2014年04月29日(火)

「顔」と「生え際」

テーマ:知覚(錯覚)

スキンヘッドの人 は、いったい、どこからどこまでが「顔」なのか。


・・・この話と似たようなことを、以前も書いたような気がして調べてみたら、
どうやら『「世界」の輪郭』 という記事だったらしい。
正直、あまり似ても似つかない内容だけれども、
間違いなくこれだと思う。


「世界」と「顔」では規模がまったく違うけれども、
論点は基本的に同じだと思う。
要は、輪郭をどのように設定するのか、という話だ。




『「世界」の輪郭』 を書いた3年後に、
『「世界」の輪郭と、「自分」の位置』 という記事を書いた。
上記の問いに対する答えは、ここにあった。


すなわち、輪郭を設定しているのは、その観測者たる「自分」である。
人の「顔」がどこからどこまでなのかを決めているのも、
その人を眺めている「自分」なのだ。
その人自身が決めているわけでも、客観的に決められているわけでもなく、
その人を眺めている私自身が、その人の「顔」の輪郭をそれとなく決めている。


数十年来の付き合いの友人の髪の生え際が後退したら、
その友人を見て、
「頭髪が少なくなった」と感じるだろう。
しかし、もしその友人にその時初めて会っていたら、
「この人は、随分おでこの広い人だな」と感じるだけかもしれない。
つまり、「顔」の輪郭を決めているのは、その人の顔を見ている私自身なのだ。




・・・ということで、自分で解決できました。
今日からは安心して眠れそうです。
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同じテーマ 「知覚(錯覚)」 の記事
2014年03月23日(日)

成長の証

テーマ:知覚(錯覚)

錯覚は、脳の高度な働きによるもの。
体表面で受け取った情報をそのまま知覚するだけなら、錯覚は起こりえない。
脳が予測するからこそ、思い違いもする。
不足する情報を補い、合理化しようとして錯覚は起こるのだ。




・・・このことを改めて考えさせられたのは、
先日の朝、バスに乗っていた時、運転士が判断を誤ったのを目撃したから。


信号待ちで車が2~3台止まっていて、
その後ろに少し離れて大型トラックが左側に寄って止まっていた。
そこでバスは、車線を少し右側にはみだしてトラックを追い越そうとした。
しかし、
トラックの向こうには軽自動車がいて、追い越せるスペースが無かった。
バスは、追い越そうとして動きかけていたが、途中で停止した。


信号が変わり、車が動き始めた。
すると大型トラックも動き出し、ウィンカーを出して信号で左折していった。
つまり、
左側に寄っていたのは、単に左折するつもりだったからで、
大型トラックも、信号待ちで軽自動車の後ろに並んでいるだけだった。




並んでいる時からウィンカーを出していなかった大型トラックは不親切だと思う。
それにしても、プロのバス運転士が判断を誤ったのは、
1.朝の時間帯は、路上停車している大型トラックが多いこと、
2.トラックの向こうに車が見えず、並んでいないように見えたこと、
3.トラックは左側に寄って止まっていたこと、
の3点から総合的に判断し、
その大型トラックを路上停車しているものと思い込んだからだろう。


もし僕だったら、何も考えずに、ただトラックの後ろに並んでいたと思う。
プロとして高度な判断をしたからこそ、思い違いをしたのだ。
もちろん、プロの仕事で思い込みは厳禁。
ヒューマンエラーの要因の中でも、もっとも危険なのが「思い込み」だ。


しかし、はたして「思い込み」は無くせるのだろうか。
何事も熟練すればするほど、「思い込み」する余地も広がっていくように思われる。
複雑なことをやろう、複雑なことをやれるようになろう、とする限り、
むしろ根本的に、「思い込み」の可能性は増えていくのではないか。




どうしても思い違いをしたくなければ、
単に、余計なことを何もしなければいいのだ。
しかし、それでは発展がない。
人の多くは、それで満足しない。やはり、成長しようとする。


だから思い違いは無くならない。
・・・ここは、いっそのこと発想を変えてみよう。
思い違いを減らす努力はもちろん必要だとしても、
それでも思い違いが無くならないのは、自身の成長の証なのだ、・・・と。

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2014年03月02日(日)

重力のある世界

テーマ:知覚(錯覚)

かつて、ヘラクレイトスは言ったそうです。
「万物は流転する」と。


ありとあらゆるものが、変化し、流れていく。
その流れを認識できるのは、
「方向付けの感覚」があるからです。
上から下へ。
右から左へ。
内側から外側へ。等々。


もちろん、計量的な変化だけでなく、質的な変化もあります。
わかる。
うまくなる。
好きになる。等々。
ただし今回は、話を簡単にするため、
計量的な変化、それも、流れとして捉えられるものだけ
に対象を絞って考えることにします。




さて、
人間の心に「流れ」の概念があるのは「方向付けの感覚」があるからですが、
では、その「方向付けの感覚」は、どこからやってきたのでしょうか。
人間が生まれついて持っていた感覚、・・・なのかもしれませんが、
ひょっとすると、重力のある世界(この地球)に生まれてきたからではないでしょうか。


8年前に、『地球は丸い?』という記事を書きました。
その中で、地球について
「単純に『巨大なボールのようなものだろう』と考えてもいいのだろうか。」
と問いました。
この問いは、次のような感覚的疑問に引きずられて出てきたものです。
ピンポン玉のような日常生活にある球の「丸さ」と、
宇宙船から撮影された地球の「丸さ」の間には、根本的な違いがあるのではないか?


つまり、こういうことです。
地球上に住んでいる私たち人間が手に持つピンポン玉には、
丸いとはいえ、「上」と「下」があります。
手に持った時、地面からもっとも遠い側が「上」、地面に近い側が「下」だと端的にわかります。
しかし、地球にはそれが当てはまりません。
宇宙船から見て、「北極があるほうが上」に見えたり、「太平洋があるほうが下」に見えたりするわけではないのです。
もし、宇宙船から見て北極のほうが「上」だと思ったとしたら、
それは日頃から馴染んでいる世界地図で刷り込まれているせいです。
もし、宇宙船の窓から覗きこんだ時、太平洋が上にあるように見えたとしたら、
それは自分の身体の頭のほうを「上」、足のほうを「下」だと思っているせいです。
実際には、地球における「下」とは、
地球の表面から見て地球の中心へと向かう方向のことです。
宇宙船から地球を眺める時、地球における「上」は見えません。
なぜなら、地球を眺めている時点で、(どこを見ても)既に地球を見「下」ろしているからです。




無重力状態の場所に生命が誕生することができるのか、僕は浅学なためわかりませんが、
もし、そのような場所に生まれ、そのような場所で育った人間がいたら、
その人は「上」や「下」をどう理解するのでしょうか。


以前、『信じる基準』という記事で、
「人間にとって最初の基準は、身体的連続性の中をおいて他にない。」
と述べました。
おそらく、無重力状態の中で生まれ育った人にとっても、それは同じでしょう。
「上」や「下」という概念を理解するとしたら、
頭のほうを「上」、足のほうを「下」だと理解することになるでしょう。


でも、それは、私たち地球上の人間が「左」や「右」を区別するのと似たような理解の仕方です。
私たち地球上の人間は、
「左」と「右」は対称的に並置して捉えますが、「上」と「下」をそのようには捉えません。
(→『ダムの決壊』『2003年の主張』の、6月7日の項目を参照)




太陽の光は、「上」から「下」に降り注ぎ、
川も、「上」から「下」に流れて、
会社組織における指示も、「上」から「下」に出されます。


こうした「方向付けの感覚」は、
私たちが、重力のある世界に生まれてきたからではないでしょうか。
・・・少なくとも僕にはそう思えます。
そう思うと同時に、
「なんて不思議な場所に生まれてきたんだろう」
と、ただただ感嘆するばかりです。
この世界が存在することと、そこになぜだか生まれてきてしまった奇跡に
驚くほかにありません。


ちなみに、2012年には、こんな記事を書いていました。
『波打つシート』

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2013年09月20日(金)

大切なものの所在

テーマ:知覚(錯覚)

もっとも大切なものは、
いつも、ここにある。


当たり前だ。
大切なものなのだから
常に一緒にあるのが自然の道理。


ただ、気づかないだけ。
人は変化を感じ、変化を認識する生き物。
視界に映るものすべてを認識しているのではない。
ふだん眼球の表面の血管が見えないのだって、そのためだ。


いつも、ここにある、本当に大切なものを
人は見失う。
けれども、そのことによって人は力強く前進する。
足元ばかりを見ていたら、人は前に進めない。
意識すらしないほどに大切なことと一体になった、その時、
人は、大切なものをさらに増やしていく原動力を獲得する。


でも、もし迷ったら、思い出しておきたい。
もっとも大切なものは、
いつも、ここにあるのだということを。

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2013年07月07日(日)

「文字」だと判断できるのはどうしてか

テーマ:知覚(錯覚)

まったく知らない異国の文字を見て、
それを「文字」だと判断できるのは、どうしてだろうか。


誰かに「これは文字です」と教えられなくても、
文字を見れば、読めなくてもそれが「文字」だとわかる。


人が、「文字」を意識してものを書く時に、
時代や文化を超えて通底する何らかの ルール があるのだろうか。
たとえば、同じような大きさで、一列に並べて書く、といったような。


・・・もしかすると、
人が気づかない「文字」が、あるのかもしれない。
我々の知らない間に、
ある別の生き物は、そうした「文字」を使っているのかもしれない。
しかし、もし仮にそうだとしても、
既に人間である僕には、そのことを確かめる術は無さそうに思える。




確かめることができるのは、
やはり、我々人間が使う「文字」についてだけだ。


それにしても、
知らない文字を見て、一目でそれを「文字」だと判断できるのは
どうしてなのだろう。
・・・僕は、やはりそこが知りたい。


もっとも、知らずに判断するからには、
文字でないものを「文字」だと誤認する場合もあるだろう。
しかし問題は、そこではない。
判断が正しいかどうかはさておき、
とにかく、「一目で判断できてしまう」ということ自体が
僕には不思議に思える。




以前、『歌』 という記事の中で、
「文字と、単なる模様とが、どうしてはっきり区別できるのだろう。」
と書いたことがある。


言い換えれば、
人にとって、どこまでが文字であり、どこからが単なる模様(あるいは図形)になるのか
ということを僕は知りたいし、確かめてみたい。


「文字っぽい図形」とか、
「図形っぽい文字」とかを、少しずつ変形させながらたくさん作っていって、
人間の知覚についての研究に照らして調べていけば、
その辺の境界ラインが見えてくるんじゃないか、
・・・という気もするんですが。
既に誰かが実験しているよ、とか、
そういう研究があるよ、とか、
何かご存じのかたがいらっしゃいましたら教えていただけると嬉しいです。


本当は、時間と場所と能力があれば、自分で確かめてみたいんですが・・・。

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2012年12月16日(日)

砂粒の宇宙

テーマ:知覚(錯覚)

よく晴れた日の砂粒は、
太陽光の反射で複雑な精彩を放ち、
どこまでも深く、果てしなく広がって見える。


それは、砂場の砂だけに限らない。
路肩の排水溝の脇の、僅かな吹き溜まりの砂でさえ、
決して眺め尽くすことのできない深淵を湛えていて、
決して見飽きることがない。


よく晴れた日の青天の奥には、
どこまでも深く、果てしない宇宙が実際に広がっているにも関わらず、
青天はどこまでも単調で、淡々と平べったく見える。
まるで世界の深淵を覆い隠しているかのようだ。



どうやら人間の知覚は、世界の在り方をそのまま反映していないらしい。
「世界の本当の姿は、自分が見知っている姿とは違うのだ。」
・・・この認識が、世界の本当の姿を探し始めるきっかけとなり、
一方では宗教を生み、一方では自然科学を生み出した。


最終的な到達点は、いまだに見出されていない。


そもそも、最終的な到達点などあるのだろうか?
自分の知覚の誤りを評価するのも自分。
世界の本当の姿を判断するのも自分。




まず大切なのは、
誤りかもしれないその知覚が、この自分のかけがえのない人生を彩っていることと、
到達する見込みのないその探究心が、紛れもない自分の欲求である、
ということ。


砂粒に宇宙を、青天に普遍を。
全身で世界を感じて生きる、限りある時間に感謝を。
この一度きりの旅に承認を与えてくれる、すべての魂と存在に
心からの深謝を。


お蔭様で、今日も僕は生きています。
いつも有難うございます。
いつも生かされる一方で申し訳ございません。
こんな僕ですが、それでも僕は唯一無二のこの時間を生きていきたいのです。
僕は、皆様と共に精一杯、生きていくつもりです。
どうか、限られた時間ではありますが、これからもよろしくお願い致します。

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2012年04月02日(月)

波打つシート

テーマ:知覚(錯覚)

建設現場を覆っている無愛想なシートが、風で波打っていた。
よく見かける光景。


刻一刻と変化する波の形状。
風が強くなると、波の形も大きく、激しくなる。
風が止むと、波は消えて、シートは元の垂直な状態に戻る。




その波の形は、なんとなく風の形だろうと思っていた。


でも、よく考えてみると、
空中を吹く風に、あんなに細かい波状のムラがあるはずがない。
風は、ある程度均一にシートに当たっているはずだ。


シートを元の垂直な状態に戻そうとする重力と、
絶え間なく押し寄せる風圧によって、
シート自身が波打っている。
つまり、あれは風の形ではなく、シートの形だ。




そう気づいてから、もう一度見た。


まるで、風に波立つ灰色の湖面がそこに垂直に立っているかのような、
奇妙な感覚に襲われた。
あるいは、公園の広場などに置かれているような、人工の滝のようにも見えた。
・・・こっちのほうが現実的な見え方かもしれない。


見れば見るほど、おもしろい光景。
やっぱりこの世界はおもしろい。


こんなにおもしろい世界も、
少し慣れただけで、別に何とも思わなくなってしまう。




「慣れ」の影響力の大きさを、改めて痛感した。
その力は、ありがたくも、おそろしい。

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2012年03月26日(月)

合理化

テーマ:知覚(錯覚)

脳科学でも言われていることのようだけど、
そもそも人間は、受け取った情報を、
「自分にとって都合の良いように」処理する生き物らしい。
そして、それを「合理化」と呼ぶらしい。




合理化。言い得て妙だと思う。
もともと合理的でない、無秩序で雑多な状態を、
「合理化」して再構築し、捉え直す。


・・・人は、そうして「合理化」された世界を"見て"いる。
実は、その「合理化」処理をしたのは自分自身の脳なのだ、
ということを意識しないまま。




本人に、「自分を正当化しているつもり」がなくても、
傍から見れば明らかにそう見える場合がある。
こうしたことが起こるのも、
本人も気づかぬうちに働いている「合理化」の作用によるのだろう。


人は、根本的に自己否定はできない生き物なのかもしれない。
もし仮に、意識の上では自己否定をしていたとしても、
それは所詮、「自己否定している自分」を肯定する作業に過ぎないのだ。




本人がそれを信じている限り、本人にとってはそれが現実。
周囲のすべての人から奇妙に見えることであっても、
誰もそれを笑うことはできない。


・・・いや、周囲の人がそれを笑うことは「できる」けれども、
その笑いは、きっと本人の心には届かないし、
届いたとしても通じないのだろう。

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2012年02月17日(金)

巨人になる時

テーマ:知覚(錯覚)

道を歩いていて、
たまに、自分が巨人のように思える時がある。


映画やアニメで登場するような、巨大な生物。
自分が、そういう存在であるような気がして、
アリの視点で、歩く自分の姿を思い描く。
普通に歩いている自分が、
大きな音を立てて地面を揺らしながら歩いているような気分になる。




普段、僕は背が低いほうだと思っているけれども、
高いとか低いとか、
大きいとか小さいとか、
比較によって成り立つ概念は、大抵の場合、曖昧で、いい加減なものだ。


しかし、多くの認識は、
そのような比較の知覚から入っていることも事実。
多くの場合、比較によって成り立つ概念こそが、認識の入り口となっている。
客観的に「1メートル」と言われても、
その長さを思い描けるのは、自分の身長や、視野に映る物体との比較によってである。


曖昧で、いい加減な概念を通して、
僕は否応なくこの世界を認識している。

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2012年02月10日(金)

デジタル知覚と「不自然さ」

テーマ:知覚(錯覚)

以前、『デジタルなのは、機械よりも人間のほう』 という記事でも書いたが、
見たものをデジタル化して捉えているのは、人間のほうだ。
しかし、
対象そのものが初めからデジタルに作られた存在であった場合、
その対象は、人間から見てもやはり不自然に見える。


例えば、対称性。
人の顔は、もともと左右対称ではないが、
普段あまり意識していない時には、それを左右対称的に捉えている。
左にも右にも目があり、中央に口がある、・・・という具合に、
確かに、おおまかに見れば人の顔は対称的になっている。
だから人は普段、ディテールは無視して、それを「対称的」とデジタル化して捉えているのだ。


しかし、初めから左右対称に作られたロボットやCGの場合、
最初から「対称的」というデジタル化の理想形になっているにも関わらず、
どこか不自然に見えてしまう。
つまり、
見たものをデジタル化して捉えているのは人間のほうだが、
もともとデジタルに存在しているものに対しては、人間もまた不自然に感じる、
ということだ。


人間は、あくまでも自然なものをデジタル化して捉えているのであって、
最初からデジタル化されているものを好んでいるわけではない。
これは、けっこう重要なことかもしれない。
デジタル化して捉えることによって、物事のディテールを省略して素早く把握することができるし、
最初からデジタル化されたものに違和感を覚えることによって、作為的な異変にいち早く気づける。
そのことが、脳を発達させた人類が生き抜く上での、
重要なポイントだったのではないかと思う。

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