2014年09月27日(土)

死は怖くなくなる

テーマ:自分取扱説明書

「死が怖い」と言う人は多い。
でも、その理由は人それぞれ。


死後の世界(地獄など)が怖い、と言う人もいる。
死に至るまでの痛みや苦しみが怖い、と言う人もいる。
自分の死よりも身近な大切な人を失うのが怖い、と言う人もいる。
そのどれも、
僕が「死が怖い」と言う時のそれとは根本的に質感が違う。


僕にとっての死が怖い理由
それは、端的に言えば、「自分の死を境に世界が存在しなくなること」だ。




僕が死を恐怖するようになった経緯や、その質感については、
以前、『死についての対話』 の中で詳しく話した。
実際にメールで対話した内容をそのまま載せているから、
少し長いものの、これを読んで頂くのが質感的には一番わかりやすいと思う。


・・・そして今から書くのは、「死」に関する自分取扱説明書。
自分取扱説明書だから、もちろん僕自身のために書く。
もしかすると、僕と似た理由で死を恐怖する人にとっては何かの参考になるかもしれない。
けれども、この種の恐怖に関しては、
基本的には各自で自分なりに対処していくしかない(と僕は考えている)。
だから、僕は、あくまでも僕のために書く。
そして今年、僕は生まれ変わる。




まず、僕の心の主成分 には「死が怖い」ということがある。
実際、大きな決断を迫られた時、または大きな苦しみの中にあった時、
「死が怖い」という意識が湧いてきて、その死生観に僕はたびたび衝き動かされてきた。


どうして僕は、それほど死が怖いのか。
僕は、「自分の死を境に世界が存在しなくなること」が怖いのだ。
・・・もちろん、僕の死後もこの世界が(実際には)存在し続けることは知っている。
しかし、その時すでに僕は存在しない。
僕の死後の世界を、僕は見ることができない。
僕にとっての世界は、僕の死で終わるのだ。
だからこそ、気が狂いそうになるほど死が怖いのだ。


でも、裏を返せば、もし仮に、
「自分の死を境に世界が存在しなくなること」がないとわかれば、
その時にはもう、死は怖くなくなる、ということになる。
つまり僕が、死に対する恐怖や虚無感から解放される時があるとすれば、
それは、僕が世界と一体であること を知り尽くした時なのだ。




今までの僕にとって、世界とは、
「自分が生まれてから始まったもの」だった。
始まったものには、いつか必ず終わりが来る。
だから、
「いつか自分が死んで世界が終わってしまう」ことが怖かった。
無になる自分を想像しただけで、そのあまりの虚無感が耐え難かった。


でも、世界は当然ながら、僕だけのものではない。
この世界は、
「自分が生まれるずっと前からあったもの」だし、
「いつか自分が死んでも世界は続いていく」。
もともと、始まりもなければ終わりもない世界だったのだ。


「僕」という視点は、始まりも終わりもないその過程の中で、
明確に意識化された一つの視点に過ぎない。
過ぎない・・・と言っても、
「僕」自身を矮小化するつもりは少しもない。
世界全体から見れば小さな事実かもしれないけれども、
この巨大で永い世界の一部として今の「僕」がある、
という現実に気づいた時には、むしろ驚きと興奮のほうが大きい。




今までの僕は、世界をよく理解していなかった。
今までの僕は、自分を中心に世界を見ていた。


そうではないのだ。
世界の一部として、自分を理解していかなければいけない。
「世界」だけを理解するのも、
「自分」だけを理解するのも、おかしいのだ。
世界を理解する時は、自分を理解する時であり、
自分を理解する時は、世界を理解する時でなければならない。
世界の一部として自分がある、とはそういうことだ。


もっと、僕は、世界をちゃんと知らなければいけない。
その果てに、僕が世界と一体であること を知り尽くすことができれば、
自ずと、僕自身だけのことよりも、(僕自身を含む)世界そのもののほうが重要になるはずだ。




今まで、僕は世界と切り離され過ぎていた。
ただし、世界が僕を切り離していたのではない。僕が世界を切り離していた。
つまり僕の意識の中で、僕と世界が切り離され過ぎていたのだ。


この世界の中で生まれてきた僕が、世界と切り離されているのはおかしい。
「切り離して」捉えていたのは、他でもない僕自身だったのだから、
今の僕は、もう一度、世界を捉え直す必要がある。
自分と切り離されたものとしてではなく、
自分を含むものとして。


僕・ルネサンス が始まる。
この世界に、もう一度ダイブしよう。




【補足】

まず現実問題として、
「わがこと」意識を持て ない人々が多い中でも、
自分たちの命だけは、自分たちでなるべく守れるようにしよう。

暖かくも冷たくもないこの世界は、
いつも自分だけを待っていてくれるわけではないから。
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2014年08月09日(土)

僕・ルネサンス

テーマ:自分取扱説明書

ダイブ しようと書き綴った当日、最初に僕の身に起きたことは
体調を崩すこと
だった。


宣言して早々だったから、正直、「参ったな」と思った。
みっともない。情けない。
・・・でも、ふと気づいた。
つまり、これが世界だったのだ。
宣言した結果、これが起きた。ちゃんと世界は(そして僕の身体は)反応した。




最近、やっと本当に気づいた。
自分が体調を崩した時、そのことを一番気に病んでいたのは
他でもない自分自身だったのだ、と。


他人から同じことを何度言われても、
自分で気づかない限り、自分のものにならない。
すべては自分次第。


でも、「すべては自分次第」という言葉でさえ、
一度ちゃんと自分でガツンとぶつかって思い知ってからでなければ
全然響かない。ピンと来ない。


・・・そんなものだ。
言葉のやり取りをしながらも、絶妙にすれ違いながら交流を重ねていく。
そうして人々は、互いに、独りで生き合っているのだ。


この程よい距離感と、多元的な在りように、
この世界の懐の深さを感じる。
決して優しいわけではなく、むしろ厳しいけれども、排除することもしない。


夏の太陽は、弱り切った人をさらに消耗させるけれども、
エネルギーに満ちた人に対しては、さらに無尽蔵なエネルギーを降り注ぐ。
分け隔てなく、誰に対しても、夏の太陽はそのようにして在る。




そして僕は、この世界にダイブする。


既成の枠組みの中で捉えるのをやめて、
自分のものとして、自分の枠組みで自分の意志で、
引き継ぐものは引き継ぎつつ、これからも僕は、僕の世界を創っていく。
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2014年01月30日(木)

見ないでいい。

テーマ:自分取扱説明書

それで歩けるのなら、見ないでいい。


・・・だって、歩けなければどうしようもないじゃない。
見据えて歩けないくらいなら、
目を逸らしても歩いたほうがいい。


もちろん、「闇雲に歩け」と言いたいわけではないよ。
できることなら、ちゃんと進むべき方向を見据えて歩いたほうがいい。
それができるなら、誰だってそうしたい。


でも、直視すれば、すべては あまりにむなしい。
時には足がすくんで、歩けなくなってしまうこともあるだろう。
そうなるくらいなら、
時には足元だけを見て歩くのも悪くはない。
大切なことから目を背けても、まったく動かないよりはいい。




・・・そして、この判断は自分にしかできない。
あなた自身にしかできない。
なぜなら、
「見ない」ということは、他の誰かが強制できることではないから。


何を「見ない」のかを決めるのは、あなた自身だから。

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2014年01月28日(火)

共感したい

テーマ:自分取扱説明書

自分がどうなりたいのか、少しだけわかった気がした。
僕は、共感したいのだ。


相手が思うことでも、自分が思うことでも、
本当に共感できることならなんでも構わない。
ただ、共感したい。
共感する瞬間を、たくさん持ちたい。
そのような場を、少しでも多く作りたい。


その衝動が、僕を喋らせる。歩かせる。




ひょっとすると、死に対する恐怖でさえも、
絶対的な共感があれば消え去るのではないか。
そんな期待を抱く。


僕は、死が怖くてたまらない。

(→『死が怖い理由』『続・死が怖い理由』
・・・でも、ひょっとすると。
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2012年03月12日(月)

「決める」ということ

テーマ:自分取扱説明書

「決める」っていうことは、
今この瞬間だけにしか適用しちゃいけない。


しちゃいけない、・・・っていうか、
本当は、今この瞬間だけにしか適用"できない"んだと思うけど、
つい、過去や未来に対しても何かを「決め」ようとしてしまうのが、心の常だ。
もともと適用できないものに対して適用しようとするから、
おかしくなってしまう。


過去の記憶、というのは日々塗り替えられている。
僕が今、思い浮かべている過去のある日のことも、
実際その日に感覚し経験した"その感じ"とは、きっと違っている。
だから、
「あの時は、こうだったのだ」
などと、後から無理に決めても、
それは実際のその日を再現したことにはならない(可能性が高い)。
それに、そんなことをしても、あまり意味がないのかもしれない。
既に、その過去は無いのだから。
過酷ながらも、それが紛れもない現実だ。


未来は、その時になってみなければわからない。
どんな未来も、
未来が"その時"になった瞬間の意志によって動いていく。
どんなに緻密な決め事をあらかじめ予定していたとしても、
その予定をそのまま実行に移せるだけの充分な意志が"その時"に無ければ、
事前の決め事など、いとも簡単に変更されてしまう。
そして、変更の決断が下された"その時"には、
予定を変更することが正しい選択だ、ということになってしまうのだ。
無情ながらも、それが紛れもない現実だ。




だから、
「決める」っていうことは、
今この瞬間にだけしか適用しちゃいけないと思うわけ。


昨日、立てた予定の通りにするかどうかも、
今、決める。
明日、(変更されるかもしれないけど)とりあえずどのような予定にするか、
今、決める。


今、決めるかどうかも、
今、決めればいい。
現に、すぐには決められないこともたくさんあるしね。

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2012年02月06日(月)

もっとも根本的な部分については

テーマ:自分取扱説明書

もっとも根本的な部分については、自分ひとりで決めるしかない。


例えば、
「どうすれば良いか」
ということなら、誰かに相談すれば解決するかもしれない。
「誰に相談すれば良いか」
ということも、何かで調べればわかるかもしれない。


でも、まず入り口として、
「とりあえず誰に相談するか」
「何を最優先にするか」
といったことについては、
そもそも、自分ひとりで決めるしかないし、自分にしか決められない。




もっとも根本的な部分については、自分ひとりで決めるしかない。
・・・これも、自分で決めたこと。
だから一般則ではない。
ましてや、誰にでも当てはまる原則だ、なんて言うつもりはない。


ただ、自分のために宣言しておく。
今後、再び迷った時のために。

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