2014年02月16日(日)

予定を立てる意味

テーマ:現代社会

『正しさによる保証』 という記事の中で、
「必ず守られる約束がもし存在するなら、それは、もはや約束ではなく事実」である、と述べた。
同じようなことが、「予定」ということについても言えると思う。




必ず予定通りになるなら、それは、もはや事実であり「予定」とは呼ばれない。
「予定を立てる」という行為の中には、
既に、予定通りに行かない可能性が織り込まれているし、
予定を立てる時には、その可能性が織り込まれていなければならない。


端的に言えば、実際には、
「予定通りには行かない可能性がある」からこそ、予定を立てるのだ。
予定は随時見直されるものでなければならない。
随時見直し、そのつど修正し、必要に応じて変更していくことによって、
初めて予定は活きてくる。
そこに、予定を立てる意味がある。


ちなみに、現代社会は、
「なるべく予定通りに物事が運ぶように管理されている社会」でもある。
そのため現代人は、「予定」に関する上述の本質をしばしば見失いやすい。
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2014年01月26日(日)

「当然」化の進んだ世界

テーマ:現代社会

もともと当然でないことを「当然」化することによって
資本主義社会は合理化され、前進してきた。
人間社会の発展の原動力として、それが必要だった。
しかし、たぶん、社会生活におけるルールのほとんどは、
人間個人にとって、もともと当然のことなどではなかった。


もともと当然のこととは、
例えば、息をするとか、眠るといったことだ。
厳密に言えば、こうしたことも
すべての生物にとっての「当然」ではない(呼吸をしない生物、眠らない生物は存在する)が、
少なくとも、人間にとっては「当然」のことだろう。


さて、今、日本社会で当然のように思われていることの多くは、
もともと当然ではなかった。
例えば、順番を待つ時に並ぶとか、商品は代金を払ってから持ち帰るとか。
しかし、これらを「当然」化すれば、
大衆の動きの統制がとれ、また個人にとっても他人の動きが予測しやすくなる。
そこで、社会生活を送る人々は、これらを「当然」化してきたのだ。
(ある人たちは、この「当然」化の営みを「教育」と呼ぶ。)




人間社会を安定させるためには、こうした「当然」化が不可欠だった。
その営みが、人々の生活を支えてきたし、きっと、これからも支えていくことだろう。


しかし中には、その営みについていけない人もいる。
そのような人にとっては、非常に生きにくく、世知辛い世の中である。
「非常識」というレッテル を貼られ、叱られ続ける生涯の人もいるに違いない。


これは、集団生活の中で生まれてそこで生きる以上、仕方のないことだ。
紛争の絶えない土地に生まれる人もいれば、
ある特定の宗教思想以外は受容されない土地に生まれる人もいる。
それに比べれば、まだ、幾分マシなのではないかと思う。


それでも、つらい生涯であることに違いはない。
だから、せめて、
もともと当然ではなかったのだということを、ちゃんと理解して、ここに記しておきたい。




「当然」化についていけない人たち、ついていけなかった人たちに、
ささやかですが、この記事を捧げます。
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2014年01月20日(月)

「哲学書」考

テーマ:現代社会

哲学は、自分で経験するものだ。
経験もしないで哲学書を読むだけでは、哲学とは呼べない。


しかし、与えられている時間には限りがある。
自分の経験のみを頼るには、人生は短すぎる。
そのことを思えば、
哲学書を足がかりにしてみるのも悪くはない、と思う。


ただ読み漁るのはどうかと思うが、
別に読みたければ読めばいいし、まあ、好きにすればいいと思う。




・・・そう、好きにすればいい。
むしろ、読むことも読まないこともできる、という自由を喜ぶべきだ。
どちらが正解ということはないし、
結局のところ、好みの問題だろう。


実際のところ、哲学の多くは、ほとんど役に立たない。
哲学的な問題に絡め取られてどうしようもなくなった人が、
仕方なく哲学する。
そして時々、哲学書を読んで自分を慰める。
現代社会において、哲学が役に立つと言えば、そのくらいだ。


もし、何かの役に立てたければ、
本屋には、ちゃんとした実用向けの本がたくさん売られているし、
啓発セミナーや講演会、体験学習プログラムみたいなものも、いっぱいある。
役立たせることを考えるなら、
哲学なんかよりも、そっちを参考にしたほうがいい。


いずれにしても、
結局のところ、好みの問題だろうから、
もう、好きにすればいいのだ。
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2013年02月20日(水)

協力しなければ生き残れない。

テーマ:現代社会

数日前、ロシアに隕石が落ちた。


日本も、ロシアも、
「自然災害に立ち向かう」
という意味では、運命共同体だ。




それぞれの国には、それぞれのポリシーがあり、
譲れない人生観やアイデンティティーがあって、
抜き差しならない立場の違いがある。
決して無視できない事実だ。


けれども、そのことを踏まえてもなお、
運命共同体である、という事実は変わらないし、
運命共同体であることを認識することの大切さは
立場の違いを超えて共通している。




協力しなければ生き残れない。


出自や過去の偉人の言葉に縛られるよりも、
今、同じ世界を生きている人々と、協力しなければいけない。
誤解を恐れずに言えば、
協力するのは、世界のためじゃなく、ましてや平和のためでもない。
自分と、自分にとって大切なもののために、
「協力する」ということが必要なのだ。

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2013年01月08日(火)

手書きが基本

テーマ:現代社会

スマートフォンの手帳アプリを使ってみようか、と、しばらく考えてみた。
しかし、建設業界の文化は他の業界よりも古いし、
たとえメモを取るつもりでも、打合せ中にスマートフォンをいじっていれば
まだ大抵の場合、ひんしゅくを買ってしまうだろう。
・・・そこまで考えて、結局、僕は手帳アプリは使わないことに決めた。


建設業界が古臭い、と批判したいのではない。
「郷に入りては郷に従え」は正しい。
多くの相手が不快に感じることなら、やはりそれをするべきではない。


基本は、手書きだと思う。
計算にしても、基本は「電卓」ではなく「筆算」だ。
電卓が無ければ計算ができない、と言う人を本当に計算ができる人とはいえないが、
電卓が使えなくても筆算ができれば、その人は計算ができる人だといえる。
プリントアウトされた資料の機械的な文字よりも、
手書き文字の資料のほうがインパクトも大きいし、情報量も多い。




・・・いや、待てよ。
本当に、古来からそれが基本だったのだろうか?


ルーツを辿れば、言葉の基本は「書き言葉」よりも「話し言葉」だ。
古来、先人の知恵の伝承は、
語り部から語り部へと口伝により行われてきたという。
書物によって引き継がれるようになったのは、人類の文明が近代化してからのことだ。


かつて土着の文化に根付いていた儀式などは、
逆に、今の基礎教育では扱われていない。
つまり、何が基本かは、
文化の移ろいと共に変わっていくのだ。




少なくとも今の時代は、まだ、「手書きが基本」なのだろうと思う。
インターネットと携帯電話が普及したとはいえ、
IT文化は、まだ発生から15年そこそこの黎明期にあり、
これで人間社会に充分に定着したとは、まだとても言い難い。


今の僕が「手書きが基本」だと思ってしまうのは、
単に僕が、時流に乗っかって物事を捉え、考えているだけのことなのかもしれない。

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2012年10月20日(土)

21世紀を制するのは、無意識を制する者かもしれない

テーマ:現代社会

以前、『情報処理ルネサンス』 という記事で、
「人類は、無意識化と意識化を繰り返してきた」
と書いた。
(人間において)意識化に根本的な限界がある限り、
その繰り返しは、これからも続いていくはずだと思う。




その中で、今世紀は、
無意識(的な処理)を制しようとする動きが強まっている。
21世紀を制するのは、無意識を制する者かもしれない。


広告産業は、人間の無意識に働きかける効果が最大になるように、
テレビCMの放映のしかたや、看板の表示方法などを日々検討している。
政治手腕も、情報戦術が伴わなければ振るえない時代になった。


人々は、日常生活の多くを自分の意志で決めているつもりになっているけれども、
実は、巷に溢れる情報の渦に既に巻き込まれていて、
それと気づかないうちに扇動されてしまっている。
学校教育、テレビ放送、出版物、インターネット・・・。
・・・どの情報も誰かがどこかで意識的に発信した情報であることを考えれば、
自力で獲得する情報などほとんど皆無に近い、ということがわかる。


・・・いや、実は、そうではない。
空に浮かぶ太陽、そよ風の感触や、時の流れ、感情の高ぶり等、
本当は、意識的に発信された情報など及ばないくらい多くの情報を、
この世界から直接受け取っている。
しかし、普段あまりそれは意識されないのだ。
そのことに気づいている人たちもいて、
最近は「スピリチュアル」がブームになって久しい。


無意識をあえて意識的に制しようとする人たちもいれば、
無意識を無意識のまま気づこうとする人たちもいる。
いずれにしても、
今世紀は、無意識を制しようとする動きが強まっている、と思う。




しかし、無意識を制することが、それほど生易しいものだとは思えない。
意識化に根本的な限界があるのと同じくらい、
無意識を制することもまた難しいのではないかと思う。


たぶん、それは多くの科学者や哲学者が解明を試みてきたと同時に、
多くの宗教家もまた解決を目指してきたテーマだが、
「解明できた」という結論や、
「解決した」という境地に達した裏で、
自分でも気づかないうちに無意識が働いてしまっている可能性が最後まで残ってしまう。


21世紀を制するのは、無意識を制する者かもしれないが、
裏を返せば、
無意識を制しようとしてその策に溺れる者が増える時代だ、とも言えるかもしれない。

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2012年04月09日(月)

駆け込み乗車をしたら

テーマ:現代社会

駆け込み乗車。
僕も、したことがある。
さして罪悪感もなく、"うまく乗れれば儲けもの"くらいの気持ちで。
ごく自然な行動として。


「危険ですから駆け込み乗車をしないでください」
と駅員がアナウンスする光景は、
今の列車運行システムが現状のまま続く限り、
10年後も、20年後も変わらないことだろう。
"駆け込み乗車"という行動は、
人間の、あるいは日本人の(冒頭で述べたような)単純で基本的な心理に由来している
と思う。




駆け込み乗車は、それ自体が危険な行動である。
しかし、問題はそれだけではない。
大勢が利用する電車で、身勝手な駆け込み乗車が重なれば、
それだけ列車の発車時刻も遅れ、運行ダイヤが乱れる要因になる。


2005年の福知山線の脱線事故 が起きた背景には、
過密ダイヤの問題があった、と言われている。
JR西日本は、
列車の運行に対する乗客からのクレームに対処するべく、
「サービス向上のため」と銘打って、無理に運行本数を増やし、
遅延した際には回復運転を強行させていたらしい。
回復運転とは、
遅延を取り戻すために通常よりスピードを上げるオペレーションのことだ。
それだけが事故の原因ではないけれども、
こうした背景の中、あの脱線事故は起きた。




人間は、元来、身勝手な生き物だ。
良くも悪くも、
自分にとって都合の良い生き方を選び、
自分にとって都合の良い考え方を採っている。
それが人間らしさでもあるのだから、そのこと自体を否定するわけにはいかない
と思う。


けれども、
"駆け込み乗車"をしてしまった時、
「自分も、福知山線の脱線事故の間接的な加害者なのだ」
と気づくことくらいは、必要なんじゃないかと思う。
「ああ、またやってしまった」
と思う瞬間が増えていけば、自然に、自発的に、しなくなっていく。
そういうものではないだろうか。




「そんな悠長なことを言っていられない」
と言う人もいるだろうし、逆に、
「そんなことまで気にしていられない」
と言う人もいるかもしれない。
けれども、この問題は、
その場でルールを強制すれば解決するような簡単な話ではないはず。


もちろん、応急処置として一時的な解決を図ることも必要だろう。
しかし、本当にその解決を望むなら、
永続的な解決を目指すことも、同時に考えていくべきだ、
と、頭でっかちな僕は思ってしまう。

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2012年03月05日(月)

自分のことは、自分で試行錯誤するしかない

テーマ:現代社会

一個人の遺伝子配列は生涯変わらないが、
そこに記録された性質の発動トリガーは、人によって違う、らしい。
つまり、
遺伝子レベルで元々持っている性質であっても、
発動トリガーを心得ていて、それを回避することができれば、
その性質の発動を防ぐことができる、
・・・ということらしいのだ。


先日、テレビで専門家がそういう趣旨の話をしていた。
例えば、アレルギーなども、
発動トリガーを自分で発見し、アレルギーが発動する環境を避けるようにした結果、
50歳代でアレルギーを克服した人もいるらしい。

ただし、難しいのは、
何がトリガーになっているのかは、人によって違う、ということ。
試行錯誤を繰り返しながら、自分で気づいて見つけていくしかないそうだ。




そういえば、孤立した社会では、
どこでも特有の生活様式があり、食文化がある。
遺伝的にも近く、体質的に似通った人々の間で、
世代を超えて、(意識してかしないでか)発動トリガーの回避術を
受け継いできているのかもしれない。


現代社会(特に都会)を生きる人々は、
世襲的な文化から解放されて自由になり、人生における選択肢が広がった反面、
この、「人間」という複雑で厄介な代物の管理を、
「自己管理」の名の下に、すべて自分自身で賄わなければならない宿命を負っている。
・・・これは、これで過酷でもある。


自分取扱説明書は、自分で作るしかない。
そのことにさえ、自分で気づかなければいけなかった。
まあ、それくらいは仕方ない。
現代社会の恩恵も享受してきているわけだし。

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2011年09月11日(日)

先進国からの人道的批難

テーマ:現代社会

歴史に明るくないし、詳しくは知らないけれども、
今、先進国と呼ばれている国々の多くは、
かつて、大航海時代に世界各地で植民地を増やし、
現地の人々を働かせ、莫大な利益を得て、
国力を蓄えたのだそうだ。


こうして、「世界における先進国」という現在の地位を確立してきた。
今では「非人道的」とされているコトやモノも、
当時は、それと知らずに(あるいは知っていても目をつぶりながら)使ってきたらしい。
例えば、奴隷制度や核兵器。
今の先進国諸国は、
発展途上国の奴隷制度(的な社会運営の仕方)を痛烈に批判するし、
核兵器を持とうとする発展途上国を警戒し、批難する。
なんと虫のいい話だろう。
自分たちも、かつては、その力を借りて国力を押し上げてきたというのに。


結局のところ、“先にやったモン勝ち”だ。
内心、気が咎めることにも手を染めながら成長してきたくせに、
晴れて自分の地位が安泰になってからは、
「いち抜けた」と言って、態度を変え、
「そんな非人道的なことはやめようよ」と、諭し始める。
非人道的なことをしなくても無事にやっていける“高み”からなら、
そんなこと、子供でも言える。
実に子供じみた態度だと思う。


「でも、誰かが言わなければいけないことだ」
ごもっとも。
しかし、かつて自分もしてきたことを、その反省の色もなく大手を振って批難に徹する態度からは、
何の説得力も生じない。
「どうせ、自分(の国)を正当化したいだけだろう」と相手から思われるのがオチだ。
結局のところ、腹の底から相手の理解を得たいと思っているわけではないのだろう。
相手の理解を得られても得られなくても、
自分(の国)が脅かされなければ、それでいい。

・・・腹の底ではそう思っているからこそ、
歯の浮くような“人道”話を堂々と振りかざすこともできるのだろう。


あるいは、
かつて自分が犯した過ちを二度と繰り返させないために、心から反省して懸命に活動しているのだろうか。
もし、そうであるならば、なおさら自分のことを棚に上げてはいけないはずだ。
本当に繰り返させたくないのであれば、
自分(の国)が脅かされることも覚悟するくらいの気持ちで、真剣に相手(の国)と向き合う必要がある。
それができないのなら、あまり一方的に高圧的な態度を取るべきではない。
中途半端な気持ちで発言して相手の神経を逆撫でするくらいなら、
まだ、何も言わないほうが“まし”だからだ。

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2011年08月24日(水)

テリトリー外

テーマ:現代社会

「自分の責任でない」と思えることや、
「自分のテリトリー外だ」と思えることについては、
人は、無関心でいられる。


実際に責任がないのかどうかは、この際、関係ない。
すべては、“自分がそう思えるかどうか”にかかっている。


本当は自分に責任があり、自分のテリトリー内のことだったとしても、
当の本人(=自分)がそう思わないなら、やはり、無関心のままである。




そもそも、
「すべての事柄に対して同時に関心を持つ」ということが不可能である以上、
人が、自分のテリトリーを限定的に決めて生きるのは、ごく自然なことだ。
誰もそれを責められはしない。


もともと人間社会は、そのような中で成り立っている。

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