たゆまずおそれずわれらの心」のところ。
そのメロディとも相まって、なんでしょう、あの感じは…
そう、つまり、これらの言葉を口にするのがとても心地よかったのです。
8歳児が


「き~たえ~き~たえしけんじのて~なみ~ た~ゆまずおそれぬわれらが~こ~こ~ろ」


意味は分かっていなかったことは確かなので
今思うと、ちょっと笑えますが。
でも、
言葉の「かっこいい感じ」、その言葉の響きが自らの心と身体に与える影響は
ちゃんと感じていました。わかっていました。
そして、それを「美しい」「誇らしい」と感じる感覚も
ちゃんと持ち合わせていました。
秋の髙空に吸い込まれていくようなあのまっすぐな感覚が懐かしい。



やがて
わたしにとって「ゆゆしき」出来事が起こります。
運動会の歌が変更になったのです。
新しい歌は、わたしのテンションを下げに下げ、何ともプライドを傷つけるものでした(笑)。
ひと言でいうと「とてもお子様チック」。

「そらに~みどりにぃ~あたらしい~
き~ぼうがおこる~わぁ~きあがる~」

子ども心にもっとも腹立たしかったのは次の一節。


「げ~んきに~はくしゅ~
『チャチャチャ♪ チャチャチャ♪』」

 
そして、こう続きます。


「きょうは楽しいうんどうか~い
むね~をぐ~んとはって、さあいこお~♪」


手を胸の右上と左下で「チャチャチャ」と小さく叩く振付けもご丁寧についており。
こんなの恥ずかしくてできるか!と思っていたものでした。


『あの凛とした世界はどこへ行った。
美しい言の葉を口に上らせるあの瞬間の細胞の震えるような喜びはどこへ行った!』
当時のわたしに語る言葉を持たせたら
きっとそう言ったと思います。
(この歌が悪い、ということではなく、わたしに合わなかったということです。あしからず)



今、論語の素読を復活させている小学校があるそうです
なんとすてきな。



わたし自身の体の中に
幼いころに本を通して、そして「日本語の力」を愛する数々の先生方との出会いによって
声を出し、体に刻んだ「美しき日本語」の名文たちが生きています。
それは理屈を超えて
人生のあらゆる場面でわたしを助け、導き、あるときは鼓舞してくれる
リズムになっています。


「子どもには難しいだろう」「意味が分からないだろう」ではなく。
お手軽な、咀嚼しやすい口当たりの良いもののみを与えるのではなく。
すべてを驚くほど柔軟に吸収し
それを人生を生きる力に変えてゆく、土台をつくるあの時期にこそ
硬い、中身の詰まった噛みごたえのある「本物」を口にさせてあげてほしい、と感じます。
言葉にかぎらず、なんでも。


――― * ――― * ―――

再掲終わり。
今日のタイトル

「日本語のエネルギーを次の世代へ手渡せる大人になる」

は、今年のわたしのワークショップに新しく加わったテーマの一つです。
母音を主体とした言葉であるという日本語の個性。
「a i  u  e  o」を高らかに歌い上げる、身体の開放感を感じさせる伸びやかな言葉。
これらはわたしたち日本人の民族としての能力と感性を形作るものとなっています。
わたしたちの精神活動の土台をつくるもの、
それが母国語です。

祝詞にはじまり(祝詞は文学ではありませんが)
日本の文学は古来「朗誦すること」…声に出して表現することにより、
より深く味わうことを織り込んでつくられています。
日本人は言葉の持つ「波動」「リズム」が
身体と精神に実際に及ぼす影響をよく知っていた民族であり
それを実際に活用してきたということです。

言葉は意思伝達の「道具」のみの役割を持つものではありません。
その意味のみならず「形」「語感」「波長」…
目で見て、耳で聞いて、響きを肌で感じて…そのすべてをもって
わたしたちの細胞に影響を与え、心身を鼓舞し、変化をもたらします。



誰もがこの身にしっかりと持っている
それらを愛し、味わい、高らかに歌い上げる「喜び」を呼び覚ます。
そんな時間をますますイメージしつつ、やってゆきたいと思っています。
その身に取り込む食べ物とまったく同じだけの重要性をもって
わたしたちの細胞は
「美しい言葉の響き」に鳴り響くことを欲しているのです。


と、小2の頃のわたしは言いたかったのだろうなと
思うわけです。







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知人の娘さんがアメリカの大学に行くこととなり
少し前に旅立って行きました。


彼女はわたしのダンスの先生の娘さんで、
ご本人もダンスを専門に学ぶための渡米です。
わたしがダンスを始めたとき、彼女はまだ赤ちゃんだったのですが
月日は流れ流れて18年!(感無量)。
次の帰国は二年後の成人式、ときいて、出発前、慌てて会いに行きました。



さまざまな国の人たちと一緒に
表現者としての技術を磨くことになる彼女に
何か、を持って行ってもらいたく…瞬間閃いたものを、贈り物にすることにしました。



日本の伝統色の筆ペン20色セット。
これに手紙を添え。
「四十八茶百鼠」に代表される日本人の色彩感覚について。
それから
虫の音を「声」と聴く日本語脳について。
微細な音の違いを聞き分けられるという…。
そんなことを書いてみました。
短くまとめたつもりがA4用紙3枚になってしまい。
長々と書いて、やっと最後にこうまとめました。


『私自身は日本人の持つこういう特徴が大好きです。
世の中の様々なものを見分け、見て取り、ていねいに名前を付けて味わうことができる
この特質が。

これからたくさんの国の人に会い、
山ほどのことを学び、その頭に、身体にしっかりと刻み込んで行かれることと思います。
そして、極めていく道の先の先、奥の奥に…
いつか「あなた自身」としての核が必要となる、
というか、「立ち返る」時が来るのだろうな、という風にも思っています。

この日本という国で
この鹿児島の地で、太陽の光をいっぱいに浴びて大きくなったあなたの中に
厳然としてある(備わっている)「もの」。
それらはきっと、いつかいろんな場面であなたを助け
導いてくれるものになるのだろうと、そんな気がしてなりません。

いってらっしゃい!
いろんな体験をして、吸収して、
でも、どこへ行っても何があっても、自分が自分であることに
自分の身の中を流れるものに、土台のところで自信を持っていてくださいね!』




「芸術はその民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達しなければならない」
「真にグローバルたらんとすれば真にローカルであることだ」

作曲家の伊福部昭の言葉です。
折に触れ、よく思い出すのです。
私たちが何かを成し遂げようとするときに
何者かであろうとするときに

「日本人であること」

を抜きにしては語れない。
すべてはこの身にしっかと流れる
この土地で育まれた「細胞の響き」を通してなされるものだからです。


よりよく生きるために自分を知る。
そこには「日本を知る」ということが不可欠です。
自分を愛し、大切にするということは
自分の根っこを愛し、大切にするということとつながっている。
そう思います。
自分はどんな特質をもち、どんな伝統文化を持ち、先祖を持ち
何を受け継ぎ、今を生きる民族なのか。

それをよく知り
認め愛し
誇りを持つことが
わたしたちを真の意味でさらに自由に力強く、ユニークに、そして美しく
創造の世界に解き放つ気がしてなりません。



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4月。
何かと環境の変わる方が多くていらっしゃるかと思いますが
わたしのクライアントさんでもそういった方が多く。
新しい仕事。
新しい住処。
新しい出会い。
新しい人間関係。


大きな出発をなさる方に、つい何かお送りしたくなってしまいます。
文具とか、ハンカチとか…そういったちょっとした、
身近におけるようなもの、なのですが。
単純にお祝い、といってしまってもよいのですが
それとも少し違うような。
何だろう、この感覚は…と思っていたのですが
クライアントさんのお一人にメールを書いていて、その意味(自分の中の思い)に気づきました。


✱    ✱    ✱


…ささやかですが、お使いくださいね!
少し変な喩えですが
「宇宙には行けないけれど、うちの作ったネジが
あのロケットにはのっかってんだ^0^!」
と息巻く町工場のおじさん、のノリに近いかもです。
どうぞ、あなたの旅の小さなお供にお加えくださいませ!


✱    ✱    ✱


だそうで。


人ひとり分の人生は今、自身が味わっている「このヴァージョン」のみですが
クライアントさんのお話を通して
クライアントさんの人生を通して
わたしは、いくつもの人生を一緒に生きることができます。
自分の人生では見られないものを見、
出会えない出来事に出会います。
世界はなんと広いんだろう、といつも思います。
いつも目を見張ります。
どの方の人生も、興味深く、そして感動に満ちています。



…なのでつまり
「そこに連れて行ってね(変わりにこの子を!)」
ということだったのでした^^。
今日も、この広い世界中、クライアントさん達と共に駆け回るいろんな小物たち(嬉)。
きっとわたしが直には見られないものを見
出会わない人に出会い
吸えない空気を吸っている。
そして、各所でその方の活躍をちょこっとだけ支えているだろう(多分!)。





今ここにいながら思いを馳せられる
そんな瞬間、たまらなくワクワクします。
コーチは「伴走者」にたとえられることがありますが
その人の人生の大切な一時期を一緒に走り抜けられる、ということの
幸せを感じます。



 













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春の良き日、みなさまいかがおすごしでしょう。
こちら鹿児島市は天候のせいか
すっきりと開花しないままにはや黄緑色の葉っぱがちらほら…。
数日曇りと雨も続き。
こんなときは、なんだか少し元気が出ないのですが
ふと、facebookで一年前の自分の記事を目にしまして。
(一年前を振り返ってみましょう、というアレです)
去年の今頃はちょうど京都奈良にいたのでした。

その記事を下記に。


☆彡    ☆彡    ☆彡

【十四転び十五起きの興福寺中金堂】

国宝興福寺の中金堂。ただいま再建中。
そして、再建現場を見せてくれます!
中金堂は710年の創建以来、なんと十四回も作り直されています。
うち半分の理由は「被災」。
何度燃えても、その度に職人さんたちが「よっしゃ!」と
作り直してきた、ということ。
そして、今回の再建は
1711年(享保二年)の被災の後作り直されたものの再建。
つまり…三百年ぶりの現場に立ち会ってしまいました!

現場ではこんなことも^_^(写真)。
宮大工さんの槍がんな実演♪
今の鉋とは全く違う、
一見不安定そうな小さな槍型の鉋で見事に滑らかな表面を作っていきます。
もう、カッコ良すぎです…(目が❤︎です完全に)

そして
厳重に足場の組まれた中金堂の屋根まで登ります。
今、この時期しか間近で、手の触れる距離で見ることの出来ない
巨大な梁、屋根瓦。
それは…まさに「圧巻」としか言いようのないものでした。
そうして、感じたのです。


生き物ではないけれど、でも確かに生まれ変わり、
命をずっと繋いできた「何かすごいもの」の存在を。
まるで、日々新しい細胞に入れ替わりながらも
全体として一人の「ひと」の形であり続ける人間のような。
そしてそこには、多くの人の思い、そして技…たくさんのものがやはり脈々と受け継がれ、
続いてきたわけです。(気が遠くなりそうです)


美しい勾配の屋根を見ながら
どうも立ち去り難く。
なぜなら、ものすごく「嬉しい」感覚が
空から降ってくるような感じがしてならないのです。

私の中では
「これは、職人さんたちが喜んでるな」
と、そういうことになっています^_^

十四回。
ずっとこの中金堂というバトンを手渡してきた
すべての職人さんたちがあそこでワイワイと声援を送っているような…
そんな気がしたのでした。


☆彡   ☆彡    ☆彡

なんとも熱い
エネルギーに満ちた。
(まあ、旅行中は誰でもエネルギーに満ちているものですが)
そして、なんといいますか
自分の中の「軸」がよみがえってくるような感覚を感じています。
何を大切にして生きているか。
仕事をしているのか。
なんのために生きている(と自分自身感じている、設定している)のか。
わたしの場合は
「つなぐ、伝える、受け継ぐ」
あたりがどうもキーワード(発火点)のひとつのようで。
人の最も美しい、「その人本来の」響きを開花させる、という
この仕事においてもおろそかにできない一点となっています。



自分の中の聖なる自分。
純粋な、幼子のような自分。
もしくは、旗を掲げ、道を指し示す導き人のような自分。
それは
どんなときでも自分の中にいて、声をあげています。
もしくは過去の自分の願い、未来の成長した自分…
すべてが一団となって、今の自分を鼓舞し、ひぱっていってくれる。
それらの自分といつもアクセスしていられると
きっと人生とてもスムーズで
いつも心やすらかに、エネルギーに満ちていられるんでしょうね。

そして
わたしたちは、意図してそれを行わなければなりません。
その時間をとらなければなりません。
自分が自分の中心にいること。
それほど自分を、そして周囲を幸せにすることはないんですから。
(といったって…
わたし自身、それがいつもうまくできるわけでなく。
すると今朝みたいに神様が助けてくださるわけですが)



記事、続き。

☆彡  ☆彡  ☆彡

槍がんなの削ったあと。
たくさんもらってきましたので
希望者にはお分けします!
そんじょそこらじゃめったに見られないレアものですよ!

☆彡  ☆彡  ☆彡

だそうで。
思い出した…。
「槍鉋のけずりくず」
を山ほど持って帰ってきて、
可愛くラッピングして周囲に配りまくったのでした。
みんな…ゴメンね。



久しぶりに
出してみますか。鉋くず。
わたしの心を震わせた「魂のかんなくず」(笑)。





※一年前の写真もアップしておきます。
 宮大工さんからは「お顔込も一緒に掲載OK」の許可をいただいております。




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