2013年12月30日(月)

音の存在

テーマ:存在

音の正体は、波(波動)である。


例えば、太鼓の音が「聞こえる」のは、
太鼓が叩かれた時、その衝撃で太鼓の表面が波打ち、
その振動に引きずられる形で太鼓に触れている空気が波打つことによって、
空気中の波動が太鼓の表面から人間の耳の鼓膜まで伝播し、
耳の鼓膜が「振動する」からである。


人間の体は、耳の鼓膜の振動を音として知覚するようにできている。
結局のところ、音というモノが存在しているのではなく、
鼓膜に伝わる波動を認識できるメカニズムが、人間に備わっているだけのことである。




したがって、音は、実は存在しない。
現実に存在しているモノのある状態が、音として知覚されているだけなのだ。


・・・本当にそうだろうか?
もし、そうなのだとしたら、
では逆に、本当に存在しているモノとは何だろう?
見えているモノだって、触れるモノだって、
それがそこにあるように知覚されているだけで、本当は存在していないかもしれない。


しかし、そんなことを言い始めたら、何も存在しない可能性も出てきてしまう。
「存在」という言葉自体が無意味になる。
ところが現に「存在」という言葉があるし、
「存在」の意味は、そういうことではないと思う。


そもそも、順序が逆なのだ。
知覚されているモノは、知覚する本人にとっては現に存在している。
人間は、成長するにつれて知覚できるモノが増えていく。
それに伴い、存在の種類も増えていく。




以前、『信じる基準』 という記事の中で、
身体的連続性が信じる基準になっている、と述べた。
見ようによっては、
知覚もまた、身体的連続性による認識の一種とみなすことができる。


結局のところ、
あるモノが存在するかしないか、ということは、
身体的連続性という基準によって決まってくるのではないかと思う。

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2012年04月13日(金)

正当化しなければ始まらない

テーマ:存在

「自分を正当化するな」
と言うけれど、
正当化しなければ存在できないのがこの世界の定め。


この世界に棲む限り、自己正当化の道のりは終わらないし、
存在しようとするものが二つ以上ある限り、対立は決して無くならない。
「自分を正当化するな」
と言うこともまた、対立の表れかたの一つに過ぎない。


そもそも、正当化するところから、存在は始まっていくのだから。

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2012年03月06日(火)

存在の種類

テーマ:存在

行動する存在か、観察する存在か。


僕は、このどちらかで言えば、
間違いなく観察する存在だ。
「観察する存在」というのは、
例えば、評論家や解説者など、
対象に対して第三者的な立ち位置にいる人のこと。
当事者的な事柄についても、
まず観察して判断する所から入っていこうとする。


「行動する存在」というのは、
例えば、政治家やスポーツ選手など、
まず自分が動かなければ物事を解決できないし、
実際にそのように動いている人のこと。
たぶん、「行動する存在」の多くは、「観察する存在」を煙たがっていると思う。




行動する存在と、観察する存在は大きく違うけれども、
共通点もある。
それは、「行動の目標」や、「観察の対象」といった、
何らかの外的対象に紐付いた形で存在している、ということ。
言い換えるなら、
その存在自身が、行動や観察を成立させるための媒体でしかなくなっている、
ということ。


つまり、「行動する存在」でもなく、「観察する存在」でもない、
外的対象を必要とせずにただ存在しているような、
「存在する存在」もあるはずなのだ。
実際、存在の多くは、「存在する存在」だろう。
動植物のような生物は、「行動する存在」かもしれないが、
水や石などの無生物は、行動もせずに「存在する存在」である。
(行動せずに、密かに観察しているのかもしれないけれども。)


どのような存在でいることが望ましい、とか、
そういう話をしたいわけではない。
ただ、「存在する存在」もあるのだ、ということを、
そしてそれがもっとも自然な存在の仕方かもしれないのだ、ということを
日頃、忘れているような気がする。
・・・ということを、
再び忘れてしまわないうちに、書き留めておく。

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2011年11月22日(火)

「ある」を認める

テーマ:存在

なにごとも、まず認めてからでなければ始まらない。




どうしても我慢できないことは、「ある」。
耐え難いことも、「ある」。
限界も「ある」し、越えられない壁も「ある」。


でも、私は生きて「いる」。
実際にできるかどうかは別にしても、生きている限りやれることは「ある」。
・・・とはいえ、心理的に、どうしてもやれない時だって「ある」。


自分はどうせ駄目なんだ、って放り出したくなる気持ちも「ある」けど、
そのままじゃ嫌だ、っていう気持ちも「ある」。
自分なりのプライドだって「ある」し、
誰にも理解されない、うまく言葉にできない気持ちも「ある」。




どれか一つだけが「ある」わけじゃない。
全部「ある」。
全部「ある」、ということを認めてからでなければ始まらない。


どれかは「ある」けど、別の何かは「ない」、なんてことはない。
「ない」と思っているとしたら、それを無視しているだけだ。
無視していても、それは現に「ある」。


だから、ちゃんと認めよう。
非常に面倒くさいし、もつれた糸が絡まって手が付けられないかもしれないけど、
手に付けられないほど複雑に絡まりあった状況が、現に「ある」んだ。
そして既に、そのような中で生きて「いる」。
だから、そこから始めるしかないんだ。

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2010年12月10日(金)

「信じる」ことと、「存在する」こと

テーマ:存在

何かを「信じる」ことと、その何かが現実に「存在する」ことは、
基本的に、同じことの言い換えである。




例えば、
「音がした」
というのは、現実として捉えた場合の言い方。
「音が聞こえた」
というのは、感覚として捉えた場合の言い方。


ここで、聞こえた音の存在を信じる時、
「音が聞こえた」ことは、同時に「音がした」ことになる。


「『信じる』ことと、『存在する』ことは、同じことの言い換えである。」
とは、そういう意味だ。




・・・と、ここまで書いてから、
以前、似たような記事を書いた覚えがあるな、
と思って探してみたら、
『信じる』ことと『現実である』ことを対比させて書いていました。
『信じることと現実』

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2010年11月04日(木)

存在の否定

テーマ:存在

「存在を意識することの否定」
は、
「存在していることの否定」
ではない。
両者の意味は、根本的に異なっている。
・・・しかし、混同されやすい。


このことは、少し前に書いた記事『「気にするから」』 とも共通している。
つまり、
「ストレスや病気をあまり気にするな」
というのは、
その存在を(過度に)意識することの否定であって、
それが存在していることの否定ではないのだ。




ちなみに愛は、決して存在そのものを否定しない。
「対象の存在を認めること」それ自体が、
すなわち愛だからだ。
「愛」の対義語は、「憎しみ」ではなく「無関心」だという。


したがって、対象への愛の強さとは、
「対象の存在を認める、その認識の度合いの強さ」
のことである。




「存在を意識することの否定」
なのか、それとも
「存在していることの否定」
なのか。
もし、両者を混同しそうになったら、
そこに愛があるのかどうかを見極めればよいのだ。

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2010年02月04日(木)

存在の意味を感じられること

テーマ:存在

何事も、存在の意味を感じられることがまず大事だ。
自分の人生を賭けられるだけの価値が見出せなければ、
まず最初の一歩が踏み出せないからだ。


だから、まず存在の意味を精いっぱい伝えることが必要だ。
存在の持つ意味は人によって違うから、余計なお世話かもしれないけれども、
たとえ否定されても、存在の意味について何も伝えないよりはいい。


意思の疎通は、すべて、
存在の意味について確かめ合うところから始まるんだ。




ただし、
「存在に意味があること」や、
「存在の意味がわかること」は、それほど大事じゃないよ。


一番大事なのは、
「存在の意味を感じられること」だ。
この違いは、とても重要だよ。

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2008年12月05日(金)

「生命」の基準と、距離感

テーマ:存在

帰り道。
雨上がりのアスファルトの路上で、
バッタのような緑色の虫が、ペッタンコになっていた。


・・・と思ったが、
よく見ると、花のつぼみだった。
前にある花屋から落ちて、転がったものらしい。
ペッタンコなのは、おそらく、車か何かに潰されたからだろうけど、
それは、仮に虫だったとしても同じことだ。


虫でなくて花だった、と理解した瞬間に、
僕の気持ちの中で、「痛々しさ」や「無念さ」のようなものが一気に薄れた。


あれは、いったい何だったのだろう・・・。




虫にしろ、花にしろ、
命であることに変わりはない。
直前まで新鮮な命であったものが、無残にもペッタンコになっていたのだ。


花は、実は切り花――つまり、既に死んでいる花――だったのかもしれないが、
あの時の僕の気持ちの変化は、
「切り花」という可能性に思い至る遥か以前に、瞬間的に起きていた。


きっと僕は、
虫に対する捉えかたと、花に対する捉えかたが、
根本的に違っていたのだと思う。




僕の気持ちの中で、
花は、虫に比べると、「もの」に近い。


生きている虫の足を折ってしまったら、
僕は、「その虫を傷つけてしまった」と感じる。
一方、
生えている草花を根元から摘んだ場合には、
僕は、「その草を殺してしまった」とは感じない。
それどころか、その花をアクセサリーとして身につけることさえ平気だ。
でも、
自分が傷つけた虫を、アクセサリーとして身につける気持ちにはとてもなれない。
そんなことは、むしろ悪趣味だと感じる。




この違いは何なのだろう。


虫よりも草花のほうが、「生命」性に乏しいからだろうか。
いや、そんなことはない。
むしろ草花のほうが、虫よりも生命力が強いかもしれない。
踏まれても再生できるのは、草花のほうだ。


たぶん、
僕が、草花よりも虫のほうに「生命」を強く感じるのは、
きっと、虫のほうが自分に近いからだ。
もちろん空間的な近さではなくて、存在のしかたが「近い」ということ。
言い換えれば、「似ている」ということ。


草花よりも虫のほうが、僕に似ている。
だから、草花よりも虫のほうに「生命」を強く感じる。
この場合の「生命」の基準は、自分。


生命の一般的な定義なんて、この際、無関係。




「生命」の基準は「自分」で、
自分に近いものほど、「生命」を強く感じ、
自分から遠いものほど、「生命」を感じなくなる。


ペットが死ぬと深く悲しむのに、体内の微生物の死には心が痛まない。
知らない人の死亡のニュースは聞き流せるし、
殺人よりも堕胎のほうが、罪悪感は薄い。


「自分」を中心として広がる(精神的な)距離感が、
実は、「生命らしさ」を決めていた。
・・・そんな、極めて自己中心的な定義。


でも、「生命」の基準なんて、そんなものかもしれない。
この世界に生まれ、この世界で死んでいく主人公は、他ならぬ「自分」なのだから。

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2008年09月24日(水)

存在証明

テーマ:存在

2008年9月24日。
僕は、まだ生きています。


遠い未来、西暦が存在しなくなれば、
「2008年9月24日」という言い回しも、意味を失うでしょう。
意味があるのは、
これを書いている今、僕が生きている、・・・ということだけ。
今の僕にしかわからないことです。


生きている、という感覚が、
もし仮に幻想であったとしても構いません。
存在証明。
それは、僕が、僕自身に対してすれば良いことだからです。

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2008年07月31日(木)

「道」と「空き地」

テーマ:存在

田舎や山奥のほうが、「道」に存在感がある。


都会の「道」には存在感がない。
都会は、どこもかしこも「道」だらけだからだ。
都会の場合、むしろ「空き地」のほうに存在感がある。
「空き地がある」という言い方が通用するのも、都会ならではだろう。


山奥でわざわざ「空き地がある」という言い方をしないのは、
山奥が、どこもかしこも「空き地」だらけだからだ。
山奥の場合、「道」が現れた時にこそ、その存在感が浮き立ってくる。

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