2014年02月22日(土)

叱りかた

テーマ:教育

わかっていないから、それを教えるために叱る。
それが、教育における「叱責」の、正しいありかたなのだと思います。


2006年に、僕は、
『叱られかた』 という記事を書きました。
「叱られることも役割分担のうちだ」なんて言っていました。
ちょうど、僕が大学を出る直前くらいの頃です。


それから7年半が過ぎました。
僕は父親になり、勤め先にも僕よりも若い人たちが入ってきて、
僕も、叱る側になりました。
今、僕は、「叱ることも役割分担 のうちだ」と思っています。




2010年には、息子が生まれ、
『ようこそ世界へ』 という記事を書きました。


その中で、僕は、こう書きました。
「もし、息子が成長して、僕に似て、
『生んでくれなんて頼んでない』
と妻に言ったら、僕は叱るかもしれない。」


もし、仮に息子がそう言ったとしても、
僕には息子のその気持ちが痛いほどよくわかります。
そういう言葉を吐く息子は悪い子だ、とも思いません。
・・・でも、やはり叱らねばいけない気がしています。
それは、端的に言えば
「息子が、妻の息子に対する気持ちを知らない」からです。


もっとも、
子が親の気持ちを知る時なんて永遠に来ないんじゃないか
という気もしています。
僕も、親になってみて初めて、
自分の親の気持ちが多少は理解できるようになりました。
でも、それもたぶん所詮は理解できるようになった「つもり」であって、
今この瞬間の僕の親の気持ちを、今の僕はやはり理解していないんじゃないか
という気がするのが正直なところです。




さて、もし、
息子が妻に対して上記のような暴言を吐いたら、僕は叱ります。
息子がわかっていないから、それを教えるために叱るわけですが、
そもそも、教えられてすぐにわかるようなことでないことは百も承知の上です。
もちろんわかって欲しくて叱るわけですが、
すぐにわかってもらえなくても仕方ない、とも思っています。


つまり、大切なのは、
「然るべき時に叱ること」
だと僕は思うのです(※ダジャレではありません)。


叱られたことによって息子がどう変わるか、とか、
そういった目先の事実は(広い目で見れば)些細なことであって、
大切なのは、
ちゃんと叱った(そして叱られた)という事実があること
なのではないでしょうか。




・・・と、こんな考えかたは、いかがですか?
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2014年01月14日(火)

「ルール」の現実

テーマ:教育

ルールを知らない人には、ルールを守れと教え、
守る人には、その奴隷になるなと教え、
奴隷でない人には、それを使いこなせと教え、
使いこなしている人には、新たに作ることを教える。


ここまで来たら、もう、教えられることはない。
あとは本人次第。
ルールを守るのも、使いこなすのも、
あえて奴隷になるのも、新たに作るのも。




たぶん、この世界には、
生きている人の数だけ異なるルールが存在している。


実際のところ、ルールとルールの抜き差しならないせめぎ合いが、
今日も世界中で、様々な形で起きている。
その中で生き残っていかなければいけない。
・・・それが、「ルール」の現実だ。

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2012年10月28日(日)

延々と続く、目まぐるしいカリキュラム

テーマ:教育

義務教育の9年、高等教育まで含めれば12年ものあいだ、
週に5日、1時限目から6時限目までの目まぐるしいカリキュラムに追われる。
それが、この日本でずっと続いてきた教育のありかただ。


子どもの脳は柔軟で、学習能力も高い。
だから、
なるべく広く多くの"学び"に触れさせて、可能性の芽を増やしていく。
おおかた、そんなところだろう。


・・・わからないわけではない。
むしろ、とてもわかる。わかるのだけれども、
1日に授業が6個もあって、
例えば、算数、体育、理科、国語、音楽、社会、図工
と変わるのでは、あまりにも目まぐるしいし、
その目まぐるしい期間が延々と10年以上も続くのは、いくら何でも長すぎるのではないだろうか。




社会人になってから、特にそう思う。
学校の生徒は、
まるで次元の違うことを、時間を区切られながら強制的に覚えさせられ、
2~3か月に一度、覚えたかどうか試験される。
学校生活は、"夢と希望に満ちた"オブラートに包まれているけれども、
冷静に社会人のタイムスケジュールと比較してみると、実に過酷だ。


テレビのクイズ番組では、
義務教育程度の問題にすべて解答できる人が「博識だ」と称賛されている。
事実、その通りだと僕も思う。
裏を返せば、
現にそれだけのことが義務教育のあいだに教えられている、ということだ。




僕は、今の教育制度がおかしい、と単に結論付けたいわけではない。
そもそも、教育制度を変える・変えないの問題以前の問題として、
原点に返って、もう少し真剣に学校生活のありかたを見つめ直してみても良いのではないか、
と言いたいのだ。
「学校とはそういうモンだ」だけでは済まされない。


社会人だって、学校の生徒だって、
同じ人間であることに変わりはないはずなのだから。
今日も、生徒は、貴重な若い時間を捧げて学校に通っているのだから。

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2011年08月22日(月)

実戦で初めて身に付く

テーマ:教育

教わったことは、実戦(あるいは実践)を通して初めて身に付く。


ただ“教わっただけ”では、決して身に付かない。
頭で理解していていても、それは身に付いたことにならない。
ここで言う「実戦」とは、テストのことではない。
現代の日本社会で言えば、「実戦」とは仕事のことだ。


ところが、いまの教育制度では、その実戦の機会が用意されていない。
20年近くもの間、頭で理解させる段階までしか進まない。
それが教育制度の現状。




子供にとっては、途方もなく長い期間である。


言葉の意味もよく知らない時期から、
自意識が強くなり、自分の生き方について悩み、矛盾に苦しみ、
その果てに曲がりなりにも自分なりの考えを確立していこうとするまでの、
人生における根本的な経験を積む大切な期間を、
ただ、頭で理解することに専念させられる。
“どれだけ頭で理解したか”をテストで測られ、それによって評価され続ける。


そうして長い期間を経てから、
ようやく実戦の場(人間社会)に放り出される。
そして今度は、実戦の連続である。実戦しかない。


いくらなんでも、極端すぎる。




でも、現に教育制度がそうなっている以上、
実戦の場を、親が用意するしかない。


用意する、・・・というか、
そもそも仕事なんて自分で見つけてくるものだから、
“本人が自分で仕事に繋げていくのを邪魔しない”ことが大事なんだと思う。


ちなみに、仕事っていうのは、別に金稼ぎだけじゃない。
家族の中で役割分担している場合、それぞれの役割がそれぞれの仕事だ。
仕事のしかたなんて、「お勉強」して身に付けるものじゃない。
「お勉強」して頭で理解したことも利用しながら、
自分なりに工夫する過程で徐々に身に付いていくものだ。




・・・別に、

「親が教えてやらねば!」と気負う必要はない。
ただ、
学校教育だけで終わったら肝心のところが抜け落ちてしまう、
ということは、親がわかってなきゃいけない。


「教育制度基準ですべてを判断しようとする罠」に陥りやすいのは、
子供よりもむしろ親のほうなのだ。
親がその罠に陥らず、気負うこともなく自然にしていれば、
子供は自然に学び、身に付けていくんじゃないかと思う。




そもそも、自分で身に付けていかなければいけないのだ。
自分の人生なのだから。
自分なりのやり方で、自分なりにアレンジしながら。


その邪魔をすることが、親が一番してはいけないことなのだと思う。

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2011年08月19日(金)

「いけないこと」だと教えること

テーマ:教育

「いけないこと」だ
ということを理解していない人には、
「それは『いけないこと』だ」と教える必要がある。


もっとも、一口に「いけないこと」と言ってもその内容はさまざまで、
人類にとって普遍的と思える「いけないこと」もあれば、
一部の社会でのみ通用する「いけないこと」もある。
しかし、いずれにしても、
人間社会を生きる上での基本的なスキルとして、
「それは『いけないこと』だ」と理解しておくことは大切に違いない。




さて、中には、
「それは『いけないこと』だ」とわかっていながらも、なお、それをしようとする人がいる。
一概には言えないことかもしれないが、
もし、本当によく理解した上で、それをしようとしているのであれば、
たぶん、それは“するべきこと”なのだと僕は思う。


そんな人に向かって、
「それは『いけないこと』だ」と教えようとしても、たぶん、あまり意味がない。
もっとも、傍に別の人―例えばAさん―がいた場合、“そのAさんに聞かせる”意味なら充分ある。




ここで、忘れてはならないことがある。
「わかっていながらそれをしようとする人は、その行為の結果責任をすべてその人自身が負う」
ということだ。


このことを理解せずに行為しようとしている人に対しては、
やはり、
「その行為の結果責任をすべて自分が背負うことになる」ということは、教える必要があるかもしれない。

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2009年05月26日(火)

「教わる」主体が、役割として「教える」

テーマ:教育

昨日、『「教える側」へ』 という記事を書いた。
その同じ昨日、僕は仕事上の過ちを犯した。
・・・いや、実際には、
昨日、僕が犯したと思っていた過ちは、たいしたことではなかった。


今日、過ちを犯した相手に詫びたら、
「問題は、そのことではない」
と教えられ、初めて気づかされた。
僕は、もっと初歩的な、組織として重要なことをしていなかった。


しなければいけないことなのは、今、とてもよくわかる。
普段も、わかっているはずだった。
した「つもり」になっていたか、
忙しさにかまけて、なおざりにしてしまっていたか。
いずれにしても、僕の役割であり、僕の責任だった。




それでも僕は、「教える側」になる。
・・・少なくとも、新入社員である相手にとっては。


そこで心がけることは、ただ一つだ。
「教わる側」の気持ちでいること。
「教える側」になることは、単なる役割に徹すること。


僕だって、穴だらけだ。当たり前だ。
そして、僕の上司も、きっと穴だらけなのだ。
穴だらけの自分を抱えながらも、
皆で支えているのが、会社という組織なのだ。


(精神的な意味で、)会社は生き物。
僕も、生き物。
試行錯誤しながら、悩みながら、「よし明日もう一度!」と思う。
その中の活動の一つとして、
教える側としての役割も担っていく。
ただ、それだけだ。

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2008年12月26日(金)

教育とは

テーマ:教育

一つ前の、『教育の出発点』 という記事では、
「教育が成り立つためには、教育する側とされる側の両者が『ある前提』を共有している必要がある」
と述べた。


また、この話の中で、
「ここで言う『ある前提』が、必ずしも“学問上の出発点”であるとは限らない」こと、
「しかしながら、例えば初等教育の場で植えつけられたものが、高等教育の場において“学問上の出発点”となることが多い」こと
についても触れた。


では、そもそも、教育とはどのようなものなのだろうか。


そこで今回は、
“『ある前提』が既に共有されていて、教育が成り立っている状態”を想定した上での、
「教育とはどのようなものか」
という話。




教育は、教育する側とされる側の両者が「ある前提」を共有して、初めて成立する。
・・・ということは、つまり、
教育された側がその教育で植えつけられたものを「新たな前提」とすれば、
その「新たな前提」を出発点に、新たな教育が成立するようになる、
ということでもある。
(もっとも、教育する側も、その「新たな前提」を再び共有している必要がある。)


例えば、
初等教育で「算数」を習った生徒は、その心得を前提として、高等教育で「数学」を教わる。
(通常、数学教師には「算数」の心得があるはずなので、この教育は成立する。)


・・・ただし、ここで言う「『算数』の心得」は、
あくまでも“学問上の出発点”に過ぎず、共通認識としては充分でも、動機としては弱い。
高等教育を受ける年齢になれば、生徒も、人生の意味や目的を考えるようになっており、
ただ「勉強しなければいけない」から、というだけでは動機に欠ける。
そのため、「数学の必要性」や「数学の面白さ」を教師と共有できなければ、
高等教育での「数学」教育は成り立たなくなる。
もっとも、進学塾や予備校では、これらが共有されていない場合でも
「希望校に入学したい(させたい)」
という強い動機が共有されているので、ここでの「数学」教育は成り立つ。


ともあれ、教育には、
「別の教育において出発点となるような『新たな前提』を植えつける」
という一面がある。
例えば、同じ「算数」でも、
「足し算」をもとにして「掛け算」を学び、
「掛け算」をもとにして「割り算」を学び、・・・といった具合に、
古い前提をもとに新しい前提を獲得し、そこからさらに新しい前提を獲得していくように、カリキュラムが組まれている。
教育活動は、このように「『前提』の植えつけ」の連鎖から成っている場合が多い。




以上を要約すると、
「(教える側から見て)教育とは、『前提』を植えつけることだ」
・・・これが、今の僕の持論。


「教育とは」などという大層なタイトルをつけたことを、近いうちに後悔するかもしれないが、
今の僕にとっては、「教育とは」こういうこと。
だから、勢いに任せて、こんな何のひねりもないタイトルで投稿してしまう。

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2008年12月20日(土)

教育の出発点

テーマ:教育

どのような教育も、
まず初めに、先生と生徒が同じ「ある前提 」を共有していなければ、そもそも成立しない。


「ある前提」とは、
その教育の出発点となる動機付けや、共通認識のことである。
ただし、必ずしも“学問上の出発点”である必要はない。
教育する側とされる側の両者が、その教育における出発点を共有していること自体が重要なのであって、
出発点の置き所は、どこでも構わない。




教育の出発点が、“学問上の出発点”である必要がないのは、なぜか。


例えば、初等教育の場では、
どの科目についても何の前提も持たない児童を相手に、とりあえず先生が「先生の前提」を植えつけていく、
・・・ということが、教育活動の大半を占めている。
(ちなみに、教育された人にとっては、ここで植えつけられたものが基礎学力となり、後に高等教育を受ける際の“学問上の出発点”になることが多い。)


さて、今、「何の前提も持たない児童を相手に」と書いたが、
しかし、これは厳密には間違っている。
先程も述べたように、
教育の出発点となる「ある前提」を共有していない者同士の間では、そもそも教育は成り立たない。
このことは、初等教育の場でも例外ではない。


当然ながら、小学生は何の前提も持っていないわけではない。
「わたし(この子)は小学生である」
「小学生は学校に行って勉強しなければいけない」
という共通認識を、生徒も先生も持っている。
そのことによって、初等教育も成立している。
(ただし近年では、この共通認識が薄れつつあり、初等教育が成立しづらくなっていると聞く。)


また、受験勉強の場合、出発点となる動機は「希望校に入学したい(させたい)」である。
このように、
教育の出発点は、必ずしも“学問上の出発点”である必要はないのである。

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2007年08月26日(日)

義務教育

テーマ:教育

今の日本の教育制度では、
中学校卒業までが、「義務教育」とされている。
すべての日本人には、中学校卒業までの教育を受ける権利があり、
すべての日本人の親には、中学校卒業までの教育を自分の子供に受けさせる義務がある。


もし、義務教育の制度がなければ、
貧しい家庭の子供の多くが、家計を支えるために働くようになる。
その結果、充分な教育を受けられないまま大人になる人が増えていく。


字が読めなくても、
字が書けなくても、
計算ができなくても、
少なくとも今の日本社会では、まともに生きていけない。
働いても収入は少ないだろうし、
経済的な援助がない限りは、貧しい生活を強いられるに違いない。


もし、義務教育の制度がなければ、
貧しい家庭の子供の大半が、大人になっても貧しいままで終わってしまうのだ。
こうした悪循環を放っておくわけにはいかない。


・・・というのが、「義務教育」の基本的な理念の一つだと思う。
ほかにも、
「国家全体の知的レベルを向上させよう」
「誰でも正しい教育を受けられるようにしよう」
など、いろいろな理念が背景にあると思う。




義務教育を受けている当の本人たち(小学生や中学生)も、
そのことは知っている。
だから、
「義務教育で習うことは、生きるために必要なんだ」
と思い込んでしまいやすい。


けれども、実際のところ、
義務教育で習ったことをすべてちゃんと身につけて大人になった人は、
世間から、それだけで物知りと見なされる。
たいていの大人は、義務教育で習ったことなど、
ほとんど覚えていないのだ。


義務教育は、確かに大切だ。
最低限、読み・書き・そろばん(計算)ができなければ、
今の日本社会では、まともに生きていけない。
けれども義務教育は、
「生きるために必要な教育」
ではない。


義務教育で習うことなんかわからなくても、生きていける。
むしろ、
義務教育で習ったことしかわからなかったら、生きていけない。
・・・そのことを、義務教育を受けている本人たちに、
しっかり伝えておく必要があると思う。

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2007年04月30日(月)

自発性と教育

テーマ:教育

さきほど、『「自発的な行動」の意味』 という記事を書きました。


自発的な行動を要求しておきながら、
相手の実際の行動にいろいろと口出しすることは矛盾している。
・・・そういう主旨の文章でした。


では教育は、どうあるべきなのでしょうか?


自発的に行動することは、生きるうえで非常に大切なことの一つですが、
教育を施すことと、自発的な行動を促すことは、
そもそも相容れないことなのでしょうか?




相容れなくなるかどうか。
・・・それは、教育する側の心がけ次第ではないかと思います。


もっとも重要なのは、
「反発を認めながら教育していく」
こと。
むしろ、反発を期待するくらいでちょうど良いかもしれません。


「どうぞ反発してください」
と言われて、
「はい、わかりました」
と反発する人はいません。
(仮にいたとしても、これ自体が既に反発ではなくなっています。)
つまり反発は、自発的な行動としてしか起こり得ないことです。
極論すれば、
反発している限り自発性は保たれます。


そこで、反発を受け入れつつ、
ひいては反発を引き出すべく工夫を凝らしながら、
己の信じることを相手に教え(押し付け)ていく。
それが、教育の本当の姿だと思います。
(奇怪に感じるかたもいらっしゃるかもしれませんが、僕はそう思うのです。)




ひとことで言うなら、
「反発しやすい教えかた」
をする、ということです。


たとえ反発されたとしても、
教えた内容そのものは、相手の心のどこかに刻まれます。
心に刻まれた「それ」が、人生の手本になるか、反面教師となるかは、
その人の生きかた次第。
手本にするか、反面教師と見るかは、その人の自発性に委ねられています。


言われた瞬間は反発したが、
あとで考えてみると、的を射た良いアドバイスだった。
・・・そう感じた経験は、誰にでもあると思います。
それ以後は、そのアドバイスに従ったとしても、
一度反発し考えてみたことだから、決して、「他人の言いなり」ではありません。


非常にまどろっこしいですが、
こういう教育のありかたの積み重ねが、「自発的な行動の芽をつぶさない教育」を成り立たせる、
と僕は考えています。

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