2014年01月08日(水)

自覚的にやることと、無自覚的にやれること

テーマ:意識と無意識

自覚的にやることは難しい。
無自覚的に、無意識のうちにやれることのほうが易しい。


しかし、新たに何かをやろうとすれば、
大抵の場合、初めは自覚的にやらざるを得ない。
既に無自覚的にやれることなら易しいが、
「自覚的にやらざるを得ないことを無自覚的にやれるように持っていく」ことは難しい。


そもそも、感覚的に矛盾しているのだ。
無自覚的にやれるようになることを目指して、自覚的に訓練するのだから。


それでも、脳は覚えて、
無自覚的にやれることを次々と増やしていく。
自覚的な訓練を通して。




その一方で、ふだん無自覚的にやっていることは、なかなか自覚しにくい。
多くの場合、誰かに指摘されて初めてそのことに気付くのだ。


無自覚的にやっていることは易しいが、
「無自覚的にやっていることを自覚する」ことは難しい。




何を自覚的にやらなければならず、
何を無自覚的にやれるのか、というのは人によって異なる。


そこに、認識の違いや、意思疎通のすれ違いが生まれてしまうのだと僕は思う。

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2012年09月30日(日)

情報処理ルネサンス

テーマ:意識と無意識

意識の上で処理できる情報の量は、とても限られている。
その時々のごく一部の関心事を除いて、
ほとんどの情報は意識に上ることさえない。
(例えば、目に映る光景や、人々が話している内容、自然に聞こえてくる音、等々。)


何もかもを意識的に処理することは、(人間にとっては)原理的に極めて難しい。
細かい所まで隈なく意識し始めると、
(人間の肉体的・精神的・時間的限界のため)肝心の処理全体が疎かになってしまうからだ。
そこで人間は、
物事に名前をつけて要約したり、数値化して把握する、
といった工夫を通して、
「決まりきったこと」をあえて意識しなくても処理できるようにしてきた。


儀式も、そうした工夫の形式の一つだという。
人々が一堂に会し、同じ時間と空間を共有する。
そのことによって、コミュニティー内の統率力を高め、結束を固める。
また、そのコミュニティーにとって大切な行動様式を相互に再確認し合う。
・・・しかし、真っ向からこんな風にカタイ説明をされて、
「ハイ、そうですね」と喜んで集まる人は少ない。
むしろ、お祭りだから皆で楽しみましょう、と言われたほうが参加しやすい。
現実的に効果が高いのは、明らかに後者のやり方だ。


ところが、この無意識化も極端に進んで定着してくると、新たな問題を生む。
あまりに無意識的な処理を続けてしまったがゆえに、
誰もが本来の目的(つまり、処理すべきことの内容)を忘れてしまい、
逆に、自分が無意識的にしていることに対して違和感を持つようになる。
上記の例で言えば、
「お祭りなんて別に行かなくても良いのではないか」
と思えてきてしまう。
いわば、無意識的な処理に対する、意識の反逆である。


この段階まで来ると、
本来の目的を再生するために、再度、意識化して整理する必要性が出てくる。
意識化し、いったん皆で納得した上で、
もう一度、新しい文化として、
名前をつけて要約するなり、数値化するなり、儀式化するなりして、
再び無意識化させていく必要があるのだ。


人類は、このようにして無意識化と意識化を繰り返してきた。
このことが、「歴史を学ぶ」ことや「過去に学ぶ」ことの意義の一つにもなっている。

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2009年09月16日(水)

排他的仲間意識

テーマ:意識と無意識

仲間意識というものは、基本的に、排他的なものだと思う。


通常、仲間と一緒にいる時は、他の人のことはあまり意識に入ってこない。
たとえば、
学生達が、よく、道路に広がって歩いて通行人の邪魔になっているのは、
その学生達にとって通行人が仲間でないからだろう。




「仲間である」ということは、「敵対しない」ということ。
ライバル意識など、多少の敵対関係はあるかもしれないが、
根本的な部分では敵対せずに協力する関係であることが、「仲間である」ということだろう。


だとすれば、
あらゆるすべてに対して仲間意識を持つことは、原理的に不可能だ。
人は、何かを食べなければ生きていけない。
そして、食べるためには殺さなくてはいけない。
殺し殺される関係は、敵対関係に他ならない。
したがって、“全部トモダチ”的な仲間意識を持つことは、原理的に無理がある。


・・・もっとも、「仲間意識」の定義を、
殺し殺される関係をも(一種のライバル関係として)容認するように再定義すれば、
“全部トモダチ”的な仲間意識も成立するかもしれない。


・・・あるいは、「生」や「死」についての認識が変われば、
殺し殺される関係も、特に敵対関係とは見なされず、「仲間意識」を崩すものでは無くなるのかもしれない。

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2009年01月02日(金)

自分のことのように

テーマ:意識と無意識

「自分のことのように思っている」と言えるのは、
それが自分のことではないと知っているから、ではないだろうか。
自分のことだと思わないからこそ、
「自分のことのように思っている」とも言えるのだろう。


自分にとって大切な人が死んだ時、
「自分のことのようにつらい」
とは言わない。
現に自分のことなのだから、この場合、“自分のことのように”は余計だ。


別の誰かにとって大切な人が死んだ時なら、
「自分のことのようにつらい」
と言える。
この場合、そもそも自分のことではない、ということが前提 になっている。




「自分のことのように思っている」
と声をかけることが、
僕には、よそよそしく胡散臭いものに感じられる。


この例に限った話ではない。
自分の心境を冷静に説明するような言い方には、魂が込められていない気がする。
魂から発せられた言動は、もっと衝動的なはずで、
とても冷静でいられないようなもののはず。


こんなふうに感じる僕のほうが、むしろ、ひねくれているのだろうか。

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2008年08月30日(土)

無意識のうちの例外

テーマ:意識と無意識

もともと、法則に例外はない。
すべてに共通して当てはまるからこそ、法則と呼ばれるのだ。
逆に、
例外を認めれば、どのような法則でも成り立ってしまう。


「太陽は西から昇る」
という法則も、
次のような例外を認めれば成り立つ。
「例外として、現実の世界における地球上では、太陽は東から昇る」
つまり、
例外の範囲を極端に大きくすれば、どのような法則でも成り立つことになる。


ただし、例外は、あらかじめ示しておく必要がある。
例外があることを示さないまま、
「太陽は西から昇る」
という法則をただ提案しても、この法則は成り立たない。
なぜなら、
原則としては、すべてに共通して当てはまるものが法則だからだ。




さて、時折、(入浴中などに、)
生きる上で重要と思われる法則に気がつく時がある。


例えば、
「今できることから始めたほうが良い」
という法則に気づいたとする。
法則に気づいた時点で、初めから例外が設けられていることはまずない。
つまり、
「今できることから始めたほうが良い」
と気づいた時には、
「何事も、今できることから始めるべきだ」
と考えているはずである。


しかし、どういうわけか、
いざ、その法則に基づいて行動しようとした時、
無意識のうちに次のように例外を設けてしまっていることが少なくない。
「今できることから始めたほうが良い(が、これは今すべきことではない)」
そして、
純粋に今できることとは違うことを、わざわざ始めてしまう。


実際には、
今できることではないのに、今できることだと自分に言い聞かせるために、
「今できることから始めたほうが良い」
とつぶやいているのだ。
これは、
純粋に法則に従うことよりも、無意識のうちにある「焦り」の気持ちのほうが勝ってしまった、
その結果だろう。
もしくは、自分で気づいた法則に自信が持てなかったからかもしれない。




今できることから始めたほうが良い。
・・・本当にそう思うのなら、
空腹になったら、まず何か食べたほうが良い。
眠くなったら、睡眠をとったほうが良い。
精神的に不安定になったら、自分を落ち着かせるのが先だ。
それらをすっ飛ばして、
ほかのことをしようとしても、それは「今できること」ではないはずだ。


法則と呼ばれるものは、分野を問わず、ごく単純にできている。
単純だからこそ法則と呼ばれているのだとも言える。
その法則を複雑にしてしまっているのは、
法則を使いこなそうとする、人間のほうなのだと思う。

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2007年10月13日(土)

上昇志向と差別

テーマ:意識と無意識

上昇志向を持つ時、そこに差別が生まれる。


他人を蹴落として伸し上がろうとするような人は、
はっきりと自覚しながら他人を差別している。
しかし、そうでない人も、
何らかの上昇志向を持った時点で、それに応じた差別意識を持っている。


なぜなら、
「上昇志向を持つ」
ということ自体が、そもそも、
何が上であり、何が下であるかを既定した行為だからだ。
すなわち、
そこで下とされたものは、上とされたものと比べられ、自動的に差別されるのである。

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2007年09月29日(土)

行為の重み

テーマ:意識と無意識

習慣的な行為も、
やらないよりは、ずっと良い。
でも、
意識的な行為に比べれば、
その重みは、とても軽い。


もっとも、すべてを意識的にやれるわけではない。
「おはよう」
「ありがとう」
習慣的に言えるようになっておくことも大事だ。


けれども、
心の底から感謝しなければならない時には、
習慣的な挨拶や、表面的な言葉では、とても足りない。
きちんと意識して、
相手と真正面から向き合いながら、その気持ちを伝えなければ、とても足りない。

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2007年03月11日(日)

プロ意識

テーマ:意識と無意識

「手抜きをしない」

「手抜きをしたくない」

「手抜きをしたら恥ずかしい」

「手抜きしていると思われたくない」

「手抜かりがなかったか気にかかる」


どれも少しずつ違う、
人それぞれのプロ意識。

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2007年02月07日(水)

もっと無意識でいられたら

テーマ:意識と無意識

苦痛ばかりが、意識にのぼる。
つらいことだけが記憶に残る。
「生きる」とは、まるで、悲しみを重ねることのよう。


人の心は、なまじ自由であるばかりに、
悩み、迷い、狂う。


もし植物のように、
この世に存在し始めたその日から大地に根ざして存在していたならば、
悩むことも、迷うことも、狂うこともなかっただろう。
植物にとって「生きる」とは、与えられた環境に順応することなのだから。
彼らには、それ以外に生きる方法がないのだから。




「植物とは違って、人間には自由がある」


そう考える人がいるかもしれない。
けれども、
人間は自由である代わりに、とても不安定だ。
常に意識を保持しなければ、まともに生きることすらままならないのだから。
植物は不自由かもしれないが、とても安定している。
環境さえ整っていれば、意識せずとも自然に生きられる。


苦しみは意識に宿り、安らぎは無意識に宿る。


もっと無意識でいられたら、
もっと無意識に身を委ねて毎日を過ごせたら、
人は、これほど苦しまずに済んだだろうに。




青空の穏やかさや、大地の温もりは、
いつも、意識の外で、すぐそこにあるのに。

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2006年08月18日(金)

知ろうとすること

テーマ:意識と無意識

およそ知りうるすべてのことを、人間は知ることができる。
知ることのできる範囲は、果てしなく広い。
しかし、それを知ろうとすると、知ることのできる範囲は急に限られてくる。
知ろうとすることによって、知ることのできなくなってしまうものが山のようにあるからだ。




Aさんが「a」と言った。
Bさんは「b」と言った。
そこで、Cさんは、
「a」と「b」のどちらが正しいのか、をきちんと知ろうとした。


しかし、Cさんは気づいていなかった。
知ろうとした時点で既に、
「『a』と『b』のどちらかが正しい」
と決め付けてしまっていたことに。


そして、知ることができなくなってしまっていた。
「a」も「b」も実は間違っていた、ということを。
もしくは、「a」と「b」はそもそも比較できない、という現実を。
あるいは、Aさんの「a」という発言はCさんの聞き違いだった、という事実を。




「靖国問題について、きちんと知るために、
中国人や韓国人の意見にもしっかり耳を傾けよう」


・・・そう思った時点で、実は、既に決め付けている。
中国人共通の意見があり、韓国人共通の意見がある、ということを。
そして、中国人のDさんの話を聞いた時、
それをDさん個人の意見としてではなくて、中国人共通の意見として聞いてしまう。




知ろうとする、ということは、
知りかたを設定する、ということだ。
だから、そこで設定されなかった知りかたで知りえたはずのものについては、
かえって知ることができなくなってしまう。


謙虚に知ろうとすればするほど、
無意識のうちに、この盲点に陥りやすくなるような気がする。

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