「声と言葉で世界を拓く」〜自分の響きを存分に奏でて生きたい人を応援するコーチ、中村公子の公式ブログ

声と言葉で自分を開く、世界を拓く〜自分の持って生まれた響きで世界と関わりたい人のためのコーチ、中村公子の日々の手帳

 

 

【思いを語って世界を変える〜プレゼンテーションの技術を磨くワークショップ

 

 

11月27日・30日】はこちら

 

 

 

 

写真は鹿児島市の城山遊歩道。延長2キロ。

 

 

早朝。

広い遊歩道をわずか1時間半でこんなにキレイにしてしまうその技術に

ついお声がけしてしまいました。

 

この方は基本「ブロー」(風でブワッと飛ばすやつ)は使わないのだそう。

(数分前、それを使って豪快に吹き飛ばしていらっしゃる方がいたので

お聞きしてみたのです)

竹ぼうきでザッザッ。その動きが軽快で!

ブローを使わない訳は「観光の方々にうるさいから」。

 

 

 

で、思い出したんですが…

去年、聖武天皇陵に行った際、

誰もいなかったのでヤッター!静かに語り合える!(聖武天皇と)。

と思ったら、この「ブロー係」の方がやってきて、大変残念な思いをしたのでした…😭。

 

 

 

話戻って。

ブローを使う際も

 

「お客様が来たら止める」

「道具は見えるところに置かない」

 

と、細かな取り決めがあるそうで、この方々の気配り…

「空間への配慮」

「その場がお客様にとって何であるのか」(非日常であり、まさに旅、である)ということ

 

をしっかり理解され、

身体でちゃんと「演出」なさっていることにますます嬉しくなりました。

 

 

 

 

鹿児島市内の景観美しい有名観光地の売店で

スタッフさんたちの世間話が賑やかで

(しかも、部屋の端から端へ)

 

「ここはあなたたちの茶の間じゃないのよっ!」

 

と突っ込みたくなったことがあります^ ^いちいち氣になる自分も自分なんですが…。

 

 

 

 

その場、その空間に合った

(広さ、意図、文脈、すべてにおいて)

「意識の使い方」

「身体の使い方」(身のこなし)

があり、それを自然と体現している人を見ると、とにかくとても嬉しくなります。

それらは例えようもなく「美」である、と感じます。

 

 


で、この話と並行して書きたいのが一つ。

 

昨日、スターバックスでお茶を飲んでいたところ、、席で着替えている女子学生がいた

というお話。

スカートから上着まで、そりゃあもう見事に!!

いつも教室でああやって着替えているんでしょうね…。

みんなでわいわいしながら。

 

 

最近

「公の場ので身のこなしと、私的な場での身のこなし」の話が、

医療系専門学校の先生をなさっているクライアントさんとの間で話題になっていたのでした。
学生さんが、とにかく「それが出来ない」と言うのです。
もう、敬語がつかえないとか以前のモンダイ😂❗️と。


実習先で、患者さんに接するとき腰を落とせない。

(上から見下ろして語る、ということですね)

「落として」と指示されるとヤンキー座りで落とす。

 


頭では彼らもわかっているんでしょう。

でも「身体に刻みこまれて」いないので動けないのです。

立ち姿、挨拶の声の大きさ、表情、立ち居振る舞い…

公の場での身体の張り、緊張感の保ち方(まさに身のこなし)というのは

慣れ、日頃からの積み重ねですもんね。

 

 


「場に対する心身のセンサー」が発達していない。

「公共の場」という概念がない、というか

意識を広げられない子が増えているのはセミナーでも感じます。

意識の及ぶ範囲が自分の半径50センチで止まっている子。

 

「気配り」

 

なるものをして生活をする場面がない、ということなのでしょう。

身体の感覚(場に対するセンス)が、本当に磨かれていない。

なので、「コミュニケーション力アップのための研修を」の対象が若年層な場合は

必ずこの力を開発できるプロフラムを組み入れます。

身体感覚を、揺り動かし、それを使わずには成立しないあれこれ。

もう本当に「会話力が」以前の問題。

これらなくして会話も人間関係もあったものじゃないだろう!と思うのです。

 

ちなみに、少し横道にそれますが

昔の子どもたちがみんなで普通にやっていたような遊び。

(はないちもんめ、ですとか陣取り鬼、ハンカチ落とし、だるまさんが転んだ、などなど…)

ああいうものを小さいころ、普通にやっていれば、

こういう感覚の土台は築かれているのですけれどね。

 

 

 

さて

20代の若者たちの「それ」までも鍛えなければならない我がクライアントさん。

相当大変らしいです。


 

 

 

※話は大きく戻って、作業をなさっていたのはシルバー人材センターの方。

写真、載っけていいよ〜、と快くOKしてくださいました。

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今日、11月23日はもともとは「新嘗祭(にいなめさい)」です。

 

昔からなぜか「村まつり」という童謡が大好きだったんですが、つまり、それですね。

天皇(おおきみ)を中心とした日本中の「収穫祭」。

 

 

 

『新嘗祭とは五穀豊穣の収穫祭にあたり、新嘗の「新」は新穀(初穂)を、「嘗」はご馳走を意味し、天照大御神はじめ天神地祇(てんじんちぎ すべての神々)に初穂をお供えして、天皇陛下自らも初穂を召し上がり、神様の恵みによって初穂を得たことを感謝するお祭りです』

http://jpnculture.net/kannamesai-niinamesai/

 

 

 

春に苗を植え、手をかけ、心をかけ、長い時を経て、今年もたわわに穂が実る。

…その嬉しさ、有難さは今よりきっとずっと日本人の身体にしみこんでいたことでしょう。

米は日本人の命をつなぐもの、そのものでしたから。

皆で神様に感謝をお伝えするっきゃない!

歌って踊るっきゃない!

というその氣持ち、よ~くわかります^^。

 

新嘗祭というのは、

私たち日本人と自然、宇宙を

今よりずっとしっかりと結びつけるものであったような氣がします。

 

 

 

 

この「新嘗祭」。

御多分に漏れず、

GHQの「日本人の心も身体も骨抜きにしちゃうぞ」政策によって神道から切り離され

「勤労感謝の日」なるものになりました。

個人的には、この名前に「美しさ」を感じません。

日本語の音感としてどうなの?と思うわけです。

なんとも人為的なゴツゴツ、ぎくしゃくした肌触りです。

「にいなめさい」のほうがずっと美しい!

そして、美、なきところに真・善なし、というのが個人的な感覚です。

 

 

 

語感、つまり、「音の響き」というものはとても重要で

人の体感覚に(つまりひとつひとつの細胞に)大きな影響を与えます。

波動ですから。

(試しに「キンロウカンシャノヒ」って何度も言ってみてください。

なんの高揚も心地よさも感じないですし【わたしはだんだん身体が重苦しくなります】)

 

人の細胞は、言葉の持つ固有の波動に容易に共鳴します。

ですから

日々耳に、身体に入れ続ける「言葉」は

「美しい」「心地よい」響きであることが本当に重要です。
(言葉を発する意図=声、もそうですが)

 

 

 

話がそれました。

言い換えれば、今日は約70年前

日本人の大自然への畏敬の心、敬いの心、「自然とともにあるあり方」が

本来の言葉の持つ意味、感覚とともに、ひとつ、切り離された日

ということもできるでしょう。

 

 

 

 

 

『勤労感謝の日 本当の意味』

http://haigyo.net/orange/?p=6553

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写真は世界産業遺産、鹿児島市の「仙巌園」専属ガイドの中村こず恵さん。

 

 

 

 

先日、仙巌園特別企画「歩いて楽しむ薩摩切子ツアー」に行ってきました。

 

この企画は、(多分)彼女の発案。

彼女がいかに薩摩切子が好きで、勉強をなさっているか、

ガイドの質を高め、いわゆる「ガイド」から

「プロフェッショナル・ストーリーテラー」へ進化しようと

(この名称は私が彼女につけたんですが^ ^)

頑張っていらっしゃる姿を見てきたんですが。

 

今日の60分間のご案内、とても見事でした。

 

 

しっかりとグラウンディングした立ち姿の安定感。

全ての言葉が彼女の「中心」から、

彼女の「肚」としっかりつながって出てくるのです。

つまり…全ての言葉が「覚えました」レベルではなく、

 

「理解し」「納得し」「自分で体感した」

 

生きた言葉として発せられるのです。

なので、私たち参加者の身体の中にしっかりと入ってくる。届く。

 

 

 

 

毎日毎日、この歴史ある美しい庭園の中で呼吸し

キラキラ光る薩摩切子に触れ…

彼女は、きっと、毎日毎日ずっと、嬉しかったのです。

幸せだったのです。

 

その「嬉しさ」を。「感動」を。

自分が感じた「すごい!」「キレイ!」をそのまま私たちに伝えようとした。

純な切子の輝きのように、彼女は「それ」を忘れることなくしっかり身体に秘め、

そことつながって

今日の60分を創り上げた。

 

 

 

 

「伝わる」とは

つまり、そういうことです。

技術と知識と身体技能は必要ですが

根っこに「それ」がないと(彼女における切子の輝き)

美しいだけの造花になってしまいます。

造花には香りもない。柔らかな肌触りもない。

そして何より大切な

「場を震えさせるホンモノの波(振動)」がない。

 

 

 

何より

今日、彼女はきれいでした。

凛として匂い立つ菊花のごとく。

 

 

 

「そのことが好き」「伝えたい!」

という思い、使命。

それこそが、人を輝かせ

その「波長」こそが

「人を巻き込み、魅了する場」を創ります。

 

 

 

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ただ今、5人姉弟の姪っ子の上から2番目が世界一周旅行中なんですが

途中の国で

 

 

「ハンモック買ったよ!」

 

 

と嬉しそうに姉弟専用ラインにアップしていた…

と姉(彼女らの母です)から聞き。

なんでも彼女、それから地元にいる三女、ともに「ゲストハウス」をやりたいらしく、

そのためのハンモック?のうわさあり(笑)

 

長女は実家で菓子工房兼カフェをやっているので

そのうち何かからんでいくのかな…と思ったり。

 

末っ子の四女は伝統工芸の道に進みたいらしく

奈良のそちら系の大学への進学目指して受験勉強真っ最中です。

 

 

 

 

まあ、

みんな見事に「好きなこと」に向かってまっしぐらだなあ~

と思うわけです。

普通に「世間」との間でみなが人生で悩むようなことをしっかりと悩みつつも

 

 

自分の中にはためく一筋の「旗」

自分の中でなり続けるベルの音

もしくは

どんなに衝撃を与えても、必ず「ある一つの方向」を指し示し続ける羅針盤の針

 

 

をしっかりとキャッチし

OKを出し

自分の人生にそれをもたらすぞ、という意思、そこに迷いはありません。

 

 

 

この子たちの親(わたしの姉)がとにかく「自由自在の人」なので

子どもがさらにそうなるのは当たり前だな~

くらいに思っていたんですが

「身体」という言葉がふっと浮かんできたのは今朝。

セッションで、クライアントさんが自分のお子さんについて

「今は知識よりとにかくいろいろな感覚を身体でしっかり味わってほしい。

だから、いろいろな体験をさせてあげている」

とおっしゃっていたのを聞き。

 

 

 

姉夫婦は専業農家で

小さい頃から大人顔負けの手伝いをして育ってきた子たちなので

自然ど真ん中で身体を使ってきた子たちであることは間違いないんですが

浮かんだのは、厩の光景。

 

「昔は厩の2階の囲炉裏で、しょっちゅうたくさんの人たちが来て

あそこでご飯を食べて遅くまで語り合ったりしてたんだよ。

古くなったんだけど『絶対壊すな』というのは5人の子どもたちなんだよ」(姉、談)

 

姉の家はよく農業研修生を受け入れていたので

それこそ海外からも研修生が来ていたものでした。

 

 

 

 

揺れる火。温度。煙の香り。

囲炉裏の周りでいつもよりずっと楽しげな顔で、声で弾む大人たちの笑顔。

土の香り。

…この子たちの「幸福」「何を幸せと思うか」という価値観は

肌触りや、においや、それとくっついた「ワクワク感」と直結して刻まれている

と思ったのでした。

それはまさに「幸せへの羅針盤」。

そして、それは揺らぐことなく、彼らを導くのだ、と。

 

 

 

 

う~ん

今日はなんだかまとまりませんが

「自分にとっての幸せ」

「自分にとっての『これ!』」

は、すべて身体が知っている。

頭ではなく、身体が、という感じでしょうか。

迷ったら、身体に聴け。

そして、ちゃんと身体との回路をつなげて、開いておくことも大切。

 

 

身体と仲良く!五感と仲良く!

 

 

 

 

 

 

※「伝える」という場面においても五感は大切かつ強力な「道しるべ」です。
自分の身体感覚から出た言葉こそが『頭での理解』を超えて、相手の身体レベルにまで深く染み入り、相手の心を(人生を)動かす可能性が高まるから、です。
これをわたしは「言葉と自分を結びつける」と呼んでいます。
自分の身体感覚と遊離した言葉は、どんなにそれが美しい言葉でも相手の中に入りません。上をす~っと滑っていく感じ?でしょうか。

ということで、ご興味ある方はこちらもどうぞ↓

      11月27日(日)13時~ *11月30日(水)18時半~ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「仕事における独自のメソッドの開発」

をテーマにセッションを受けていらっしゃるクライアントさんのセッションでのことなんですが。

 

 

少し身体を動かす時間などとりつつ

お話をお聞きしていたんですが

その中で

 

「思い出したことがあります!」

 

と。

 

それは次のような体験でした。

ひとつは、昔その方が参加した身体のメンテナンスの講座での体験。

 

 

「向こうに向かって、ただ歩いてみて」

と先生に言われ、それでは、と歩いてみた。ただ普通に、まっすぐに。

すると、講師さんがその背中のある一点を「つん」と突いた。

 

 

それは本当に

指で軽く、背中を「とん…」と突いた、だけだったのだそうです。

けれど、その瞬間、電流が走ったように。

「背筋がピン!と伸びたのだ」と。

 

「ものすごく姿勢がよくなって…すべてが変わって、とにかくすごかったんです」

 

と。

 

 

 

もう一つは

その方が受けた声楽の個人レッスンでのこと。

なんでも、外国からいらした有名な先生のレッスンだったらしく

それを受ける機会があったのだそう。

 

レッスンの内容は、「発声、発声」そしてまた「発声」。

基本の発声練習を徹底的に、というもの。

ピアノに合わせて声を出しつつ

先生が、身体の位置を細かく調整してゆく。

 

 

「もっと右肩を上に」

「もう少し」

「少し下げて」

「左足を少し前へ」

「首を左へ」

 

それはそれは細かく、「微調整」の指示が続いたそうで。

そして!

またもや「それ」はやってきたのです!

次の瞬間

 

 

 

「(ドッカ~ン!)」(爆発音)

 

 

 

としか言いようのない、声の爆発!

ご自分でも驚くような、「どっから出てきたの⁉」としか言いようのない

声の奔流。エネルギーの奔流。

…聞いてみたかった!

 

 

「でも…その時だけだったんです。

あとからどんなに『どうだったっけ…?』と身体を動かしても

あんな声は出ないんです」

 

 

 

 

先のメンテナンスの先生。

そして、声楽の先生。

は、「その人本来の『位置』」「あるべきところ」を見て取ることのできる方、だったのだろうな、

と思います。

 

 

人はもともと生まれたときは「そこ」にいる。

心も、身体も。

子どもを見ているとつくづくそう思います。

そして時は過ぎ…まあ、いろいろ端折って

わたし達は今、すべての場面において再び

「自分として」この世界に立ち、表現することを求められています。

いえ、そうでなくてもいいんですが、それが楽で、一番うまくいく。

そして、「自分である」ことこそが

他者に、世界にもっともいい影響を及ぼすことができる。

 

 

わたしが個人セッションにおいて

そしてセミナー、ワークショップにおいて

テーマは様々違えども、切り口(山の登り口は)違えども

目指すのはすべてそこ、です。

 

 

 

 

11月末プレセミナー。

来年1月より始める「プレゼンテーションの技術を磨くワークショップ」。

 

「情報を伝えた」「いい話をできました」というのはプレゼントは言いません。

それは単なる「説明」という行為に過ぎない。

人が本当に動き、行動が変わるのは「心が動いたとき」。

「他者の深いところに染み入る」「心を動かす」

そんな「場」をつくるための

 

自分の言葉を

自分の身体を

自分の軸を

 

笑いと楽しみの中で創造していく時間です。

 

 

      11月27日(日)13時~ *11月30日(水)18時半~ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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以前

運動会で歌う、いわゆる「運動会の歌」を

格調高い「大人な」歌詞から「お子様チック」な歌詞に改悪され

大いに怒った子ども時代の話を書いたことがありますが。

(「あはれことのは」)

 

 

「Thunderbolt fantasy~東離儉遊紀」

という人形劇があります。

今年の夏に放送され、つい先日最終回を迎えました。

 

 

 

 

 

おおかたの日本人の「人形劇」というもののイメージを

はるかに超えているであろうこの人形劇。

17世紀発祥、台湾の伝統芸能である人形劇「布袋劇(プータイシー)」と

日本のアニメ制作会社とのコラボ作品です。

 

 

 

日本にも、人形を使った芸能といえば世界に冠たる「文楽」があります。

文楽は昔のままの形を踏襲することで

洗練された芸術の域にまで高まっていますが

誰でも広く見るものであるか、と言われると大変残念ながらそうではない。

 

一方

台湾の「布袋劇」はなんといいますか…「すごい方向」に進化発展しているのですね(笑)。

多くの国民が見る「一大娯楽産業」となっている。

人形とは思えない動き。特殊効果のバンバン入った画面。

まあ、見てみてください。

(下にリンクあり)

日本が世界に誇るアニメ文化と台湾の伝統文化との融合。

こんなの見たことない…の一言でした。

 

 

 

 

で、

面白いのはこの人形劇、結構セリフが「難しい」。

(その分聞きごたえ、噛みごたえのあるものになっているんですが)

「武侠ファンタジー」という世界観なので

わかりやすくいうと「冒険時代活劇ファンタジー」といったところ。

四字熟語に固有名詞…頻発する漢語の波。古い言い回しの言葉も妥協なく

しっかりとちりばめ。

元国語教員のわたしですら

 

 

「漢字が浮かばない…」

「それどういう意味?どういう漢字?」

(後で辞書を引く)

 

 

といったことが二三回。

これ、調べようとみんな結構勉強するんじゃないのかな、と思ったり。

これらに、一切注釈も説明も字幕も加えることなく

ガンガンとテンポよくダイナミックに物語が進んでいくのが小気味よい。

ナレーションは七五調の美しいリズムで講談っぽいのが懐かしく。

(最近こういう文調が聞ける日本のドラマはみませんね)

しかも!

布袋劇の伝統として、途中で必ず「漢詩」が登場!

主要人物の一番の見せ場に

そのキャラの特性を表現した漢詩(念白というらしい)

が台湾語によって朗々と朗読されるのです。(すごい…)

 

もちろん画面には書き下し文も日本語訳も出やしません。

墨痕淋漓たる原文のみ。

いや~、潔い。実に潔い。

 

 

タイトルでわかる通り、人名そのほか多くの固有名詞に

台湾そのままにしっかりと「旧字体」が使われているのもポイント。

旧字体はいいですよね。

その漢字の成り立ち、

そしてその漢字が本来持つ「エネルギー」(形霊)そのものがちゃんとこもっている。

だから、体感的にとにかく「カッコいい」。

 

 

 

 

何を言いたいのかといいますと

「手を抜いていないなあ」

ということ。

安易な「わかりやすさ」を目指していないのです。

それよりも、制作者が目指しているのは

「本物」を届けること。

台湾のこの布袋劇という文化の「すごさ」を

あますところなく日本人に届けたい、面白いものを作りたい

双方の持てる最高の技をぶつけ合い、吸収しあい、触発しあい

…最高のものを作りたい!

という日本、台湾双方の作り手の「気迫」が余すところなく感じられるのです。

 

 

 

 

 

初めにもどるのですが

「難しいだろう」「わからないだろう」

という大人(発信者)の勝手なフィルターは余計です。

子どもだから、若年だからと送り手の安易なフィルターを通し

濃厚かつ成熟したワインに水を入れて、人工甘味料まで入れて薄めたようなものはいらない。

それらは受け手の成長を阻害します。ほんとうに「余計なお世話」なのです。

しかも、それら「余計なお世話」は全体として日本人の能力を下げます。

 

 

かつて私たち日本人は

5~6歳から論語を普通に素読する国柄でした。

意味など分からなくてもいいのです。

その美しく律動する言葉の波長に触れ、考えるより先に

その波が細胞の奥深くにまで染み込む…。

そうやって身体に染み込んだリズムは、やがて人生を通して折に触れ、その人を助け

道を開く「生きた感動」となります。

 

「本物の波動」をどん、とその身を受ける衝撃の価値、ということでしょうか。

シュタイナー教育において、ドイツでで必ず取り入れられるのが

10歳でドイツ民族の始まりにかかわる古典叙事詩を朗読することである

ということもしかり。

 

柔らかい口当たりの良いものばかり噛んでいると咀嚼する力自体が衰えます。

子どもにこそ、若者にこそ「噛みごたえ」のあるものを!

大人の本気を!

なのです。

 

 

 

 

続編制作の決まったらしい「Thunderbolt fantasy 東離儉遊紀」

今期よりもっともっとさらに「ぶっ放して」行ってくれることを期待しています。

 

 

 

 

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昨日、元キャリアカウンセラー、

という経歴の方と話していました。

 

その方は、お仕事柄、たくさんの方に「面接の指導」もしてこられた。

 

「でもね…」

 

とここからは内緒の話。

「私個人でいえば、面接指導とかを始める前のほうが、自由で、あがることもなくって

自分を出してどんなところでも、誰とでも話ができていた気がする」

 

 

ええっ!そうなんですか?

 

 

「面接指導を始めて、

たくさんの資料を読んで、『面接とはこういうもんだ、こうしなくっちゃ』をガンガン頭に入れて…

かえってガチガチになっちゃったというか、自分が固まっちゃったような。

ああ、以前のわたしはこうじゃなかったのにな~、なんてね」

 

 

それから「面接話」で花が咲き。

 

 

「完全に覚えていった質問の答えをしゃべって

それからイレギュラーの質問が来た時の対応、その落差があると

残念だよね…」

 

ですよね~、とわたし。

 

 

 

面接も「コミュニケーション」。

コミュニケーションはキャッチボール。

面接官も人。

双方にとって心地よい「場」(空間)を作れたときに、嬉しい結果が出ます。

そこへの気づき、そしてそれを生み出せる力が大切。

 

緊張して、得てして「自分しか見えなく」なりがちですが…

(今、自分は今どう見られている?自分はうまく話せている?

自分が準備していった質問が出るか?

自分が練習していった手順《開ける、歩く、座る、姿勢、目線…》を

ちゃんと出来ているか??)

 

 

つまり

自分が、自分が、自分が、自分が…

になりがちなのです。でも、答えは「そこ」にはありません。

相手の中に、そして、「自分と相手」の間に存在する「場」(空気)

の中に答えはあるのです。

 

 

そしてそれは

すべてのコミュニケーションにいえることです。

何を言う、どんな言葉を使う、といった表面的な「スキル」の土台を担う力

それを豊かに醸成させていくことが大切です。

 

 

 

「生きて使えるコミュニケーション力を身につける

◆Under25のためのコミュニケーション塾◆10月23日スタート

こんな方に

 ・就活中の方

 ・初対面の人と話すのが苦手だと思っている

 ・大生の人の前で話ことが苦手だと感じている

 ・声が小さいといわれる、聞き返される

 ・コミュニケーションを交わすことに自信がない

 ・いろいろな人と交わる体験をしてみたい

 ・自分の強みを知りたい

 ・新しい自分を発見したい

こちらです→ http://kokucheese.com/event/index/419741/

 

 

 

 

 

 

 

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台風一過の青空の下

「本当に伝わる声と言葉を手に入れる‐声のワークショップ2DAY inふくおか」

無事終了いたしました。

4日夜から5日の朝にかけて、九州地方は台風が移動中。

鹿児島からいつ福岡入りするか?

そもそも無事行けるのか?などなど…

おおいに心配しましたが何事もなく。

 

 

 

先ほど

参加された方にメッセージを書いていました。

その方は、もうすぐ講師活動をスタートなさる、という方なのですが。

そのときにふと出てきた

 

「それは私の言葉ではない」

 

という感覚に我ながら驚きながらこれを書いています。

 

 

 

 

ワークショップの最中

場面が進むごとに、ご参加の方々のチャレンジも大きくなっていきます。

もちろんそれはとても楽しいものなんですが。

そんなときに

 

 

「もっと!」

「その10倍で!」

 

 

と。

「声」をもっと出すように、と。

正確には「声」を通して、もっと自分のエネルギーを、意識を大きく、大きく

波のように世界に広げろ、と・・・。

(そうしないと絶対に言いたいこと、は伝わりませんので)

ご参加のそれぞれに

お声がけする場面が必ずやってくるのですが。

 

それはあたかも、わたしの中の波のうねりをぶつけるような、

熱を相手に移すような

そんな作業に感じることもあるんですが

ふと

 

 

「ああ、あれはわたしの言葉じゃないなあ」

 

 

と。

そう思ったのです。気づいた、というべきか。

そうではなくて、これからこの人を待っているたくさんの人たちが

わたしの声と言葉を借りて、

この人に切なる願いをぶつけているんだな、と。

 

 

「早く早く!」

「待っているから!」

 

 

はやく、あなたの、あなたの響きを存分に生きてくれ、と。

(使命、ともいうのかもしれませんが)

そして、その響きを世界に、わたしたちに届けてくれ!と。

そんな、たくさんの人たちの存在を「わさわさ」と感じました。

 

 

 

 

誰にもきっといます。

その人の声と言葉を待っている人が、

本当の響きを待っている人が。

 

 

 

 

ということで

これからもわたしは「押し出し」続けるのでしょう。

あなたを待つたくさんの人たちのもとへ

あなたという、この世でただ一つの響きを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今、最もチケットの取れない落語家、であるらしい
立川談春が対談で



(落語も)旋律として、音色として聞いていて心地いい、というのがいい。
正しさの外にあるものがある。
内容は伝わっていないかもしれないけれど、気持ちよかったよ、
みたいな風にやるのが好き。
音楽的な要素を大切にしたほうがよい。
落語ひとつでチューニングできそうな気がする」

と言ってていました。
正しさより五感。
リズム。
相手が身体で感じる感覚が大切、ということなのでしょう。


数年前でしたか。
由紀さおりのCDが海外で大ヒットしたことがありました。
曲を聴いた外国の人たちの感想がまさに、そうだったように記憶しています。
「意味はわからないけれど、聞いていて美しい。心地よい」。
母音主体の言葉である日本語の面目躍如、とも思いましたが。







話変わって。
「日本語で『体』というのはかつては『死体』のことだった」。
(能楽師 安田登 「日本人の身体」  より)
以下、要約。

 

「(昔は)生きているからだのことは『身』と言った。
身、とは、身と魂、両方の入ったものを指す言葉で、
昔の日本には『からだ』と『魂』を分けて考える風習はなかった。

この身体を『体』として、心(魂)と切り離し、『体を鍛える』というように
一個のモノのように扱う概念が出来たのは明治から」

 


なのだそう。
そういえば
日本の伝統的な武道、芸は、準備運動もなければ発声練習もないですね。
(詳しくはないので違ったらゴメンナサイ
以前やっていた居合はそうでした。それから先日見学した詩吟も)

 
○○のために身体を鍛える、トレーニングする
という「身体を切り離し、コントロールする。(意に添うように作り変える)」
という発想が
本来日本にはなかったのでしょうね。

 






さらに話変わって。
数か月前。
社交ダンスの著名な指導者のレッスンに出る機会を得ました。
先生いはく

「『ここでこう体を使って…』
とみなさん言いますね。指導者も言いますね。
『使う』という言葉で日本人は力をいれます。頑張ります。
日本人にとって『使う』とは『力を入れる』ということです。
でも、ダンスでは
体を使うとは「抜く」ということです」

 
すごいのは
身体を「使って」前へ前へ踏み出そうとしていたワルツの第一歩。
先生のおっしゃる通り、全身の力をストン、と抜いて
そうですね…まるで地球に身体を預けるようにすると
これまでの2倍、いっきに距離がのびたのです。
驚き。




「使う」という言葉に日本人が込めているイメージがある。
そして、
体は自分の外にあって「使う」もの、だと。
「物」だと、わたしたちは無意識に思っている。



身体は言葉のとおりになりますから。
どんどん切り離されていく。
まさに
「『からだ』の『から』は『殻』。
切り離し、覆い、分離されている、ということ」
そんなことを思いました。

 



さて、タイトル
~「伝わる」ためには「正しさ」よりリズム。何より自分と「身体」の一体感~

 
ここでいう「伝わる」とは
「いい話ですね」で、3日したら忘れてしまうような、頭での理解を指すのではなく。
相手の心身にがっちりと入り込み
細胞を揺るがし、相手の心を揺るがし、人生を変えうる…
そういう状態を「伝わる」と表現しています。
わたしたちが相手に「伝えたい」と思う
その理由は究極すべてこれだと思うのです。



そのために知っておくべきこと、それは

何よりまず一番に相手に伝わるのは

「言葉の内容」よりも「言葉の波長」「語り手の作り出す波長」である。

ということです。
「言葉の内容」で嘘はつけても、「波長」は嘘がつけません。
絶対に。
そして、その「伝わる波」「心地よい波」は
心と身体と声と言葉…全部がつながった状態の人からしか
生まれないものである、ということ。



わたしたちは
「身体とのつながり」を取り戻さなくてはなりません。
身体を震わせ、肚から声が出るとはどういうことか?
言葉と自分の感覚がしっかりと結びつくとはどういうことか?

それが本当に自分の身体から出てくるときの感覚を
正直言って、大人になったわたしたちは数十年、ほとんどの人が体験していません。

込み入った修行も特別な体験も必要なく
わたしたちは
今ここにある、人間としてのシンプルな「原初の」機能によって
それを体感し、取り戻すことができるのです。
そしてそれはとりもなおさず自分自身の人生の(どこかに置き忘れた)
大切な部分が戻ってくること、とイコールなのです。

 



※タイトルについて
「伝える」場面において、その情報が「正しい」のは大前提です。
「一言一句正確に…」「準備してきたことを全部話さないと」
といった部分にのみに固執するな、ということです^^。


 ●声と言葉を通して「身体と自分自身」のつながりを取り戻す● 
         「声のワークショップ2day*inふくおか」
          9月5日/6日   福岡市 警固神社にて   詳しくはこちらへ
     

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オリンピックの開会式。
毎回とても楽しみに見る派、です。
お国柄、その国ならではの演出をみるのが楽しみで。

選手入場がはじまり
50番目くらいまでは衣装、それから各国の選手の表情や歩き方に
「わ~」「きゃ~」「あの色がいい」
「この衣装いいね」「このノリはさすがこの国」
などなど盛り上がり。
南米大陸はじめてのオリンピック。
あまり見ることのないブラジルの歴史、文化。
それから各国の工夫を凝らした装いを見るのは楽しくて。

それからしばらく…さすがに少し飽きてきて、「日本選手団まだかな…」
となり、
そして待ちに待った104番目。
「JAPAN!」。



まあ、なんてステキに…カッコ悪いの(笑)。
赤い上着も白のパンツも…なんだか「着られて」いるみたい。
いつもは日本人の中に自分自身が埋没しているので気づきませんが
204ヶ国(でしたっけ?)比べるものがあると、まあ「野暮ったさ」が目立ちます。
卑下でもなんでもなく、素直にふっと浮かんだ感想は


「洋服を着はじめてたかだか150年だもんな…まあ、こんなもんか」


骨盤が直立している日本人。
すり足民族の日本人。
それは湿潤温暖のやわらかい大地を歩くために育まれた歩き方であり
体形である、と読んだことがあります。
硬い石畳を数百年、膝裏をピンと伸ばし、かかとで「カッカッ…」と闊歩してきた
民族とは違う。
なんて…なんて安定のカッコ悪さ。
黒人のようにスイングする骨盤でもない。
日本人は生真面目なのです。骨格からして!



西洋文化の国々の颯爽とした動き。
ステップを踏むような優雅な足運び。
見ているとやはり「洋服を着用してきた歴史の長さ」を感じます。
民族の血にしみ込んだ長い歴史と伝統、という感じでしょうか。
その他、民族衣装をまとった国も多かったですね。
どの国も美しかった。
民族衣装は、その国の人たちを最も美しく、誇り高く見せるもの、
とそんな風にあらためて実感でした。


では日本人は?
今、民族衣装である着物を着たとして、その身のこなし、腰つき…
美しく、堂々と、かっこよく着こなせる人がいったい何人いるでしょう。
きっと今度は「アヒルがよちよちと前傾姿勢で歩いているかのような」
(毎年成人式のときに振袖集団を見て感じる残念なかんじ)
になるのでは、と危惧。

 



日本人よ、どこへ行く。



どちらにも近づけない「中途半端な身体」。
腰と肚の文化を捨て、先祖が培ってきた身体に刻まれた知恵と「あり方」を捨て
今の中途半端な身体を生んだ教育。生活様式。価値観。
身体の状態と精神の状態はイコールですから
そんなところに
日本人がこの戦後70年にわたって今の状況に陥ってしまった
「精神的孤児」の様相を感じるのはわたしだけでしょうか。



でも
全くもって悲観しているわけではなく。
なんとなく感じるのですが
振れた振り子はまた戻る。
戻りながら中庸へと。
「大切なもの」とのつながりを
取り戻そうとしている流れが波となって今ちゃんと来ている、と思えるのです。


 ●声と言葉を通して「身体と自分自身」のつながりを取り戻す● 
         「声のワークショップ2day*inふくおか」
          9月5日/6日   福岡市 警固神社にて   詳しくはこちらへ
     






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